第5話

ユウレイさんが消えてから、もう一週間が過ぎる。


私はただ無心で仕事をしていた。シフトはとにかく朝から晩まで入れて、店長の代わりをしっかり努めつつ、幽霊騒ぎの問い合わせメールを裁いていた。

 今日は月曜日。しかし七月も半分が過ぎたせいで、月末に向けての作業が普段の業務に追加されて、多忙の日々が続いている。

 あの日は宮司がどうにかお客様たちを帰して、上司への報告書も作成し、マネージャーに仕事を任せてくれた。その時にテーブルや椅子の配置をしっかりと終わらせてくれたので、翌日の仕事に大きく影響することはなかった。

 しかし店で起きたことについては、誰も分からないという不可思議現象。これが話題にならないはずがなかった。宮司がいたから幽霊の除霊は済んでいるものだ、という認識もなくはないが、面白半分で店に来たり、問い合わせメールを使う者が増えてしまったのだ。

 上司曰く、しばらくは耐えてくれ、の一言だった。電話越しの疲れ切った言葉に、彼も彼で色々あったのだろうと推測できる。そんな状態で文句が言えるはずもなく、苦笑して電話を切った。

 店長は他の店舗も受け持っているので頼り切りには出来ない。仕方なく私は一日中それを裁いていく羽目になったわけだ。

 とは言え人手不足なのでずっと事務所にこもっていることはできない。そこで私はマネージャーたちに呼びかけた。忙しくなったら呼んで、と。しかしそれは自分の首をさらに絞める事となった。とにかく休めないのだ。パソコンに向かっていれば、店から内線がかかってくる。

 もちろんパソコンは途中でスリープになる。そしてそこから三十分から一時間、店を離れることができない。戻ればまた事務作業が待っていて、休憩なんて取っていられない。ちょくちょくパソコンから目を話しては目薬を挿したり、水分補給をしていたが、やはり限界は来る。

 さすがに倒れるわけにはいかない。マネージャーという立場もある。そう思って、午後二時を過ぎた辺りに、私はパソコンの前から離れた。

 そこで丁度休憩やら上がりやらで、朝比奈と岡田が事務所に入ってきた。事務所にこもっていたどんよりとした空気が、一度換気されて、少し気が楽になった。思っていた以上に疲れていたことにそこで気付く。

「あ……滝沢さん、お疲れ様です」

 あからさまに顔をしかめた朝比奈に、私は苦笑する。何故彼女が顔をしかめるのかはわかっていた。数日間の他の従業員の態度から、朝比奈が私の事を大げさに話したことが原因だろう。

 朝比奈の後ろから入ってきた岡田は、私の姿を見て、半ば癖のようにふっと微笑んだ。正直彼の反応にちょっとだけ驚いた。当然他の従業員と同じように、ガラスに触れるような態度になるものだと思っていた。

「お疲れ様です、滝沢さん。朝比奈がご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 そう言って頭を下げる。ほとんど九十度に、だ。朝比奈も「本当にすみませんでした」と頭を下げる。二人の行動に、まだ理解が追い付かない。

「ええと、どういうことかな」

 原因はわかっているが、私が聞きたいのは何故朝比奈と共に岡田が謝るのか、ということだった。しかし二人は別の意味でとらえたらしい。朝比奈が顔を上げて言った。

「私が、大げさに皆に言いふらしたせいで、滝沢さんの居場所を奪うような形になってしまったので、その……」

 言葉に詰まらせつつも、言い訳する。岡田が顔を上げた。補足するように続けて言葉を紡ぐ。普段のホンワカした雰囲気は幾分か抑えられ、頼りがいのある男と化していた。

「朝比奈は、滝沢さんの事を思って行動したのだと言います。そしてそれは僕から見ても確かに、と頷けるところもありました。しかし朝比奈は皆に言いふらしてしまうという間違いを犯してしまった。それは許されがたいことです」

 そこで一旦切る。彼は一度朝比奈を見ると軽く背中を押した。きっと大事なことは彼女自身に言わせたいのだろう。それは彼女もちゃんとわかっているようで、振り返ろうとせずに、まっすぐ私の目を見詰めた。ゆっくりと口を開く。

「滝沢さんの気持ちを考えずに、言いふらしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」

 今度こそしっかりと、誠心誠意私に謝罪する。その姿を見て、心が揺さぶられた。元々そこまで問いただす予定などなかったが、そんな時間を設けなくてよかった。

 人は、変わるものだな。私は嬉しくなりつつ、そっけない態度で返す。ここは、心を鬼にした大人でいなければ、と思った。

「別に、気にしてないよ」

 そう言うと、二人はホッと安心したように息を吐いた。様子を見る限り、私の冷たさは通じていないように見えて、虚しさが全身に広がった。頬が軽く火照ったのがわかった。朝比奈が心底安心したように、バッチリとメイクしたその顔に、無邪気な笑みを浮かべて言葉を紡ぐ。

「よかった。……一週間前の出来事以来、私が間違っていたんだって思ってから、本当に気が気じゃなかったんです」

 一週間前、と舌の上で転がす。一週間前と言えば、起きたことは一つしかない。あの日朝比奈はいただろか。私の疑問に気付いてか否か、彼女はニコニコしながら語る。

「私はその場にいませんでしたけど、他の子が話してたんですよ~。神社の宮司さんが、滝沢さんはかなり霊感が強いんだって。だからきっと今までも幽霊が見えていたのだろうと思って、それでどうにかしようとしてくれてたって、初めて知ったんです」

 喜々として語る彼女の話は、思わず頭を抱えたくなった。まさか宮司さんがそんなことをみんなに話していたなんて思わなかった。しかし話した人が神社の宮司という立場の人間だからだろう。信憑性が高まって頭がおかしいと思われず、霊感が強いということを皆に知らしめることが出来た。よくよく考えたら宮司のおかげで、どうにか私自身の悩みは解決することが出来たし、今回は本当に感謝の念しか浮かばない。

 とにかく二人は私の霊感が今回凄く役立ったと信じ切っているらしい。それは、間違ってはいないかもしれないと自負するが、同時に罪悪感にも見舞われる。そんな私の心情に気付かない二人は、二人で会話を始めていた。それをきっかけに、私は事務所を後にする。


今日は湿気が多い日だ、と天気予報士が語っていたことを思い出した。短い上に、くすんだベージュで覆われた廊下を進む。いつも通り店に向かって、そこそこ活気づいているカウンターの前に並んで自分の番を待つ。

しばらくするとお客様に対するより、いくらか明るい笑顔になるアルバイトの子が私の注文を聞いてくれた。少々危ういところがあるが、期待の新人だった。ワンセットを頼む期には慣れず、百円のバーガーと、アイスコーヒーの小さいサイズのみを頼んだ。何気なく店内を見回す。

店内はそこそこ活気づいているが、理由から考えると複雑な気分になる。そして一番気がかりなのは、一週間も姿を見せない彼。前も姿を見せないことはあったが、原因がわからないというのは本当に怖い。まさか消えてしまったのではないか、という心配がずっと頭から離れない。

 段々と視界から色を失っていくように感じた。そこで商品の用意が出来たことを知らせる声かけが、私を現実に引き戻した。用意されたものを持ってまっすぐ事務所に向かって歩く。しかし扉を開ける瞬間にもう一度振り返って店内を見た。

 ぼんやりと宙を眺めている無気力な若者。友達と秘密を共有するように顔を近付け合っている女子高生。分厚い本を読みつつホットコーヒーを飲むスーツを着こなした男性。疲れた顔をしながらも、子供の面倒を見る母親と、元気に騒ぐ声量をコントロールできない子供たち。

 それらの人の中に混じっていそうなものだ。しかし私の目にユウレイさんらしき影は見つけることが出来なかった。

 仕方ない。踵を返して事務所に続く扉を力ない腕で無理やり開けて、中に滑り込んだ。トレーに乗せられたアイスコーヒーが揺れて、黒い雫が軽く飛び散る。服に飛んでないかだけ確認。……よし、大丈夫。白いシャツに着いたら落とすのが大変だからな。

 私はこれ以上アイスコーヒーを飛び散らせないように慎重に歩きつつ、事務所の扉を開けた。岡田と朝比奈はすでに事務所を出ていたようだ。狭くはないが、そこまで広くもない事務所には、あちこちに放置された荷物が物寂し気に目立つ。

