第3話

なんだか最近、機械の故障が多い。


季節は夏。梅雨明けも過ぎ、七月に入ってから一気に気温が上がった。

 店内は元々快適に過ごせるように温度設定をしているので、夏でもそこまで大変ではない。しかしいざキッチンに足を踏み込むと、その認識は覆される。

「キッチンの温度おかしくない? 冷房ついてるの?」

 人手不足はキッチンも同じ。今日はキッチンの手伝いをしつつカウンターをすることになっていたが、キッチンは灼熱地獄と化していた。

「ついてはいるんですけど、暑すぎるみたいで……」

 そう言って汗を拭きとっているのは基本キッチンスタッフの岡田。彼はフリーターなので、アルバイトだが機械のメンテナンスはできるように教え込んである。

 その彼が言うには、各機械から発せられる熱によって気温が元々高いこと。その上そこまで広くなく、人が密集しているので、温度が下がりにくいのだという。

 こればかりは空調機自体を取り換えるしかない、と困ったように言っていた。

 幽霊騒ぎのおかげで売り上げは前年より良くなっていたが、さすがに幽霊目的で来る客も減り、売り上げも落ち着いてきた。正直簡単には取り換えられない。

 しかもユウレイさんの心霊現象が原因かはわからないが、機器のトラブルが後を絶たずに頭を抱える日々が続いていた。

 空調を取り換えるより、優先するべきものは他にも山ほどある。

「しばらくは、我慢することになるね……」

 今はとりあえず保留。岡田も店の予算の事を分かってくれているので、何も言わずに頷いて、キッチンの仕事に取り掛かる。

「……大変そうだねえ」

 少々ふらつきながらユウレイさんが飛んできた。さすがに皆が仕事に集中している状態で話すわけにもいかず、シフト表といくつか書類を持って金庫や大きな冷凍庫がある裏に引っ込んだ。

 ユウレイさんはいつになくゆっくりと、ふらつきながら飛んでくると座り込む。飛んでいることすら疲れる、と言いたげな仕草でこちらを見上げてきた。

「貴方もずいぶん酷い顔してるじゃない」

 私はマネージャー業務を片手に、次々と資材の確認をしていく。ユウレイさんは、そんな私を眺めつつ言った。

「幽霊でも季節の影響、そこそこ影響受けるんだけど、キッチンあまりに暑くて……耐えられるわけもないよ」

 なるほど。

「それなのにキッチン入ってきたの。カウンターで何かあった?」

彼はよく店の事を報告してくれるので、質問することはないが、個人的に気になった人とかだと、報告を躊躇するのか、言わないことがある。

案の定彼は少しだけ視線を床に落とす。その仕草は何か言いづらいときに見せるものだと、最近気づいた。ただ弱っているみたいなのであまり深く突っ込むのはやめておくべきだろうか。

「言いづらいなら、言わなくてもいいよ」

 少し間を開けて、彼は顔を上げた。その顔は真剣そのもの。周りに整頓されている資材が一瞬ぼやける。

「気になる子供がいるんだ」


 資材確認をある程度終わらせた後、私は灼熱地獄的なキッチンに入る。忌々しいモンスター、フライヤーをメンテナンスするために。

 フライヤーは基本ポテトや、チキンナゲットなどを上げるのに使用する。日に何度も使うので、毎日のメンテナンスは欠かせない。

 もちろん油の補充などもしなければならないから、本当に面倒な機械の一つである。

 しかしだからと言って仕事を怠ると一瞬で使えなくなるというか、揚げ物が綺麗に揚がらず、お客様からクレームが来てしまう。

 すると店の売り上げに影響して……と悪循環に陥る。とにかくやるしかないわけだ。

「早く人手不足解消しないと」

 口をついて出る言葉も、決まってきたところでカウンターに出ていた朝比奈がやってきた。

「滝沢さん、例の子供っぽい子、来ましたよ」

 その言葉にハッと顔を上げる。が、メンテナンス中の機器に視線を落とした。さすがにこちらを放ってまで、ユウレイさんのお願いを優先はできない。

 どうしたものか、と悩んでいると、朝比奈が言う。

「多分今日もあの子、長居するでしょうし、メンテナンスしてても大丈夫ですよ」

 軽くそう言った朝比奈。彼女の言葉に驚いて、持っていた混ぜるためだけに使っている鍋を落っことす。

 グワァン、という音が響いて「失礼いたしました~」と声が上がる。私は慌てて拾いつつ朝比奈に聞いた。

「今日も、ってことは前から結構来てるの?」

 その言葉に今度は朝比奈が驚く。

「ここ最近は毎日……滝沢さん気付いてなかったんですか?」

 皆知ってますよ、と付け加えられて、言葉を失った。最近仕事量が増えてから、店に来るお客様の事を見れていないとは感じていたが、まさか常連さんになりつつある人すら見えていなかったことにショックを受けた。

 いくら仕事が増えていても周りを見なくて良い理由にはならない。見直しが必要だな、と自分の中で折り合いを付けつつ、鍋を洗いに行った。


 その日は朝から昼過ぎまでの仕事だったので、事務所にこもって上司に報告書と機械の事について、それから人手不足でアルバイトを募集しているが、ほとんど来ないので時給アップの申請をする。

 すべて終わった頃にはすでに午後五時を過ぎていた。

 さて、いつも通りワンセットを頼んで帰るか、と支度をしている時に、床から半透明の頭が飛び出した。

「うわっ」

 いや、誰だかわかっていても、驚くときは驚きます。ユウレイさんはそのまま、薄ら笑いを浮かべて、私の前に座った。

「麻里、お疲れ様」

 ユウレイさんはそう言ってにっこりと笑った。力ない笑顔に、何か忘れているような感覚に襲われる。しかし思い出せない。何かやらなければならないこと、あったっけ。

 どんなに考えても何か忘れている気がするというだけで、何も思い出せない。私の様子に首を傾げつつユウレイさんは言った。

「そういえばあの男の子、まだ店に残ってたよ」

 あっと声が漏れる。思い出した。確か、今朝そんなことを言っていた。しかも機械のメンテナンス中に訪れていて、朝比奈が報告してくれたことも同時に思い出す。私一人だけ知らなかったことにショックを受けたことまでも思い出して、少し恥ずかしさから視線を落とした。

