第2話 ユウジ
類は友を呼ぶってのは、やっぱあるんだなぁって思う。母さんの友達、恭子さん。うちの母さんと似ている。面倒見がいいけど、『歯に衣着せぬ物言い』という表現がぴったりのしゃべり方。
「身長何センチになった?」「もうヒゲとか剃ってるの?」「ユウちゃんモテるでしょう?」「ユウちゃん、彼女は作んないの?」「なんで作んないの?」「ユウちゃん、どんな子が好きなの?」
色々と質問をされてもそれなりに返事していたけど…………
「うちのシホなんてどう?」
オレの言葉が止まる。そして同じ食卓の正面に座るシホさんをチラッと見てしまう。シホさんの顔、ムスッとしていた。
「もうっ お母さん!」
母親を叱りつけると、オレの方に向き、いつものやさしい顔に戻る。
「ユウちゃん、まだ小学五年生だよ、恋愛なんてね、まだ早いよね」
シホさんが笑いかけてくれてので、オレも「うん」と答えた。
恭子さんは「ふっ」と笑って、マヨネーズであえたエビを口に放り込む。
「最近の小学生は早熟なんだから。自分を基準にしちゃダメよ」
「悪かったわねぇ、奥手で」
シホさんはオレよりも三つ上で、この時、中学二年生だった。小学生だったオレから見ると、中学生のシホさんはすごく大人に見えた。今の自分はその時のシホさんとよりもだいぶ年上なのだが、自分の事を全く大人だと思えない。不思議なものだ。シホさんの膨らんだ胸とか、たまに短いスカートをはいた時に見える太もも。長い髪。オレはチラッ、チラッと見てしまう。性的に見えるものがいやらしさではなくて、輝きだった。
でも今思うと、シホさんの顔はジミな方だと思う。目も一重で、鼻も低く、眉毛も少し太めだ。体系もちょっとポチャリしている。まぁ、オレが誰と比較しているかと言えばユイやカナちゃんなので、比べられるシホさんは不幸なのかも。ユイは、顔は生意気そうに見えるがスタイルは悪くないし、目はちょっと釣り目で大きくて可愛い。鼻も高く形が良い。カナちゃんは、というと、街中で一時間女の人を見渡してもカナちゃんより綺麗な人を探すことができない、そういうレベルの子だ。体もほっそりとしていて手足が長く、モデルのような体系だ。透き通るような声。顔もそこら辺のアイドルよりもかるかにデキが良い。よくよく考えてみれば、ハデなおしゃれをせずにちょっとポチャリしているシホさんは、もしかしたら普通の女の子なのかもしれない。
オレの母さんも恭子さんも離婚していて、女手一つで子供を育てている。二人は仕事を持っている。やはり類は友を呼ぶってやつか。オレの記憶が確かならば話をもちかけたのは恭子さんの方だったと思う。母親達が決めた事。曜日を決めて、子供をどちらかの家で夕飯を食べさせる。とは言っても一週間に二回だけ。月曜がうちの家で、水曜が恭子さんの家。
オレの家はお世辞にも良い暮らしをしているとは言えない。母さんも一応正社員として働いているが、デパートの地下で惣菜を売っている。もちろん立派な仕事だと思うが、収入は多くない。うちの家族は2Kの団地暮らしで、オレと妹の部屋も兼用だ。オレは別に気にしないが、妹が大きくなったらそうも言っていられないだろう。もう少し広いところに住むことだってできるかもしれないが、オレの成績が微妙に良いために、大学の学費を貯金しないといけない。そういう理由もあって、金を切り詰めて、貧乏人のような暮らしをしている。
それに比べて恭子さんの家は三階建てで、一階の半分は駐車場になっている。置いてある車もピカピカに光っている。アウディというメーカーの車で、オレでも高級車であることは知っている。リビングは二階にあって、随分と広い。うちの2Kのマンションの全面積と比べても、このリビングの方が大きいかも。大型の液晶テレビがあり、シホさんがゲーム好きなので最新のゲーム機も並んでいる。リビングと繋がっているキッチンも広く、大きな冷蔵庫、大きなオーブン、皿洗い機もある。
最初、恭子さんの家に行く時、緊張していた。オレらのような貧乏人がこんなところに来ていいのだろうかと。恭子さん達は心の中ではオレらを貧乏人だと笑っているのではないか、そういう心配もした。しかし何回か来たらそんな緊張も、心配もなくなった。恭子さんもシホさんもすごくいい人で、そんな心配をしていることが彼女達に対して失礼だと思うようになった。
オレら兄妹は水曜日に恭子さんの家に行き、恭子さんの手料理を食べていたが、オレが中学に入る頃にちょっと事情が変わった。ある日、恭子さんの家に行くと、そこにはシホさんしかいなかった。最初、オレは曜日を間違えたかなと思ったが、今日は水曜日なので間違いない。
「あ、恭子さんは?」
「今日は遅いみたい」
シホさんの部屋着は、部屋着らしい部屋着だ。しわだらけのキョロットと色あせたトレーナー。シホさんのような若い子でも家の中ではこんな格好をするのだな、と中学生ながらに思った。そんな普段着の上にエプロンを付けるから、ものすごく家庭的に見えた。
「今日はハンバーグ」
そう言うと、冷蔵庫から色々と取り出して料理をはじめた。
恭子さんは大企業の子会社に勤めていて、収入も多いようだ。その分仕事も大変だと思う。でもオレの目から見て、恐らく恭子さんはシホさんに頼って、家事を任せたのだと思う。何度か恭子さんが酔って帰ってくるのをオレたち兄妹は見たが、シホさんが高校になると、その数は明らかに増えた。文句を一言も言わずオレたちの夕食を作ってくれるシホさんのことを尊敬していた。