 パソコンのすぐ横にある小さいサイドテーブルを片手で軽く綺麗にしてから、買ってきたものをゆっくりと乗せる。

「さて、と」

 ここからは心して仕事をしなければならない。もう一週間もまともに眠れていないのだから、ここら辺でどうにか休息を得なければ。本当に倒れてしまうかもしれない。

 足元に置いた茶色のトートバッグから、百均で購入した鏡を取り出した。その鏡に映るのは、目の下のクマがメイクで隠しきれていない、頬がこけてやつれた女性の顔。

「一週間前とは大違いだ」

 から笑いと共に出る言葉に、虚しさが募る。さすがにこの状態だとまた別の意味でみんなに心配されてしまう。

「気合い、入れ直すか」

 誰もいないことをいいことに、独り言が絶えない。しかし今はそんなことを気にする余裕すら自分には残っていなかった。

 そこから私はたっぷり二十分かけてメイクをし直していく。

 徐に取り出したメイク落としでゆっくり、丁寧に目元からメイクをふき取る。贅沢に三枚使い終えた頃には、すっかりメイクの落ちた、まだまだ二十代のそこそこ綺麗な肌が露わになる。

 一度タオルで拭う。人それぞれだとは思うが、私は一度そこで拭き取る癖がついていた。その後でベビーパウダーを軽く塗りたくる。その後に薄く、下地を塗って目元を、細心の注意を払いつつ仕上げていった。アイラインを引くのが一番苦手だが、今日は上手くいってホッと息を吐く。

 あとは赤色の付くリップクリームをはみ出さないように薄く、そして桃色のチークを頬に、くどくならないように塗った。

 きっかり二十分。安くとも重宝している鏡を覗き込む。そこにはさっきと打って変わって、まだまだ活発な二十代の顔がそこにあった。状態をみて、安心する。目の下のクマもしっかりと隠せていて、こけた頬もどうにかカバーできている。これなら数日間で生活を前に戻せれば、まだ大丈夫だと言えよう。

「わあ、メイク旨いね」

 ひゅうっと喉から出てはいけない空気の出る音。ゾワリ、と上半身に鳥肌が立つ心地がした。内側で起きたはずなのに、ムダ毛処理してまあ綺麗な腕の毛が立っているのが見えた。

 今聞こえた声は、本物か? それともただの空耳だろうか。その判断すら正常にできない自分に訳もなく苛立ちが募った。しかし確かに今、彼の声が……ユウレイさんの声が私の両耳の鼓膜を揺らした。そうであってほしいというのが半分だが。

「麻里」

 もう一度聞こえた。間違いない。彼の声だ。そう確信した瞬間バッと振り返る。狭いデスクの上に広げられたメイク道具がいくつか落ちて、プラスチックらしい音を立てる。そんなことすら気にならないほどに、目の前の人に目を奪われていた。

 怪我をしている頬や手。白くて、半透明で、少し癖のある茶色がかった黒髪。それなのに出会ったその日から変わらぬ優し気な瞳をした、幽霊。

 何か言いかけて口をパクパクと動かすも。言葉が出てこない。その様子を見て彼は苦笑した。笑い方がまだ元気のないように見えたが、彼は微笑んで私の頭を撫でるように腕を動かす。

「すっかり寝坊してさ、さっき起きたんだ」

 そう彼は言った。しかしそれは嘘だろう。初めて彼が私の目を見ず、視線を泳がせながら言い訳したのだ。きっと何かを隠している。けれど私は、それでもよかったんだ。ユウレイさんがまたここに戻ってきて、私に顔を見せてくれたこと。またその綺麗で、どこか無邪気な微笑を見せてくれたこと。その優しい声で私の名を呼んでくれたこと。それだけで、十分だったのだ。

 ハッと目の前にふよふよと浮いているユウレイさんの瞳が大きく開かれた。その瞳すら透けていて、私の顔が映っているのは見えない。ユウレイさんが狼狽えたように、後退る。が、すぐに冷静になったように体勢を整えると私の頬に触れた。

 もちろん本当に触れてはいない。それは私とユウレイさんの間に言いようのない溝があることを物語っていた。だというのに、彼の触れようとしているところからジワリ、ジワリと温まっていくのがわかる。涙が止まるどころか、さらにポロポロ頬を伝っていった。

 せっかく直したはずのメイクがほとんど無駄になってしまった頃。ようやく落ち着いた私は、ユウレイさんをキッと睨む。

「心配したんだから」

 すっかり鼻声になってしまったが、彼はそれについて言及せず、困ったように微笑んだ。

「ごめん」

 短く、それでも本当に申し訳なさそうに彼は謝った。その姿に言おうと思っていたいくつかの文句が、砂の城のように崩れ去ってしまう。

 全く、何故私がここまで彼のことを心配しなければならないのだろう。今更ながら不思議に思う。しかし彼を心配しないという選択肢はないに等しかったのも事実だが。

 彼はふと、暗い表情になる。いや、暗いのではない。心を閉ざした人間のように無表情だったのだ。その姿は、ずっと昔の大切な人が重なる。

「うっ」

 ズキン、と脈打つように激痛が、こめかみの辺りを走った。謎の痛みが鼓動に合わせて私の頭に響き、あっという間に視界を暗転させていく。

「麻里!」

 切羽詰まったようなユウレイさんの声が事務所に響く。しかしその響き方には違和感があった。私の耳の鼓膜を確かに震わせているはずなのに、頭に直接響くような感覚もするのだ。

 これが、生きているものとそうでないものの、絶対に埋められない溝なのだろうか。痛みでぼんやりとする頭の中は、そんな疑問で手一杯になってしまった。

 気が付くと視界はすっかり闇に落ちていた。


 カチッと、時計の針が動く音がした。視界は真っ暗で何も見えず、手も足も動かない。じっと上を見ているような感覚だ。視界が閉ざされている今、何となくでしかわからないが、おそらく私はどこかに、仰向けに寝かされているのだろう。

 先程の時計の音以外は何も聞こえない。ということは人のいないような場所。時計が置いてあって、けれど静か。

 一体どこだろう。と再びカチッという音が響く。今度はもっとはっきりと聞こえた。割と近くに置かれているようだった。

 もう一度手足を動かそうと力を入れてみた。するとどうだ。布が擦れる感触。手に触れるふんわりとしたもの。そして手の輪郭もわかってきた。感覚が、目覚めた直後よりもはっきりしている。身体も目が覚めてきたということだろうか。では瞼も動かせるか?

 そう考えて私は瞼にグッと力を込めた。と同時に動き始める瞼。次第に開かれる目に映った天井は、薄汚れたベージュの、よく知っている見飽きるほど見てきた天井がそこにあった。

「……まさかここ」

 実家なんじゃ、と口に出したつもりだったが、声にならなかった。

 ゆっくりと身体を起こしていく。電気は通常の白くて明るいものではなく、オレンジ色の寝る際に使うようなものが点いていた。自分のいる場所はわかった。それはいい。問題はもう一つ。何故私が今ここにいるのかわからない。

 私は着ている服を見下ろす。白いシャツに仕事専用のスーツのズボン。腕には、誕生日に奮発して購入した、上品な施しがされている茶色の腕時計。そして紺色のヘアゴム。

 完全に仕事着だった。普段なら絶対にこの状態で眠ったりしないはずなのに、何故私はこの状態で横になっていたのだろう。

 コンコン、と軽快に響くノックオンに漂っていた静寂が解けた。「……入るわね」と沈んだ声は、懐かしい声。ガチャっと扉が控えめに開かれる。私は入ってくる人をじっと見つめて、目が合ったとわかった瞬間に彼女を呼んだ。

「お母さん」

 停止したロボットのように動きを止める母。その手が支えているトレーが、小刻みに揺れる。瞳が見開かれ、足すら震えているように見えた。

「……麻里」

 取り乱すかと思ったが、次に放たれた言葉は酷く冷静なものだった。怒りか悲しみかもわからない程に抑えられた声。私の好まない声だ。しかし怒っているわけではないことはすぐに分かった。ゆっくりと慎重に部屋に踏み込まれた足は、真っすぐ私の座っているベッドへと向かってくる。