 いきなり私が顔を伏せたせいか、ユウレイさんは慌てて励ますように私の頭に手を伸ばした。

「どうしたの? そんな落ち込まないで」

 びっくりして私が顔を上げると、彼は逃げるように壁をすり抜けて、どこかへ行ってしまった。取り残された私は腕時計を確認する。

 時刻は午後五時半ピッタリを指していた。


「いらっしゃいませ、こんばんは~」

少し元気のない学生たちの声が店内に響いては消える。そろそろ夜のピークが訪れるからだろう。段々と店内が混み始めていた。

「あ、滝沢さん、お疲れ様です」

 私がワンセットを注文しに行くと、朝比奈がにっこりと微笑みながらそう言った。彼女でも疲れることはあるらしい。少し顔が引きつっている。

「お疲れ様。エッグバーガーのセットをお願い」

 はあい、と気が抜ける返事をした彼女はサッサとポスに注文された商品を打ち込んでいく。

彼女も入った当初は、ポスに一つ商品を打ち込むのさえ戸惑っていた。しかしだいぶ成長していたことに、嬉しさと寂しさを同時に覚える。

「レシートです」

 そう言って手渡されたレシートを受け取る。朝比奈がにっこりと笑うので、つられて私も笑った。すぐ後ろにお客様が並んでいたから、すぐ離れたけれど。

 この時間は店が混むので、商品が届く前に席を確保しなければならない。幸い頼んだものは時間がかかるので、さっと店内を見回した。

 こういう時は本当についている、というのだろう。目当ての男の子が座っている席のすぐ隣が二人席となっていた。

 他の人に取られないうちに、と慌てて荷物を置き、財布とスマートフォンを片手にまたカウンターの方へと戻る。

 丁度ワンセットを準備して、アルバイトの子が待っていた。少し引きつっていた笑みが、ふっと緩む瞬間を目撃してしまい、私は苦笑して、頬を指差す。

「笑顔、無理しすぎない程度に」

 小声で指摘すると、ハッと気が付く彼女。慌ててニコッとするも、苦笑に変わっていた。

入ってまだ二か月だったから、まだ仕方ないか。私はもう一度笑いかけると、商品を受け取ってカウンターを離れた。

戻る頃にはほとんどの席が埋まっている。先に席をとっておいて正解だった。しかし目的の男の子のテーブルには、軽そうなドリンクが一つあるだけ。

その状態だと閉店までいることは、難しくないだろうか。と、そこに彼の席に二人組の若者が近づいていく。嫌な予感はしていた。

近づいてくる足音に顔を上げる男の子。目が悪いのか、眼鏡をかけている。彼の瞳が二人の若者を捉えた途端、怯えたものにさっと変わった。

「おい、ガキ。飲み終わったんなら退きな」

 少し背の高い方の男がそう言って睨みを利かせる。男の子はさらに身を縮こまらせて、後ずさるようにもぞもぞと動いた。

 その様子が気に入らなかったのか、背が低く、少し肥満型の男が一歩前に出る。

「早く退けよ、俺ら腹減ってんの。日本語理解してる?」

 少し大きめの言葉に、ビクッと身体を震わせた男の子は、目一杯に涙を溜めていた。

ここで声を掛けたら、とんだおせっかいかもしれない。けれどこのままだと暴力に発展しかねない。

止めに入るべきか、それとも見過ごすべきか。性格上助けたいが、彼らの言い分も分かるので、どうすべ気なのかもわからない。

「麻里」

 ふと隣から声が聞こえた。見なくともそこにいることがわかって、私はじっと聞き耳を立てる。

 彼は私が聞いていることを分かってか、そのまま言葉を続けた。

「あの子に声かけて。一緒に夕ご飯食べよっかって、何でもいいから」

 その言葉の裏には、とにかくこの状況から助け出したい、という思いが込められている気がして、思わず左隣を見てしまう。しかし一瞬の間に姿を眩ましてしまっていて、彼の半透明な横顔は見当たらなかった。

 私は再び男の子と二人の若者に視線を戻す。相変わらず睨みあっているというか、牽制し合っているというか。とにかく今にも崩れそうなほど危うい空気を醸し出していた。

 仕方ない。ユウレイさんのお願いでもあるし、何より私があの子を助けたい。

ゆっくりと立ち上がって、通路を挟んで隣の男の子の元へ数歩、歩み寄った。もちろんすぐに若者二人は気づく。

すぐに睨まれて、何かを言いかけたのがわかったが、私は敢えて彼らと視線は合わせずに男の子の前に来る。

腰を屈めて彼に優しく微笑んだ。

「こんばんわ。今日はお母さん待ってるのかな? もしよかったらあっちで私と一緒にポテト食べない?」

 不自然だ。自分でもわかる。けどここでやめるわけにもいかない。危うい空気を放置するほどこの店に何も感じていないわけでもないのだ。

 男の子は、一瞬戸惑う表情を見せたが、どうやら見た目よりもずっと賢いようだ。すぐに頷くと、広いテーブルにポツン、と放置されていたドリンクを持って椅子を降りた。

「これで問題ないですよね?」

 私は一度、背の高い男と太った男を見て、そう確認する。太った男は、何か言いたげに前に出た。しかし背の高い男がそれを制した。

「ああ、別に事を大きくしたいわけじゃあないからな」

 そう言って、興味をなくしたようにふいっと視線を外した。まだ言いたげな太った男を適当にあしらう姿は、大人の空気を纏っている。

 きっと見た目は怖いが、そこそこ常識人なのだろう。なんとなく、我が道を行くようなタイプの男でなかったことに感謝して、男の子を案内した。

 幸い私の席は二人席となっていたし、端の席なので、彼を前に座らせる。

「あ、あの」

 私が席に着くと同時に、男の子は顔を上げた。その頬は少し紅潮している。

「助けてくれて、ありがとうございました」

 再び頭を下げる男の子。

大きい黒縁の眼鏡。華奢な体付き。そして一番小さいサイズのドリンクを両手で持っていた。どこか引き気味な雰囲気。しかしその言葉遣いはしっかりとしていた。

私は優しく微笑んだまま、男の子に言った。

「いいえ。寧ろ怖かったでしょう突然。知りもしないオバサンに話しかけられて」

 少々自虐的だっただろうか。でもこの年の男の子から見たら、今年二十三になる私なんかオバサンだろう。

 ところが彼はきょとん、と首を傾げてから言った。

「えっと、僕、お姉さんの事知ってますよ」

 黒い服着ていて、かっこいいなって思ってました、と続ける。その言葉を理解するのに数秒かかった。彼は言う。

「滝沢さん、ですよね」

 そしてニコッと微笑んだ。なんと、名前まで言い当てるなんて。

 ショックを受けてうなだれる。まさか当人にすら知られていたとは思わない。思わず何も言えなくなって、大きくため息を吐いた。

 

「そういえばキミの名前は?」

 無駄に明るい声になってしまった。しかしハッと顔を上げた彼は、こちらを向いて照れ臭そうに笑った。

「そういえば名乗ってませんでしたね。ごめんなさい。僕は成滝隼平(なるたきしゅんぺい)です」

「隼平くんか。うん、いい名前だね。改めてよろしくね」

 私の言葉に「はい」と返事する隼平。やっぱり根はしっかりしているな。見た目の歳はまだ小学生に見えるけど、実年齢はもう少し高いのだろうか。

「ね、隼平くんはいくつ? 言葉遣いとかしっかりしてるから、中学生くらい?」

 私の問いに、きょとんと首を傾げる隼平。その後すぐににっこりと笑った。

「いえ、僕まだ小学四年生です」

 小学四年生、という言葉を自分の中で反芻する。その年齢にしてはずいぶんしっかりとしたものだったから、理解が一瞬追いつかなかった。

「あ、小学生らしくないってよく言われます。家の事情で勉強以外することがないので、よく図書館に行くのですが、そのせいかな」

 うーん、と顎に手を当てて彼は言った。勉強以外することがない、というのは小学生にとってかなり辛い家庭環境ではないだろうか。金銭問題?