シホさんは恭子さんほど料理のレパートリーがあるわけではないが、普通に美味しいものを作る。カレー、ハンバーグ、餃子、パスタ、トンカツ。高校生のシホさんが作るだけあって、子供が好きそうなメニューが多い。料理を本格的にはじめたのも高校になってからのようなので、たまに焦げていたりちょっと味が薄かったりする。オレらは文句を言わなかった。失敗した時、シホさんは「ごめんね」とか「今度から気をつけるね」とか言いながら食べる。妹もやはり女の子であるから料理に興味を持ったようで、シホさんの手伝いをするようになった。
食べ終わった後、オレが食器を洗うことにした。洗うといっても食べカスを三角コーナーに捨てて、軽く水で注いで、食器洗い機に入れるだけ。そして乾いたら食器を戸棚に戻す。そんな簡単な作業だけど、オレはやりたかった。妹が料理を手伝っているのに、オレだけ何もしないわけにもいかない。
恭子さんの家とオレの家は近く、その間は商店街なので夜でも明るい。だから妹は食事が終わると一人で帰る。シホさんは食べ終わってもオレがいる間はリビングにいる。テレビを見たりゲームをしていたり。ゲームが好きと言っても、単純なパズルゲームが好きなようだ。色々なソフトがテレビの下に並んでいる。ロープレなどはだいたい途中でやめてしまい、ハマるゲームはやはり単純なパズルだ。
オレが食器を戸棚に入れ終わると、シホさんは「一緒にやろうよ」と言う。
「あ、はい」
シホさんがソファに座っていたので、少し距離をおいてオレもソファに座った。広い部屋とはいえ、二人きりになったからだろうか、胸のあたりがソワソワした。シホさんはゲームのコントローラを「はい」と言って渡してくれた。その時、少しだけ指がふれた。彼女はそれに気づかない。軽くふれただけなのに、胸のあたりのソワソワが大きくなった。自分の気持ちを抑えなくてはと、必死だった。自分が男であることを思い知らされた。
「どういうゲームが流行ってるのか、あまり知らないけど」
シホさんの声の高さが、ずいぶんと甘く聞こえた。
「私、これ、よくやってるんだ」
「あぁオレは、そんなにゲーム機ではやらないですね。友達がやってるスマホのゲームをなんとなく付き合いでやってるって感じで」
ルールもよく解らないままいきなり対戦した。画面の上から泡のような塊が落ちてきて、コントローラを揺らすと落ちながら横に動く。同じ色の泡をくっつけると、呪文を唱えることができる。でも、それが難しい。オレの泡が大きくなるとシホさんはゲームをとめて、呪文の唱え方を教えてくれた。
「右回転に二回まして、下から上にコントローラを突き上げるの」
オレはシホさんの言うとおりにコントローラを動かすと、シホさんは
「もうちょっと大きく回した方が呪文がかかりやすいよ」と教えてくれた。
「んじゃ、ゲーム再開ね」
「あ、はい」
シホさんが教えてくれたととおりにコントローラを動かして、呪文を唱えることができた。シホさんは「ユウちゃん、うまい! うまい!」とはしゃいでいた。同じように呪文のかけ方を何回か教えてくれたが、青い泡が大きくなった時にかける呪文が難しかった。
「小刻みに、トントントーンって振って、すぐに左にまわすの」
我ながらゲームとかの飲み込みは早い方だと思うが、トントントーンと言われてもなかなか上手くいかない。オレが戸惑っているとシホさんは自分のコントローラを動かしてやってみてくれたが、早すぎて何をやっているのか解らない。
「やっぱ、これ、難しいかな」
シホさんはオレに近寄り、肩が触れるところまで寄った。シホさんの体の香りを感じた。髪の香りなのか、なにかつけているのか、シホさんそのものの香りなのか。
「ちょっといい?」
シホさんの手が、コントローラを掴んでいるオレの手を包んだ。その手はおどろく程やわらかかった。彼女の首元、その下の胸元に視線が向かってしまい、とてもやわらかそうに見えた。
「トントントーン」と言って、オレの手を揺らす。
「こんな感じ」
顔もかなり近寄っていた。シホさんがオレの顔を見ると、その距離は十センチもなかった。テレビの光が瞳にうつっているのがわかる。唇がぷっくりとしていて、オレの視線は胸元から唇にうつった。
「あ、は、はい、だ、だいたい、わ、わかりました」
「うん。じゃ、再開」
シホさんの体が離れて、オレは内心ホッとしていた。でも動揺はしていて、呪文を失敗しまくった。画面の女の子のキャラは悔しそうにしている。シホさんはコントローラを動かし、「やっぱ、難しいのかな」と言いながら、容赦なく攻撃した。もちろん勝負はシホさんの圧勝だ。「ふぅ」と息をついた。
「結構、呪文とか成功してたね。やっぱ男の子ってゲーム上手いよね」
「いやぁ、難しいですよ。最後のは失敗しちゃいましたね」
オレは平静を装っていたが、シホさんに手を握られてからずっと心臓が強く動いていた。
何度か対戦してもシホさんには一回も勝てなかった。それなりにコツは掴んだと思うが、例の青い泡の呪文は難しい。青い泡がたまると、シホさんはゲームを止めて、何度もオレの手を握って教えてくれた。何回か繰り返しているうちに、さすがに慣れたのだろうか、手を握られても心臓の動きが強くなることはなかった。しかし今度は胸のソワソワが、気持ちの良い痛みに変わっていた。やっかいなのは、その痛みは手を握られているときだけでなく、シホさんの側にいるだけでずっと続いた。