 サイドに設置されたテーブルの上に、彼女は持っていたトレーを置いた。そこからはスローモーションのように私の方へと腕が伸びる。

 気が付けば彼女の腕の中にいた。微かに震えている。反射的に彼女の背中をさする。しかし震えは止まらず、むしろ余計に酷くなっていった。

「よかった、よかった……」

 私をきつく抱きしめながら、ずっとそればかりを繰り返している。そういえば、母は昔からかなりの心配性だった。

 私が一人暮らしする、と言い出した時も反対していた。最終的に、ちょくちょく連絡することを条件に許してもらったのだが。その母がこんなにも取り乱すなんて珍しい。

「お母さん、どうしたの」

 少し落ち着いてきたところで、私に抱き着いたまま離れない母に声をかけた。一瞬ビクッと肩を震わせた彼女は、ゆっくりと私から離れる。母の瞳が、じっと私を射抜くように鋭さを帯びた。怖い、と思った。けれど次に放たれた言葉は、傷つくようなものではなかった。

「貴方、仕事先の事務所で倒れたのよ」

 瞳に鋭さだけでなく、心配の色が滲んでいることに、今更気が付いた。彼女は続けて言った。

「この一週間ほとんど連絡もないと思ったら、仕事先で無理してたなんて。どれほど心配したと思ってるの」

 言いながら、再び瞳に涙をためていく。慌てて母に言い訳した。

「最近人手不足で、上司も大変な状況だから……。ごめんなさい」

 言い訳をするのが苦しくなって、最後は消え入りそうな声で謝った。いくら言い訳したところで、倒れたという事実は変わらない。母は、ふうっとため息をついて一度目を伏せた。何か言いかけて、どうにか抑えているような表情だ。

 そういえば、ここは確実に実家の私の部屋だろう。とはいっても一人暮らししている家からさほど離れてはいない。緊急連絡先として実家を書いておいて正解だった。誰かが気付いて店長に連絡してくれたのだろう。あとでお礼を言わなければ。

「そういえば、連絡あったのっていつ」

 私が気になったことを口にする。母はゆっくりと目を開けると、少し首を捻った。思い出すように目を泳がせると、唸るように吐き出す。

「お昼過ぎだったとは思うけど……でも声はなんだか不思議だったわ」

 名前も名乗らずに急いでこっち来てくれって言っていた、と母は語る。名前も名乗らず母を呼び出すとは、どんな非常識人だろう。

 母曰く、かなり切羽詰まった様子だったから、慌てて駆けつけてみれば、事務所で倒れているところを二人の男女が発見したところだったらしい。そこでいったん病院に連れて行こうとしたが、店長が懇願してきたらしい。ここで救急車を呼んだりなんてしたら、この店がまた注目されてしまう。

 これ以上無駄な仕事を増やしたら、今後我々が持たない。と、言って全力で止めてきたらしい。あまりに疲れた顔をした店長だったので、仕方なしに実家まで運ぶのを手伝ってくれれば今回だけは見逃す、と母は了承したのだという。

 それって社会的にどうなんだ、と思うが、私としてもただの疲労だろうから、そうしてくれたことに感謝した。

 もし仕事に戻った時に、無駄な仕事が増えるのは嫌だ。そしてその際に店長や上司まで倒れる事態になったら。会社自体に影響しかねない。

「とにかくこっちに連れてきて、目が覚めたら病院に行こうと考えていたのよ」

 母は少し不満げに言った。ふむ、一度病院には行ったほうがいいかもしれない。私は頷いた。倒れたことでしばらくは休んでも、どうにかしてくれるだろう。

「とりあえず今日はゆっくり休むよ」

 そういって笑うと、彼女は少し困ったように眉をひそめた。が、何も言わずにそっと頭を撫でると、立ち上がる。

「そういえば結局誰が連絡してくれたの」

 私が聞くと、母は唸った。「それが、わからないのよね」

「何人かに聞いてみたけど、声は皆違うし誰もわからないっていうのよ」

 変よね、と付け足してから、母はトレーの上にあったものを丁寧に置いていくと、トレーだけを脇に抱えて、扉へと向かった。少しだけ電気を明るくすると扉を開く。

「それじゃあおやすみ、何かあったら呼びなさいね」

 そういって優しく微笑むと、彼女は部屋を出て行った。いつもは違和感に思う、母の若さが今日は全く気にならなかった。

 もしかしなくとも、母に連絡したのはユウレイさんだろう。誰が呼んだかもわからないというのに、駆けつけてくれたことは運がよかった。しかし問題はどうやって母の存在を知ったか、だ。少なくとも彼に実家のことも、母の心配性も、彼と出会ってからは言っていないはず。何故出会っても間もない彼が知っているのだろうか。

「……あれ」

 そう言えば、私の大切な人とユウレイさんがよく重なって見えた。様々な人と関わってきて、その彼らにも良く重なって見えたが、一番ユウレイさんがそっくりだったのだ。

 何か違和感がある、と思った。大事なことを忘れているような感覚がもどかしい。しかし何を忘れているのかわからない。しばらくベッドの上で腕を組みつつ、じっと一点だけを見つめて考えていた。が、一向に思い出せそうになかった。何か、何かきっかけがあれば。思い出せそうなのに。

 ふと、銀色のアルミ缶が脳裏を過ぎった。まだ新しい銀色のアルミ缶。そこまで大きくないものに詰め込んだ、宝物の数々。

 それを用意したとき、母が写真を撮ってはくれなかっただろうか。どこかの公園で誰かと一緒にピースサインをして。歯を見せて笑っていた。

 ふいに、胸元に圧のようなものを感じた。息苦しさに、胸元を抑える。痛みはない。けれど奥底では痛い、と感じてしまう。これは一体……?

 視界がぼやけて、暗い部屋がさらに暗く見える。暗闇に慣れるまで数秒。今は使っていないのに、綺麗に整頓された机が、視界の右に映り込む。

 窓際にあるせいか、日に焼けて黄色くなった使っていない教科書にノート。やたらシールの張られたプラスチックのキラキラしたペン立て。色あせて使い物にならなくなった世界地図。埃の被った電気。元々備え付けられた本棚と、自分で作った本棚にしまい込まれている、ごてごてと飾られた日記帳やプロフィール帳がやたら綺麗に見える。

 私のノート類が埃を被っていないことに、首を傾げた。母が掃除をしてくれたとしても一部だけというのはおかしい。

 私はゆっくりとベッドから離れる。音を立てないよう慎重に足を運びつつ、着実に机へと近づいていく。やはり目に着いた日記帳やらノートやらと、いくつかが埃を被っていなかった。

 何気なく日記帳を手に取った。シンプルだがそこそこ可愛らしい落ち着いた印象のノート。表紙には小学三年滝沢麻里と書かれていた。

 一ページ目を開く。最初に飛び込んできた文字は、まるで紐をぐちゃぐちゃと纏めたようなもの。とても読めたものではなかった。しかし何となく文字の形にはなっている。だからゆっくりと解読しながら読むことにした。

さすがに暗闇で読むのは目に悪いので、ほとんど触れてもいなかったであろう机の電気のスイッチを入れる。カチッという軽い音と共に、少々強すぎる光が闇に沈んでいた部屋を照らした。

じっくりと時間をかけて最初のページに書かれている、然程多くない文章を解読していく。同時に懐かしい思いに駆られていた。

最初の内容は、近所に住む幼馴染と遊んだ、というようなことが書かれていた。どうやら男の子らしい。本名は書かれていない。レっちゃんと呼んでいた。解読を進めるうちに気付いたが、どうやら軽く恋していたようだ。解読できた瞬間、顔が軽く火照った。

その男の子とは、親同士も仲が良く、近所に住んでいた。日記に書かれている内容を元に過去を思い出してみる。


 思い出したのは、まだ小学校に入ったばかりの頃。

レっちゃんという男の子。自分のまだまだ幼い女の子らしい声が頭に響く。少し前を歩いていたレっちゃんが、私を振り返った。その顔が何故だか思い出せない。少し背が高い彼だから、陰って見えなかったのだ。だけど彼が私を見て笑ったのはわかった。

 何していたんだっけ、と頭をひねる。彼は確か……細長い木の棒を持っていて、軽く振り回していたか。危ないからやめなさいって、お母さんたちが注意していた。私も一緒になって木の棒を振り回したら、勢い余って通行人のおばさんの足に当ててしまった。

 先は、想像通り。気難しい近所のおばさんに怒鳴られ、母に叱られて、まだ幼かった私は大泣き。レっちゃんも涙目になっていた。それでもしばらくしたらもう復活していて、私とレっちゃんは並んで公園内を歩き回っては冒険しているつもりで叫んだりした。

