第4話
ユウレイさんに興味を持って、その後に嵐がやってきた。
「ユウレイさん」
誰もいなくなった店内の隅に設置されたテーブルで黄昏ているユウレイさん、基夕凪麗に声をかける。現在は日付が回って少し経った頃。スタッフは皆返したので気にする必要もない。
彼がゆっくりとこちらへ視線だけを動かす。その仕草が今までの彼と違うことを物語っているように感じた。
時間を遡ること、六時間前。午後六時。本日は月曜日で、隼平の家に言った日から早くも三日が経とうとしていた。
あれからちょくちょく近況報告してくれる隼平は見るたび脱皮していくように輝くようになっていった。小学生らしく友達もつれて遊びに来てくれる。
どうやら教えた家事を忘れないように毎日やりつつ、努力をしているらしい。元気に過ごせているのなら問題ない。
そういえば、ユウレイさん目線では、あの日から何か悩みを持った人、また興味を持てるような人間もいないらしい。隼平以来、誰のことも相談されていなかった。
久々に今夜シフトが入っていて、ユウレイさんと話す機会を得た。最近はなかなか周りを気にせずに話す機会がなかったのでちょうどいい。聞きたいこともあったのだ。
今日は月曜日と、週初めなのでほとんど混むこともなく、仕事もいつも通り十時半にはすべて済ませ、店を閉めるのは十一時ピッタリと、気持ちの良い終わり方ができた。
最後に軽く確認作業をさせると、私は皆に声をかける。
「じゃ、ちょっと早いけど今日は上がっていいよ」
すると、皆にっこりと笑ってさっさと店を後にする。やはり夜道は危ないからな。早めに帰宅してくれるのはありがたい。
「……さてと」
私は一度事務所に引っ込んだ。まず上司に送るメールの作成。それから新しいメニューの確認とそれの資材の確認。さらに作り方を描いたプリントを印刷して、皆が共有しているファイルに綴じていく。
新たに入った新人たちの顔写真も印刷してボードに張り付ける。 それから先月の残業代と、シフトの入りすぎだと忠告を受け、ようやくデスクワークは終わる。
自分でも期間限定のメニューを覚えておかなければならないので、その作り方の写真や概要の写真を撮った。
終わることには十一時半を回っていた。
デスクワークをやったらすぐ帰れるわけでもなく、私は再び店内に戻る。最後にすべての確認と明日の支度、それから床掃除でようやく私の仕事は終わりを迎えるのだ。
ついでに今日はそれともう一つ、仕事が残っていた。
事務所を後にし、店内に戻る。店内は半分電気を消しているので、客席の方などもう真っ暗と言えるほどに暗くなっていた。
それだけであれば私は気にせず今日のマネージャー業務を終わらせるために動いていただろう。しかしそこには散々逃げ回っていたユウレイさんが、チョコンと座っていた。
こちらを見ずに、彼は半分以上隠れた月の光に照らされながらぼんやりと外を眺めている。最初に出会った時と同じ状況だというのに、何故か淡く切なさを孕んだ背中に、胸がざわつく。
消えてしまうのでは、という焦燥感から、用意していた言葉そっちのけでユウレイさんに声をかけた。
「ユウレイさん」
私の声にユウレイさんがゆっくりとこちらを振り返った。暗くて、深い海の底のような色の瞳が、私を捉える。
その表情は淡く、溶けかけの雪のように物寂しいものがあった。緩く結ばれた口元がゆっくりと動く。
「なに」
わかっているくせに、という言葉は置いておく。今は聞きたいことを聞くための時間だ。
「聞きたいことがあるの」
その言葉に少しだけため息を吐くユウレイさん。諦めているように、また呆れているようにも見えた。
「何が聞きたいの」
私はそれをきっかけに質問を投げかけた。
「まず、この間姿を消したのは」
ユウレイさんはふっと目を細めた。わかっているくせに、とでも言いたげだ。
「それは麻里も知っての通り、霊力が尽きたからだよ」
「そっか。よかった」
「それだけかな?」
不思議そうに小首を傾げる彼。私は苦笑してから軽く謝った。
「ごめん、それだけ。心配だったから」
一瞬、どうしようもないほどに静寂に包まれた、と思えば途端に拍子抜けしたような表情をした彼。まあそうなるよね。なんか重い話されるかも、とか考えてしまうのも仕方がない雰囲気ではあった。
しかし本当に私が他に質問が無いことに気が付くと、彼はふっと噴出した。
「こんなにも身構えてたのに」
「だからごめんって」
「わかったわかった」
ふと、彼があまり笑っていないことに気づく。何気なく彼の顔に視線を移して、酷く後悔した。彼はまるで何かを必死に耐えるように、抑えつけるように、表情が歪んでいたのだ。
それも、とても苦しそうな表情だった。私と目が合った瞬間に、無理やり作った笑顔も見ているこっちが泣きたくなるほどに。
「えっと、なんかごめん。気にしないで麻里」
私を呼ぶ声。彼が私の名前を呼ぶ声にも違和感を感じた。いや、今までもずっと感じていたはずの何かだ。
だが、私は何も言えず、ただ彼を見つめる事しかできない。
「また今度ちゃんと話すよ。もう一時回ったしさ、危ないから帰ろう?」
彼がいつもの表情に戻った。不覚にもそのいつも通りなユウレイさんに救われてしまった自分が嫌になる。
それはつまり、逃げてしまったということだから。
このどうしようもないモヤモヤと、言葉にできない黒いような灰色のような、ドロッとした感情。それもどこか現実味がなくなってしまった。
「……今日は、そうする」
そう言って彼の傍から離れた。カウンターに戻るとき、一度だけ振り返った。彼はすでに身体を窓の方へ向けて、欠けた月の見え隠れする夜空を、物憂げに眺めている状態だった。
その横顔が、懐かしい幼い記憶を呼び起こしそうになって、慌てて目を逸らす。たった数秒の事だ。記憶のフラッシュバックというものか。心臓が嫌な音を立てては、全身に冷たい血液を送り届けていた。
それからサッサと仕事を終わらせて戸締りをし、ユウレイさんに一応声を掛けてから店を後にした。
しかし帰路についても、家に着いても、眠ろうと身体を横にするまでも、ユウレイさんのあの横顔が頭に刻み込まれていて、心臓から届く嫌な音は治まりそうになかった。
結局はあの時だけだった。
翌日、私は昼になっても雨の止まないどんよりとした天気の中を、店に向かって歩いていた。いつも通りな日。
「雨、止まないな。梅雨明けまだなんじゃない?」
私にしか聞こえない声で話す存在がいること以外は、いつも通りなはずだった。さすがに今朝は驚いて飛び跳ねたことを思い返す。
今朝目を覚ましたとき、一瞬だけ昨日の事を忘れていたが、しばらくしてゆっくりとユウレイさんとのやり取りを思い出した。
今日はさすがに彼と話すことはないかな、と思っていたところ。着替えを済ませて朝食を準備していた頃くらいか。
「麻里、おはよ」
いるはずのない人物からの声が、私の柔い鼓膜を震わせ、反射的に私の口から声にならない悲鳴が飛び出した。
その声にユウレイさんはしばらく腹を抱えて笑うだけで、話が進まない。昼食中にはどうにか抑えて言った来たのが「迎えに来たんだ」と。
時間帯的には霊力が尽きないだろうから、と続けていた。確かにそれも心配だったが、その前に何故私の家を知っているか、なのだ。
「気付かれないように憑りついたりしていたから」
な、なんだと……と思わず頭を抱えてしまったのは普通の反応でしょう。
何故迎えに来たのかというと、理由はもちろん昨日の会話の事。あれを原因に話してくれなくなったら、辛いと彼は言った。
「いつかちゃんと話すから、それまではいつも通り話してよ」
我儘と言えばそうかもしれない。けれど私は今ユウレイさんに興味がある。断る理由などなかった。
そして、現在に至るわけである。私はいつも通り支度をし、いつもより少し早めに家を出て、店へと向かった。
途中で一度店に戻った方がいいのではないか、と提案したのだが、彼は私の家から動こうとしなかった。なので霊力の問題で早く家を出たのだ。
当の本人はというと、私の傘の下で少し屈みながら、さも楽しそうに道行く人を眺めたり雨を降らせる雲を仰ぎ見たりしていた。その姿は普段のユウレイさんと違って可愛らしい。もちろん私より体は大きいが、まるで子供のようだ。