夜の十時頃、恭子さんが帰ってきた。オレを見かけると「あ、ユウちゃん」と、明るい声をかけてくれた。
「ゲーム、シホに付き合ってくれてたのね」
「あっ オレもゲーム好きですから」
「えっ、意外。なんか外でスポーツとかしている方が好きなのかなって」
「あっ、まぁ、どっちも…………」
オレが答え終わる前に、恭子さんは言葉を重ねる。
「ほら、あんまり遅くまでユウちゃんを独り占めしてたら、アッコに悪いでしょ」
『からかい』と『叱り』の半々くらいの言葉だ。シホさんは「はいはい」と言って、ゲームの電源を切った。
「今日のハンバーグ美味しかったです。ありがとうございました」
オレは一言礼を言って立ち上がった。
「あっ、うん」
恭子さんに頭を下げた。
「失礼します」
リビングを出て玄関に向かった。すると、恭子さんは廊下に首を出して、
「私のハンバーグとどっちが美味しかった?」と、答えづらい質問をする。
オレの口からは答えが出なかった。正直に言うと恭子さんのハンバーグの方が美味しいが、そんなこと言えるわけない。困っていると、シホさんの声が聞こえた。
「お母さん! つまんないこと、きかないでよっ」
オレは会釈し、家を出た。
そんな日が続く。
いつものように食事を終えて、そしていつものようにゲームをして……それまでは、いつもどおりだった。いつもはゲームが終わるとすぐに、シホさんはコンティニュを選んで、ゲームを再開させる。だけどある日、何回かやった後、ゲームオーバーの画面のまま、シホさんは話し出した。
「こういう事、意外に、誰にもきけないんだよね」
なんの話だろうか…………
「普通の家の子ってさ、あえて口に出したりしないけど………… 自分は、両親が愛し合って生まれて、そして愛情を注がれて育ったって、どっかで、そう思ってる……のかな」
シホさんはゲームの電源を切った。
「ユウちゃんはなんで両親が離婚したかってきいたことある?」
きいたわけではないが、理由は知っていた。見ていたのだから。
「離婚する三年くらい前からだったか、ほとんど会話なかったから」
「そうなんだ。ユウちゃんは見ていたんだよね。二人を」
オレはうなずいた。
「うちはさ、私が四歳くらいのときに離婚してるから、私は離婚した理由なんて知らない。もちろん何回もきいたんだけどね。お母さんにはなんかそういうのきけないから、お父さんにきいたんだけど………… 小学生の時もきいたし、中学生の時もきいた。でもいつも答えはこんな感じ」
シホさんは少し低い声を出して、父親のマネをする。
「子供には説明しにくいなぁ。まぁ、簡単に言うと喧嘩しちゃったんだよ」
なんの答えにもなっていない。いや、そもそも答えなんてあるのだろうか。離婚した理由は、言い代えれば、オレ達子供を不幸にした理由だ。納得できる理由なんてあるはずもない。
「先週の日曜に会ってね、お父さんと。でね、またきいたんだ」
シホさんの顔から笑みが消えた。
「もちろん、お父さんの言い分だから、本当かどうかなんて解らない …………こんな事お母さんに話して、どっちか正しいかなんて確認することもできないけど」
落ち着いたシホさんの声を、オレはきいていた。
「母さん、育児ノイローゼみたいになってたんだって。母親になったら誰だって多少はイライラすると思うの。だからお父さんが大げさに言っているだけかもしれない。だけどね、桃子さんっていってお父さんの妹なんだけど、お父さんの実家に行くと、たまに会うこともあるんだけど………… 何回かきかれたことがあって」
シホさんは瞳を下にさげた。
「お母さんにぶたれたりしてないよね? って」
恭子さんがそんなことをするはずはない。オレは単純にそう思った。
「桃子さん、とってもいい人で、それにしっかり者でね。お父さんみたいにいつも適当な事や冗談ばっかり言ってる人とは正反対の性格で……だからふざけてそんな事をきいたりしないと思うの。本当に私のことを心配してくれて………… 私、桃子さんの事、好きだけど、何度も変なこときくから、なんでそんなこときくんですか?ってちょっと怒っちゃったことがあって。そしたらね、桃子さん、瞳に涙を浮かべてね、『本当にぶたれたりしてないよね? ウソ、付いてないよね?』ってきくの。もちろんそんなことされてないから、ウソついてないって答えたの。そしたらね、桃子さん、『ごめんね、もう二度とこんなこときかないから』って」
シホさんの瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。そしてまばたきをした時に涙が落ちた。
「シホさん…………」
シホさんの瞳にはすぐにまた涙があふれた。
「見て」
背中を向けて、服をめくりあげた。オレはあまりにも驚いて、目をそらす事もできなかった。ブラが見えるくらい服をめくって、オレに背中を見せた。美しいものを見てしまっていいのか、と一瞬思ったが、それを見た瞬間、そんな思いは消え去った。
「こ、これ…………」
まだらに紫になった肌。生まれつきのあざではない。それは見れば解る。古傷だ。
シホさんは服を戻した。
「お母さんには……小さい頃、坂から私を落してしまったって、きいて」
そんな傷ではない。何回も傷つけられてできた古傷だ。虐待の跡。
「お母さんと話してて、なんかの話しからか覚えてないけど、お父さんの話しになって、その時、中学生の頃だったかな、一度だけなんでお父さんと別れたのって、きいたことがあったの。そしたらね………… お父さんが浮気したからだって」