 幼稚園の時から変わらないレっちゃんとの関係。彼と共にいる時間の心地良さ。母たちの苦笑交じりの注意すら、楽しかったんだ。ずっと続くって、信じて疑わなかった。もちろんそこから三年間は関係が変わる出来事などなく、幼稚園の頃から相変わらず私たちは一緒に居た。

 それぞれで友達が出来ても一緒に居るもんだから、クラスメートたちに変な目で見られたりとかもしたが、そんなこと気にするほど小心者でもなかった。


 私は小学校三年生となった。レっちゃんとは学年が違ったが、一緒に帰宅することは、もはや暗黙の了解となっていた。淡い恋心が芽生えたのもこの時期。日記を少しだけ進むと詳細が書いてあった。

 たまたまレっちゃんが日直だった日。少し先生と話していたら遅くなって、一人で帰っていた。初めてではなかったから、何のことはなく、帰宅していた。しかし、家と学校の丁度真ん中あたりにある公園のすぐ近く。そこで二人組の男性がたむろしていた。

 もちろん私はその横をただ通り過ぎただけ。だが、彼らは酔っていた。だから私の行動が気にくわなかったのだろう。

「おいこらガキ」

 最初は気が付かなかった。まさか私が呼ばれているなんて、思いたくもなかった。しかし彼らは私の方へと来た。歩幅の差があっという間に距離を縮める。成人男性と小学生とじゃ、体格差があり過ぎる。気が付けば目の前には二人の男性が立ちはだかっていた。

 彼らから漂ってきたアルコールの臭いに、直観が叫ぶ。逃げろ、と。

「お前金持ってねーの」

 そう思っても身体は相反して動かない。膝が震え、足は棒のように力が入らず、話しかけられているというのに、声も出ない。

 ゆっくりと時間が過ぎていく。比例して彼らの表情もどんどん険しいものになっていくのが分かった。「も、持ってない、です」絞り出すように口にした言葉は、掠れて使い物にならない。

「ああ? 聞こえねーよ」

 一人が身体を折るように前屈みになって私の方へ顔を近づけた。アルコール臭がさらに濃くなって、思わず咳き込む。咳き込む音が頭に響いたのか、顔を近づけた男性はあからさまに顔をしかめた。「うるせーなあ」隣で見下ろすように立っていた男性が、私の方へ一歩近づく。

 途端に視界が揺れ、気が付くと無理矢理男性の方へと顔を向けられていた。目の前には男性の険しい表情と、曇った灰色の空。陰になって黒い背の高い木々。アルコール臭に纏わりつかれるような感覚に吐き気を覚えて、グッと奥歯を噛んで必死に耐える。

 私の様子に気付かない男性は、さらに私に言った。

「もっと声出せ、聞こえねーっつってんだ」

 男性が話すたびに纏わりつくアルコール臭が濃くなっていく。しかしこのままだと話してくれないだろう。競り上がってくる吐き気をどうにか抑えつつ、もう一度言った。

「お金、持ってません」

 今度は声が大きすぎたようだ。いきなり地面に投げ出されて、尻もちをつく。痛みに動けないでいると、男性がイライラしたように地団駄を踏んだ。投げやりな印象が広がっていく。

「ざけんな」

 気付くと、二人の男性は大きな壁となっていた。逃げ出そうにも腰が抜けたのか、またもや身体が言うことを聞いてくれない。じりじりと近づいてくる男性。その目は商店が微妙にあっていないが、怒りに震えていることだけはわかった。どうしようもない状況に、涙が一粒、頬を伝っていった。その時。

「麻里から離れろ」

 幼い声だというのにどすの利いた声が私の耳の鼓膜を震わせた。目の前の男性二人の興味が、一瞬でそちらへと移動する。私もつられてみた先には、日直で居残りしていたはずのレっちゃん。


「……あ」

 レっちゃんの顔が鮮やかに思い出される。少し癖のあるブラウンの髪。幼いながらに整った顔立ち。見透かすような程強いくせに、綺麗な光を宿した瞳。その姿がそっくりな人、最近出会った人にいた。

「ユウレイさん」

 まさか、と思った。けれどそれなら合点がいく。母の心配性を知っている。尚且つ仕事場から近いことも、一部だけ埃が被っていないのは、ここにきて霊力を使ったからではないだろうか。しかしわからないこともある。幼馴染……レっちゃんとは、一度離れ離れになっているのだ。


 淡い恋心を抱き始めたあの日の出来事から、約半年が経った。無意識に彼のことを考えてはぼんやりするようになって、女子の友達にからかわれたりしたが、なんだかんだ楽しくやっていた。しかし半年が過ぎた頃から、レっちゃんの様子がおかしくなっていく。ぼんやりと虚空を見つめることが増え、言葉数も少なくなっていった。

 とある日、用事があるから、と先に帰ったレっちゃん。チャンスと思って私は当時レっちゃんのクラスの担任だった先生の元に行った。そこでレっちゃんの様子がおかしいことについて問いただした。意外にもあっさり答えてくれた。

「彼は、転校することが決まったんです」

 最初は、理解できなかった。しかし理解するまでにそこまで時間を有さなかったことも事実だ。

「転校って、そんな」

 何も聞いてない、と呟く。その様子から、先生は悲しそうに要らぬ言葉を紡いだ。

「何も言わずにここを去りたかったのではないかな」

 目の前が真っ暗になった。私にも誰にも言わずに流れるように転校するんなんて、薄情もいいところだ。しかも後から考えればあの不自然な行動の数々は、まるで気付いてとでも言っているようではないか。


 そこからは正直あまり覚えていない。どうやって帰ったのかもわからない。気が付くと家のすぐ近くの公園の入り口でただ呆然と突っ立っていた。自分の立っている出入り口とは反対側に、場違いなほど明るいネオンが輝くファーストフード店が見える。

 そういえばそこで一緒にご飯食べたりしたな、なんて思った数秒後。熱すぎる滴が視界を覆うなり、滝のように流れ出ていった。

 苦しかった。ひたすら苦しくて、泣いても泣いても、感情は溢れ出てしまって、治まらない。頬を伝っていく涙がだんだんと熱を失っていく感覚が唯一私を慰める。

 ひとしきり泣いた後も、しゃっくりが止まらなくて仕方がなかった。もうどうしていいのか、誰か助けてほしかった。

「大丈夫か」

 ふいに響いた声。ハッと目を見開いた。何度も聞いた私の大好きな声。その声の主は一人しかいない。私は勢いよく振り返る。

「うわっと、危なないなあ、麻里」

 苦笑しながらぶつからないように軽く避けた人物。何度もこの目に焼き付けた、私の初恋の人間。ずっと一緒だった彼の変わらぬ姿に、一瞬止まった涙が、乾き始めていた視界を、再び水の膜で覆った。

「どうしたんだ」

 また私が泣きそうになったことに、ギョッと目を見張ったレっちゃん。慌てて私の頭から背中にかけて優しく撫でていく。その温もりに一度落ち着いたこともあってか、すぐに泣きやむことができた。涙が枯れたという方が正しいかもしれない。

 私が落ち着いてきたことに気付いても、レっちゃんはしばらくそのまま撫でていてくれた。顔は見せないように下を向いていたから、彼がどんな顔をしていたかはわからない。しかしかなり迷惑をかけたことだけはわかる。

 恥ずかしさに顔を上げられず、俯いたまま私は一歩後退った。

「ごめん、もう大丈夫だから」

 するとレっちゃんは一瞬だけ撫でる手を止めた。しかしもう一度、さらに優しく撫でると手を離した。何も言わずに離れたので、半ば反射的に顔を上げる。

「酷い顔してんな」

 苦笑しながらも、優しい瞳が私を捉えていた。身体がじんわり熱を帯びていく。彼の表情が、凄く綺麗だと思った。

「ねえ」

 同時に消えそうだ、とも思った。どこか危ういのだ。転校するということはもちろん、目の前からいなくなるということだから、消えるというのもあながち間違いではない。しかしそうではなくて、存在自体が危ういように、漠然と感じたのだ。咄嗟に声を掛けたのも、それが理由だった。だから、何を言うべきなのかわからず、そこから先が続かなかった。

