第2話

なんだか店がいつもより騒がしい。


 季節は五月の下旬。月曜日で、、お昼過ぎには客の出入りも少なくなる時間となってからが私の出勤時間である。

 駅より少し離れた、丁度国道につながる道にある、一店舗のファーストフード店。内側に入ると住宅街がある。そんな場所は、平日でも土日でも、あまり変わらないほど忙しない職場。さすがに月曜日はそこまででもないが。

 しかし店内は普段の月曜日の様子とは打って変わって、変ににぎわっていた。それも大半がスマホをいじっていて、何かを探すようにカメラを動かしている。

 不思議に思いつつ従業員用の出入り口の中に滑り込む。そのままいつも通り事務所に顔を出すと、丁度休憩中の後輩こと、朝比奈が元気よく話しかけてきた。

「滝沢(たきざわ)さん! おはようございます!」

 その純粋な笑顔に引きつつ「おはよ」と返す。すぐにマネージャーと店長がジム仕事をするのに使う部屋に入ると、朝比奈がその後ろをついてきていた。

「元気だね、どうかしたの?」

 準備しながら話しかけると、待ってました! と言わんばかりのきらっきらな表情で返事する。

「はい! 今店が大変混んでいるんですけど、原因知ってますか?」

 すぐに本題に写らないあたり、意地悪な性格が分かる朝比奈。自覚はあるのだろうか? という疑問はひとまず置いといて、私は降参の意味で両手を挙げて首を振る。

「三日連休だったからわからないな」

 ここ、大手企業のチェーン店は仕事の回りが早い。というのも、毎月のように期間限定で新メニューを開発しては、売り出すからだ。

 もちろんそれはバーガーに限らない。デザート類でも、サイドメニューでも、キッズメニューでも必ず二つ以上出している。

 一店舗に過ぎないこの場所も例外ではなく、三日も休んでしまえば何がどう変わったかなど、誰かに報告されない限り知る由もないわけである。それにこの三日間は確か新メニューの発表などなかったはず。つまりこの店限定で何か起きた、ということになる。

 朝比奈はニコニコしながら私にスマートフォンを見せてきた。

「……『ファーストフード店で心霊現象多発』?」

 書かれていることをそのまま口に出してから、サーっと血の気が引いていく。まさかこの記事って……。

「そう! この店のことです!」

 あまりにオカルトチックな新聞の記事。私が休んでいるうちに一体何があったんだ。

「初めて滝沢さんが休み取ったから、みんなで頑張ろうってなった後ぐらいからでしょうか? ものがなくなったり、かと思えば絶対置かないだろう場所から出てきたり、夜中とか人影を見たって人もいて、何人かやめて行っちゃったんですよ」

 多分その人たちがマスコミにリークしたんでしょうね、と笑いながら語る彼女。仕事前に頭を抱える羽目になるとは思わなかった。

 彼女にお礼を言うなり、三日ぶりのパソコンを開くと、やはり上からのメールが何通か届いている。内容はどれも幽霊の存在についてだ。

 店長に相談しようかとも考えたが、店長と言っても複数店舗を管理する方なので、実質私がこの店舗の店長的位置になる。それに余計な仕事を増やしたら、後々どんな文句が飛んでくるかわかったもんじゃない。

 仕方ないので、取り合えず張り紙を用意することにした。それでも幽霊目当ての客が減らないようなら、また考えればいい。きっと一時的だろうから。

 しかし来て早々事務仕事に追われるのはやはり辛いな。今度から休みは一日ずつにしようと決意しつつ、さっさと上司にメールを返して店舗の売上などの確認から終わらせていく。

 売り上げと店舗内にあるお金の計算。一致していなければ犯人捜し。機械の故障はなかったか。機械のメンテナンスは行われているか。高校生は八時間を超えて働いていないか。資材の発注は住んでいるか。

 全ての確認と連絡が終わるころにはすでに三時間が経過していた。パソコンを前に三時間も動かずにいたせいか、肩も腰もバッキバキである。そこに耳障りなほど明るい声が飛んできた。

「お疲れ様でーす!」

 私が来てから午後のシフトだったのか。終わってもあんなに元気でいられるなんて、うらやましいな。

「お疲れ様」

 私のいるパソコンの置かれている場所、マネージャールームから顔だけを事務所、クルールームの方へ覗かせると、朝比奈が気付いて笑った。

「あれからずっと店混みっぱなしですよー。噂ってすごいですね」

 聞こうとしていた店の状況を話してくれる朝比奈に複雑な笑みを返す。混んでいた理由はおそらく例の噂のせいだろう。

 確かにファーストフード店で心霊現象が多発するなど、オカルト好きでない私は聞いたことなどなかった。しかも自分の勤め先でだ。

 ただ昔から夜だけ働いてくれているという主婦さんが、幽霊がいるとは言っていたが、何故今噂になっているのだろうか。

「この後シフトですか?」

 朝比奈が冷蔵庫からアイスのカフェラテを取り出す。そういえば水分取ってなかったな、と思いながら、頷いて。

「閉店までよ」

「今夜、絶対混みますよ~幽霊の活動時間的に」

 まるで死亡フラグ、と言わんばかりの困り顔に、苦笑して返す私。ま、その内収まるでしょう。


 噂なんて次第に消えてくだろう。そう考えていた一週間前の私を心底恨む。その噂のせいで、今は大変なことになっているのだ。

 まず噂をどうにかしようと張り紙を張った結果、ほんの少し客足が途絶えた。が、今度はマニア層の客がやってきて、長時間居座るようになった。噂を喜々として語り合っているのはいいが、うるさいからどうにかしろ、と常連のお客様からの苦情が絶えない。