 いや待て。だとしたら毎日ここ、ファーストフード店に通うことはできないだろう。さっき彼はよく図書館に行くと言っていたし……。

 彼の言葉からどんどん膨らんでいく想像に、お節介な私の性格がうずき始めた。しかしいきなり聞く勇気はない。

「図書館よく行くんだ?」

 質問すると、彼はパァっと顔を輝かせて、元気に頷く。その様子から、もう大体察することができた。

「僕、本好きなんです。なので図書館通いがやめられなくて……」

 そこで一度口を噤む。急速に花がしぼんでいくように、彼は俯いた。

「最近、改装工事が始まってしまいまして……しばらく休館なんだそうです」

 だんだん小声になっていき、聞き取れなくなる。私は少しだけ耳を近づけて、さり気なく聞いた。

「だから最近はここに?」

 はい、と頷いた隼平。しかしその身体が纏う悲壮感は、決して図書館のことだけではないだろうと直感的に思った。

 確かに図書館のこともあるだろう。自分の居場所がないという感覚は、大人になっても変わらず精神に響く。

 しかし彼の瞳にはそれ以外の何かが気にかかっているように見えた。何か別の、大切なものを憂いている。少し揺れている瞳が、それを物語っている。

 やはり聞くべきだろうか。しかし踏み込み過ぎるのもよくないと、自分がよくわかっている。

 この間の李子ちゃんたちのことを思えば、大丈夫だと思えるのに、やはり過去の出来事がまだ私を離してはくれない。

 しかしそんな懸念は、隼平の次の一言によってかき消された。

「……悩み事は、それだけじゃないんです」

 ふっと彼の纏う空気が変わった。冷たいような、気持ち悪いような、薄らとした闇すら感じられる空気。小学生が纏うべき空気ではない、と叫びそうになって、直前で抑えた。

 何も言わないことを良いことに、彼はゆっくりと視線を遠くに向ける。

店のガラスを容易に飛び越えて、道路の向こう側の、もっと先に向けられた瞳。その横顔は、危うかった。

隼平はそれ以降何も言わない。しかし突然微笑んだ。やはり小学四年生がしてはいけない笑みだ。

「悩みがない人なんて、いませんよね」

 ふっと軽く、飛ぶように淡い言葉が彼の口から吐き出された。私の中で何かが動くように感じて、気が付くと彼の頭に私の右手が乗っている。

「……私でよければ、話聞くよ。信用ならないかもしれないけど」

 そう言ってできるだけ優しく、隼平に微笑んだ。

 彼の表情は、過去に救えなかった、大切な人に重なってしまったんだ。どこか希望を捨てきれないのに、諦める選択をしてしまう。淡くて悲しくて、危うい状態。

 何に悩んでいるかはわからない。けど彼はおそらく踏み出してはいけない一歩を踏み出そうとしている。救えるなら、救いたい。

 ふと、彼が押し黙った。グッと膝の上で拳を握りしめ、何か耐えるように肩に力を入れている。

 何となく予想はついたが、彼の顔を見る前に、彼が勢いよく立ち上がった。

「ごめんなさい、今日は帰ります」

 そのまま走り出すと、あっという間に夜の闇に消えていった。声をかける間もなく駆け出して行った彼の背中を追うように、夜の闇に視線を泳がす。椅子に残った彼の温もりが冷めてしまうまで睨むように見ていた。

 しかし、結局その日は彼が店に戻ってくることはなかった。


火曜日。梅雨明け初の雨が降った。

朝からどんよりとした雲が店の上を覆っていて、影響されるように店の売り上げもそこそこだった。

私は昼から夜にかけての勤務だった。だから朝の店の事は知らない。朝から入っていたアルバイトの子曰く、かなり暇だったとか。

案の定夜十時半を回った時には、すでに店内はがら空き。後に来たお客様の人数も二人という酷さだった。

「麻里はよくやったよ」

 ユウレイさんが、少しふらつきつつも飛んできてそう言った。

雨の音が彼の声をかき消さないかと近づいていたが、幽霊といえど、そこまで小さくない彼の声は普通に私の耳の鼓膜を震わせる。

時刻はすでに十二時半。新人が多かったので、皆帰らせた後は一人黙々と店内の清掃と落し物の確認。更に今日に限っては新たにマネージャー昇格した者の仕事の確認作業までが私の仕事である。

だが隼平の事が気がかりであまり仕事が進んでいないところに、ユウレイさんが飛んできたのだ。手が止まってしまうのも仕方ない。

「だけど」

 あの日から二日が経っていたが、私はずっと思い返しては自分の浅はかな言葉選びを恥じていた。他に何か言えていたら、きっと彼は逃げなかっただろうと、何度も、何度も何度も。

 しかしユウレイさんはふっと目を細めて笑った。

「けど麻里がいなかったら、彼は悩みがあることすら打ち明けなかった」

 その言葉はまるで、彼を見ていたような言い方だった。彼をずっと見て、話しかけたことがあるような、そんな言い方。

 何かあったのか。そう感じて口を開きかけた。が、次の言葉に飛び出しかけた言葉が吹き飛ばされる。

 ニヤリ、と口元を歪めたユウレイさんはふよ~っとこちらに近づくなり、ジロジロと私の顔を眺める。

「案外子供に好かれやすいんじゃない」

「強制成仏させようか」

 反射的に飛び出した一言に、ニヤニヤしながらユウレイさんは距離を取った。その仕草に一瞬だけホッとする。

 言ってから少しだけ後悔が心の中を支配したんだ。強制成仏させるということは、つまり私の前から永遠に姿を消すこと。

 店としては不安定なユウレイさんを一刻も早く成仏させなければならないはず。だが個人としてはどうだろう。彼が消える、と考えただけで、心臓がきゅっと軽くつかまれたように苦しくなる。これに名前を付けるなら、何が一番当てはまるのか。