店まではそこまで遠くないので、あっという間に着いた。店に入るときユウレイさんは少し残念そうにしていた。だが少し険しくなっていた表情はホッとしたものになっていて、それだけは安心できた。
そこから私とユウレイさんは別々の行動を取る。私はいつも通り事務所のパソコンをとかって印刷をいくつか行い、メイクを少し直してから店へ戻る。
ユウレイさんはというと、私が事務所に引っ込んだ時点で店に入り浸り、彼の見える限りで悩みを抱えた人を探していた。
私が店に戻る前と戻ってきた後とでは、彼の座っていた場所が違っていた。最初は空いていた端の席も、丁度昼時であるために埋まっている。
空いている席と言ったらもうカウンター席しか残っていない。不満に思うお客様に私は内心悩んでいた。
店長に言って新たにテーブルとイスを増やした方がおそらく店としてはいいだろう。しかし場所がない。結局意味はなくなるわけだ。
その事について考えることをやめ、私はサッサと自身の身を整えるとカウンターに立った。
「いらっしゃいませ」
営業スマイルと、はきはきとした元気な声で私は、今日もお客様を迎えるように立ったのである。
しかし突然それらはやってきた。私の働くこのファーストフード店に。嵐のような者たちが訪れたのだ。
時は進んで七月中旬。朝の十時半を過ぎて、朝限定のメニューから通常のメニューへと変わる。先日に新しいメニューも始まり、若者の客層も増えた、夏休み前の平日。
「あのお客さん新メニュー頼むってさ」
ユウレイさんが飛んでくるなり、入り口付近のメニューボードを見ているお客様を指差した。人数が多いな。そろそろストックを上げておくか。
「ありがとう」
小声でユウレイさんにお礼を言うとキッチンに入る。
二日前にキッチンの冷房を取り換えたばかり。すっかり皆の顔に元気が戻ってきていて正直安心した。ユウレイさんも難なくキッチンに出入りできるようになったので、結構効果はあるらしい。
「ストック上げておいてね」
中でひたすら肉を焼き、ポテトやナゲットを上げているアルバイトに声を掛ける。かなり騒がしい状態だったが、何とか聞き取ってくれたらしい。所々から疲れの混じった返事が聴こえてきた。
再びカウンターの方へ戻ると、ユウレイさんがニコニコしながら、体育座りして待っていた。
「キッチンも居心地よくなったね」
ユウレイさんの言葉に私は頷く。
「本当に。夏休みに入る前に取り換えられてよかった」
その言葉にユウレイさんが心底嬉しそうに微笑んだ。
実は冷房を取り換えるのに、本当は半年かかるところだった。ところが店長が、この店舗から流れた噂の影響を軽減するために上司に掛け合ったところ、どうにかしてくれたのだという。
上としても噂が原因で人手不足になったことに頭を抱えていたらしい。そこに店長からの提案だった。藁にも縋る重いとはまさにこのことだろうか。
「とにかくこれで少しでも人手不足解消されることを願うわ」
ため息交じりにそう言うと、ユウレイさんは「そうだね」と遠い目をした。まあ正直難しいとは思う。
「そういえば」
ユウレイさんが突然立ち上がる。元々私よりは背が高い男性だった。あっという間に見上げる形になってしまう。
「この時期どうしても幽霊が活発に動き始めるから、気を付けて」
険しい顔をして忠告する。しかし今はまだ昼だ。夜になってからならわかるが、この時間から活発に動く幽霊が多発するなど、聞いたことない。
「活発にって言っても夜でしょう?」
私の反論に、彼はフルフルと横に首を振った。「この時間でも動く奴は動くから」と呟くように小声で付け足す。
表情が暗く、視線を下に向ける。床よりもずっと奥底を睨むような瞳。背筋に悪寒が走った。いつもの穏やかな空気をまとった姿に、嫌でも恐怖が湧き上がってくる。
ユウレイさんは一度ぎゅうっと目を瞑った。耐えるような姿。何があったというのだろうか。悲壮感を漂わせる理由を知りたいと、一瞬だけ考えてやめた。
「とにかく、麻里は幽霊が見えるんだから、気を付けて」
もう一度そう言うと彼は客席の方へと飛んで行ってしまった。「なんなの」という独り言が漏れたが、その声店内の喧騒に呑まれてしまった。
時刻はさらに進んで午後三時を回る。私の今日のシフトは現時刻の三時までなのだが、この時間に来るはずだった学生の子が、学校の関係で遅れると連絡してきた。つまり私は残業中である。
仕方ないのでカウンターの仕事に専念する。段々と客足も落ち着いてきたのでカウンターを閉めようと動いた時。
「あ、滝沢さん。フロア掃除してきてもらってもいいですか?」
まだマネージャーになったばかりのアルバイトが指示。おい、私のシフト分かって言ってるのか。……など無粋なことは言うまいが、軽く注意しておく。
「本来はマネージャーがやるんじゃなくて、他のカウンターの子に振る仕事だからね?」
その言葉に、曖昧な笑みを浮かべた彼女。うん、これはわかってないかな。私は諦めてフロアへと出た。
いくら昼時とはいってもやはり平日だ。客席は殆ど埋まっておらず、そこまで汚くもなっていなかった。ラッキーと思いつつ持ってきた専用の布巾で、テーブルとイスを交互に、また丁寧且つ迅速に拭っていく。これは新人でもできる仕事なだけあって、すぐに終わってしまった。
「なんで麻里がフロア出てるの」
次は掃きモップ、と気合を入れ直しているところに、ユウレイさんが飛んできて不思議そうにこちらを見つめた。辺りを見回すが、幸い近くには寝ている黒いスーツを着た男性のみ。軽く声を出しても問題ないだろう。
「新しくマネージャーになった子が、仕事振るの下手でね」
視線をカウンターの向こう側に移す。そこでは一生懸命皆に仕事を振っている新人マネージャーがいる。
「頑張ってるのはわかるの、だけど」
そこで言葉を切る。ユウレイさんがその続きを口にした。
「センスがない」
まさにその通りだった。彼女はよく努力していると思う。途中でマネージャーになることをやめてしまう人が続出する中で、唯一折れずに頑張ってくれた。だからあまり悪く言いたくはない。のだが、やはりセンスがないというのはこちらにとっても、本人にしても損になってしまうのだ。
「どうにかしたいけど……」
床を掃く手を少し緩めながら考えるが難しい。ユウレイさんもうーんと首を傾げているようだが、いい案が浮かばないらしい。眉間に皺が寄っていた。
「とりあえずしばらく様子見してから仕事を振る形になるかな」
もっともらしく言ったが、かなり普通の事。今はそれしかないな。と私も同意するように軽く頷いた。
「麻里も最初はあんな感じだったの?」
ユウレイさんが彼女の動きを眺めつつ聞いてきた。最初、と言うと学生時代になってしまうので、記憶を呼び起こすのに少し時間がかかる。
「……うん、多分あんな感じだったかな」
私の場合はちょっと特殊だけど、と濁すように返す。当たり前なことだが、マネージャーになった当初など、アルバイトを始めた時期すら曖昧なのに、覚えているはずもない。
ユウレイさんはちょっとだけ残念そうに微笑んだ。
「麻里がそこまで仕事できるようになったきっかけとか、聞けたらよかったんだけどな」
それを聞いて、確かに思い出せたらアドバイスもしやすいな、と思った。同時に覚えていない自分を恨んだ。
「まあ追々アドバイスできるように見とくよ」
そう言って私の頭に手を乗せる仕草をした。もちろん彼には肉体がないから、何も感じるはずないのだが、何故かじんわりと温もりを感じた気がした。
「……ありがとう」
そう言って彼の方を向いたその時。
「本当にここに幽霊なんて要るの?」
呆れ混じりに話す女性の声が私の耳を通り抜けていった。痛いとすら感じるほどに大きな声で、反射的にそちらを向いてしまう。
「噂してるのを聞いたし、多分」
女性よりは些か小さい声で話す男性。癖の強い黒髪に野暮ったい眼鏡。更にギンガムチェックのシャツにジーンズという出で立ち。
その隣を歩く、先程の女性は、さらっさらのストレートロングに、ナチュラルメイク。薄手の黄色いワンピースを着ていて、上品なイメージだった。
しかしその顔は半ば呆れているのか、かなり崩れていた。せっかく綺麗に着飾っているのに勿体ない。
勿体ないと言えばその隣の男性もそうだ。野暮ったい眼鏡なんかかけているから、せっかく良いスタイルだというのに台無しになっている。