 さらにさらに、心霊現象が頻繁に起こるせいだろう。アルバイトをしていた学生の数人がボイコットするという事態。

 そんな状況でアルバイトの募集など来るはずもなく……。店は崖っぷち状態を維持していた。

 しかしそれも維持できるわけがない。


「滝沢、すまん……」

休み明けの仕事が始まってから、一週間が過ぎる頃。店長が電話越しに苦しそうな吐息を交えて伝えてくる。

「今日のクローズは頼んだ……」

 そしてそのまま連絡は途絶えた。元々身体が弱いらしい店長。だというのに複数店舗管理をしている時点で、身体を壊しかねなかったのだ。責めるのは筋違いだろう。

 私は通話を終えた。気合を入れるために買ってきたカツ丼を、事務所に備え付けられたレンジに放り込んだ。

 時刻はまだ、昼の三時。やるしかない。

 レンジが温め終了の合図を鳴らすと同時に、私はカツ丼を乱暴に掴み取る。立ったまま蓋を取り払った。

 お肉の良い香りが空腹を感じつつある身体を包み込んでいく。香りを楽しむのは最小限に抑えて、私は米と共に肉を口いっぱいに放り込んだ。うん、美味しい。

 勢いのままにゴクリ、と飲み込んだ。肉が取り込まれて全身に行き渡っていく感覚が心地いい。それを何度か繰り返す。空っぽの胃に溜まっていくカツ丼のパワーが、段々と私の精神を満たした。

 食べ終わった頃には七割ほど回復。しっかりと口元の油を拭いとる。軽くメイクをし直して、鏡に向かって笑顔を見せた。

「いらっしゃいませ」


 しかし現実はそう甘くないってことを忘れていた。やっぱりカツ丼のせいかな。一瞬でも私一人でもどうにかできる、と思ってしまったのが運の尽き。

 午後は基本四人で店を回していたが、三人に減り、店は反比例して混雑が酷くなっていった。

「滝沢さん滝沢さん、おもちゃがもうないです!」

「滝沢さん、電話が」

「ごめんなさい滝沢さん! 商品届ける前に落としちゃいました!」

 至る所から声を掛けられ、パニック状態が続いた。途中に休憩があったはずなのに、行く余裕すらなかったほどだ。


 午後九時を回った頃、ようやく店内は落ち着きを見せ始めていた。遠くからきていた客も多かったのだろう。十時になる頃にはほとんど常連のお客様たちだけになっていた。

 そこでタイミングを見計らったかのように、帰りたいと愚痴を言い始めるアルバイトの学生たち。

 夜に入ってくれている主婦こと水戸さんが、見かねて私に「今日は終わりでいいんじゃないかな?」と聞いてきたときには思考回路は殆ど機能していなかった。

「じゃあ、終わりで。今日は本当に、ありがとう」

 引き攣った笑み。しかし彼らも疲れが限界に達していたのだろう。お礼を言うなり店をゆっくりと後にする。この際朝まで一人作業していた方が気楽だ。

「水戸さんも今日は終わりで大丈夫ですよ」

 諦めの混じった私の言葉に、すぐ察しが付いたらしい水戸さんは、眉をひそめる。

「けど滝沢さん一人じゃ大変でしょう?」

ごもっとも。しかし残業代は馬鹿にならない。上司から忠告メールが送られてしまっては面倒だ。

「大丈夫です。今日は大変でしたし、水戸さんもゆっくり休んでください」

 有無を言わさぬように少し頭を下げる。こうすれば水戸さんは断れないことを知っていた。案の定彼女は不満そうに眉を顰めたまま、あくまでも不本意、と言いたげにゆっくりと店を後にした。