 レっちゃんはしばらく私を見つめていたが、ふいに視線を別のところに向けた。「麻里」私の名前を呟くが、彼は視線を別のところから動かさない。

「あのファーストフード店、二人で行ってみない?」

 そこで私の方へ視線を移した。その瞳は悪戯っ子のそれだった。だが、寂しげな色が瞳に宿っていた。それを見て、即座に頷いた。多分これが最後なのだ。

 私たちは一度家に帰った。そしてテレビに夢中になっている母に気付かれないよう、足音を極力抑えて、貯めておいたお金を持って外に出る。

 家の前にはすでにレっちゃんの背中があった。ほとんど手ぶらだが、ポケットにお金が入っているのだろう。普段はしない、ポケットに手を突っ込む仕草をしていた。

「お待たせ」

 声を掛けると、彼は振り返って笑う。その顔もあと何回見れるだろう、と思ったら、また苦しくなった。それがバレないように私は二カッと歯を見せて笑う。彼の全部をこの目に焼き付けておこうと思ったんだ。

 そして私たちはファーストフード店へと足を踏み込んだ。


 ずっと前に家族ぐるみでファーストフード店に来たとき以来、ここに来るのは初めてだった。平日とは言え、夕ご飯前だからだろう。人の出入りが多く、体の小さい私たちはすぐぶつかりそうになってしまう。

 私たちは少し雰囲気に飲まれつつも、カウンターに並んだ。子供だけで並んでいても、最近は珍しくなく、なにも言われない。それでもいつ追い出されるかわからなかったから、ただ無言で自分たちの番が来るのを待つしかできなかった。

 ようやく自分たちの番が来て、有り金全部使って二人で同じセットを購入した。子供用のセット以外を購入したのも初めてだった。

 何となく後ろめたさを感じたが、それでもなおドキドキの方が勝っていた私たちは、商品を受け取った後すぐに席に着いた。

 どちらも何も言わない。二人で購入したセットに集中していた。それは食べ終わるまで変わらなかった。気がつけば目の前にあったセットは跡形もなく姿を消していた。逆にお腹のあたりにはちょうど良い満腹感が漂っている。

 私は飲み物をゆっくりと飲みつつレっちゃんを見た。彼は少し目をつむっていたが、かなり満足げであった。ふと私の視線に気づいてこっちを見るなり、微笑んだ。

「うまかったな」

 その笑顔はとにかく吹っ切れたような素直な表情だった。つられて私もにっこり笑う。とても美味しかった。本当に。


 結局帰りが遅くなり、帰った時にはこっぴどく叱られた。さらにファーストフード店で夕飯を済ませて来てしまったことに対しては、とにかく怒られた。しかし私がレっちゃんの事情を知ったことについては、悲しそうに、困ったように眉をひそめることしかせず、母は何も言わなくなった。

 きっと母は知っていたのだろうと、ここで初めて気がついた自分が、恥ずかしかった。何故誰も教えてくれなかったのか。悔しくて悔しくて、その日は一人部屋で泣いていた。


 数日が経ち、休日となる。そしてちゃんと事情を説明に来たレっちゃんのお母さんが一つ提案をしてくれた。

「この連休を使って最後に家族ぐるみで遊びに行きましょう」

 この提案にはもちろん、二回返事でオッケーした。父親二人は流石に仕事を休むわけにはいかないので、母二人子二人で行くことが決定した。

 翌日、車を運転できるレっちゃんのお母さんが迎えに来て、午前十時頃に、母と私は家を後にした。

 向かった場所は名前もわからない、広々とした公園。奥に庭園があって、時期も時期だったので、様々な種類の花が咲き乱れていた。私とレっちゃんは、幼稚園に戻ったときのように遊んだ。木の棒を武器にして、まるで異世界を冒険するように走り回った。

 そうして最後に私たちはタイムカプセルを埋める。

「せっかくだから庭園の近くに埋めようか」

 私の母が言った。母は花が好きだから、その意見は採用した。もし場所を忘れても母が覚えていてくれるだろう。私たちはそれぞれ持ち寄った手紙と宝物をアルミ缶の中に収めて言った。その時レっちゃんがポツリ、と一言口にする。

「これ、いつあけられるかな」

 その言葉に一瞬悩んだが、私はにっこりと笑って答えた。

「わかんないけど、一緒にあけられたらいいな」

同時にアルミ缶の蓋をする。カコン、としっかりハマる音が響く。それをビニール袋にしまい込むと、しっかり空気を抜いて持ち手の部分を結んだ。これで完成だ。それをレっちゃんのお母さんに預ける。ニコニコしながら受け取ったレっちゃんのお母さんは言った。

「じゃあこれを庭園の入り口付近に埋めちゃうね」

 私と彼はしっかりと頷いた。それに対して軽く頷き返した彼女は、先に掘り起こしておいた地面に袋詰めしたアルミ缶を沈めてく。

「ねえ」

タイムカプセルが埋められるのを、しゃがみ込んで待っていると、隣にしゃがみ込んでいるレっちゃんがふと、私を呼んだ。返事の代わりの彼の顔を見つめる、が、彼はこちらを見てはいなかった。そしてまるで独り言のようにつぶやく。

「――――」

確かに何かを口にしていた。それを見て私は頬を火照らせながらも、しっかりと頷いた。その時彼と小指を絡ませて、何かを。

「埋め終わったよ〜」

声をかけられてハッと顔をあげる。気がつくともう何処に埋めたのかわからなくなっていた。が、よくよく目を凝らして見ると土がわずかに盛り上がっているところがあった。

 最後に二人で地図を二枚作った。わかりやすく書いたせいで、まるで宝の地図のようだった。厳密に言えば間違ってはいない。

 そしてそれが、彼と話した最後の日となる。そんなことを考えもせずにその日は結局疲れて眠ってしまうまで、二人で公園を走り回ったのだ。優しく燃える太陽がゆっくりと落ちて行くその瞬間を二人で眺めた。太陽の光が悲しく見えたのは、この時が初めてだった。


「そうか、タイムカプセル」

 あの公園はいったい何処だったろう。そしてレっちゃんは、おそらく夕凪麗だ。つまりユウレイさん。だとしたら……。

「もう一緒には、タイムカプセルを開けられない」

 そういうことになるのか。いや、早まるな。レっちゃんと夕凪麗……ユウレイさんが同一人物とは限らない。似ているというだけで決めつけてはいけないだろう。しかしそうすると何故私の家庭事情を知っているのか。

「ちょっと麻里、まだ起きてたの」

 突然開かれた扉に、心臓が嫌な音を立てて飛び跳ねた。気付けば母が私の部屋の扉を開けて、佇んでいた。時計を確認すると、すでに午後十一時をとうに過ぎていた。倒れた後だというのに、こんなことをしていたら確かに怒られる。

 案の定母は部屋にズケズケと入って来るなり、私の耳を引っ張った。

「い、痛い」

 両耳を引っ張られて思わず目を瞑った。耳はそこまで耐久力ないということを母はよくわかっている。昔から何かあるたびにやられて、泣いたものだった。母は頰を膨らませながら、私に言った。

「ちゃんと寝ないと治るものも治らないでしょ」

 そう言って耳を引っ張って私をベッドの方へ連れていく。かなり痛いが、逆らうともっと痛くなるので何も言わない。触らぬ神に祟りなしとはまさにこのこと。ふと、私は質問する。

「お母さん、レっちゃんって覚えてる?」

 私の質問に母は一瞬首を傾げた。まだ黒くてしっかりしている長髪がサラリ、と肩から落ちる。

「覚えてるわよ、当たり前でしょう」

 私は誤魔化すように笑う。まさか、ユウレイさんの話など出せるわけがない。

「さっき何となくタイムカプセルのこと思い出してさ、どうしてるかなって」

 ある意味本当のことを口にする。親同士が仲が良かったのだ。今も連絡を取っていたとしても、何ら不思議なことはない。母は、少し考えるように顎に手を当てた。私の部屋に沈黙が流れ始める。部屋に設置されたままの置時計の針がゆっくりと時を刻む音が響いた。

 そして母はその少し乾いた唇を軽く舐めてから言った。

「麗くんは、亡くなっているわよ」

 母の言葉が理解するのに、時間を有した。亡くなっている、と言ったか? どうして。

「そんな」

 母は言いにくそうに重々しく口を開いた。母の口から語られた言葉を自分の中で反芻する。

 レっちゃん、基夕凪麗は数年前に亡くなっていた。その若さから一時的に新聞にも載ったらしい。交通事故だった。後から語られたことだが、彼がカウンセラーとして勤めていた学校で、教師へのいじめが絶えなかったそう。