「ま、とりあえず」

 ふっと思考の闇から現実に引き戻された。彼が目の前でにっこりと労うように私に笑いかける。

「麻里はよくやった。だから大丈夫」

 断言するユウレイさん。その自信ありげな姿に、救われるような心地がしたのはなんだか恥ずかしくて言えなかった。

 代わりに私は一つだけ報告する。

「そういえば店長に冷房の事伝えたら、熱中症で倒れられても困るからって、取り換えてくれることになったよ」

 空調を新調する、と続けようとしたが出来なかった。彼は驚いたように目を見開くと無邪気に歯を見せて笑った。

「やった! これでキッチンにも普通に入れるようになるね」

 言うなり私の方へ勢いよく飛んでくると、私にふわりと抱き着いた。

「ありがとう、麻里」

 耳元で彼の声が響く。喜ばれて嬉しいはずなのに、なんだか切なかった。

 確かにそこにいる。けれどその身は滅び、温もりも重みも一切感じない。彼がすでに自分とは違う存在なのだ、と嫌でも考えさせられた。

彼は私が声を掛けるまで誰にも気づいてもらえなかったと言っていた。その辛さは、きっと生きている間に知ることなど、出来ないのだろう。

「……隼平くん、また来てくれるかな」

 少し暗くなった自分を奮い立たせるように、彼から一歩引いて、彼に問う。一瞬きょとんと首を傾げた彼は、再びにっこりと微笑んで、私に自信ありげに言った。

「きっと近いうちに来てくれる」

 気が付くと、強く、地面に叩きつけるかのように降っていた雨の音が、すっかり落ち着いている。分厚い雲すら溶かされて、優しい月の光が、店内に設置された椅子を照らしていた。


 金曜日。雲一つない青空が広がり、直射日光に背中を押され、店に寄っていくお客様の数も増えた朝。火曜日から分厚い、灰色雲の塊は散り散りになり、翌日から高く登っては地球に絶え間なく熱を送る太陽が、仕事をするようになった。

 店としては嬉しいことではある。暑いせいで冷たい飲み物がよく売れるし、人の出入りも多くなる。

 ただ問題としては、私も人間であること。お客様と変わらぬ人間であり、冷房がガンガン利いた店にいる。非常に困る。

 理由は簡単。冷房に慣れ過ぎて、昼間に外へ出ることが億劫になってしまったのだ。

しかし暑いからと朝から昼にかけてのシフトに入ってくれるような人がいなくなってしまったために、私はここにいる。

 身体的にあまりよろしくない。外に出たくないのに無理やり出てきているから軽くストレスを感じている。

さらに夏に片足を突っ込んだあたりから、機械のメンテナンスの仕事が二つ分増えてしまった。壊しそうなギリギリのラインを維持しているような状態なのである。

 まあでも、今日くらいは我慢してもいいかもしれない。

「ずいぶんご機嫌そうですけど、大丈夫ですか?」

 まだ時刻は八時を少し過ぎたところ。だというのにニコニコしている私を心配してくれるらしい。朝比奈が駆け寄ってきた。

「ちょっとね」

 軽く誤魔化してから、店内を見回す。視線がゆっくりと、目当ての場所へと動いた。その先には、ちょこんと小さな体。やはり少し汚れている、隼平がいた。

 彼もこちらを見ていたらしい。私の視線に気付くと、やや控えめに微笑んだ。どこか後ろめたそうな表情から、この間の一件を気にしているらしい。

 そんなこと気にしなくていいのに、想いながら私は微笑んだ。実際かなり気にしていた私が言えたことじゃないから、まあ本人に言いはしないけど。

 私の視線の先にいる人物に気付いた朝比奈は、私と彼を見比べる。そして一歩分私から距離を取った。

「滝沢さん、子供好きなんですか」

 朝比奈がニコニコしながら言ってきた。そういえば彼女は保育士を目指していたんだったか。「ええまあ」とにこやかに答えて終わらせておいた。嫌いではないのだが……。

彼女は口を開いて何か言いかけたが、丁度そこに三人組の親子がきたので、オーダーを取るついでに彼女から離れた。

 まあ勘違いしてしまうのは仕方がないだろう。今回は私が私情を挟んだ故に起きた事態でもある。後で少しだけ責任取っておくことを決めるなり、仕事に集中した。


気付くと十時になる数分前。朝比奈とのやり取り以降は、店が混んでしまい、結局私のシフトが終わる前まで続いてしまった。

しかし売り上げは上々で、上司に嬉しい報告が出来るとちょっとだけ気分がよくなっているところに、見覚えのある半透明な影。隼平の近くのテーブルに座って、頬杖を突きながら彼をじっと見ていた。

隼平の前には、朝のメニューの中でも一番売れているマフィンと、小さいサイズのドリンクが置かれいた。それをゆっくりと味わうように食べている。

彼のいる場所だけ花が見えるような気がして、少し笑ってしまった。目を瞑ってよく噛んで食べているので、きっと美味しいのだろうということがよくわかる。

目を瞑ったまま食事をしても特別美味しいわけではない、と誰かが言っていた気がする。実際にやってみるとわかるからやってみろ、と。……結局やってみたが、集中できなかったのでよくわからなかった。

「じゃ、私そろそろ上がるね」

 あとから来たマネージャーの一人に声を掛ける。まだ学生だが仕事ができる女性だ。生来はファーストフード店に就職などしないだろうが、来てくれたら嬉しい。

 少しきつめの顔をした彼女が微笑む。

「はい、滝沢さんお疲れ様です」

 そう言って彼女はキッチンに消えた。マネージャー業務の一つで、仕事の采配をしに行ったのだろう。

 そのまま事務所に引っ込んで着替えても良かったのだが、私は一度店内を見回した。隼平のところで見回すのをやめるのも先程同様である。

 しかし今回の目的は隼平ではない。ユウレイさんの方だ。さっきまでは彼のすぐ傍にいたはず。だがそこには少しやつれた中年の男性が一人ぼんやりと座っているだけ。

 どこにいるだろう、と店内を再び見回すも、やはり彼は見当たらなかった。まあ用があったわけではない。

 することもないので、私は何人かに声を掛けて事務所に引っ込む。店内で見当たらなかったので、事務所にいるかとも思ったがここにもいない。

「ってことはキッチンかな?」

 独り言が口から飛び出して、ハッと口を抑える。人がいないとはいえ、独り言は恥ずかしい。人がいないことを確認し直してから、ため息を吐いた。

 それからすぐに上司に向けて報告書を作成し、軽く誤字脱字を確認してから送信する。これで今日の仕事は終わりだ。

 あとは任意で確認する新しいメニューの確認とインフォメーションの更新がないか確認して……それから着替えて事務所を出た。


 店に戻ると、昼前だからかそこそこ人が増えていたが、やはり平日ということもあってかそこまで混んではいなかった。

 カウンターに並び、待つ。まだ昼ピーク前なのでカウンターは一人で裁いているらしく、進みがあまりよくはない。

 時間を持て余して、何気なく隼平の方へと視線を向けると、彼は分厚い本を読んでいるのが見えた。本自体はビニールで覆われている。更に帯がなく背表紙の下には白いシールが貼ってある。おそらく図書館の本だろう。