「ん~」

 思わず叫んでから背中を伸ばす。軽く肩を回せばポキポキと心地よい音が鳴った。しかし一人になったおかげで精神的負担が減ったようだ。身体が少し軽く感じた。

「よし、やるか」

 店内はどこもかしこも混雑していたせいで掃除が行き届いていないせいで、だいぶ汚くなっていた。とりあえず、洗い物を自動洗浄機に放り込んだ後、すぐに清掃を始めた。


 まず棚から、それも高いところから順に埃を落としていく。そして床に落ちた埃やゴミを履き掃除。それが終われば今度は洗剤を混ぜた水を撒いてモップ掛けだ。

 この時掃き掃除を怠ると、モップ掛けをした時に汚れが付いたままになってしまう。だからかなり念入りにやるので時間がかかる。

 しかし無心でやれるこの仕事は割と好きだ。最初に教えられる仕事なので確かに簡単ではあるが、努力が目に見えてわかることが何より安心できる。

 そう言えば昔、母とこうして掃除をしている時に、私の幼い頃の話を聞いた。幽霊が見えるんだって言い始めたのはその頃だったらしいが、正直あまり覚えていなかった。

 さて、次にモップ掛けだが、これは二度行う。一度目は床を水浸しにして、床にこびり付いた汚れを落とす。ここで埃とかがあると綺麗にならない。

 二度目は水浸しにした床を元通りにするべく、絞ったモップを使用する。滑りやすいから要注意だ。

 あとはこれが乾けば床掃除は終わり。一度手を止めて身体を伸ばす。

 他にもトイレ掃除やら、ポテト専用冷凍庫内の清掃、また残った資材の確認もする。さらにその日の売上を上司に送ったり、次に発注しなければならない資材の確認などもある。

 その上ゴミ捨てなど、身体がいくつあっても足りない。が、生憎時間はたっぷりある。たまには一人でこうした作業をこなすのもありだろう。


 時刻は午前二時。全ての、とは言えないが、明日に支障がない程度に仕事を終わらせた私は、店の戸締りをして、店を出た。

 とは言え、仕事はまだ残っていた。翌週からのシフト表作りだ。これは家でもできる仕事だからと後回しにしていたのだ。

「ようやく帰れる……」

 なんとなく鼻歌を歌いながら、店から僅か五分の距離にある家にたどり着く。眠い目を擦りつつポケットを漁った。

「あれ?」

 家の鍵が見当たらない。勤め先の制服のポケットの中。肩にかけたトートバッグの外ポケットに内ポケット。更にバッグをひっくり返して探したが、鍵の姿は見えなかった。

 そこでハッと思い出す。店の鍵と一緒にしていたことを。そしてその鍵は店の金庫に入れてしまったことを。

「最悪だ」

 時計を確認すると、時間は二時半少し手前。丁度丑三つ時だな、と思ってから、嫌なことを思い出した。そういえば最近幽霊が出るって噂が流れてたな。

 私には微妙だが霊感があるようで、小さい頃は目視した霊の話を言いふらしては両親を困らせていたらしい。覚えていない時点で、ただの夢だった可能性もある。だからあまり気にはしていなかったが、こんな時間に自らそういう噂の場所へ行くのは気が引ける。

 しかし戻らなければ家に入れない。仕方ない。私は意を決して店への道を引き返していった。


「しっかし、なんでまた突然幽霊なんか噂になり始めたんだろう」

 今まで勤めていた中では、そんな話などほとんど噂にもならなかったというのに。心霊現象が起き始めたから?

 終わりの見えない疑問をぐるぐると考えつつ、私は店の裏口から入り込む。鍵を置いて帰るなど初めてだったから、それだけで気分が沈んだ。

 帰ったらシャワー浴びて少し仮眠とろう。そう決めてから歩みを進めていく。金庫はカウンターのすぐ裏にあるから、鍵はすぐに見つかった。

「よし、あとは帰るだけ」

 言いかけて、違和感を覚えた。冷房はすでに切っているはず。というのにここは外より涼しい。五月と言っても、もうすぐ六月になる。つまり店内はもっと暑くなっているはずなのだ。しかも一人になった時点で、冷房を切り忘れないようにと消していたから、おかしい。

 そしてゆっくりと顔を上げ、店内を見回す。テーブルも椅子も、さっきと変わらない。そのまま窓の方へと視線を移していく。

 その瞬間、思考停止。目の前のあまりに浮世離れした光景に、見えないものに対する恐怖が一気に押し出された。

 窓際のテーブルに腰を下ろした年若いように見えなくもない、半透明の男性。その寂しげな横顔を照らすように降り注ぐのは淡い月の光。まるで、そう、月下美人という花のごとき儚さを物語っていた。

 ドクン、ドクン、と脈打つ音すら聞こえるほどの静けさを壊さぬよう、そっと彼に近づいていく。すでに恐怖などみじんも残っていなかった。むしろ霊感が強い体質に感謝したほどだ。好奇心のままに近づいてしまった。

 それが、いけなかった。この時が最後の分岐点だったともいえる。


「あの」

 私の声にピクッと反応した半透明の彼。ゆっくりと振り返った。その仕草さえ絵になる美しさだったが、彼の瞳は大きく見開かれていた。

「オレが見えるの?」

 ちぐはぐ。第一声を聞いて思ったのが、それだった。あんなにも幻想的な見た目をしているというのに、声はまるで姉に甘える弟のよう。

 呆気にとられていると、目の前の彼は、子供が初めてオモチャを手にした時のように目を輝かせる。

「オレが見える人なんて初めてみた」

 そう言って近づいてくる。ふっと悪寒が背中を走った。あまりに幻想的で忘れていたが、彼は今噂になっている幽霊ではないか?

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 それ以上近づけさせないために、距離を置きつつ質問する。こういうタイプなら話ぐらいできるだろう。地縛霊とかでないならその分理性も残っているはず。