シホさんはオレをジッと見つめて「どっちの話を信じればいい?」ときいた。答えづらいという意味では難しい質問かもしれないが、答えは明白だった。シホさんのお父さんの言っている事が正しい。シホさんだって解っているはずだ。確認したいだけだ。オレは卑怯かもしれないが、質問を質問で返した。
「どちらかを信じたとして………… なにか意味、あるんですかね?」
シホさんは答えない。数秒たっても瞳を落とすだけで、やはりオレの質問には答えなかった。オレは言葉を重ねた。
「何も考えない …………そういう選択ではダメですか?」
シホさんはうつむいたままだ。
「恭子さんのこと、好きですよね?」
シホさんはうなずいた。
「それだけじゃダメですか?」
オレは質問をしたわけだが、シホさんの質問に答えているのも同じだ。恭子さんが過去にどんなことをしたとしても、それを隠すためにウソをついたとしても、『許してあげましょう』と。
シホさんのかよわい涙声が聞こえた。
「そうだよね。ウソ付かないと、生きていない時だってあるよね」
恭子さんのことを話してくれたあの日からか………… ゲームしない日が多くなった。ゲームをしても、するのは三十分くらい。その後は恭子さんが帰ってくるまで二人で話した。だいたいオレは聞き役。友達の話、学校の先生の話、塾の話、芸能人の話、ドラマの話。会話というのは不思議だ。重ねるたびに深くなる。深いところには、ききたくない話もあった。
「お母さんには内緒にしてるんだけど、付き合ってる人がいてね」
最初にきいたときはショックで何秒か体が硬直した。少しずつシホさんとの仲が深まっていって、いつか自分の想いが成就されるのではないかと、淡い希望を胸に抱いていた。失恋してしまった自分がどんな表情をしていたのか、自分でも解らない。しかし感情を完全には隠すことはできない。
「あっ、やっぱり意外だった?」
オレは我にかえって、言葉を探した。
「あっ、いや、その、意外ってわけじゃないけど、やっぱ高校生にもなると、そうなんだなぁって」
こんなふうに返事をしているとショックもやわらいでいた。オレのシホさんへの『想い』は、ただの『憧れ』。オレの心は『あきらめ』というものを驚くくらいに早く受け入れていた。
「一年の最初の頃、女の子みたいな男の子がいてね。なんかクラスのみんなとなじんでなかったみたいで、なんとなく声をかけたの。一緒にお昼食べようって。うちの学校って男の子の制服もおしゃれなデザインで、その男の子が来ていても、とっても可愛くてね。でも、身長も低いし、体が細いせいか、ぱっと見、誰が見ても女の子にしか見えなくて。私も男の子として見てなかったんだけど。彼の名前、和田ヒロユキって言うんだけど、私はヒロって呼んでるの。ヒロがいつも言うんだけど、『僕を孤独から救ってくれた』って。大げさよね。私は普通の友達の関係のつもりでいるんだけど、ヒロはたぶん、なんだろう、お坊さんの師匠と弟子、みたない関係だと思ってるのかな。男女の恋愛よりも、なんか深い愛なのかな。そういうところも可愛くてね」
シホさんはニヤッと笑う。
「でね、お人形みたいだから、ちょっとイラズラしちゃって」
「イタズラ?」
「キスとか…………その先も」
シホさんは胸に手をあてて幸せそうにする。
「人に愛されるって不思議な感じよね。自分の好みとかあるはずなのに、ヒロの瞳を見ているとだんだんと引き寄せられていって」
オレだってそういう目でシホさんを見ていたと思う。なんでオレを選んでくれなかったのだろうか。そんな事を思いながらも話をきいていた。
「最初はね、捨て猫を可愛そうって思う気持ちに似てたのかも。だけど、だんだんとヒロの事を解っていって、まっすぐで、やさしくて、怖いくらい一途で。いつからか、ずっと一緒にいたいって思うようになったの」
シホさんは微笑みながら「あっ、ごめんね、つまんない話しちゃって」と言う。聞いていて楽しくなんかない。『あきらめ』という感情を得ても、なぜかオレは嫉妬していた。胸を突き刺すような感情だ。でも不思議と、そのヒロって奴のことを知りたいって思う。
「彼ね、やっぱ、はずかしいのかな。彼女とかいるって友達にバレると。だからかもしれないけど、付き合ってることは学校のみんなには秘密にしてって言うの。私も、誰かに自慢したいなんて思わないし、あれこれ聞かれるのも好きじゃないし。だからこの事、話すのはユウちゃんがはじめて」
その後も彼氏の話が続いた。勉強ができる事。声がやさしい事。肌が白いこと。目がパチリと大きいこと。シホさんが彼氏の話を多くしたのはこの日だけだった。何度も話して『のろけている』とオレに思われたくなかったのか。一度話して気が済んだのか。よく解らない。
オレは、一度も会ったこともないヒロという奴に、ずっと嫉妬し続けた。
嫉妬した頭で色々と考える。その想像と、シホさんが送る日々とは無関係かもしれないが…………
きっとシホさんのような人ならちゃんとした男を選ぶだろうし、彼氏と喧嘩したりもしないだろうと、勝手にオレはそう思っていた。オレ達兄妹に笑顔で毎日接してくれるシホさんが幸せであるのならばそれでいいと、嫉妬しながらもそう思った。
ある日、シホさんはいつもと同じように見えて、そうではなかった。妹が料理について何か質問すると「ああ、そうね」とか「うん、そうだね」とそれなりに返事をしているが、笑顔は本物ではなかった。勘の悪い妹でも気づく。