 その本を前に真剣な表情の彼。しかし時折彼は楽しそうに目を細めているので、読まれている本に興味が沸いた。

 残念なことに、カウンターから彼の席までそれなりに離れているために、表紙に書かれているタイトルまでは読むことが出来なかった。

 少しだけモヤモヤとしつつ、後で軽く見せて貰おうと決意した途端、前に並んでいたお客様が横に移動したので、注文しに行った。


 悩んだ末、結局いつも通りのセットを頼む。それを受け取って私は隼平の座っている席に向かって歩みを進めた。

「――こんにちは、隼平くん。数日ぶりだね」

 本に集中している彼に声を掛ける。ハッと我に返るように顔を上げた隼平。その瞳は一瞬揺れたが、すぐに私を捉えて細められた。

「お疲れ様です、滝沢さん」

 どうぞ座って下さい、と言った隼平の言葉に甘えて私は席に着く。荷物を置いて、モンスターが鳴きかけているお腹に、さっそくマフィンを放り込んだ。

「ん、おいしい」

 何気なく感想を述べる。その言葉にふっと笑った隼平は私の言葉に返事をした。

「安いし美味しいので、ここ好きです」

 子供らしいのか分からないが、店の事をよくわかっているな、と思いながら「ありがとう」と返す。

 そこで会話が途切れる。それをチャンスと取って、黙々と食事を勧めた。

 ゆったりとした音楽が店内を流れては、消え、流れては消えて……三曲目くらいになった頃。私がポテトに手を出したところで、隼平が口を開いた。

「火曜日は、すみませんでした」

 ポテトを撮ろうと伸ばした手が止まる。何も言わずに隼平へ顔を向けると、彼は同時に俯く。少しだけ伸びた前髪がサラリ、と音もなく落ちる。

「僕、悩んでいたんです。相談すべきか、しないべきか。……滝沢さんはこの店の人だってだけで、それ以外は接点なんてないし、迷惑だろうと思ってたんです」

 けど、と続けようとして、言葉に詰まったように黙る。私は何も言わずにただ彼の次の言葉を待った。

 三十秒も経たないうちに彼は言う。

「けど、母が倒れたら困るから、一刻も早く誰かに相談して、アドバイスしてもらわない取って、思って」

 そしてグッと拳を握ってから顔を上げてじっと私の目を見る。必死に縋ろうとする真剣且つ涙で濡れた瞳を、瞑ることなく言った。

「僕の悩み……聞いてもらえますか?」

 隼平の言葉に私は頷く。

「もちろんよ」

 私が全く拒否することなく頷いたことにびっくりした彼は、しばらくポカン、と口を半開きにしていたが、すぐに我に返る。一筋の雫が彼の薄汚れた頬を洗い流していった。


「僕の家、母子家庭なんです」

 父がいないので収入源は全て母。父が病死だったので母は再婚を考えられなかったらしい。結局隼平の母はいくつも仕事を掛け持ちして、内職もしつつ彼を育てている。学費も何とか払えているような感じではある。

 しかし彼女には欠点があった。家事ができないのだ。炊事洗濯、その他もろもろ。

「理由は、あまりのドジさ。何をやらせても仕事を増やすものだから、おばあちゃん……お母さんの母たちに止められたほどだったとか」

 そしてそのドジさを補ってくれる相手を見つけたが、他界し、家族にも頼れずにこうなってしまったのだという。

 病死した彼にぞっこんだったという彼女が再婚を考えられない理由はわかる。さらにそこにドジが加われば、相手が見つかるはずもない。

 結局彼女はとにかく仕事をしてお金を稼ぎつつ、直していくしかないと判断して掛け持ちをしているのだとか。

 家事も最低限しかできない母の姿を見て隼平は一つ思いついた。自分が家事をすればいいんじゃないか、と。

 ところが遺伝というものは恐ろしい。図書館で基本的な家事のやり方の書かれている本を借り、その通りにやった結果。

「料理をすれば皿を落とし、洗濯をすれば洗剤を入れ忘れ、掃除をすれば足を滑らせて怪我をする始末」

 最近は料理がちょっとずつできるようになったとは言うが、火傷は絶えずしてしまう。洗濯物はできたが、掃除が全然ダメで、ずっと失敗続きが原因で薄汚れているのだ、と隼平は項垂れた。

「ネグレクトではないんですが、不器用でドジなので、仕方ないんです。母のためにもちゃんと家事ができるようにならないと、とは思っているのですが……」

 恥ずかしい話なので相談すべきか本当に悩んでいました、と彼は笑う。

 彼の話が終わると、思わずため息を吐いてしまった。それをどうやら勘違いしたらしい。隼平が慌てて言い繕った。

「ご、ごめんなさい。くだらなかったですよね」

 その言葉に私は鋭い視線を彼に寄越す。ビクッと肩を震わせた彼の頭を引っ掴むとちょっと強めに撫でた。

「え、え?」

 訳が分からない、と言うように目を白黒させる隼平に向かって私ははっきりと言い放った。

「キミ、バカね。本当にくだらないことで悩んで」

 私の言葉に動きが止まった隼平。困惑気味にその瞳を揺らして、交互に私の両目を行き来している。

 隼平の動きを気にしつつ、ふいに飛び出した言葉に続ける。

「隼平くんは頭が良いけど、慎重になり過ぎ。そういう相談は、手遅れになる前に相談しなさい」

 大人として、心配する周りの人間の一人として断言する。きっと私以外にも彼を心配していた大人がいたはずだ。

「ごめんなさい」

 理解できてないのか、違う意味での謝罪なのか。突っ伏しつつ隼平を見ると、顔が赤くなっていた。驚いて凝視すると、堰を切ったように大きな瞳からポロポロと雫が落ちていく。口が半開きのままなので、無意識? 