「せめて幽霊が見える人いれば……ん?」
言いつつ、私の方を見た。本当に一瞬の事だ。私と目が合った男性の表情がゆっくりと変わっていく。
信じられないものを見るような目の開き方。希望を見出した人のそれだ。そしてそれは何故か私の方を見ている。
「どうしたの? 明(あきら)」
突然動きを止めた男性。男性の様子がおかしいことに気付いた女性が、男性の見ている先へ視線を移した。
訳が分からぬままに目を合わせてきた女性も、先ほどの男性同様に目を見開いた。
「まさか……」
次の瞬間、人間業とは思えないほどの速さで、私の前に彼らが飛んできた。勢いのせいか金縛りのように身体が動かなくなった。
残念な野暮ったい眼鏡の男性と、不釣り合いなほど淡い印象だというのに、口調が少しきつい女性が視界の半分を支配した。
その瞳は、希望というか、藁にも縋るような微かな光が揺らいでいる。こんな目をしていた人と最近関わったことを思い出しつつ、営業スマイルを浮かべた。
「どうかなさいましたか」
テンプレ通りにそういうと、彼らの瞳はさらに大きく開かれた。この反応……どこかで覚えがある気がするが、どこでこんな反応を見たのだったか。
野暮ったい眼鏡をかけた、残念な印象の男が口を開いた。飛び出した声は私でもわかるほどに震えている。
「あ、貴方には、僕たちが見えているのですね?」
当たり前でしょう、という言葉は呑み込み、笑顔で返す。
「ええ、見えていますけど」
無意識に声が尖ってしまった。しかし彼らは気にしていないというか、気づいていない様子で、二人で数秒目を合わせる。次第に二人の口角が上がっていく。
「僕たちが見える人いたよ、美紗紀(みさき)」
野暮ったい眼鏡の、先ほど女性に明と呼ばれた男性が、嬉しそうに彼女に抱き着く。それに応えるように背中に腕を回す美紗紀という女性。彼女もまた、嬉しそうに目を細めていた。
その様子だけであれば、凄く大人しそうで綺麗な女性だというのに、口を開くと、どうしても見た目とはちぐはぐな印象になってしまった。
「明普段頼りなさげだから……疑ってごめんね」
美紗紀の言い方を勝手に噛み砕いてしまうが、野暮ったい眼鏡……明はオドオドとしたタイプなのだろうか。どうだか知らないが、明は何も言わずに、泣きそうになりながら美紗紀から身体を離す。
その瞳には、彼女しか映っていない様子だ。慈愛に満ちた温かい笑みで彼女に微笑む。しかし何故かその笑みが悲しそうに見えてしまった。
「本当に良かった。ええと、貴方のお名前をお聞きしても?」
そろそろ離れようか、と考えていたところで、明がこちらへ身体を向けた。先ほどと違って堂々とした態度に、印象がガラリと変わる。
やり取りを見ている中で緩みかけていた、店舗スタッフとしての意識をし直す。しっかりと営業スマイルを浮かべると名乗った。
「はい、滝沢と申します」
そう言って少し会釈をした。ただ、私はそこまでこういった経験はないので、ぎこちなくなってしまったが。
彼は野暮ったい眼鏡をしている癖に、やたら大人びた笑みを浮かべて、私に要件を述べ始めた。しかしその内容は一回聞いただけでは理解できなかった。
「すみません、もう一度お聞きしても?」
思わず聞き返す。一瞬ムっとした表情になった彼は、先ほどよりも少し砕けた言葉遣いでもう一度説明した。
「僕たちを成仏してほしいんです」
「……少々お待ちください」
いや、本当に理解ができない。私はいったんその場を離れることにする。
今日は日差しを遮る雲が少ない。おかげで太陽光が無抵抗な地球に向かって放つ光がまぶしい。その光が丁度店内に、ガラス越しとはいえ、直接差し込んできた。夏を感じさせる日差しの強さだった。
少し離れた位置で、お客様に商品をお出しする際に使うトレーをひたすら拭いては綺麗にしている朝比奈に声をかけた。
「朝比奈、ちょっといいかな」
私が声をかけると、彼女が「はーい」と振り返った。その彼女の顔が一瞬険しいものになった。
しかし質問する理由もないので、先に私の用を済ませる。と言っても頭のおかしい質問になってしまうのだが。
私は朝比奈から見えるように位置を移動してから、二人の方へ視線をやりつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「朝比奈は、あそこにいる二人の、男女のカップルが見える? 男性の方は目立つ野暮ったい眼鏡をしてるんだけど」
口にしていくうちに、だんだんと朝比奈の表情が険しさを増していく。何となく言い切るのが怖くなって、途中で止めると、彼女がじっとりとした疑うような、気味悪がるような視線を向けてきた。控えに言っても、あまり嬉しくはない視線だ。
「滝沢さん」
一言私の名を呼ぶ。「何」とどうにか絞り出すように声に出したが、正直言葉を放つことすら躊躇われるような威圧を感じた。
そして勢いよく飛んでくる彼女の手が、私の両肩を掴んだ。綺麗に整えられた朝比奈の爪が私の肩に食い込んで、痛みが生じる。
「ちょ、朝比奈?」
距離を取ろうともがくが、思っていた以上に朝比奈の力が強い。しかも両肩を掴まれているために、そう簡単に振りほどけなかった。
朝比奈は間を開けてから、初めて聞くような低い声で言った。
「滝沢さんにはあそこに二人、人がいるように見えているのですか?」
言葉に詰まる。言ってもいいものか。いや、信じてもらえないとしても、やはり言うべきかもしれない。しかし幽霊なんていう不確かな存在が認識できるなど、普通ではない。
結局考えた末に、黙り込んだ。どっちとも言わない方が、最善だろう。それを朝比奈は肯定と取ったようだが。
「いいですか滝沢さん。あそこには誰もいません」
そう言って顔を近づけてきた。瞳には心配と呆れが混じっている。この時点で、彼女に声を掛けたことを後悔した。
「最近滝沢さん最近おかしいですよ。何かあったんですか?」
彼女はおそらく本当に心配しているのだろう。それは嬉しいことだし、何かあったと言えばそうだ。ユウレイさんに出会って、様々な人たちと関わることが増えた。
しかしそれは幽霊という存在が見えなければ、言ったところで意味がない。信じてもらえなければ、精神科行きとなるだろう。
なら私が答えることも出来ない。曖昧に朝比奈に返した。
「……うん、まあ色々あってね。次の休みにでも病院に行くよ」
その場しのぎの嘘はあまり得意ではない。が、朝比奈はとりあえず信じてくれたようだった。
ホッと息を吐いて、私の両肩から手を放した。それでも顔はまだ険しさが残っている。
「そうしてください。心配で仕事に集中できませんから」
言うなり、再びトレーを拭き始めた。この話は終わりだ、と言わんばかりの態度をきっかけに私は朝比奈から離れた。
どうやら本物の幽霊たちカップルだと信じるしかないようだ。正直あまり関わりたくないが、と二人の方へ視線を移す。
彼らはと言うと、ソワソワしながら、二人の傍を通り過ぎていく男性や、学生、親子を眺めていた。どこか寂しそうな表情をしている明に対し、縋るように手を伸ばそうとする美紗紀。二人の視線は生きている者たちへの未練で一杯だった。
そんな顔をされてしまったら、いくら幽霊だとしても放っておけない。
「麻里、あの人たちは?」
ふっと足元に、彼らからはカウンター越しなので見えない位置に、体育座りしながらユウレイさんが現れた。
私は先程のやり取りを簡単に説明した。最初は不思議そうにしていたが、次第に真剣な表情へと変わっていった。
数分もしないうちにユウレイさんは立ち上がる。
「オレも彼らと話してくる。事情はオレの方が話しやすいだろうし、麻里も変な目で見られないから」
そう言って彼らの方に飛ぼうとしたが、その前に一度こちらを振り返ったユウレイさんは、最後に一言付け足した。
「麻里、あんまりオレたちみたいな存在を信用しすぎないでね」
そのまま私の返事を聞かずに幽霊たちカップルの元に飛んで行った。言い方が、まるでユウレイさん自身を信じるな、と言わんばかりの声の低さだった。まあ、相手の言葉を素直に信じてしまう私の性格を思っての事だろう、と解釈して仕事に戻ることにした。
と言っても今日の私の仕事は、カウンターだけである。主に新人たちの育成が目的だからだ。