「具合、悪いんですか?」
「え、そんなことないよ。ちょっと疲れてるのかな」
妹はシホさんの返事を疑わない。シホさんはきっと体調が悪くたって無理してでも笑顔をとりつくろう。そういう人だ。きっと何があった。友達と喧嘩でもしたのだろうかと、オレはスマホでゲームをしながら、チラチラと料理をする二人を見た。
いつものように食事が終わりオレが後片付けしていると、いつものように妹は家に帰っていった。
オレがソファに座るといつものシホさんならば何か話しかけてくるのだが、この日は何も言わずテレビを見ていた。彼氏と何かあったのかな。オレは帰った方がいいのか、なにか一言声をかけた方がいいのか、迷ったが、
「元気ないですね、めずらしい」と声をかけた。迷ったときは『行動する』というのが、オレの性分だ。多分、些細なことなのだろうと思っていたので、口調は軽かった。
シホさんはテレビを消して「うん、元気ないの」と答えた。オレにできるのは話を聞いてあげることだけだ。
「ユウちゃんもそうなのかな」
シホさんはオレの瞳をジッと見つめた。
「男の子って、なんか、妙に完璧でありたいって思うのかな」
「完璧?」
あまり考えた事がないので、「いや、あまり」と答えた。
シホさんは目を閉じた。
「私はこう思うの。自分を愛してくれる人が私の望むものを持っているなら、それだけでいいって」
言い終わると、目を開く。その表情に悲しみや戸惑いが見えた。女の表情。抱きしめたくなる。それはオレが男だからだろう。
「求めるものと与えられるものと、それが重なる、それが男女の関係だと思うの。もし少しだけ欠けた部分があったとしても………… 別に、そんなもの、どうでもいい」
瞳には涙が見えていたが、力強い視線だった。強い意思。それもまた美しく見えた。
「彼ね、体に障害があって」
涙がこぼれた。強い意思と悲しみ。それが共存していた。
「だから、別れようって」
シホさんの涙は止まらない。オレは身を寄せて、肩を抱いた。これがオレにできる精一杯の行為だ。シホさんは頭をオレの方に寄せた。
「私、あきらめないから…………」
シホさんは三十分くらい泣いていた。シホさんは160センチを少しこえるくらいだが、オレと比べると随分と小さい。肩を抱くとなおさらそう思う。この時、オレは初恋の相手、三つ上のシホさんを妹のように見ていた。だからかもしれないが、不思議と嫉妬しながらも『別れてしまえばいい』とは思わなかった。ただ単純に『初恋は実らない』と、そう思っただけ。
繰り返される人間関係。それがいつも同じように繰り返されていたとしても、感じ方は同じとは限らない。あの日以降、シホさんは彼氏の話をあまりしない。落ち込んだりもしない。だから彼氏とうまくやっているんだろう、と思っていた。
食事が終わってから例のパズルゲームをした。オレもかなり上手くなったので、勝負は五分五分だ。
「賭けしない?」
シホさんの口から『賭け』という言葉をきいて、意外に思った。もちろん大したものではないだろう。
「いいですよ。何を賭けます?」
「負けた方が、勝った方の言う事をなんでもきく」
なんでも? 少し怖い気もした。まぁ、シホさんが無茶な事を言うわけないし、もしオレが勝ったとしてもオレだって無茶なことは言ったりしない。
「じゃ、やりましょうか」
お互いいつもよりはエキサイトしていた。コントローラを振りすぎて、シホさんのコントローラがオレの頭にあたった。シホさんは「ごめーん」と女の子らしい声をあげたがゲームを中断することはなかった。たまたまオレが欲しかった色の泡がやってきて、一回戦はオレが勝った。
「あーあ、負けちゃった」と残念そうにしたが、すぐにニコッと笑い、オレの瞳を覗き込んだ。
「じゃ言って。私にして欲しいこと」
もちろんいっぱいあるがそんな事を口に出して言えるわけもない。どんな事なら許されるのだろうかと、色々考えた。
「じゃ、今日一日、オレのことをユウジって呼んでください」
「えっ? なんで?」
「いや、なんか、ユウちゃんって呼ばれると、子供っぽいかなって。まぁ、近所の人はみんなそう呼びますけどね。学校では名前で呼ばれているので」
シホさんは微笑みながら、オレを見て、
「ユウジ」と呼んだ。オレも微笑んで「はい」と答えた。
「よし、じゃ、ゲーム再開、ユウジ」
シホさんに『ユウジ』と呼ばれて嬉しかったのか、集中力が切れた。二回目のゲームはシホさんの圧勝だった。まぁ、変な事は言われないだろうと思い、「ああ、負けちゃいましたね」と軽い気持ちだった。
シホさんはゲームの電源を切った。一勝一敗だからもうゲームはしないのかなって、オレは単純だから、そう思った。するとシホさんはオレの側まで寄った。足と足が触れ合うくらいに近づく。オレは避けるわけでもなく遠のくわけでもなく、ジッとしている。どんなことを言われるのかと、ドキドキしていた。
「えっ」
シホさんがオレの手を握ったので、体がビクッとなるくらいに驚いた。
「いや、だったら断ってもいいよ」
「えっ?」
「キスして、ユウジ」
シホさんは顔を上げた。
「目を閉じるから、あとはユウジに任せる」
無防備なシホさんの顔がオレのすぐ目の前にある。オレは首を動かして
「……………」