「ちょ、隼平くん? 大丈夫?」

 私の声にようやく自分が鳴いていることに気付く。けど動きは鈍く、ポロポロと落ちていく涙の半分も拭いきれていない。私は自分のカバンからタオルハンカチを取り出して彼の顔を拭う。

「……ありがとうございます」

 隼平は私の手からタオルハンカチを受け取ると顔を覆った。しばらく震えていたが、次第に落ち着いていった。隼平がタオルハンカチを軽く握って膝の上で丁寧にたたむ。

「僕、今までそんな風に言われたことなかったので」

 そこで一旦言葉を切る。次に必要な言葉を探すように顎に手を当てて、視線を宙に泳がせてから、もう一度口を開いた。

「なんていうか、嬉しいんです」

 そう言って鼻の頭を赤くしたまま照れ笑いを浮かべた。そっか。なるほど。それを聞いて私は安心した。

「よかった」

 言ってからゆっくりと考える。隼平の悩みはドジを直して母のために家事をできるようになること……だったか。

 そう言えば一つ聞きそびれていたことがあったな、とそこで思い出し、私は彼に一つ質問した。

「隼平くん、図書館の改装工事中別にここに来る必要はなかったはずだけど、どうしてこの店に来ていたの?」

 思考を巡らすを一旦止める。同時に彼は、痛いところを突かれたように顔を歪ませた。ほんの少し視線を落とす。「言わなくても大丈夫だよ」と付け加えつつ、言ってくれることを願う。私の願いが届いたようで、隼平くんは渋々口を開いた。

「ええとですね……学校で噂を聞いて、あの、幽霊が出るっていう」

 ちらちらと私の顔を窺いながらそう言った。私の顔色を窺っている理由は、きっと私がこの店の人間だからだろう。幽霊騒ぎがかなり広まっていたのは知っていたけれど、まさか隼平の通う学校にまで広まっているとは思わなかった。

「幽霊に憑りつかれたら、その、直るかなって思って」

 その考え方に、なるほど。それなら納得、と何度か頷いた。何もないところで過ごすより、何かあるかもしれない噂になったファーストフード店で過ごす方が何倍も利点がある。

 そうか、と軽く答えながら、今もどこかに見を潜めているユウレイさんの事を考える。彼はこの話をしたらどんな反応するだろう。きっとあまり憑りつきたいとは思っていないだろう。

 椅子にもたれつつ、再び思考を巡らした。彼のドジを直す方向で現状をよくする方法……と考えれば考えるほど、分からない。気が付けばポテトはもう冷めていて、結局、明確なアドバイスも出来ないままに、隼平と別れた。


 時刻は午後六時。隼平は数日間放置してしまった家事をやるべく帰宅してしまい、私は一人店内で、夕食を食べていた。

 ここに来るたびに食べていたら太るな、と思いつつもこのポテトは美味しくて食べることをやめさせてくれない。一種の中毒すら感じてしまう。

 黙々と注文したセットを食しつつ、ぼんやりと、眠い頭を動かそうとするが、思考は堂々巡りしてしまって、全く進まなかった。仕方なくスマートフォンをいじった。

 最初はちゃんと悩みに対する受け答え的なものを探していたのだが、分からない言葉を調べて飛んで興味あるものを見てはサイトに飛ぶ。繰り返していたら、もう最初に何を調べていたのか分からなくなってしまった。

「難しく考える必要はないよ」

 聞き覚えのある声が目の前から聞こえた。少し考えてから周りを見る。……大丈夫、近くに他のお客様はいない。

 それでも慎重に、小声で返事をした。

「どういうこと?」

 視線を上げると、案の定彼はそこでふよふよと浮かんでいた。その顔はどこか愁いを帯びているようにも見えた。

「直接家事を教えてあげて。きっと大丈夫だから」

「それはつまり、隼平くんの家に直接お邪魔して、教えてあげるってこと?」

 私の解釈を披露すると彼はにっこりと笑って大きく頷いた。流石に美形だった。その仕草はきっと自然体なのだろう。綺麗だな、と思った。

 しかし次の言葉に思わず目を見張った。

「隼平くんに憑いて、彼の家まで行ってきた」

 その浮かない顔は、と言いかけて口を噤む。ユウレイさんは私の方をちらっと見て、軽く頷く。

「ドジって言ってたけど、本当に酷いものだった」

「そんなに?」

 彼は頷く。

「彼自身も頑張っているんだろうけどね」

「俊平くんのお母さんは?」

「彼女も真面目そうな人だったけど、遺伝って怖いね」

「うーん、それじゃあ家の中は……」

「ゴミ屋敷もいいとこ。あれで人が生活していると思うと、凄い」

 それ以外の伝え方がわからない、と彼は項垂れた。想像できないが、無理やり理解して私は顎に手をやった。

本当は関わりたくない。ゴミ屋敷なんて、そこら中に虫が蔓延っていると考えても過言ではないだろう。虫嫌いの私にとっては地獄でしかない。しかし、知り合った人が困っているのに、見て見ぬふりなど出来るだろうか。否、出来ない。

「無理していかなくてもいいよ」

「……でも、どうにかしてほしいんでしょう」

 私は意を決して、立ち上がった。すでにポテトの入っていた箱は空になっている。

「行くよ」

 周りには帰り支度をはじめているように見えただけだろう。それくらい小さい声だったが、ユウレイさんにだけはちゃんと届いている。

 ユウレイさんは今度こそ嬉しそうに笑って、それはそれは嬉しそうに、頬を綻ばせたのであった。


 今日は土曜日。本日も雲がほとんどない晴天の中、何年振りかもわからない図書館を訪れた。そしてしばらく待ち伏せしたところ、隼平が来た。

 あの後結局答えが出せなかったこと。そして、どうせなら直接私が教えればいいかな、と思ったことを、捲し立てるように彼に話した。

 それを聞いている間、彼の表情は著しい変化を見せた。最初はきょとんとしていたが、だんだんと申し訳なさそうに俯きがちになった。私の考えを聞いているうちに、希望を見出した表情になったかと思えば、最後にはポカンと動きが停止。

 しかしこれは良い案だと思った。シンプルで単純。私の案ではないが、きっと隼平は了承してくれるだろう。

「……家の中、とても人を招き入れられるような状態ではないんですけど」

 どこか理解しがたい話だったかな、と思い始めたところで、彼がボソッと口にする。半分渋々、と言った感じではある。だが完全に突っぱねられたわけではない。これなら上手くいくだろう。

 ふと、隼平が顔を上げた。

「いつ来ますか?」

 聞かれるとわかっていた。この質問には、もちろんこれしかないでしょう。

「いつでも。何なら今日でもいいよ」

 びっくりして彼がよろめく。その仕草すら大人のそれだった。というか、隼平が、感情豊かではあるものの驚いて叫んだり、声が大きい人間じゃなくてよかった。

 ふっと図書館の本へと彼の視線が動く。そういえば今日は土曜日。休みだし、さすがに読書に没頭したかったか、と懸念を抱く。ところが。

「……汚れた格好じゃなくなったら、普通に学校に通えますかね?」

 本に視線を向けたまま、彼は言った。私にではなく自問自答に近いだろう。案の定私が何も言わずとも、彼の瞳には決意の色が揺らいだ。

 その瞳を私の方に移すと、そのまま叫ぶように――図書館なのでフリだけ――私に向かって言った。

「ぜひ、今からお願いします!」

 それはきっと小学生らしい彼のお願いだろう、と直感的に感じた。


「ここです」

 隼平の案内の元、図書館からも、、学校からも、適度に離れ、且つファーストフード店にだいぶ近いところまできていた。途中でユウレイさんにも声を掛けたところ、憑いていくと言うので、私に憑りついてもらった。厳密にいえば三人というわけだ。