やるとしても、最後にフィードバック、所謂良いところを伸ばすために褒めて、あまり良くないところは注意して正すことをするくらいだろう。当の本人は、笑顔でお客様に品物を渡しつつ、マネージャー業務を喜々として行っていた。鼻歌まで歌っているようだ。その様子は遠くから見ていても、頬が綻んでしまう。
彼女の鼻歌に気が付いた主婦さんが声を掛けていた。注意しようとしているのだろうが何故か、ニコニコとしている。注意になっていない気もするので、さすがに後で指摘しておこう。もちろん新人マネージャーの彼女にも。楽しそうに仕事をしているのはとても良いのだが。
それからしばらくは客席の清掃と、トイレ掃除。ペーパー類の補充をして過ごした。その合間に、移動した幽霊たち三人が、空いている席に座って会話している様子を窺う。
時折笑っているところから、他愛のない話でもしているのだろう。二人が先ほどの少し緊張した表情をしていないことに気付いて、胸のあたりに温かいものが広がるのを感じた。
私だったらあんな風に打ち解けることも出来なかっただろう。人目を気にして小声になってしまうし、何より生きている人間なのだ。逆に恨みを買いかねない。
とは言え、彼らが『成仏させてほしい』と望んでいたことから、おそらく生きている人間の手を借りなければならない時が来るのだろう。その時はせめて、少しくらい打ち解けられたらいいな、と考えながら、店内に訪れるお客様に営業スマイルを提供していった。
午後四時半を回った頃。ようやく来てくれたアルバイトの子とバトンタッチして事務所へ入る。
思った以上にお客様が来店して、途中からカウンターだけでなくキッチンの手伝いまでしていたので、制服の所々に油が飛んでいた。帰ったら洗濯しなきゃ、と考えながら着替えを済ませ、いつものように事務所に備え付けられているデスクトップパソコンを確認。メール確認や報告書の作成作業はまだ新人には出来ないから、私がやってから帰宅することになっている。
私はさっさとメールの確認を済ませる。内容の一部に幽霊騒ぎはどうなったか、というものがあったので、それにだけ返信をした。大抵のメールは返す必要がないものも多い。私はつい全部に返信しがちなのだが、今日はこの後予定があるので省略する。
「……よし、報告書も終わり」
メールも簡潔に済ませて、報告書も必要最低限のみ。普段はもう少しやるが、新人へのテンプレとしても保存するので、今日はこれでいい。そのまま送信ボタンを押してパソコンを閉じる。少し熱を帯びたパソコンがゆっくりと電源を落としていった。
すぐに事務所を出てもいい状態ではあったが、いくら幽霊とは言え誰かに会うなら、とメイクを直してから事務所を出た。
少し遅くなってしまったが、彼らは幽霊なので移動する理由がないらしい。私が一度事務所に引っ込んだ時から、席は移動していなかった。さすがになにも買わずに席に行くのは気が引けたので、サイドメニューをサラダにしたワンセットを注文してから彼らのすぐそばにあるカウンター席に着く。
私が席に着いたことに気付いたユウレイさんが、四人席を離れて私の方へ飛んでくる。いつもより表情が幾分か明るくて、ホッとした。
「麻里、お疲れ様」
そのまま私の隣に腰を下ろす。ただし、私は後ろを振り返ることが出来ない。……厳密にいえば、振り返ることはできるが、周りから見ると不自然に映るということだ。
それを察してか、ユウレイさんは二人を振り返っていった。
「麻里……滝沢さんは、生きてる人間だから、話す時大変だけど了承してね」
そして再び私に向き直ると、彼らの状況をまず説明した。
事の発端は数日前。二人揃ってドライブデートに出かけたらしい。明が運転してその助手席に美紗紀が座っていた。目指していたのはスカイツリー。その近くをドライブしてそのまま帰ってくると言うのが当初の予定だったという。
ところがその途中で居眠り運転していたトラックに左から突っ込まれて車が横転。二人ともそこで記憶が途切れていた。目覚めるとすでに警察や救急車が周りを囲うように止まっていた。けれど誰も自分たちを見ないことに気付く。
そこで歩いてきた人に声を掛けたらその人をすり抜けてしまった。自分たちが幽霊になっていることを初めて自覚した途端、パニックになった。だが助けてくれる人もいない。二人ともその状態で、どうすればいいか分からなかったので、近くで噂になっていた幽霊の出るファーストフード店へ行くことにしたのだという。
「もし成仏できるなら、させてもらいたくて」
明がそう言った。私は黙々と目の前のサラダを消費する手を止める。今の話、何故だか違和感を感じていた。しかし、美紗紀が明に反発するように言葉を放つ。
「私このまま幽霊でもいいんだけど」
とんでもない発言をした。というのは私でもわかった。それはつまり、どうにか成仏しようとしている明の努力を無駄にするものだ。慌てたように「美紗紀」明が言うが、彼女は何も言わない。ユウレイさんも驚いて固まっているらしく、視界の端で動きが止まっていた。
「私は明と一緒にいられるのならそれでいい」
もう一度言った美紗紀は、そのままだんまりを決め込んでしまったようだ。
見れないのはやはり不便だな、と思ってから気付く。カウンターを見るふりをして振り返った。
その視界に映ったのは、腕を組んでそっぽ向いて、だんまりとした美紗紀。おろおろとしつつ言葉が出てこないのか、口をパクパクさせている明。その二人をじっと、ただ見つめているユウレイさん。
ユウレイさんだけは、何を思っているのかわからなかった。彼の周りだけ涼しい空気が漂っているようにも感じたが、彼の胸の内に秘められた感情が見えないことが、少し怖い。
しばらくその状態が続いた。時間は刻一刻と過ぎ去っていく。幽霊たちは生きている者たちとの時間差があるのか知らないが、ほとんど態勢も変わらなかった。
気が付くとすでに外は夕日によってオレンジとも、赤ともいえる色に染まっている。冬であればすでに夜の闇が包んでいるだろう黄昏時。午後六時を回っていたのだ。というのも、新人マネージャーが休憩に出たから気付いただけで、時計は一切見ていなかったのだが。
相変わらず美紗紀は膨れたまま明を直視しないようにしている。明は諦めてため息を吐き始めた。ユウレイさんは、何も言わない。
だんだんとお昼から居座っていたお客様たちが店を去り、束の間だが、閑古鳥が鳴き始めたところ。
そこでようやく美紗紀が立ち上がった。
「ちょっとトイレ」
ぶっきらぼうな声掛けに、明が「うん」と短く返事する。美紗紀はそのまま乱暴な足取りで店内のお手洗いへと姿を消した。本来であればそこで盛大に足音が店内に響くだろう。それすらないことが、私と彼らとの違いを示しているようで悲しくなった。
彼女が見えなくなったことで疲れを吐き出すようにため息を吐く明。
「すみません、せっかく時間をいただけたのに……」
そう言って彼は項垂れた。返答に困っていると、明は続けて言う。
「彼女は、本当は聞き分けのいい子のはずなんですよ」
あんな風に突っぱねたことなんて一度もなかったのに、と言って途方に暮れる明。それを見たユウレイさんが、ゆっくりと身体を動かした。
そして美紗紀の座っていた席に座ると、堅く結ばれていた口を動かす。
「彼女の気持ちがわからないの? 明さん」
いつにも増してかなり低い声。同時に辺り一帯の温度が下がる。彼の表情はいつになく無表情で、ただの真顔だというのに恐怖を感じさせた。その矛先を向けられている明はさらに縮み上がるような恐怖を感じているらしい。幽霊だというのに、真っ青になるほどだった。
美紗紀は未だに戻ってこない。ユウレイさんは少し視線を落とすと、独り言のように語り始める。
「オレは、美紗紀さんの気持ちがわかる」
ユウレイさんが放った言葉に、一瞬で顔つきが変わった明。
「キミたちは、生前付き合っていたんだろう? なら分かるはずだよ。好きな人と別れたくないという気持ちが。……彼女は、成仏してしまったら明さんと離れてしまうのではないかって怖がっているんだよ。それくらい、キミと離れたくない。これは分かるよね?」
ユウレイさんが彼に問う。明はその言葉に、頷いて何も言わない。
正直なところ私にはよくわからない。そこまで人を好きになった経験がないというのもそうだが、愛という感情はまだ理解できないのだ。