唇を合わせた。どういうキスをすればいいのかなんて、その頃のオレには全く解らなかった。だからすぐに唇を離した。シホさんは目をつむったまま、「もっと気持ちを込めなさい」と、小学校の先生のようにオレを叱る。
『気持ち』とはなんなのだろうか。解らない。だけどオレはまた唇を合わせた。今度はちょっとだけ口を開いて舌でシホさんの唇に触れた。そうするとシホさんは更にオレに体を近づけてオレの背に手を回した。もう片方の手でオレの胸元に触れた。オレも手をシホさんの背に回して、軽い力で引き寄せた。シホさんはオレの下唇を軽く吸った。そして吸う力を緩めると、口をあけて、舌を突き出す。オレも同じようにした。シホさんは体重をオレの預ける。オレは逆らわず、そのままソファアに横に倒れた。シホさんの体の柔らかさを感じる。その体温も。そのにおいも。キスを続けていると体温が上がっているのが解る。オレも同じだ。シホさんのにおい。唇はマヒしたように感じやくすなっていて、胸にはあの気持ち良い痛みが、いつもの何倍にもなっていた。頭はクラクラするくらい揺れていて、男の部分が脈を打っていた。シホさんの足の付け根に触れている。恥ずかしいけど仕方ない。シホさんだって文句は言わないだろう。しばらく互いの唇を求め合った。
「……………」
シホさんは唇を離して、ゴクっと唾液を飲む音が聞こえた。そして涙をためた目でオレにきいた。
「気持ち悪くなかった?」
オレは首を横に振った。シホさんは口についた唾液を指でぬぐったあとに、腕時計を見た。オレも壁の時計を見た。恭子さんが帰ってくる時間だ。
「今日はここまで」
シホさんの瞳がキラキラと光っていた。
今日はここまで?
幼いオレは単純に考えていた。シホさんは彼氏と別れて、オレを選んだのだと。
キスしてから何週間かたったか………… いつものように食事を終えて、そして何十分かゲームした。その後、シホさんは話しはじめた。
「無理なお願いだから、もちろん、断ってもらってもいいんだけど」
いつになく戸惑いながらシホさんは話す。
「彼ね」
その言葉を聞いたときに、まだ別れていないんだなと思い、オレはショックを受けた。
「あの、なんていうか、男性のあの部分が、そのぅ、固くならないって、病気っていうか、そういう体質なんだ。だからね、彼、私のこと、その、なんていうか、喜ばせられないから、だから別れようって言ってね。でも私、別れたくないの」
シホさんは一瞬、チラッとオレを見て、
「好きだから」
そう言うと、すぐに下を向く。
「恋愛って心と体で感じることだと思うの。心は満たしてくれるんだ、彼。私は体なんて心と比べれば大したものでないって思っていたんだけどね、恋愛感情が高まるたびに、私の体の熱をどうすればいいのか………… 考えるようになって」
シホさんは顔を真っ赤にしていた。
「男の子みたいにね、一人でやればいいのかなって思ったけど、なんかそんな気にもなれなくて。全然気持ちいいって思わなかったし。結局、どうしていいか解らずに」
だからオレと?
「そんな…………」とつぶやいた。
「あっ、ごめんね。そんなつもりでもないんだけど、言葉って難しいよね。私ね、ユウジの事も好きなんだよ。でもね、彼とは別れられないの。彼は私の性的な部分を満たす事ができないから、私の心が二つに分かれてしまったみたい。うん、そんなの言い訳だって解ってるよ。でもね、今の私ね、そうなっちゃってるの」
シホさんは泣いていた。苦しいんだ。なぜ苦しいのだろうか? 矛盾をかかえているからだろうか。でもそれはシホさんのせいじゃない。たまたま好きになった人がそういう障害を持っていて、たまたまシホさんの側にオレがいた、それだけのことだ。だれも悪くない。シホさんも、シホさんの彼氏も、オレも。
「……………………」
オレはシホさんを抱きしめていた。
シホさんもオレを強く抱きしめた。
「ソファだと、ちょっと不便だよね。私の部屋………… 行こうか」
自己を肯定するのは簡単だ。しょうがないと、そう思ってしまえば自分を許すことができる。シホさんを抱いたことは過ちでなかったとしても、それ以降のことは明らかに過ちだった。もちろん完全に自己を肯定することはできない。オレはそれほどバカではない。だから、誰かに責められれば言い訳もできない。
オレはユイと付き合いはじめてからも、シホさんとの関係を続けていた。
ユイは今風な生意気そうな顔だが、可愛らしい。性格も明るく、いつも元気だ。細いわりには胸や尻が大きく、ガサツな性格を除けば、文句のつけどころがない。何人かの友達には付き合っていることがバレて、『うらやましい』『うらやましい』と何度も言われた。オレの気持ちにもウソはない。ユイのことを『良い子』だと思う。
「私との関係、続けてていいの?」
シホさんから、何度もこの言葉をきいた。
「私の事は気にしなくてもいいから、もうやめたいなら、そうする。もともと、ユウジに無理なこと言ってたの私なんだから。もちろん私はユウジとの関係、とっても大切だと思ってるけど」
シホさんの心はオレのものにはならない。だけど体はオレのものだって、そんなふうに考えるようになった。オレはシホさんの性欲を満たし、オレも満足している。シホさんの彼氏にはできないことをオレはしている。
シホさんの言葉を思い出す。
『恋愛って心と体で、感じることだと思うの』
オレがシホさんに対して体だけを求めていたのなら、すぐにやめられたと思う。誰にも受け入れられないオレの心。ユイに向けるべき心。それをずっとシホさんのベッドの上に置いたままにしてしまった。