 案の定彼は首をかしげる。

「最近心霊現象を起こしている幽霊は貴方?」

 私の質問に、彼はふっと微笑んだ。そして頷く。

「そうだよ。誰かに気付いてもらいたくて。でもやっとキミに気付いてもらえた」

 途端、幽霊はパッと顔を輝かせた。

「キミに取り付かせて? それ条件に心霊現象やめる。どうかな?」

 ほわっとした言い方で、ニコニコと条件を提示。けど、まあ確かに理にかなっている……かな? 悩んでいると、彼はその整った顔に少し影を落とす。

「店をこんな状態にするつもりなかったんだけどね」

 今までもこういう幽霊は何度も出会ってきたはずだ。最終的に裏切るための演技だと、分かっているはずだ。

 なのに、何故彼のお願いを断ることができないんだろう。

「……キミには見えることが分かったし、結果的にはよかったかな」

 幽霊はそう言ってあっさり引いた。こちらを向いて右手を差し出す。

「オレは夕凪(ゆうなぎ)麗(れい)。よろしく、麻里(まり)」


 一週間が過ぎた。

 あの日は結局了承せず、店に置き去りにした。しかし翌日作り終えたシフト表と共に店に来るなり、後輩に泣きつかれたのである。

「滝沢さん! なんか前より心霊現象が起きてるんですけど、怖いんですけど!」

 慌てて店の中に飛び込めば、案の定そこにユウレイさんはいた。しかも何故かとてもやつれた姿で。

 すぐに駆け寄ると、丁度観葉植物が倒れる一歩手前だった。それを直すふりをして、彼に小声で話しかける。

「夕凪麗さん」

 途端にうつろだった瞳に光が宿る。同時に浮きかけていた細々としたものが静止して、落っこちる。ゆっくりと表情に明るさが戻ってくる。ユウレイさんは言った。

「よかった、麻里が話しかけてくれて」

 心底ほっとしたような言い方に、違う意味で気味悪く感じた。普通の人で、しかしどこか危ういその話し方をする人間は、あまり得意ではない。

「心霊現象、やめてくれません?」

 イライラしながら言いつつこめかみの辺りをトントン、と指先で叩く。つい口調に棘が混じってしまったが、ユウレイさんは気にした様子もなく苦笑した。

「ごめん、そうしたいところなんだけど……」

 謝罪を述べてから、言いにくそうに視線を泳がせる。「けど、なんです?」と催促する私に彼は観念したように言った。

「ええっと、心霊現象、コントロールできないんだ」

「は?」

 いや待ってくれ、と思った。心霊現象がコントロールできない? 幽霊なのに? いや、それは言い方が悪いな。人間が勝手に想像しているだけで本当は無意識なのかもしれない。

「ほんの少し気持ちが揺らいだだけで、軽く心霊現象が起きちゃって……。どうにかしなきゃとか、どうしたらいいんだろうって思っているうちにどんどん酷くなってしまって。オレにはどうしようもなかったんだ」

 苦しそうに、現実を受け止める人の表情を彼がする。そう、まるで我慢し続ける、今にも過労で倒れそうなアルバイトの子のようだった。

「だから、声を掛けてくれて助かった」

「……ということは、私が声をかけないと、また不安定になる、と?」

「今のところは、そうかな」

 はあ、と呆れてため息しか出てこなかった。しかし、だとしたらこちらにとってもメリットになり得るのではないだろうか。心霊現象が起きない、ということはつまり人手不足解消の希望が見えてくる。

「私が定期的に貴方と会話すればそれでいいのね?」

 ユウレイさんは真剣な表情で頷いた。しばらくじっと見ていたが、彼は表情を緩めようとしなかった。それくらいの覚悟なのだ。

「…………わかりました」

 渋々、引き受けることにした。めちゃくちゃ不本意で、しかも得体のしれないものとの取引など、心底嫌だった。が、仕方がないものはある。

 ユウレイさん曰く、自身の精神状態が大きく影響することもあるらしい。

 とにかく店に影響を及ぼしたくないユウレイさんと、心霊現象を止めないとまた大変なことになると感じた私。不本意な取引は成立した。


 もちろん面倒なことはいくつかある。ユウレイさんは普通人に見えない存在なので、話す時は工夫が必要だということ。

 一応地縛霊という立場なので、店から離れるときには霊力を使うこと。また精神状態から霊力の制御が利かなくなって、心霊現象を起こしてしまうこと。

 つまり、取り付くと言っても、店内で仕事中、あるいは休憩中にお喋りするだけ。そういう関係である。

 ただ私の立場を考慮してなのか、いつの間にか毎日の店の状況を報告してくれるようになっていた。有難いことだ。

「そういえば」

 今思い出したようにユウレイさん言った。

「そろそろ近くの高校、テスト期間だったはずだよ。学生のお客様増えるかもね」

 まさに死亡フラグだった。

 予告通り、その日は昼間に学生の出入りが激しく、喧騒が続いていた。お昼時は常連のお客様も少ないし、ファミリーが多いために元々にぎやかではある。

 しかしテスト期間は別格だ。とにかく騒々しい。特に勉強会と称してお喋りに花を咲かせる女子のグループが特に面倒であった。

 しかしお客様を追い出すなど言語道断。一刻も早く商品を出して、早めに帰ってもらえることを願って働いていた。

 時刻は昼の三時を少し過ぎた頃。ようやく店内にもゆっくりとした時間が流れ始めたとき。店内に一際目立つ女子グループが入ってきた。

 空いた席から店内を見ていたユウレイさんが反応して視線を移したのがわかる。私もなんとなく違和感を感じて彼女らをじっと見つめた。

バッチリとメイクをした、大人びた女子が率いる五人組のグループ。まるでお姫様とそのお付きの者たちだ。空気感が他の学生たちと違う。しかし違和感が一つ。その答えにたどり着く前に席に座ってしまった。