けれどユウレイさんは明よりも美紗紀の気持ちを分かってあげられている。それはつまり、ユウレイさんにもそういう経験がある、ということなのだろう。そしてそれは、私が知ることのない話。
明はグッと押し黙ったままテーブルを見詰めている。しかしさっきと違うのは、美紗紀の思いを知ったという状態。ユウレイさんはこれ以上何も言うつもりがないようで、私の隣に戻ってきた。
「ごめん、雰囲気悪くなっちゃって」
声の大きさ的に私に向けて言ったのだろう。しかし私は別に気にしていない。寧ろ明と美紗紀の仲が元に戻るのだったら、必要なことだったとわかっている。
「大丈夫、ありがとうユウレイさん」
ありがとうと言う言葉は、ちょっと違う気がしたが、彼は気にした様子もなく、ふっと口元を綻ばせた。
それからもうしばらくして戻ってきた美紗紀。
「え」
思わず声が漏れてしまった。理由は、彼女から黒い……瘴気のようなものが放出されているように見えたからだ。
しかし一瞬の瞬きの隙に、その黒い影は消えてしまっていた。まずいのではないか、とは思ったが、消えてしまった以上相談しようにもできない。もう一度見えたらユウレイさんに言おう、と考えて、今は放置することにした。
美紗紀が戻ってきたことに、明とユウレイさんが気付く。と、明が立ち上がって彼女に近づき、突然抱き着いた。
「ちょ、何」
いきなりの事に驚いた彼女。しかしさすがに慣れているというか、そのまま抱き留めてしまう。明は苦しそうに言葉を吐いた。
「ごめん、美紗紀。君の気持ち全然考えていなかった。早く成仏した方がいいって、勝手に突っ走ってた」
明の言葉に背中をさすっていた美紗紀は手を止める。彼女の瞳が一気に深い深い闇に染まるのが分かった。が、すぐにその色は消える。
一瞬だけ感じた寒気は一体何だろうか、と私が首を微かに捻っている間にも、明は彼女に自分が推測した彼女の心情が間違っていないか、確認するように語る。
「このままの状態が続くと、僕たちはいずれ地縛霊とか、悪霊とかに成り代わってしまうんじゃないかって、怖かったんだ。僕一人ならまだよくても、キミには……そんな恐ろしいものになってほしくない」
だから、と続けようとして、咳き込んだ。慌てて背中を撫でるようにさする美紗紀。その様子が、幼子をあやす母のように見えた。母性というものだろうか。少し落ち着いた明は再び口を開く。
「僕は来世でもキミと一緒に居たい」
彼はそう言って美紗紀をさらにきつく抱きしめる。一瞬だけ苦しそうに顔を歪めた彼女だったが、瞳に薄らと透明な液体がたまっているのが分かった。
もう大丈夫かな、と思ったところで気付く。二人とも、私とユウレイさんが見ていることを忘れているのではないか? 完全に二人の世界に入っている気がする。ユウレイさんも同じことを思ったのか、少し身体を揺らして、目を逸らした。私がユウレイさんに話しかけようと横を向く。
「滝沢さん、さっきからどこを見ているんですか?」
朝比奈が目の前に立っていた。表情を見るからに、私が明と美紗紀を見守っていたところから、見ていたのだろう。あからさまに変な人を、軽蔑する目だった。
何を言われるかは大体予想がつく。問題は、その言葉が彼ら二人の世界を壊してしまうということだ。朝比奈は少し言いにくそうに、しかし決意した表情で私に向かって言った。
「こんなこと言いたくないですけど、精神科に行った方がいいと思いますよ」
私の目を射抜くように見詰める朝比奈。その言葉はおそらく私以外の、ここにいる三人の心を抉ったことだろう。
もちろん朝比奈に悪意はない。寧ろ私を心配して言ってくれているのだろう。だが素直な言葉は時に鋭利な刃と化すことを、彼女はきっとわかっていない。
「うん、ありがとう」
しかしそれを彼女に言うには、場が悪すぎた。三人の表情が、視界の両端に映る。
明と美紗紀はいつの間にか離れていて、今まで見た中で一番暗い表情をしている。美紗紀は特に、黒い靄のようなものが見え隠れしていた。
ユウレイさんは、悲しそうに私と朝比奈を見比べていた。おそらく幽霊としての表情ではなく、生きている人間が感じるもどかしさを感じているのだろう。
そう考えると、二人の方がよほど幽霊らしく感じる。彼らの方が後からユウレイになっているというのに、この差は一体何だろう。
「あまり、無理しないでくださいね」
倒れてからじゃ遅いんですから、と付け加えて、仕事に戻る朝比奈。何故彼女がこちらにまで来たのか、その時気が付いた。客席の清掃をしていたのだ。あまりに驚いて、彼女の持っていた清掃道具に気が付かなかった。それくらい二人の世界にホッとしていたのに、彼女の素直な言葉に、それらは消え去った。
ユウレイさんが、少し言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「麻里、今日はそろそろ解散しよう。成仏の話は、一応探しておいて」
私は二度頷いてまだ残っていたポテトを口に急いで放り込み、ドリンクを飲み干す。ブラックコーヒーの苦みが、ポテトの塩っ気を一気に覆して広がった。ブラックコーヒーにしたのは間違いだったか、と考えつつ荷物をまとめると、席を立った。明と美紗紀は項垂れるように四人席のテーブルを見つめて、動かない。
「二人には後でいっとくから」
ユウレイさんが困ったように微笑む。私はカウンターの方を気にしつつ、軽く頷いて返した。二人には目を向けず、そのまま歩き出す。
「また明日」
後ろからユウレイさんがそう叫んで、つい私は振り返る。ユウレイさんの表情は一瞬寂しそうだったが、すぐに笑顔になる。私の表情はどうだろう。強張る顔をどうにか動かして笑ったはずだが、きっとぎこちなかったと思う。
それでも笑い返したことは後悔していない。強いて言えば、カウンターで仕事中の者たちの視線が少し痛かったくらいだ。
しかしそちらに視線を向けなければ、さほどダメージはない。私はそのまま入り口の方へ視線を動かして、そのまま店を後にした。
翌日はオープンからのシフトだったので、私は夜のうちに作り置きしておいたご飯を温めて、それを朝食に取ってから家を出た。
いつも通り早めに家を出て、ゆっくりと道を歩いていく。普段であれば空を眺めつつ、スマホでラジオを聴く。しかし今日は別のことが気がかりで全くと言っていいほど集中できなかった。
気がかりな出来事というのはもちろん、昨日店を訪れた二人の幽霊、明と美紗紀のことについてだ。
ユウレイさんはとりあえず、と言っていたが、あの後どうなっただろうか。二人のどちらかが地縛霊になるような事態になっていなければいいが。
それから、もし二人の答えが成仏する、となれば、成仏させることのできる人物を探さなければならない。近くに神社があったが、そこに相談すればいいのだろうか。
そんなことを考えつつ歩いていると、不意に足が止まった。見上げればそこには自分の勤務地であるファーストフード店がそこにあった。無意識に出勤できるようになってしまった自分の足に呆れつつ、私は店の自動ドアを通り抜けて店に入った。
さすがに店内には彼らの姿はなかった。ユウレイさんはともかく、明と美紗紀はどこにいるだろう。
「あ、滝沢さん。おはようございます」
アルバイトの子がぎこちなく微笑んできた。どうやら朝比奈が言いふらしたらしい。彼女の性格ゆえに強く言えないが、気持ちがいいものではない。
しかしここで怒鳴ったところで、余計そういう見られ方をするだけだろう。そう考えて私はいつも通りの笑顔を返した。
「おはよ」
すると彼女はホッとしたように頬を緩める。どうやら朝比奈はかなり大袈裟に言いふらしていたようだ。
面倒だな、と思いつつスタッフオンリーと書かれた扉を開いて、事務所へ続く短い廊下を歩く。少しだけ肌寒いな、と感じてきていた紺色のカーディガンを手繰り寄せ、少しでも温かくなるようにさする。
そして目の前の扉……ではなく、そのすぐ左にある扉を開いた。
「あ、麻里。おはよう」
そこにはユウレイさんと、昨日から幾分か表情が明るくなっている明と美紗紀の、半透明な姿があった。そこまで広くない事務所は、彼ら三人のおかげでかなり狭く感じる。もっとも、彼らの姿が見える私個人の感想だが。
「おはよう。落ち着いた?」