 そんな状況にウンザリしていた教師たちが、新米スクールカウンセラーとして学校に来た夕凪麗を標的にして、いじめていたそうな。

 生徒からはそこそこ好評だったのだが、デマ情報が教師から生徒の親御さんに流れ、皆から批難の嵐をその身で受けていたという。そんな生活が続いた彼の体は、どんどん憔悴していった。

 とある日、彼は遅くまで本来やらなくてもよい仕事を押し付けられて、遅い時間に帰宅していたところ、何者かによって道路に突き飛ばされてしまう。

 彼は抵抗することがほとんどできないままに、大型トラックが迫る道路へと飛び出してそのままこの世を去ることとなった。事実が後から広まったとしても、所謂後の祭りという状態である。誰も彼もが夕凪麗の死の真相について語ることを躊躇するようになった。

 理由は簡単だ。何故彼が死ぬ前に助けなかったのか、という疑問について、何も答えることができないのだ。つまり彼は完全にタブーとして消されてしまった。社会の闇に葬られた、とも言えるだろうか。

 ということはつまり、彼……ユウレイさんは、やはり夕凪麗。レっちゃんということになるのか。

 ふと疑問がよぎる。何故私はここに至るまで夕凪麗の死を知らなかったのだろか。何故数年経った今、知らされたのだ。

「……一度は伝えたのよ」

 母はそう言って私の頬に触れた。その手は酷く優しくて、グッと胸が締め付けられるような感覚に陥る。

「でも貴方はショックで忘れていたの」

 数年前、夕凪麗が亡くなった知らせを聞いたときにも、倒れたのだという。その時は二日ほど経ってから目を覚ましたが、夕凪麗という人間に関する記憶を失くしていた。子供のころの記憶を思い出すこともないままに、私は社会へ飛び出してしまったがために、話すタイミングを失ってそのままとなった。

 ところが、突然店に現れたユウレイさんという存在によって、失くした記憶を取り戻すきっかけを作ったのだ。また倒れる結果となったが、すべてを思い出すきっかけとなったことは事実。母は意を決して起きた出来事を、知っている限り教えてくれた。

 そもそも夕凪家が引っ越すきっかけとなったのも、麗のクラスでいじめがあったことが原因だったのだという。それでも彼は折れずに、私との約束を果たすため転校した先で頑張っていたらしい。そしてその約束は果たされる直前だった。

「その約束って」

 母に問う。しかし母は残念そうに首を横に振った。「二人だけの秘密だって教えてもらえなかったのよ」と、苦笑しただけだった。


 人間の記憶力などなんてちっぽけな物なんだろう。自分の負担になるような記憶は自分の都合のいいように改変してしまうほど、小さなものなのだ。

 私の頭も例外ではない。都合のいいように思い出したくないことを忘れてしまった。厳密にいえば思い出せないだけで記憶はあるらしいけど、それでも思い出せないことには変わらないのだ。

 電気を消して、窓から入る街灯の光だけを頼りに、闇に沈んだ部屋の天井を見ていた。暑くもなく、寒くもないこの部屋には、夜独特の温もりが漂っていた。

 同時に私の中では焦りを感じていた。先程まで眠りこけていたせいで。どうにも目が冴えてしまっているのもある。チャンスと思って幼い頃の記憶を思い出そうとするのだが、それが一向に思い出せずにいた。正確にいえば、私の欲しい記憶がないのだ。

 ちゃんと記憶としては残っているのだろうが、その影すらも見つからない。次第に何を思い出したいのかもわからなくなっていた。

 けれど懐かしい思いだけは残っていた。顔が、見えない男の子と並んで歩いては笑い合って、転んで、泣いて、慰められて……。温かいものがジワリ、と胸に広がっていく。それ以降の彼の記憶がすっぽり抜けていることに、何故今まで気が付かなかったのだろうか。数少ない彼との記憶ですら、彼の顔がはっきり映っていないというのに、何故。

 考え出したら止まらなかった。どうにか思い出したくて、思考を巡らせては手ごたえのなさに気持ち悪くなる。大切なことを忘れている違和感は感じる癖に、肝心のそれが思い出される気配もない。


 結局、午前二時半を回った頃には身体を起こしていた。

 このままだと眠れない、と悟った。堂々巡りもいいところだ。仕方なしに部屋をそっと抜け出した。ホットミルクでも飲めば、少しは落ち着くだろう。

 歩くたびにキイっと鳴く床。その音で母が起きてこないか心配になる。しかししばらくその状態で待っていたが、母がこちらに来る様子はなかった。その時とある映像が脳裏に浮かびあがった。

 お泊りしていたのか、男の子……おそらくレっちゃんと、今みたいに夜中に部屋を抜け出して探検するということをしていたのだろう。あの時は静かにしていたはずなのに、何故か母にバレて大泣きしたんだっけ。思わずくすっと笑いが漏れた。

 私はそっと足を踏み出す。あの頃と同じように恐る恐る廊下を進んでいくと、あの頃の記憶が流れるように映像を次々と映し出していった。

 公園で、まるで異世界に迷い込んだ冒険者の振りをして敵を倒しながら進んでいく。彼はまっすぐな、しかし優しい主人公。一度敵を倒すたびに私を振り返っては回復魔法をかける。子供にしては随分大人びていた。そんなレっちゃんが自慢の兄だった。

「宝物……地図……」

 最後に埋めたタイムカプセル。あの場所を示す地図を描いた。私たち二人ともそれぞれ書いて、どこかにしまい込んだんだ。

「……約束の庭」

 公園の中にある美しい庭園。持ち寄った手紙と宝物を、まだ新しいアルミ缶の中にしまい込んで、その後に……。ぼんやりと浮かぶ、彼の綺麗な顔。ゆっくりと動く、小さな口。彼の言葉の後に絡む私たちの小指。

「約束」

 そうか。約束。幼い私たちが幼いながらにした約束。思い出した。

「……ユウレイさん」

 ようやく私の中で、ユウレイさんとレっちゃんが繋がった瞬間だった。


 八月に一歩一歩近付いていく。だんだんと上がる気温に、もう半そでにデニム素材のジーンズでは過ごせなくなってきていた。

 暑さゆえに噴き出す汗。あっという間に脱水症状を起こし、悲鳴を上げ始めた体に、すでにぬるくなってしまった水を吸収させる。ぬるいのにとても美味しく感じたのは、人生で何度あっただろうか。そんなことを考えつつ向かっているのは、勤め先のファーストフード店だった。

 一人暮らししているアパートからであればさほど距離のないところにあるのだが、先日倒れて以来、実家にいたために、久々の出勤でいつもの倍以上の距離を歩く羽目になってしまった。

 いくら歩いていける距離だとは言え、真夏にするようなことではないな。改めてそう感じた。実家からはもう二度と、歩かないだろう。なら今日も歩かずに交通機関を利用すればよかったじゃないか、と思う。しかしそうもいかなかった。

 あの後庭園があった公園までは、もちろん交通機関を利用する。しかし片道だけで二千円以上飛ぶ上に、あの公園は近年改装されて、庭園を含む一帯は有料区域となってしまったのだ。しかも入るのに大人は七百円と、少々割高なのである。しばらく仕事が出来ていなかったこともあり、大見栄切って家を出ている以上家族に頼ることも出来ない。

 だから私は今歩いている。一言で言ってしまえば時間を消費することでお金の消費を減らしたのだ。

 歩き始めてから約四十五分が経過した頃、ようやくファーストフード店のひんやりした空気に包まれることが出来た。店内に踏み込むなり、私を知っている常連のお客様が驚いてこちらを見る。

「滝沢さん、元気になったの?」

 その表情を見る限り、きっと心配してくれていたのだろう。おばさんがまるで我が子を心配するように私に近付く。優しい人だな、と思いつつ私はにっこりと笑った。

「はい、心配をおかけしてすみませんでした」

 私の元気な返事を聞いて、ようやく彼女は安心したように微笑むと、上げかけた腰を再び席に落ちつけた。ホッとしているようにも見えた。

「体には気を付けてね」

 彼女の優しさに緊張がほどけていくような気がしつつ、私は返事の代わりの感謝を述べてその場を去る。カウンター横にある従業員専用の扉を通り抜けようとしたとき、皆がカウンターの向こう側からじっとこちらの様子を窺っていることに気付いた。