 首を傾げつつ見ていると、隣にユウレイさんが飛んできた。

「あの眼鏡の子、いじめられてるみたい」

 いつになく真剣にそう言った彼。その瞳は強い意志に燃えているが、それを知る由もない。ユウレイさんの言葉の続きは、だいたい予想が付く。

「麻里、あの子、助けられないかな」

 返事はしないままに、再び彼女らに視線を移した。あの五人は確かに美形ぞろいだが、眼鏡の女子だけ少々地味だ。まあ割から見れば、誰しもが場違いだと思うだろう。

 正直、面倒だ。というより面倒ごとは避けたい。店での立場もあるし、過去の失敗もあるわけだから。

 そう思ってユウレイさんに断りの返事をしようと顔を上げた。しかしそこに立っていたのはユウレイさんではなく、あの眼鏡をかけた少し地味な女子だった。

「す、すみません。注文いいですか?」

 なんだか落ち着きがない……へどもどしている、と感想が出てきた。一か月前からゆっくりと読み進めている『九月の恋と出会うまで』という作品で使われていた言葉だ。思い出して、ふっと表情を緩める。

「はい、いらっしゃいませ」

 彼女は少しメニューを眺めつつ、一つ一つ丁寧に口にしていく。なるほど、少し地味だが仕草はあのグループらしい。

「――えっと、以上です」

 最後に彼女が口にした商品をポス……いわゆる電子メニューボードに打ち込む。会計ボタンを押せば、すぐ合計金額が表示される。

「お会計千九百八十円になります」

 私の声が届くのが先か、表示された金額を確認するのが先か。眼鏡のその女子はおどおどしている割に、丁寧な仕草で手を動かす、シンプルな茶色の財布から二千円札を取り出した。

「これで、お願いします」

 受け取って、お釣りの二十円と、レシートを手に取った。

 本来ならここで「二十円とレシートのお返しです。少々お待ちくださいませ」と言ってお客様を誘導しなければならないところ。しかし私はそうしなかった。

「後で少し話しませんか? さっき他の子たちの荷物全部あなたが持っていたでしょう」

 不自然極まりないだろう。そんなこと自分でもわかってる。けどやっぱり放っておくのは違う気がしたんだ。だからダメ元。

 それでも崖っぷちにいる人間には、怪しいかどうかの判断も出来ない。無意識に助かるならと道を外しかねないのだ。

「……わかりました」

 少し悲しそうに微笑んだ彼女。背が低いから、錯覚はしない。昔の様に失敗はしないように動かなければ。


 それから三時間ほど経過する。今日に限ってはこれで仕事が終わりになるのだが、まだ事務仕事が残っているので、その前に休憩を取る。そのついでという形で、あの眼鏡の女子に話を聞くことになった。

 丁度一時間ほど前に、ようやく例のグループも移動する気になったらしく、中心的立ち位置にいる女子が立ち上がった。つられて三人も立ち上がるが、眼鏡のあの女子だけは座ったまま。

 四人がむっとした表情で何か言っている。険悪な雰囲気。少し震えているが断固として動こうとしない眼鏡の女子。

 段々と声が大きくなってきたのだろう。近くに座る他の客の無遠慮な視線に気づいた彼女らは、諦めたらしい。

 こうして眼鏡の女子は一人となっていた。この時間はキッチンの手伝いをしていたのでユウレイさんの報告である。


 私はさっさとワンセットを頼んで受け取る。そのまま事務所には行かず、眼鏡の女子が座っている席へと向かった。

「あ、さっきの」

 パッと顔を輝かせた彼女。うん、やっぱり放ってはおけない。私は優しく微笑んでから彼女の前に座る。

「お待たせしてごめんね。一人になるの大変だったでしょう」

 未だに飛び交っている幽霊の噂のために、あまり近くでやり取りを見ていられなかったユウレイさんの心配事。

 しかし眼鏡の女子はいいえ、と首を横に振った。

「人と約束している、と言ったら睨まれる程度で済みましたから」

 それを聞いて、ふうっと息を吐く。ユウレイさんの心配事はとりあえず解消されたか。

「それじゃあ、えっと、本題に入る前に……私は滝沢麻里。貴方は?」

 名前を聞いてみた。目の前の彼女は、一瞬視線を泳がせる。言いにくいのだろうか? と思ったが、すぐに返事をしてくれた。

「えっと、李子(りこ)です」

 丁寧に切りそろえられたパッツン前髪に、少々猫背。根暗な印象を与えるような女の子だった。しかし動きはゆっくりと余裕があるようにも見える。

 苗字はなしに名前だけ。しかしそれでも呼ぶのに不便でなければ、問題ない。

「李子ちゃんね、よろしく。私の事は麻里って呼んで」

 笑って右手を差し出せば、彼女は嬉しそうに頬を緩めて言った。

「よろしくお願いします、麻里さん」

 

「……単刀直入に聞くけど、李子ちゃんはあのグループでいじめられてる?」

 いきなりの質問に彼女は硬直した。そのまま視線を少し落とす。先程までのキラキラと輝いていた瞳とは打って変わった。それは深海の様に深い深い、闇の色。

 二人の間に沈黙が流れていく。場違いなくらい軽快なビージーエムが店内を明るくするのに対し、ここは冷たい冷気が流れてきそうなほど暗い。

 それも長くは続かなかったが。

 まるで自分に言い聞かせるように彼女は、視線を宙に彷徨わせ、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「これは、私への罰なんです。私が悪いから……仕方のないことなんです」

 言い切った彼女の目線は私を見据えた。それまでずっとへどもどしている気弱な女子というイメージだった。

 しかし今の一瞬で覆される。この子は意志を持って今の状況を受け入れている。けど。

 救えなかったあの子のためにも、この子は救いたい。

「今はよくても、後から絶対苦しくなってくる。今は耐えられても、後から必ずその付けが回ってくる。死にたいとも思えなくなってしまったら、それはもう手遅れなの」

 ハッと李子が目を見開く。頬が熱い。手が濡れている。……もしかして私、泣いてる?