私はすぐにシフトに入れるように支度しつつ三人に向けて言葉を紡ぐ。本当はすぐに本題に入るのは好きではなかったが、この後仕事があるので仕方ない。
この質問にはユウレイさんが答えた。
「一応落ち着いたみたい。ただ、まだ答えは出てない。しばらくはここに居座ることになりそうだよ」
少し疲れたらしいユウレイさんが、頭を押さえながらそう言った。その言葉に明は慌てて立ち上がる。
「ごめんなさい。突然押しかける形になってしまって」
そう言って頭を下げた。
「心霊現象は極力起きないようにしますので、しばらくはどうか見逃してください」
なんだか勘違いしているようだ。まるで私がここに居座ることを嫌がっているような言い方に、青い感情が湧き上がる。しかしユウレイさんにはあまり信用しすぎるな、みたいなことを言われた。そう思わせておいた方がこちらの身のためにもなるだろう。
その言葉を胸に留めつつ、私は微笑んだ。
「成仏するなら手伝うから、ちゃんと答えだしなね」
タメ口は良くないかと思ったが、明は気にした様子もなく、少しだけ微笑んだ。
しかしその瞬間美紗紀から突然冷気のようなものが飛び出す。当然、さほど広くない事務所はあっという間に冷凍庫のような状態になってしまう。
「なに、これ」
一瞬で冷んやりと凍りつく部屋に、呆気にとられていると、次第に足元から言い表せないほど絶望的な寒さが襲ってきた。
明が慌てて美紗紀に飛び付く。「美紗紀、しっかりしろ」という声が小さく聞こえた。突然の氷付け状態に動けずにいたが、明が声をかけ始めてから次第に冷気が消え始めた。
動けるようになってくるなり、ユウレイさんへと視線を移す。彼は額にくっきりと皺を作っていた。その表情とこの状況からもなんとなくわかった。
「ユウレイさん」
私が名前を呼ぶと、彼の肩が少し震えた。ゆっくりとこちらに顔を向けるが、その顔には薄らと汗が滲んでいた。
「麻里」
きっと彼も混乱しているのだろう。一晩一緒にいた自分と同じ立場の者たちが、確実に地縛霊や悪霊に成り代わりつつあることを、改めて感じたという顔だった。
明が美紗紀をなだめてくれたおかげで、事務所は私が来たときと同じ状態依に戻った。まだ少し冷たい空気が流れているが、これなら冷房が効きすぎたとでもいえば、誰も疑いはしないだろう。
「美紗紀、大丈夫か」
明がもう一度声をかけると、それまで焦点のあっていなかった彼女の瞳に、光が戻る。ようやく目が覚めたように、数度瞬きを繰り返した美紗紀。
「……明?」
彼の名前を呼ぶなり、周りを見回す。さっきはまるで冷凍庫のようになっていたこの事務所も、すっかり元に戻っていた。
三人が寒さにまだ震えていること以外わからない美紗紀は、首をかしげて明に問う。
「何かあったの?」
私とユウレイさんは大体察していたが、やはり彼女自身は覚えていないらしい。明はどうだかわからないが、彼のグッとこらえるような表情。おそらく気付いている。
「……何も、ちょっと冷房が効きすぎていただけだよ」
そう言って明は微笑んだ。あまりに悲しそうな、苦しそうな笑みに、美紗紀はよくわからない表情をしたが、私は急っと胸が締め付けられる思いだった。
「麻里」
ユウレイさんが私に近づいてきて、二人に聞こえないくらいの小声で、ただし決意のこもった声で、私に言った。
「神主を呼ぼう」
ユウレイさんが、二人の意向を無視して神主を呼ぼう、と言った。彼が決めたということは、美紗紀はそれくらいまずい状態だということだ。それは私自身も体験したからわかる。もしも彼女が我を忘れて悪霊とかしたら、はたまたこちらに危害を加えるようになってしまったなら、それは誰も救われないだろう。
しかしすぐには無理だった。あの後は結局私がシフトに入っていたのだ。そんな余裕はなかった。
ユウレイさんは、しばらく事務所にこもって、美紗紀が大丈夫そうであれば客席で居座っているつもりだと言っていた。とりあえずはユウレイさんに任せればそれでいいだろう。問題は神主の方だ。
仕事の合間に、神主というものをキッチンで隠れて調べてみた。神主というのは神社にて仕事をしている人たちのことを言うらしい。しかも神主になるには、資格が必要なほどしっかりとした職なんだとか。悪い霊を払うことも仕事だが、主な仕事と言えば祭儀や社務を行うことらしい。
ともかく除霊ができるというのであれば、問題はないだろう。とにかく彼らが早く成仏できるのであればそれでいい。思考を巡らせつつ仕事を着々とこなしていく。そして事務所を出てから、約二時間が経過した。
「麻里、お疲れ様」
時刻は午後一時を過ぎていた。声のした方へ反射的に振り返ると、ユウレイさんがこちらに飛んでくるところだった。
透けた体の向こうには、だいぶ顔色の良くなった二人が一緒に空いている席に向かって歩いているところが見える。ユウレイさんの表情も幾分か明るいものになっていて、少しだけ胸のつっかえが取れたように感じた。
「だいぶ時間かかったけど、どうにか落ち着いたみたい。成仏もするって」
ユウレイさんが晴れやかにそう言った。つまりそれは除霊を受けてもいい、ということだろうか。
「麻里が考えているので間違いないよ」
見透かしたようににやり、と笑ったユウレイさん。久々に彼が悪戯っぽく笑ったので、少しだけ心臓がドクン、と響いた。彼は笑ったまま続けて口にする。
「とりあえず麻里が仕事終わるの待ってる。仕事が終わっても仕事することになるのはごめんね」
大げさに顔の前で手を合わせるユウレイさん。その様子に呆れつつもホッとしている自分がいることに気づいて、笑えた。とにかくよかった。
「私は大丈夫だよ。ありがとうユウレイさん」
小声で伝えると、彼はまるで子供のような無邪気な笑みを見せた。ここ最近ユウレイさんと過ごしてきたが、彼の笑顔を見て、こんなにも温かい気持ちになったのは初めてだ。
「夕凪さーん」
席に着いた明がユウレイさんを、生前の名で呼んだ。その声に一瞬固まったが、それは一瞬だけで、すぐに笑顔になる。
「それじゃ、またあとで」
そう言い残して彼らのもとに飛んでいく彼を横目に、私は仕事に励む。レジのお金の整理やら、資材補充やら、やることはたくさんある。さっさと終わらせて、彼らを一刻も早く成仏させようと、改めて思った。
ふっと日差しが彼らの座っている席に差し込む。夜にほんのりと差し込む月の光とはまた違い、その明るいオレンジに、希望が見えたように思った。
時は進んで午後四時。私はようやく仕事を終えて事務所に引っ込んだところだ。
本当は五時までのところを、朝比奈が言いふらした話で、心配した、というより同情した主婦のマネージャーさんが、早めに上がることを言い渡してきた。正直複雑ではあったが、普段休みを取らないのもあったから、一時間早く上がった。気にかかることもあったし丁度良い。
しかしそれまでの売り上げやら上司からのメールなど、私でしかできない仕事もあるので、それをやってからの上がりとなる。
今日はそこそこ売れていたからそれについて。またどんなものが多く売れているかについてをまとめる。さらに意見などが届いていたのでそれらをワードにまとめて印刷もしておいた。
お客様の意見が直接店舗に届いたら、それをワードでまとめ二枚印刷する。一つは事務所に掲示するもの。もう一つは客席の専用ボードに掲示するものだ。さらにそれも含めた報告書を作成。やることは多いが、キーボードを打つスピードには自信があるので、さっさと進めていく。
時刻が五時十九分を指したとき、送信ボタンを押す。これで今日の仕事は本当に終わりである。ただし、店の従業員としての仕事は、という意味だ。これから先はプライベート。頼まれボランティアになる。
そそくさと軽く上着だけを変えて、メイクをし直して荷物をまとめる。ほとんど無駄なものが入っていないトートバッグを肩かけると事務所を出た。
店に戻ってからはいつも通り適当にメニューを注文して、商品を受け取ってから席の方へと向かう。三人が座っているのは四人席だが、私は普通に生きている人間なので、すぐ近くのカウンター席に座った。その瞬間に、ユウレイさんが気付いてくれる。
今日は店内がそこそこ忙しいので、席に着くなり荷物を置いて振り返った。四人席に座ったままユウレイさんが優しい笑みを浮かべる。