 そ顔には複雑そうな表情が張り付いていたが、何気なしに彼らに一歩近づくと、反射的に彼らも私の方へ一歩近付いてきた。近づくにつれて彼らの表情が、実は心配からきているのだと気付く。と、そこに一人の男性か店内に入ってきた。

「……あ、滝沢さん」

 その男性が私の名前を呼んだ。黒髪、黒スーツのその男性。そこでハッと思い出す。彼は確か神主だったはずだ。

「羽矢岑さん、お久しぶりです」

 私がそう言って頭を下げると、彼も同じように、しかし私よりもかなり姿勢よくお辞儀してくれた。彼がその長い足であっという間に私の前に来る。と同時に店の自動ドアが開いて何人かお客様が入ってきた。

 そろそろ事務所にいかないと、と思ったところで彼はすっと手を差し出してきた。そこに握られていたのは1枚のメモ用紙。

「お時間はあまりないようなので、連絡先を渡しておきますね。……主に、ユウレイさんと呼ばれている男の霊の話をしたいので」

 ひゅうっと喉から声にならない空気が抜けていった。音が鳴りそうなくらい一気に血の気も引いて、視界が軽く揺れる。咄嗟に羽矢岑の表情を覗き込んだが、彼の瞳はまっすぐこちらを見据えていた。獲物を狙う鷹のごとき鋭い視線だ。

 言おうとした言葉が詰まって、何も言えなくなる。そんな私の様子に気付いたのか、ほんの少し緩めた表情で彼は言った。

「今日はすぐ帰りますが、明日明後日は、この店に滞在します。その時に真実をお聞かせください」

 それでは、と彼は軽くお辞儀して私から離れた。少し並んでいるカウンター前の客を一瞥すると、足早に店を後にする。私はただ彼が去っていく姿を、見ていることしか出来なかった。


 しばらくその場で突っ立っていた私だったが、事情の知らないお客様に酷く冷たい視線を送られたので、事務所に引っ込んだ。

 事務所も私が倒れる前とあまり変わっておらず、安心した。しかしちょっとだけ気になったことがある。ユウレイさんはどうしているか、という点だ。そして何故羽矢岑が知っているのかが引っ掛かって苦しい。

 私がいない間にユウレイさんに何があったのだろう。持ってきた荷物を指定の場所に置きながらも、それが頭から離れなかった。彼には聞きたいことがあるというのに。まだ約束も果たせていない。

 そんなことをぐるぐる考えてつつパソコンの電源を入れた。元々スリープモードだったらしい。すぐにパスワードの入力画面が表示される。慣れた手つきですぐ打ち込み、デスクトップを開くと、メールが溜まっていることに気が付いた。

 内容のほとんどは店長がどうにかしてくれた様子だった。その合間にある上司からの心配メールもそこそこちゃんとしたメールを返してくれていたようだ。有難い限りである。

 ふと、先程渡されたメモを見る。丁寧な字で羽矢岑の名前と電話番号、それからメールアドレスも書かれていた。

 パソコンでの事務作業の確認もそこそこに、私はスマートフォンを取り出してそれらを登録する。彼は確か明日また来る、と言っていた。だとしたら早めに家に帰って大体の事は終わらせるべきか。

 本当ならパソコンを確認した後、ユウレイさんと共に公園へ行く予定だった。しかし彼は居らず、代わりに神主もいる状況。とても庭園に行ける状態ではなかった。ユウレイさんの所在が分からない時点でどうしようもない。

 諦めて、ある程度パソコンを使ってからすぐに電源を落とすと、指定の場所に置いたカバンを取り上げる。とにかく明日、何か知っているだろう羽矢岑に質問することを考えておくことにした。


 翌日、私は再びファーストフード店へと来た。仕事はもちろん入っていない。仕事の再開できる日は、来月の頭だからだ。その間に病院に行くように、とも上司に言われてしまった。だから今日は完全なオフの日。しかしファーストフード店にいる理由は、昨日のとおりである。

 時刻は午前十時になる一歩手前。私がさっそく羽矢岑にメールをすると、そのすぐ後に彼が店に現れた。そしてこちらに来るなり丁寧に話し始める。

「すみません、遅くなってしまって……」

 私の向かい側位に腰を下ろすなり彼は謝る。が、謝りたいのはこっちも同じだ。

「私の方こそ本当にごめんなさい」

 言うと彼は苦笑する。「まるで反省会ですね」という言葉に、なるほど確かに、と納得した。

「さて、さっそくですが、本題に入りましょうか」

 さっきまでの柔らかい空気が、一瞬で堅く鋭いものに切り替わって、戸惑いを隠せなかった。羽矢岑の口がゆっくりと開かれる。

「このファーストフード店に、幽霊が住み着いていますよね?」

 彼はじっと私の反応を窺うように動かなくなった。そういう視線は好きじゃない。私は少し身をよじらせながら言った。

「……ええ」

 短くとも彼には伝わった様子だ。彼はふっと視線を落とす。

「何故それを、前回出会ったときに言ってくれなかったのですか」

 質問というより、咎めるような言い草だ。しかし神主の彼にとってはきっと、悔しいことだったのだろう。私はできるだけ丁寧に答える。

「私が、ユウレイさんと話せなくなるのが嫌だったのです」

 その言葉に顔を上げる羽矢岑。信じられない、と語っている瞳に、抵抗するよう前を向いた。

私は彼について語る。最初は本当にただ迷惑なだけの存在だった。しかし彼が悩みを抱える人間を心配し、どうにかしようと動く姿が、本当に格好良かったこと。そして、もしかすると、幼馴染かもしれないと疑っていたことを。

 もしも幼馴染だというのなら、彼がここに留まっている理由の一つとして、とある約束が思い出される。それ以外もあるかもしれないが、せめて私がどうにかできることは、どうにかしたかったのだ。

 私が真剣に語る間、羽矢岑は終始難しい表情で私を見ていたが、話が終わると内容をかみ砕くように顔を伏せた。

「それでも……それも含めて全部伝えてほしかった」

 まるで懇願するように羽矢岑はそう言った。何故過去形なのか。羽矢岑は顔を上げる。その瞳は真剣に私の瞳を見つめた。

「彼は、今眠っています。宮司の手で強制的に眠らせました」

 彼は地縛霊になりかけていたのです、と言う。羽矢岑の表情はどんどん険しいものになっていく。辛いのか苦しいのか、わからない程に。何故彼、ユウレイさんは眠っているのだろう。もう成仏させられたのだと思っていた。私の疑問に呼応するように、コーヒーの表面に波紋が生じた。

 羽矢岑はふっと視線を少し落とした。手元を見ているように見えるが、その瞳が移しているのは過去の出来事だろう。

 案の定彼はゆっくりと語りだす。それは、私が倒れた日の後の出来事だった。

 夕方か夜か忘れたが、丁度宮司と共に神社にいた。そこに店からの電話で、何か不都合が生じたのかと電話に出た。するとどうだろう。誰の声も聞こえないのに確かにそこに人がいる、不思議な感覚に囚われた。次に起きたことは、母が体験したことと同じ。

 その時電話越しの彼が幽霊だと気づいた羽矢岑は、すぐに宮司に相談したという。ただ事ではない事態に、店に来ることとなった。そこで見た光景は、私が倒れて店が混乱していた。ユウレイさんはそれをただ唖然としてみているだけ。見た目ですでに幽霊だとわかった羽矢岑は、すぐにでも成仏させようとするが、それを宮司は阻止した。宮司の歩みは彼へと向かう。

「君は最近噂の、幽霊か」

 周りには聞こえないように大きさを調節しながら、宮司は質問した。心ここにあらず状態だった彼は、頷いて答えたという。ユウレイさんとは意思疎通が取れると解釈した宮司が、さらに彼に質問を募る。ユウレイさんは、素直に何でも答えてくれたらしい。

 それこそ過去の事、店の事、私が倒れた件についてもちゃんと。そこで彼の成仏を先送りにし、神主と言っても新米レベルの羽矢岑の監視を受けるようになった。

 とはいっても監視だけでなく、彼の話し相手ともなることが条件だったが。渋々彼は引き受けて、毎日のようにファーストフード店に通った。ところが、私が休み始めて二日が経つ頃。

「麻里は、いつ戻ってくるかな」

 羽矢岑と他愛のない話ができる程度には心を開いてくれたユウレイさんだったが、突然そう言った彼の瞳に、羽矢岑は映っていなかった。直観的にまずい、と感じた羽矢岑は即座に宮司を呼ぶ。その間にも彼はどんどん負の感情を露わにしていった。