 隼平の住んでいる場所は寂れている印象のアパートだった。築十二年というから、そこそこ新しい方だろうと考えていたのが、見事に覆された気がする。

「何とも形容しがたいでしょ」

「うん。ここで母子二人で生活してると思うと、悲しくなるな」

 金銭面でとやかく言っても仕方ないとはわかっている。だから本人には言わないけれど、子供のために親に相談くらいはしてもよかったんじゃないかと思った。

 幾つもある扉の一つに近づくと、彼は鍵を取り出し、ドアノブを回した。ゆっくりと開かれた扉から、変な匂いが漏れ出してきて、一瞬息が詰まる。

「オレ幽霊だから、匂いまでは分かんないんだけど……大丈夫?」

 ユウレイさんが私の反応を見て、ちょっと引きつつ興味津々と言った風に聞いてきた。正直答えたくないが、隼平の顔を見ても匂いのきつさには気付いているみたいなので、言っても平気だろう。

「率直に言うと食べ物の腐った匂い」

 私が言うと、隼平は肯定するように首を縦に振った。ゆっくりと扉を開きつつ正解発表をする。

「母が、一か月前にもらったお隣さんの肉じゃがを忘れていて、さらに捨てようとしたら生ごみだからと返されてしまって、そのままなんです」

「うん、わかった。ありがとう」

 解説のお礼を述べて、私は腐海へと足を踏み込んだ。途端、ねちょっとしたものを踏んでしまい、慌てて足を上げる。そこには腐りかけのバナナが置かれていた。

「……現実でバナナが足元に落ちてることなんかあるんだね」

 ユウレイさんが憐みの籠った視線を投げてきた。正直、もうなんかどうでもよくなった。私の様子に隼平が早くも悲しそうに首を垂れる。

「ごめんなさい。たぶん母が掃除しようとした結果だと思います」

 掃除しようとして、どうしたらこうなるのか。逆に気になったが、何が起こったのかは教えてもらえなかった。

 しかしまだ玄関という事実に、ため息しか出ない。そこから廊下はもうゴミ袋の山で、とにかく適当に詰め込んでるようだ。

 所々穴が空いているし、瓶とプラスチックが一緒になっているし、あからさまに途中で諦めたのがわかる。

 隼平は私の言いたいことがわかるらしく、一緒になってため息を吐いた。

「先に行ってるね」

 ユウレイさんはそう言って先にリビングの方へと飛んで行った。

 その後を追うように隼平が先へと進む。申し訳程度ではあるが、彼がゴミとかよくわからない塊を周りに退かして進んでくれるので、比較的通りやすくはあった。

 とは言えやはりこの状況だと、人が生活しているのも怪しい状態になっている。今日だけで終わるのだろうか。

「リビングはこの先です」

 そう言って隼平がリビングへ続く扉を開いた。その瞬間に眩しい光が差し込んできて、思わず目を目を細める。

 どうやら丁度夕日が差し込んでいたらしい。それを本来遮るはずのカーテンが開かれたままだった。

 その光が照らし出した部屋はというと。

「……廊下よりは、まだマシなのね」

 そう、足の踏み場がないのは本当に廊下と玄関に限られていた。リビングは確かに人が生活している形跡が見られる。

 ただしよくはない。カーテンは無造作に放られてそのままだし、服はかけっぱなし放られっぱなし。布団も引きっぱなしでキッチンは狭いせいか比較的片付いているが、お世辞にも綺麗とは言えなかった。しかも書類までもがバラバラに置かれていて、逆に心配になった。

「これ今日だけで終わらせられるかな」

 私の言葉に隼平が、渋い顔をして唸った。本人も多分分かって入るだろう。今日はゴミ出しが出来ない。なら明日の日曜日に出せるゴミは出してしまいたい。

「ゴミ出しは明日の分しかできないだろうけど、とりあえず片付けしていこうか」

 言うと、目の前にユウレイさんが飛んでくる。半透明な体に夕日が透けて見え、まるで心臓部が光っているように見えた。

 身体が陰っているが、透けているので心臓部にぴったりとあてはまる夕日。その光が身体に張り巡らされた血管のようにも見える。一瞬だけ確かに彼が、生きている人間に見えてしまったのだった。

 しかししばらくして夕日がズレ、結局ユウレイさんはユウレイさんなのだ、と嫌でも思い出す。

「オレが霊力使ったら、効率よく片付けできるんじゃないかな?」

 彼の言葉がすぐには自分の中に入ってこなかった。数秒経って少し前の、幻想的なユウレイさんがようやく通り過ぎた過去になったところで、状況と言葉の理解が追いつく。

「……霊力、使って平気なの?」

 私の心配する言葉に、彼は大人びた微笑みを返す。その様子が、最近見ていた彼の中でも、断トツに先を行く人間の表情をしていることに、何故か胸が締め付けられる心地だった。

「まあ、必要になったら声かけて」

「わかった。……霊力、持たなそうだったら先に店に戻ってて」

 何となく心配でそう言った。彼は嬉しそうに目を細めた。タイミングを見計らったように、隼平が掃除用具を探し出してこちらに渡す。

「じゃあ、滝沢さん……片付け始めましょうか」


 確か、図書館を出たのは午後四時半だった。そこから二十分ほど歩いた先に隼平の家。ということは現時刻は……。

「もう七時半か」

 あれから約三時間も隼平の家を掃除していた。それに気付いたのも、隼平の腹の虫が鳴き始めたからだ。

 いつの間にかユウレイさんは姿を消していたので、おそらく店に戻ったのだろう。

「まあ大分片付いたし、そろそろ切り上げる次いでに夕ご飯にしたほうがいいかな」

 そう言ってからリビングを見回した。

 二人暮らし故にさほど広くないアパート。その一室をリフォームレベルで片付けた。最初のごみ屋敷状態だったこの場所。

 布団は綺麗にたたまれて隅へ追いやられ、バラバラに放られていた書類は一か所にまとまった。さらに適当にまとめられていたゴミの分別も済み、日曜日に出すべきゴミはすでに玄関に置いてある。

 廊下はというと、足の踏み場すらなかったはず。ところが綺麗に分別し、まとめた結果。少し狭くはあるが、フローリングが見える程度には進んだ。

 それから、しばらく使っていなかったのであろう湯舟。とんでもない異臭が漂っていたのだが、それもほとんど消えるくらい掃除が行き届いている風呂に生まれ変わった。

 比較的綺麗を維持していたキッチンもさらに掃除を行って、すっかりピカピカのキッチンに戻ったのである。

 そしてそれをすべて口頭で伝えて隼平に極力やらせるようにしたのだが、思っていた以上に彼は呑み込みが早く、ドジさがなければ器用な人間になっていただろう、と思った。まあ過ぎたことを懸念に思っていても、仕方ないというものだが。