「お疲れ様。待ってたよ」
そこに明と美紗紀も続いて労いの言葉をくれた。その事実に最初は驚いたが、次第に頬の筋肉が緩んでいった。早速と言わんばかりに明が言った。
「成仏する、と言っても僕たちだけではできません。時間もないので、除霊という形をとりたいと思うのですが」
そこで一旦切ると、美紗紀の方へ視線を移した。美紗紀はほんの少し嫌そうな表情になって、黙り込む。渋々、と言わんばかりに口を開いた。
「除霊される側ってなんだか複雑だけど、仕方ないし」
そして今度は私の方へみんなの視線が集まった。ユウレイさんが代表して口にしたのは私の予想していた通りの言葉だった。
「近くの神社から神主に来てもらって、ここでお祓いって形をとるのがベストだと思うんだ。麻里、お願いしてもいい?」
私はもちろん、というように大きくうなずいて返した。
その後私は、購入した商品をさっさと平らげると、もう一度事務所に戻る。店の電話を使って上司に除霊の許可を得るためだ。
さすがに時間的にもすぐには出ないかと思ったが、何度かのコールの後に珍しく残業していた上司が出た。早速事情を伝えると、それで噂がどうにかなるならと、許可をくれた。未だに噂に対するクレームが絶えないのか、半ば疲れているような声に、苦笑してしまう。
電話を切るなり、そのまま近くの神社本庁へと連絡した。時間が遅いのでもしかすると今日中には無理だろうと思いつつ、繋がるのを待った結果。
「……もしもし」
ありがたいことに担当の方らしい女性が電話に出てくれた。事情を説明し、なるべく早くお願いしたい、と伝えると、「少々お待ち下さい」という言葉とともに、ゆったりとした音楽が耳元に流れた。
しばらくして、再び先ほどの女性が電話に出てくれる。
「どうやら新人の神主が宮司ともに今日中に伺えるそうなのですが、いかがなさいますか?」
さすがにびっくりした。連絡したその日にお祓いなんてできるものなのだろうか。そんな私の疑問を見透かしたように、電話越しの女性が苦笑した。
「彼らは例外なので……」
手に負えない、という愚痴を聞いて少しだけ笑うと、女性がもう一度聞いてきた。なるべく早くと伝えたのは私なので、少し急すぎるが来てもらうことにする。
「店なので、夜に来ていただけるとありがたいです」
そう伝えると、快く了承してくれた。店側には早く店じまいすることを伝えることでどうにかなるだろう。しかし、電話を切った後、不安が脳裏をよぎった。本当に信用できるのだろうか。突然の早い店じまいも、あまり良い行動とは言えない。
そう思いつつも、すでに繋がりの切れた電話が手元で、物言わぬ無機物と化していた。
それが起きたのは電話を切ってから僅か数分後の事だ。私が電話での情報をすぐ上司に向けてメールしていた最中だった。
突然店の方から叫びとも、獣の咆哮とも言える声が聞こえてきた。どこか悲し気なその声に、上司に向けて書いていたメールを打つ手を止めてしまう。数秒が過ぎた頃。
「麻里! 今すぐ神主呼んで」
そう言いながら飛び込んできたのは、ユウレイさんだった。その姿を見て一瞬だけ心臓が飛び跳ねる。彼は一応幽霊というものだから、私の様に時間の影響は受けないらしいことは聞いていた。ところが、今の彼の姿は所々痛々しい痣のようなものが出来ているではないか。
「ユウレイさん、その姿は……」
パソコンはそのままに、彼に駆け寄る。何もできないと頭でわかっていても、いつもと違う姿に冷静な行動はできなかった。しかし彼は自信の事よりも、起きたことの方が重要らしく、同じ言葉を繰り返した。
「今すぐ神主呼んで。一刻も早くどうにかしないと」
彼女は自我を失ってしまう、そう言って彼はふっと意識を失った。まるで眠るようにゆっくりと身体が崩れていく。
危ない、と咄嗟に支えようと彼の下に潜り込む。しかし触れることはないままに、彼の姿は床へ、沈むように消えていった。しばらく彼の消えていった床を、眺めていた。思考が停止したように動かず、無気力に苛まれる。
ふと、彼が消える前に放った言葉が頭の中に響いてきた。『今すぐ神主を呼んで』という必死に叫ぶ、彼の強い声。
ストン、と心に何かが落ち着いた。次の瞬間私はスマートフォンを手に、先程連絡した神社庁へと再び連絡していた。
「――はい、もしもし」
電話の先ではゆったりとした時間が流れているように聞こえて、ギリッと歯が鳴ってしまう。どうにか抑えて、こちらに向かっているという神主の連絡先を聞いた。
一度目とは違って切羽詰まった私の声に、驚いたらしい彼女の声は、警戒を含んだものになっていたが、連絡先は教えてくれた。感謝して即座に通話を終える。そのまま今聞いたばかりの神主の携帯へと電話を掛けた。普遍的なコール音が何度か続く。
一瞬そのコール音が切れた。繋がったか、と安心しかけたところで響くのは、機械的な留守を知らせる女性の声。
段々と視界が灰色に成り代わり、ぼやけていくように見えた。これが絶望というものだろうか。動くに動けない状態に陥る。しかし床下に消えたユウレイさんの声が、何度も、何度も何度も、私を奮い立たせるように頭に響く。
そこではた、と気づいた。神主が電話に出ないというのなら、探しに行けばいい。幸い近くにある神社は一つしかないのだ。通る道は大体予想できる。ロスタイムとなってしまうだろうか。だが、電話が繋がらない以上呼びたくとも呼べない。だったらやるしかない。
ともなれば、善は急げだ。すぐ近くに適当に放っていた灰色のパーカを羽織りつつ事務所の扉を、音を立てて開け放った。
店の出入り口は二つ。一つはお客様を迎えるための表の自動ドアと、従業員が朝と夜に出入りする裏口だ。明と美紗紀がいるのは客席。出るときに様子を見る形で、私は店にも戻る。この時の判断は間違っていなかったと、店へ続く扉を開いた瞬間に気付いた。
「きゃああああ」
ビクッと反射的に身体が跳ねる。一瞬目の前の光景が頭に入ってこなかった。
時間としては数秒だろう。しかしとても長い時間に思えた数秒だった。ゆっくりと目の前で起きていることを、停止していた頭が理解し始める。
一言で言うならそれは混沌というものだ。軽いものはもちろん、観葉植物や、椅子、テーブルのいくつかが重力を無視して浮いている。書類なんかはバサバサと荒い音を立てて天井近くまで舞っていた。
それを見たお客様たちや従業員。何人かは外に逃げ出していくのに対し、腰を抜かしてへたり込む者も、壁に寄りかかるように立っている者もいる。しかしそのままでいると、無造作に飛んでくるる椅子やらテーブルやらにぶつかってしまう。間一髪で避けている者もいた。
それだけを見れば、災害と呼ばれる心霊現象の一つだろう。だが私の目にはもう一つの世界が映っている。
「美紗紀! しっかりしろ!」
様々な物が飛び交う中、圧倒されそうになりながら懸命に叫んでいる明。彼の視線の先には、頭を抑えて苦しそうに、叫ぶ美紗紀がいた。
黒い靄のようなものが彼女の周りに、纏わりつくように広がっていた。そこから霊力が漏れ出しているのか、重圧が私の方まで飛んでくる。その中心で苦しそうに叫ぶ美紗紀の瞳は、焦点が合っていない。悶え、叫び、泣いているようにすら見えた。直感的に思う。彼女は地縛霊と化したのだ。
あまりの光景に足が根を張ったように動かなくなった。まるで力が入らない足に、苛立ちが募る。
ユウレイさんは言ったのだ。彼女が自我を失ってしまう、と。見たところ手遅れかもしれないが、もしかしたら間に合うかもしれない。だったら私が行かなきゃならない。わかっているのに。身体は全く言うことを聞かない。次第に力が入らなくなって、その場に座り込んでしまう。と同時に頭の上のギリギリを、椅子が掠っていった。
彼女は変わらず悶えたままだ。明は段々叫ぶことすら出来なくなっているらしい。最初は彼女の傍にいた彼も、彼女の足元にしゃがんでいる。
お客様や、従業員には彼らの姿は見えていないので、ただただ不可解な現象が起きているようにしか見えないだろう。とは言っても、私にもどういう原理なのかはわかっていないので、何も言えないが。どうしようもない焦りと、声にならない叫びが喉の奥で突っかかって苦しさに襲われた。