オレやシホさんだけでなく、恋愛感情なんてものは常にユラユラとゆれている。相手の求めているものを全部、持っている人なんていなくて、だから、おかしくなったり妥協したり別れたり、色々するのだろう。ユイの友達にきいたことがあるが、ユイだってオレと付き合う前は、誰が好きとか、誰がかっこいいとか、惚れっぽい性格だったらしい。別にそれを悪いことだとは思わないが、どの店のどの店員がかっこいいとか、ドラマとか見て、どの俳優がかっこいいとか、オレに言われても困る。不確定な噂ならもっと悪い話もきいたが………… もしそれがウソだったとしても、ユイだって随分とユラユラとゆれている。
男も女もユラユラとゆれていて、たまたま重なった時、一緒にいられるのだろう。男女の関係なんてものは、そんなもんだ。
高二のなってすぐの頃だったか、塾の廊下に小さいノートが落ちていた。妙なのはそのノート、随分と分厚い。キリスト教徒の親戚がいるが、その家で見た聖書のように分厚い。こんなノート売ってるのかな、と思ってよく見ると、同じサイズのノートをテープで付け足している。表紙にはマジックで『ユウジ君と私の未来予言書』と書いてある。
「なんだこれ?」
ユウジ? オレと同じ名前だったので、気持ち悪さも感じた。開けて中を見てみると、
『ユウジ君とドライブ』
『ユウジ君と道に迷う』
『ユウジ君、少しイライラする』
『私も、少しイライラする』
『ユウジ君と、ちょっと言い合いになる』
『ユウジ君と、すぐに仲直り』
『その夜、旅館で、ユウジ君、いつもよりやさしくしてくれる』
こうった内容が、小さいノートの一枚にびっしりと小さい文字で書かれている。なんだろう? 小説のプロットなのかと、1ページ読んだ時にはそう思ったが、2ページ、3ページ、読んでいくと解かった。このノートを書いている人、たぶん女だと思うが、単にその女が『ユウジ』としたいことを書いてるだけだ。『好き』『好き』『好き』と埋め尽くしているページもある。そして次のページ。
『ユウジ君のクローンを作って、いっぱい増やしたい』
「やべぇな、こいつ」
あるページを見た時に、オレは衝撃を得た。
『結婚し、私の名前は、湯沢カナから田中カナへ(ちょっとゴロが悪いけど、幸せ)』
「え? カナちゃん?」
このノートに書かれている『ユウジ』という男、オレと同じ名前の男だと思っていたが、なんと、オレ自身のことだった。もしかしてカナちゃん、オレに気があるんじゃないかって、そう思ってはいたが、まさかこれ程とは…………
読んではいけないと思いながらも、読んでしまう。
『一番ヤバい日なのに、大丈夫な日だから、とウソを言って、大学四年生で妊娠』
「おいおいっ」と、思わずノートにつっこむ。
『ユウジ君の、男性の白いやつ、顕微鏡で見てみたい』
「……………………」
これ以外にも、多数ヤバい欲望が書かれていた。ホンキかどうかは知らんが。
このノート、オレからカナちゃんに返すわけにもしかない。もちろん、このまま塾の廊下に放置することもできない。落とし物として受付に預かってもらうしかないか? いやいや受付の人だって、誰のものか中を読むだろう。どうすれば…………
「あっ」
カナちゃんといつも一緒にいる友達が、たまたまを通りかかった。随分と小さい女の子で、小学生にしか見えない。でも、オレらと同じ歳だ。確か名前、『シノブちゃん』だったかな。
「ちょっと、いいかな」
「あっ あぁ、あなた、ユウジ君だね」
「あぁ、うん」
何て言って、カナちゃんに渡してもらえばいいか………… すると、シノブちゃんはオレが手に持っているノートを見ると、指さし、
「あぁぁっ」
高い声で驚く。そして小動物のようなすばやい動きで、オレからノートを奪う。
「も、もしかして、これ、読んだ?」
この反応………… この子もこれに書かれている内容を知ってるのかな。
「あ、あぁ、そんなには。誰のかなって思って、パラパラとは開いたけど」
「え? じゃ、まぁまぁ読んだってこと?」
確か30ページくらい読んだと思うが、「2ページくらい」とウソをついた。
「あぁ、これね、トレーニングだから」
「トレーニング?」
「作文とか論文の」
とてもそんなふうには見えなかったが………… この子の方が、誤魔化そうとしているので、それに合わせよう。
「あぁ、なんていうか………… オレと同じ名前でビックリしたよ」
「え?」
「ユウジ君、って文章ばっかりじゃん。君の学校にもいるの? ユウジって奴」
「んー、あぁ …………いるいる」
「こんな一途に愛されて、そのユウジって奴は幸せかもな」
「あぁまぁ、そうかも」
そう言うと、シノブちゃんは走り去った。
それにしても、カナちゃんって……… あんなに一途に人を愛せるのだなと、感心した。
もし、オレがシホさんに対して、あんなに一途だったら…………
もし、ユイがオレに対してあんなに一途だったら…………
もし、シホさんが彼氏に対してあんなに一途だったらなら…………
みんな、まっすぐな人間でいられたんだろうな、と思う。