「なんでオレ、麻里に……約束……」

 ぶつぶつと独り言を口にし始める。まるで懺悔でもするかのようにその場に膝をついていた。幽霊だというのに涙のようなものが出ていることに驚いている暇など、なかった。

 ガタガタとテーブルや椅子が揺れ始める。地縛霊になってしまった美紗紀と似た現象だったが、こちらの方が些か弱かった。

「滝沢さんの話を聞く限りだと、彼はおそらく誰かを傷つけはしたくなかったのでしょう」

 つまり無意識に抑え込んでいた、ということになる。そして駆けつけた宮司の手によって彼は強制的に眠ることになった。

「彼が無意識だったとしても、自身の力を抑え込んでくれたおかげで、被害は最小限に収まりました」

 羽矢岑はそう言いつつ、私の方へ視線を移す。その瞳に広がるものは悲しく、至ってシンプルな色。大丈夫、私はもう、決めたんだ。

「彼の元に案内を、お願いできますか」


 時刻は間もなく午後三時。そろそろ学生のお客様が増える時間帯だ。だが私は今店にはいなかった。羽矢岑と共に、ユウレイさんを眠らせているという場所に向かっていたのだ。とは言っても、彼自身がここから離れられないらしく、ファーストフード店のすぐ裏だったのだが。

「宮司は今こちらに向かっているそうです」

 羽矢岑は言った。私は軽く頷いてから、軽く空を見上げた。太陽はギラギラと輝いて、遮るものがない店の裏にいる私たちを、ジワジワと内側から焼きに来ていた。

 最初はただ暑い、熱いだけだったのだが、次第に玉のような汗が滲んできて、気が付けば滝のような汗が上から下へと落ちていったのだ。服の中までびっしょりになりながらも、ただ空を眺めていた。雲の少なく太陽が輝いた夏らしい空。彼は、これを見る余裕なんて、あるのだろうか。

「お待たせいたしました」

 宮司が少し息を切らせつつこちらへやってきた。この暑さだというのに、彼の装捉は変わらぬ美しさだった。私が軽く会釈をすると、彼は微笑む。

「貴方が彼の未練の対象で本当に良かった」

 幸か不幸かはわかりませんが、と少しだけ眉を寄せておどけて見せる宮司に、少しだけ笑い返した。早速と言わんばかりに彼は眠らせている場所へ少し移動する。

 移動した先は、一本の然程高くない細い木だった。よくよく見ると幹の部分に白い縄がつけられていた。神社の御神木についているアレと同じものらしい。

 宮司がその縄を丁寧に解き解いていく。すると神聖そうな空気が一気に崩れ落ちた。実際はどうだかわからないが、空気が変わったことは確かだ。

「ん」

 ふっと半透明の身体が目の前に現れた。眠っているのか、瞼を伏せている。その姿はまるで棺桶に入れられた遺体のようだ。そう思った瞬間心臓が掴まれる思いがした。

 ユウレイさんの瞳が微かに揺れる。次第に開かれていくその様は、とても地縛霊になりかけているとは思えないほど美しかった。

「……麻里?」

 ようやく目が覚めてきたのか、私を見るとユウレイさんは首を傾げた。そして自分が何故ここにいるのかわからない様子で、周りを見回す。

 羽矢岑が一歩前に出た。彼を見た瞬間ユウレイさんがハッと目を見開く。羽矢岑の表情は何か言いたげで、しかし口は堅く結ばれていた。

 それを見たユウレイさんが軽く首を横に振る。そして私の方へと顔を向けた。その表情は羽矢岑に向けていたものと打って変わって、優しい慈愛に満ちたものだった。

「麻里、身体はもう大丈夫?」

 そう言ってこちらに近付いてくる彼。私は軽く微笑むように、しかし辛さから眉を顰めて彼に返事する。

「うん、もう大丈夫」

 すると彼はホッと息を吐く。それだけでユウレイさんがどれほど心配してくれたかを知ることが出来た。笑ったまま彼は私の頭に手を乗せる。もちろん本当に触れてはいないが、やはり温かく感じる。

「ごめん、オレまたちょっとやらかしちゃったみたいだ」

 謝るユウレイさん。なんだか最初に戻ったような気がして、苦笑が漏れる。しかし彼にとっては笑い事ではないのだろうな。苦しそうに彼は下を向いた。しばし沈黙が私たちの間を流れる。不思議と、その沈黙は辛いとも、苦しいとも思わなかった。

 私はこれをチャンスに口を開いた。

「ユウレイさん、聞きたいことがあるの」

 私の質問に彼が顔を上げる。彼の瞳が私を捉えた。

「貴方は……レっちゃん?」

 正直なところ、記憶は全部戻ったわけではない。寧ろほとんどぼやけていて、それこそ記憶と呼べるかどうかも分からないほど。それでも私には聞かなければならなかった。きっとこれは、彼の成仏に関わってくる。これが自意識過剰だとしても。

 ユウレイさんは私の質問に表情を消した。

「麻里、まさか……思い出した、の?」

 たどたどしく彼が言葉を紡ぐ。質問に質問で返されるとは思っていなかったが、反応を見て確信した。彼は確かに私の知る、レっちゃんだった。

「まだ全然思い出せてないよ。でも、約束は思い出した」

 約束、という言葉に、彼の肩が震える。途端に彼から黒い靄が溢れ出た。やはり彼の未練の一つは、私との約束だったか。

「ね、ユウレイさん」

 慌ててユウレイさんを抑えようとする宮司と羽矢岑。しかし彼は気にも留めずに私だけをその視界に収めていた。私はふっと微笑んだ。

「行こう、約束の庭へ」


 すでに時刻は午後六時になろうとしていた。場所は、私たちの思い出が詰まった公園だった。中央付近にある庭園は有料になっていたが、事情を話したところ、タイムカプセルを掘り返すくらいなら問題ないと許可も得られた。

 そして現在はスコップを片手に土を掘り返していた。あの時と違うのは、私が土をいじっていて、さらに宮司と羽矢岑がいること。ユウレイさんだけはただ見ているだけだったが、緊張している様子だった。

「もし書いたものがなかったらどうしよう」

 そんなことをもう何度も口にしては、落ち着かない様子で私たちの周りを飛んでいる。しかしそれすら霊力を使っているのだから、正直あまり無駄に動かないでほしい。

そう思っていると、隣で一緒に土を掘っていた羽矢岑が立ち上がった。そしてポケットからお札を取り出すとユウレイさんを手招きする。

「何」

 ユウレイさんが何の疑いもせずに来たと思ったら、羽矢岑によって近くの地面に抑えつけられた。「え、ちょ」慌てて逃げようとするも時すでに遅し。完全に寝転がる形になっていた。

「ユウレイさん、ちょっと落ち着いてください」

 羽矢岑が呆れたようにそう言いながら戻ってきた。私は苦笑して、少し動かす手に力を籠める。早く彼を開放するためにも、タイムカプセルを掘り起こさなければならない。

 もう辺りはオレンジ色に染まっていた。空を見上げる形になっているユウレイさんが大きく息を吸い込んで、吐く。

「もう身体はないのに、ここの澄んだ空気は分かるもんだな」

 その表情は懐かしさで一杯になっていた。先程まで出ていた黒い靄が、場違いなほど濃くなっていること以外は、何も変わっていないことが、なんだか悲しい。

「ねえ、麻里」

 ユウレイさんが私を呼ぶ。手元に落とした視線を再び彼に向けた。彼はこちらを見ずオレンジと青とが交わる空をじっと見つめていた。

「どうしたの」

 声を掛ける。しばらく何も言わずに一点を見詰めていたユウレイさんだったが、ふいに微笑んだ。その表情は、記憶に残っているレっちゃんそのものだった。

「楽しかった」

 久々に聞いたその言葉に、私も笑ってしまった。うん、確かに楽しかった。

「そうだね、レっちゃん」

 私とユウレイさんの笑い声が交わって、沈みかけた夕日が照らす庭園の中に溶けていく。時期は夏。暑くて熱くて、辛い。いつも思うが夏は嫌いだ。それでも。

「今年の夏は、好きかもな」

 私の素直な感想。呼応するようにそよ風が通り過ぎていった。風は私を一撫ですると、庭園の中へ入る。そして、沢山の花々を揺らした後は、追いかけるように夕日に向かって消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る