私は結局何の役にも立たないのか。明確にそう感じた瞬間、大きな塊がドスン、と心に落ちた。あまりの重さに、座っていることすら出来なくなって、伏せるように身体を折った。
この状況はどうしたらいい。どうすれば彼女を助けられる。どうすれば皆を助けられるんだ。
「落ち着いて」
ふと、黒い靴が視界にあることに気が付いた。私の目の前にいつの間にか、誰かが立っていた。顔を上げる気力がないままに、おそらく男性であろう目の前の人の靴を、ぼんやりと眺める。不意に大きくてごつごつとした手が、私の肩に優しく乗せられた。
「大丈夫、宮司がどうにかしてくれますから」
一泊遅れて彼の声が私の耳に入ってくる。優しくて、少々不器用さの感じられる、掠れた声。
最初は警戒していた。が、宮司という単語。じんわりとした温かいものが胸に広がっていく。私は縋る気持ちで目の前の人物を見上げた。目の前に立っていたらしい人物は、しゃがみ込んでいて、思っていた以上に顔が違く似合った。
最初の印象は黒い人。堀が深く渋い顔つきで、目は切れ長。どことなく怖いと感じた。しかし、彼の眉は心配そうに顰められていて、きっと優しい人なのだろうというのが分かる。
私がようやく顔を上げたことに彼は、一瞬ホッと息を吐いた。
「反応が薄いから気絶しているのかと思いましたよ」
ほんの少し苦笑交じりにそう言った彼は、続けて私に言った。色の薄い唇がゆっくりと動かされる。
「今宮司が除霊していますので、今のうちに外へ行きましょう」
その言葉に突然視界がクリアになる。そして視線は彼の背中より先に届く。
そこでは白髪の、しかしきっちり着こなされた装束は、紫色の袴で、薄い紫の紋様が施されている物だった。宮司の階級であるだけあって、除霊の動きには無駄がない。率直に言うと、とても綺麗だった。
しかし問題はそちらではない。私の視線は右横へとズレる。
「美紗紀さん! 明さん!」
自分でも驚くほどに大きな声が、店の中に溶けていく。宮司は一瞬だけこちらに視線を移したが、除霊の手をやめない。代わりに目の前の男……おそらく神主が、私の言葉に反応する。
「美紗紀に明……? 貴方には彼らが見えているのです?」
すっと細められた瞳。驚きと、興味の色が見えた。けれど私は彼の質問には答えずに肩を掴んで立ち上がる。
「除霊、出来るんですよね? 彼女は、ちゃんと明さんと一緒に成仏できますよね?」
彼らに近付こうと、ふらつく身体をどうにか動かしつつ神主らしき男性に問う。そんな私を抑えるように立ちふさがる彼は、一瞬言葉に詰まった。一度宮司を振り返ったが、宮司は険しい表情で、重々しく首を横に振った。それを見て神主が判断したように、私も察しがついた。
そうしている間にも、美紗紀はその姿を段々と薄めていく。変わらないのは明だが、彼はすでに意識がないらしい。まるで人形の様にその場に座り込んで動かない。
「美紗紀!」
私は叫んだ。何か彼女に向けて言いたかった。まだ残っているかもしれない自我に語り掛けて、どうにか成仏してほしかった。しかし何かがつっかえるように喉から言葉が出てこない。明は意識がないのだ。ここで私が何か言わなければ、彼女は、彼女は……。
それでも私の口は言葉を紡げなかった。結局、彼女が消えるその瞬間に、出会って間もない男性の前で泣き叫ぶ以外なかったのだ。
あれからしばらくは、店の混乱を宮司が治めてくれた。とても正気ではなかった私の代わりに上司に連絡もしてくれて、早目の店じまいも他のマネージャーに頼んでくれた。
その間はずっと黒いスーツを着た神主と思わしき男性に付いてもらっていた。名も知らぬ他人に付き添ってもらうなど、社会人になってから初めての事だった。しかし逆に彼がいてくれてよかったとも思った。ユウレイさんは姿を消してしまい、美紗紀も明も、何も言えぬままに消えてしまった。
幽霊が見えない他の従業員には頼れずにいたのだ。一人だったら泣き止むことすら出来なかっただろう。
結局この神主の男性は、何も言わずにただ傍にいてくれた。会話らしい会話もせずにただじっと、私が落ち着くのを待ってくれた。
宮司は美紗紀と明の二人をきっちり除霊してくれた。美紗紀の除霊の最中には無理だといっていたはずだが、どういうことだろうか。
落ち着いてきたころを見計らったように、宮司が事務所へ続く扉から姿を現す。こちらに視線を向けた途端、私の傍にいてくれたた男性がすっくと立ちあがる。
「お疲れ様です」
彼は流れるような動作で宮司に向かって頭を下げた。宮司は何も言わずにこちらへ歩いてくる。しかし思っていた以上に足が速かった。私たちの元に来るなり、言う。
「羽矢岑(はやみね)、頭を上げなさい。滝沢さん、お待たせしました」
物腰の柔らかな方だ、と思いつつ私は立ち上がって頭を下げた。先程の心霊現象ですっかり廃れてしまった床が視界に映る。
「何から何まで、ありがとうございました」
心の底から感謝の言葉を述べる。もしもあの時来てくれていなかったら、私やお客様、他の従業員たちがどうなっていたかわからない。何より苦しんでいたあの二人がどんなことになっていたかなど、想像したくもなかった。
そんな思いで頭を下げていると、宮司は優しく私に声を掛けてくれる。
「頭を上げてください。我々を呼んでくれたのは貴方です。貴方が行動してくれていなければ、事態は悪化していたことでしょう」
途端に視界がぼやけてしまう。優しすぎる言葉に、罪悪感がのしかかってくる。そんな私の肩にすぐ手を乗せてくれたのは、羽矢岑と呼ばれた男性。
「そうそう、貴方に伝えておくべきことがあります」
今思い出したかのように、宮司が言った。私はゆっくりと顔を上げて、首を傾げる。伝えておくべきこと、とは何だろうか。
「あの地縛霊と共にいた霊。彼の除霊はできない、と私は言いました。が、それは語弊がありました」
それは私が疑問に思い、質問しようと思っていたものだった。事の真相はこう。
まず二人は一緒に事故に遭った。ここは間違っていない。が、そこで二人とも死んだものだと考えていたことが間違いだった。
亡くなっていたのは美紗紀の方だけで、明は意識不明の重体だが、病院でまだ生きていたのだ。ところが、彼は彼女を思うあまり、生霊を作り出して彼女の傍にいた。
そこから先は私が体験した通りということになる。宮司は明確に状況を分かっているわけではなかったが、恐らくそういうことだろうと語ってくれた。
あまりの事実に、しばらく何も言えずにいた。まさか最初から二人が一緒に成仏することが出来ないとは考えもしていなかったのだ。
今回ばかりはあまり良い解決ではなかったと、私は俯く。早くに気付いてあげられなかったものだろうか。羽矢岑が私に言う。
「それでも彼女が人を殺めることなく成仏できました。最善だったでしょう」
私はイエスともノーとも答えずに、曖昧に笑って返した。
そんな私の様子を見て彼らがどう思ったかは分からないが、何も言わずに店を去っていった。おそらく私が隠していることに気が付いたのだろう。私は彼らにユウレイさんの存在を話さなかったのだ。伝えてしまうのが怖かったとも言える。
美紗紀が除霊されるところを目の当たりにしたことが、心に強く刻まれていた。もしもそれがユウレイさんだったら。そう考えたら、喉に何かが詰まったように言葉が出てこなかった。
当人であるユウレイさんも、あれから姿を見ていない。
彼らが店を去った後、誰もいなくなった店の戸締りだけをして帰宅しようと、事務所に戻ってきたときに、ふと足元に視線を泳がせる。無論、そこにユウレイさんの姿はない。最後に見た姿がぼんやりと、霞がかったように思い出される。
彼は今どうしているだろう。未だに気を失っているのだろうか。それとも私が気付いていないだけでどこかに……。
そう考えて一度グルリ、と周囲を見回すが、彼の姿はない。分かってはいた。しかし落胆はしてしまう。
今日はもう帰ろう。そう思って私は放置していた荷物類をまとめて、事務所を出る。そのまますぐそばにある裏口から外に出た。
もう夏だというのに、まるで秋の様に冷たい空気が、夜の闇を一層際立たせる。今宵は満月。彼と出会った日と同じようで違う、その寂しげな光を数秒見詰めてから、私は帰路へ着いたのだった。
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