「麻里さん……」

 李子がもらい泣きしそうな表情で私の手を握った。その温かさに、抑えていた涙があっという間にあふれ出してきた。

「ご、ごめん、李子ちゃん」

 大人なのに情けない。そう思いながらも、溢れてくる涙を抑えられずにいた。李子はしばらく黙って私の手を握っていたが、ふと、口を開く。

「……幼馴染で親友の、今ではグループのリーダーの女の子と、お揃いのストラップを持っていたんです。それは幼い頃に両家族で旅行した先のお土産。二人で宝物だねって笑い合ったことをよく覚えています。」

 そこで一旦区切った李子は、一層悲壮感を漂わせる。

「……けど、最近その宝物を、私が無くしてしまったんです。ちゃんとバッグの中に入れていたはずなのに、どこにもなかった。それが彼女にバレてしまって……気が付くとこうなってました」

 言い切った李子。私の涙は当に留まっていたが、今度は李子が瞳に涙を溜めていた。その姿は助けを求める者の、姿だった。

「あの宝物は、本当に特別だったのに。どうしよう、未和とのお揃いの、大切だったのに」

 次第に言葉は詰まって、彼女の瞳から透明の雫が落ちていく。未和、とはあの中心的立ち位置の女子の事だろうか。

 しかし残念ながら、彼女の言う宝物なるストラップはわからない。店にも落し物の届けは来ていなかった。

「人を傷つける事は、例え理由があったとしても許しちゃいけないの」

 どうしようもなく、また彼女を慰める方法など分からない私は、ただ頭をそっと撫でてやることしか出来なかった。


 あれからしばらくして泣き止んだ李子。

「そろそろ帰りますね。……また来ます」

 そう言い残して店を去っていった。後ろ姿は頼りなさ過ぎて、そのまま消えてしまうのではないか、と錯覚したほど。

 結局、どうにかするとか言っておいて、話を聞くことしかできなかった。ユウレイさんに顔向けできないな、と思いながら店に戻る。

「麻里」

 店に入った途端彼の顔がそこにあって、声が出なかった。人って驚くと本当に声が出ないのか。

 ユウレイさんはどこか心配そうな表情を浮かべながらも、口元は微笑んでいるという複雑かつ難しい顔をしていた。

「そんな顔しないで。麻里はよくやってくれたよ」

 ユウレイさんはそう言って私の頭を撫でるように手を伸ばす。もちろんそこに温もりなど感じないけど、なんとなく……ほんの少し許された気がしてほっとした。

「あ、そうそう。さっき麻里のスマホ借りて、ちょっとした動画撮ったんだ。確認してよ」

 パッといつも通りの笑みを浮かべた彼は、私のスマホをポケットから取り出す。……幽霊って服のポケットにスマホ入れられるのか。

「……あ、霊力使って普通の人と同じようにスマホに触れたから壊れてないよ。安心して」

 聞いていない解説。まあ、理屈が分からんから、結局あまり安心はできないのだが。

「っていうか勝手に持ち出してたの?」

 サーっと血の気が引いて、慌ててスマホを取り上げる。……確かに、おかしくはなっていない。ほっとしたのもつかの間。ユウレイさんが爆弾発言を投下した。

「あのグループ、動画撮っといた」

 にっこりと笑ってそう報告する彼。言葉が理解できない。動画って、まさか李子と他四人のやり取り?

「麻里は察しが良いな。多分考えてる通りだよ」

 ユウレイさんが黙っていれば綺麗な顔に意地悪い笑みを浮かべて、私から少し離れた。そこに後輩の姿を初めて捉える。

「滝沢さん? ……大丈夫です?」

 彼はアルバイトの一人だ。彼の表情はまるで変人を見るような……。あ、そうか。ユウレイさんの声は聞こえないんだった。

 最近ずっとそばにいるせいで、声量のコントロールを忘れていた。傍から見れば、ただひとりごとを言っているようにしか見えないであろうに。

 仕事中ではなかったために、命拾いした。余裕ある大人に見せかけるように私は彼に微笑んだ。

「……うん、私疲れているみたい。でも大丈夫だから、仕事戻りなさい」

 まだ社会人一年目でも、やはり高校生からしたら大人に見えるらしい。私の言葉にほっとした表情に戻ったアルバイトくんは「はい!」と元気に返事してカウンターの向こう側へと戻っていった。