 私が立ち上がって背中を伸ばすと、彼がダンボールの山から顔を出す。

「まさか、こんなに片付くとは思っていませんでした」

 呆気に取られているかのように。彼は興奮気味に言った。その目は爛々と輝いていて、小学生らしい表情をしていた。見ているこちらまで嬉しくなる。

 しかしすでに時刻は八時前だ。あまりゆっくりとしていられない。

「お母さん、何時に帰ってくるって?」

 きらっきらの表情をあちこちに向けてはニコニコし始めた隼平に声をかけた。ハッと気が付いて隼平がこちらを振り返る。

 その隼平の姿も先程綺麗にした風呂に半ば強引に放り込んで、しっかりと洗わせたので、掃除を始める前とは打って変わって、すっかり綺麗になっていた。

 彼的には普段と違うことに戸惑いを隠せていなかったが、嬉しそうに笑っていたのは確かだ。

 私に視線を移した彼はうーん、と首を傾げていたが、まだ手の付けられていない机から一冊のノートを取り出す。 そこには隼平の母の仕事のスケジュールが書かれているようだ。

 隼平はいくつかページをめくって目を泳がせる。

「今日は、十時に返ってくるみたいです」

 十時か……。今から二時間半後。そのくらい時間があれば、夕ご飯の支度をしておくこともできるか。

 私は少し悩んでから、冷蔵庫の中身を確認する。あるのは栄養ドリンクと水。それから少ししなっているキャベツくらいだった。調味料はそこそこそろっている。

 近くのコンビニでサラダチキンとツナ缶を買って、コンソメもあれば購入。後はマヨネーズが期限切れなので売っていれば買うことを決める。

「隼平くん、一緒にコンビニまで夕ご飯の材料買いに行こうか」

 まだ顔を輝かせながら部屋を眺めていた彼に声をかける。今度はちゃんと振り返って、私に向かって大きく頷いた。仕草は小学四年生らしいものになっていて、ほんの少しうれしく思った。


 今夜は晴れていたので、あまり綺麗とは言えない空気の中、夜空にはいくつか星が輝いていた。今日に限っては月が出ていない。新月だったかが、と後から思い出す。

大分暗くなってしまった道の先にある二十四時間営業のコンビニへと足を運ぶ。その途中に私が勤めるファーストフード店があり、ここは大通りなので人気がなくなることもほとんどない。

 真っ暗で人通りの少ない道よりはずっと安全なので、こちらに来た。コンビニはもう目の前だ。

入るなり、すぐに目当ての品がある奥へと進む。サラダチキンを二つ、ツナ缶を二つ、コンソメは……なさそうなので諦める。最後にマヨネーズを手にとってから隼平の方を見た。

「何か欲しいものとかあった?」

 少し浮かない顔をした彼。何となく心配になって声をかけるが、彼は困ったように微笑んで話してはくれなかった。

 結局すぐに私たちはコンビニを後にする。時刻は、すでに八時になろうとしていた。

帰りはほとんど無言のまま、まっすぐ目的地に向かって歩いていた。夜の空気が、二人の間に降り立って、居心地悪さを悪化させるようだった。

アパートに戻ってきて、すぐにカギを取り出した彼は、差し込む直前に動きを止めた。

「どうしたの?」

 私が声をかけると、彼がゆっくりと振り返る。目一杯にためられた涙が、街灯の光を反射して光ったように見えた。

 しばらく何か言いたげに口を開いて、そのまま固まって私をじっと見ていたが、やがて動き出した。

「滝沢さん、なんでここまでしてくれるんですか? なんで、先生でも限界があるんだって、断られたのに……なんで」

 その目は信じていいのか、悪いのかわからずに迷いが生じていた。先生とは、学校の先生だろうか。それともスクールカウンセラーの先生か。

「先生は、うん、頑張ってどうにかしようとしてくれたんです。けど男の人だから、母子家庭の子供の家に、頻繁に出入りできないんだって、泣いてた」

 隼平は言いながら、だんだんと視線を下に落としていった。同時に子供らしからぬ悲壮感が彼を包み込んでいく。

 なんて言ったらいいのかわからない。けど何か言わなければならない、と思った。そう感じたのに私の頭はまるで言うことを聞いてくれなかった。かけるべき言葉か見当たらなかったのだ。

「僕はただ、お母さんと普通に生活できれば、それでいいんだ」

何も言えない私には、彼の頭をそっと撫でてあげることしかできなかった。彼は少しだけ私に微笑むと、玄関のカギを開けた。最初よりは片付いた玄関にゆっくりと足を踏み込んで、扉を閉めた。

 彼は、厳密にいえば泣いていないが、物凄く泣きそうな表情をしていた。この年代の子供にしては静かに、その大きな瞳からあふれんばかりの雫をためて、しかし落とすことなくじっとしていた。

 泣きたくなったら彼なりに泣くだろう。私は無言で買ってきた食材をキッチンに広げて、手早く夕ご飯を作り上げた。


「結局あの子、大丈夫だったのかな」

 翌々日の話。雨が降りそうで降らない天気……所謂曇りが、重く圧し掛かってくるように、どんよりとした気分で、カウンター席に突っ伏していた。ユウレイさんが隣でふよふよと浮いたまま、私を軽く慰める。

「でもさ、掃除もできたし、家事も基本は学べたんだから、大丈夫だよ」

 何が、と言い返したくなってしまう。それくらいあの日の夜は最悪だった。自分の貧困ボキャブラリーにほとほと呆れて、グイっとホットコーヒーを煽った。ジワリと喉の奥が焼けるように熱くなる。少し火傷したかもしれない。

「もう少し何か言えてたら、こんな悩まないのに」

「大丈夫だって。彼はちゃんと成長する」

「どうして断言できるの」

「俊平くんはまだ子供なんだから。些細な出来事なんて忘れるよ」

 そう言ってユウレイさんは、窓の外へ視線を移して微笑んだ。つられて外を見ると、遠くから小さな体が走ってくるのが見える。段々と大きくなるその姿は、最近見慣れたものだった。

「ほら、元気に今日も来てくれたよ」

 彼がそういう前、すでに私の口角は上がっていた。不思議とさっきまでのどんよりした気分はどこかへ消え去り、だんだんと温かいものが胸の辺りに広がっていく。

「……ありがと、ユウレイさん」

 ボソッと、しかしちゃんと彼に向けて言った。いつの間にか視界の端から彼の姿は消えていたけれど、きっと届いていただろう。

 本日の天気予報なら、これから晴れると言う。なら今日はいつもよりきっと店が混むのだろう。お邪魔にならない程度に、俊平くんと話すときの話題を考えながら、小さな体が店の扉を潜ってこちらに来るまで、待っていた。

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