ユイと付き合ってから、もう三年もたってしまった。ユイだってオレの気持ちが自分に向いていないと解かっているだろう。少しずつ気持ちが離れていった。特に別々の高校に通ってからは、一ヶ月に二、三回くらいしか会っていない。オレは被害者のフリをして、カナちゃんに相談していた。もちろんシホさんの事を言ったりはしないだから、相談したって意味なんかない。カナちゃんは本当のオレを知らない。オレはユイと付き合っていけば、いつの日かユイのことを本当に好きなれるんじゃないかって、思っていた。でも、そうはならなかった。なぜか? 答えは簡単だ。オレがクソだからだ。本当はカナちゃんに相談する価値もない。
カナちゃんのオレに対する感情は、愛情という枠をはるかに超えて、狂気だと思う。でも本来、人間が求める愛というのは狂気じみたものなんじゃないかと、オレは思った。色々とつまらない恋愛を続けていって、気持ちがいつもユラユラとゆれいていて、相手はおろか、自分のことすら信じられなくなる。
オレが高校生になると恭子さんの家で夕飯を食べることもなくなった。シホさんが大学とかサークルとかバイトとかで忙しくなったのも理由の一つだが、妹が色々と料理を作れるようになったのが一番の理由だろう。だからオレがシホさんの家に行くのはスマホで呼び出された時だけ。チャイムをならすこともなく合鍵で入って、だいたいそのころにはシホさんはシャワーを浴びている。出るとすぐにオレもシャワーを浴びる。シホさんは自分のベッドに全裸で座っている。オレも風呂場から全裸でシホさんの部屋に向かう。
あまり多くの言葉を語らずに、すぐに体を交える。
そして事が終わって、オレは話した。
「ユイと別れた」
シホさんは驚く。
「なんで?」と言うと、首を横に大きく振る。
「私、ユウジの彼女にはなれないよ?」
オレは決心していた。
「シホさんとの関係もやめる」
「えっ?」
「好きな人ができた」
シホさんは「あ、あ、そうなの」と言って最初は戸惑ったが、すぐに微笑んだ。
「良かったね。これで、良かったんだよ」
シホさんの声、涙声になる。
「なんか、ユイって子と上手くいってないのも私の所為だって思っててね。いつかこんな関係やめよって言わなくちゃって。なんか言い出せなくて。私、ずっとユウジに甘えてて…… 年上なのに、私、なにやってたんだか」
そう言い終るとシホさんは「うっ、うっ」と泣き出した。
「ごめんね、別に悲しくて泣いてるわけじゃないの。ユウジに好きな人ができてよかったなぁって」
オレはティッシュを何枚かとって、シホさんに渡した。涙をふきながら、「ユイって子と本気で付き合ってなかったでしょ?」ときく。
「別に、そんなんじゃないよ、ちゃんと付き合ってたよ」と、オレはウソをつく。
「うん、それならいいんだけど。でもね、覚えてる? 私が前に『ユイって子のこと、本当に好きなの?』ってきいた時」
覚えていた。オレは即答できず、そして何秒も考えた後に『いずれ好きになれる』と答えた。
「今ね、好きな人ができたってきいて、私、なんか、ちょっと安心した」
シホさんの声が耳元でささやく。
「今日で最後にしようね、こんなことするの」
「うん」
「なんのかんの言って、ユウジってやさしいからね。触れ合っている時も」
シホさんはオレを強く抱いた。
「最後だから、激しくして」
オレの心もシホさんの心もユラユラしていて、おかしい方向に向かってしまった。ユイだって同じだろう。会ったことはないがシホさんの彼氏だって。しっかりとした『想い』がないから、シホさんがユラユラとしてしまうんだ。
ドアから出て、三階建ての鉄筋の家を見上げた。もうここに来ることはないだろう。ベランダからシホさんの姿が見えた。手をふっている。オレはコクンと首をまげた。
歩き出すと、スマホにメッセージがきた。カナちゃんからだ。
『ユイから聞いた。別れたんだって? ほんとう?』
オレはすぐにカナちゃんに電話した。カナちゃんは驚くくらい早く電話に出た。
「あ、はい」
「あっ、カナちゃん、今、話しても大丈夫?」
「あ、はい」
「ごめんな。色々と応援してくれたり、相談とか、のってくれたのに」
「いや、そんな」
「ハッキリさせないといけないって思って。オレの方から別れようって」
「あっ …………うん」
「電話じゃなんだから、今度、塾の後で」
カナちゃんの相槌がとぎれる。
「カナちゃん?」
「えっ?」
「ああ、なんか、聞いてるかなって」
「ああ、うんうん、きいてるきいてる。驚いてる」
「本当、ごめんな」
「えっ?」
「いや、なんていうか、オレ達二人の事、応援してくれてたのに…………」
「あ、あぁ、そんな気にしないで」
「じゃ、また、塾で」
「うん」
「じゃ、切るね」
「うん」
カナちゃんはオレに気がある、それはわかっていた。いつからだろうか、高校になってからだろうか、それよりちょっと後だろうか。オレのことなんか好きにならない方がいいのに、あんな良い子なんだから、もっとマシな奴を好きになればいいのに、って何度も思った。気の迷いなんだろうと、そういうふうにも思った。でもカナちゃんは、なんのかんの言って半年くらいはオレに片思いをしてくれた。
そして、オレはあのノートを見てしまった。あのノートにはカナちゃんの欲望がつまっている。オレが求めていた欲望とはだいぶ異なる。盲目的で、狂気にあふれて、身勝手で、あきれる程に稚拙だ。怖さも感じる。でもだからこそ、彼女の恋愛感情は全くゆれていない。
かなり変わった子だけど………… 彼女のまっすぐな想いに答えたい。そうすれば、オレ自身もまっすぐな人間になれるんじゃないか。
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