「上手く隠せたね、さすが麻里」

 耳元に声が響いて、反射的に肩が震わせる。しかし振り返らずに小声で返した。

「皮肉?」

 すると、一瞬だけ静けさが二人の間を横切る。そして大きくて、無邪気な笑い声が店内に響き渡った。私以外の誰にも気づかれない笑い声。

 私もつられて笑いそうになりながら、さっきまで居座っていた席に戻った。ノートパソコンを取り出して、シフト表を表示。そこにユウレイさんが口を挟む。

「撮った動画、見ないの?」

 動画の視聴を催促される。それに返答は小さい声で。

「……そもそも話は聞けたから」

 するとパソコンの裏からずいっと顔を近づけてきた。パソコンの画面が一瞬暗くなったので怖いという印象が後からついてくる。

「……パソコン壊さないでよ」

 少し低く言ったが、彼は表情を変えない。なるほど、彼も真剣なのだ。なら私も真剣に返そうか。

「今ここで見るにはイヤホンがないから、あとで見る」

 小声でも彼にはしっかり聞こえるように言うと、すっと視線を落とした。考えているのだろうか。数秒間そうしていた彼は、ゆっくりと笑顔になっていく。。

「そっか、ならいいや」

 そう言ってあっさり身を引く姿。少しだけ罪悪感を覚える。何もできなかったことに対する怒りや、無力感を余裕で超えていくその罪悪感の正体は、まだ私にはわからなかった。


 それからしばらくは普通に仕事をして、帰宅。そうするとユウレイさんと離れることになるが、まあ動画を見るだけだ。明日に持ち越しても問題ないだろう。

 帰宅後はまず動画を見ることにした。見ないと落ち着かないというか、他のやるべきことに気が向かなかったのだ。

 そして正直、頭を抱えそうになった。

 動画を見る前は、李子の穏便に済んだという話を信じていた。しかしどうだろう。動画には彼女が頬を叩かれるシーンが映っていた。

 その後服に隠れて見えない場所を狙って蹴りが入れられている。彼女が美和と呼んでいた彼女自身はほとんどやっていない。寧ろ苦しそうに、李子を見ている。

 もしかしなくとも、これは美和という女子は悪くないのではないか、という疑問が浮かんだ。二人の喧嘩を誘った第三者がいるように思える。

「……けど、知ったところでどうしろっての」

 結局、私はそのままその日、考えることを放棄して、浅い眠りについた


 幽霊になったとしても、人は変わらないのかもしれない。ただ肉体があるか、ないかの差だではないか。そう思うようになった。

 だからと言って突然現れることになれたわけではない。

「だからーわざとじゃないんだって」

 翌日の夜、十時半。ユウレイさんが私の隣で言い訳がましく叫んでいた。私はそれを無視して、その日のマネージャー業務を終わらせることに力を注いでいる。

 別に怒っているわけではない。ただ少し、合わせる顔がないというか、恥ずかしいというか……とにかく今は無心で仕事に取り組みたかった。それだけだ。

 事の発端は六時間ほど前。今日は水曜日であり、テスト期間であるからだろう。平日昼ピークにしてはそこそこな売り上げを叩きだした時間。

 今日もあのグループがやってきた。本日も変わらず李子が荷物を持ち、グループの皆に頼まれた商品を購入しに来る。

 前回と違うのは、カウンターに来る際私の存在を見つけて微笑んでくれたこと。それ以外は結局何も変わっていなかった。

 しかも普段であればカウンター裏に潜んでいるユウレイさんの姿も見えず、何も成果を得られずにグループは店を去っていく。

 そしてそのまま私の休憩の時間となる。とはいえ、売り上げ報告と改善点のまとめ。さらに上司から送られているメール一つ一つに返信。それからアルバイトの応募の確認と電話しなければならない仕事があった。

 正直休憩とは言い難い。それこそサービス残業状態である。けれど人手不足な現状は仕方がないと諦めるしかなかった。

「ん、あれ? これ……」

 ふと気が付けば隣にホットコーヒーが置かれている。ずっとパソコンに向かっていたから、気が付かなかった。誰かが持ってきてくれたのだろうか。

 しかしそれなら扉を開け閉めする音が鳴っていないのはおかしい。しかも私の休憩中に休憩の人はいないはず。水曜日だから、来週のシフトもまだ公表していない。

「お疲れ、麻里」

「うえっ!?」

 突然真上から響いた明るい声に、思考を巡らせていた私の口から変な声が飛び出した。心臓がバクバクと脈打っていて、目を白黒させる。

その様子に気づいてか否か、ユウレイさんがニコニコと笑いながら近づいてきた。

「コーヒー、持ってきたんだ。ちゃんと百円だけ置いておいた」

 褒めて褒めて、と自慢げに近づいてくる。まるで子犬が母犬の周りを跳ね回るような行動に、思わず頭を抑えた。幽霊ってこんな自由に霊力使っていい物なのか? たとえ使っても問題ないのだとしても、私は心臓がいくつあっても足りないだろう。

「……麻里?」

 いつもの軽い返しが飛んでこないからか、ユウレイさんが顔を覗き込んでくる。が、私はふいっとそっぽ剥く。

 コーヒーからはまだ白い湯気が立ち上っていたが、構わず飲み干す。反射的に目を見開いた。一歩遅れて下にピリッとした痛みを覚える。が、何も言わない。やせ我慢とは違う。ちょっとした意地だ。

 何事もなかったかのように私はパソコンに向き直った。それを黙ってみていたユウレイさん。「麻里」と私の名をもう一度呼ぶ。

「迷惑だった? ごめんね」

 真剣な声音。一瞬揺れて、その隙をつくように彼が距離を詰めてきた。

「ごめんなさい」

 ずるい。真剣な表情をしていれば大抵は許されると思っているのか? など思いつつ私も甘い。上手く溶けず、カップの底に残ってしまった砂糖の塊くらい、甘い。

「……ううん、ありがとう」

 気恥ずかしさから、小声になった。しかしすぐ近くまで寄っていたユウレイさんにはしっかりと届いていたようだ。先ほどまで怒られた子犬のように、縋るように眉を寄せていた彼は、コロッとその表情を変える。ニンマリと、まるで太陽のように輝いた笑みを見せた。


 それからしばらくは仕事に勤しんでいた。コーヒーに含まれるカフェインのおかげで目がさえていたのもあるだろう。いつもよりは集中して仕事ができていた。

 だからユウレイさんが一度姿を消して、再び戻ってきていたことに気が付かなかった。ついでにだいぶ時間が経っていた事にも。

「麻里、今日もあのグループ来てたよ。新情報入手したんだけど、聞く?」

 十一時まであと十五分を切ったところで、彼は言った。新情報とは何だろう。好奇心を誘うような言葉選びに、この人の生前の仕事まで気になってしまう。

 言葉遣いから教師とか? 雰囲気的に保育士もあり得る。とかだろうか。専業主夫なんてこともあり得るか。

 そんなどうでもいい思考を遮るように、ユウレイさんはまた私のスマホを持ち出した。

「私のスマホ持ち出してどうするつもり」

 取られたら困るようなデータはほとんどないが、プライバシーの侵害だ。それをわかっていてやっているのだとしたら、ユウレイさんは、最低だ。

「オレの話聞いてくれたら返す」

 すねたようにスマホを浮かせつつ膨れ顔。子どものような表情に、怒りが少し削がれたことが、なんだか気にくわない。

「仕事終わったら聞くから、返して」

 やり取りはもう長期戦だ。折れたら終わり。けど私にも仕事というものがあるのだ。そちらを優先しないと。

 ほんの数秒。悩むように明後日の方向を眺めていたユウレイさん。しかし、渋々といった様にスマホを私の目の前にゆっくりと下ろす。

「早く終わらせてね」

 その姿は待てと言われた子犬そのものだった。本当に生前が気になるな、と思いつつ、私はお礼を口にした。

「はいはい」


「で、新情報って何?」

 時刻は夜中の十二時を超え、従業員も私以外帰宅。店には私と、ユウレイさんの二人だけになった。

 仕事もついさっき終え、もう戸締りをして店を出るだけの状態にしたところ。私は窓際席のテーブルの上でゴロゴロしているユウレイさんに話しかけた。

 反応鈍く、眠そうに眼を擦ったユウレイさん。ゆっくりと振り返ったあと、とろん、と溶けた声で答えた。

「新情報……えっと、宝物を奪った犯人見つけたよ」

 え? 今なんて言った?

「宝物を奪った犯人?」

 夜の静けさが私とユウレイさんの間を通り過ぎる。暖かいような、寒いような空気が辺りに漂い始めたところで、ユウレイさんがしっかりとこちらに身体を向けた。

「まず最初に、李子は宝物をなくした、と言っていた。しかし彼女はバッグの中に大切にしまい込んでいたはず。なくすのはおかしいんだ」

 突然始まった解説。私が口を出す間も無くユウレイさんは、いつにも増して真剣な表情をその半透明でも綺麗な顔に刻み込んで話し始める。

「試しに霊力を使って彼女の家まで飛んで行ってみたんだ。彼女なら写真の一枚か二枚にはその宝物とやらが写っているはず、と推測して。結果美和という女子と映っている写真が一枚、飾ってあった。宝物と一緒に。そしてそれを持ったもう一人の人間が、あのグループにいたんだ」

 二人しか持っていないはずの宝物を、持っている、もう一人の人間。それは、つまり。

「彼女のカバンから奪い取った犯人……ということ」

 そう閉めた彼の瞳は、私のその先を見ていた。まるで炎が燃え盛るように、彼の瞳の中で光が揺らめいている。

 彼の言いたいことはわかった。しかし何か違和感を感じる。

「一刻も早く李子と美和の仲を修復すべきだ」

 ユウレイさんは怒りをむき出しにしてそう断言した。ユウレイさんとしては、李子がいじめられているという状況をどうにかしたい訳だから、その犯人に敵意を向けてしまうのもわかる。しかしそれが正解とは言えない。それより。

「何故、宝物だと断言できるの」

 私はそう言って少し黒い靄に包まれつつあったユウレイさんに触れる。途端、彼が硬直するのがわかった。

 ユウレイさんは確かに断言した。宝物が映っている写真があった、と。けどそれはおかしい。ユウレイさんは私と同じ、彼らとは初対面のはずだ。だから宝物がどんなものなのか知らないはずだ。だというのに彼は、それだと決めつけた。もしかすると、私の知らないところで彼らを見ていたのかもしれない。だから、何とも言えないけれど。

 ただいつ離れてしまうかわからない彼。その耳に囁いた。

「……少しだけ私に任せてくれない?」

 どうにかしてみるから、と消え入りそうな声で付け足しておく。ユウレイさんは、うんともすんとも答えない。しかし提案を否定しないところ、全面的に反対ではない、と捉える。

 ただ放心状態なだけかもしれないけれど。私はそれを肯定と取ることにした。

「それじゃあ、また明日ね」

 全くその場を動こうとしない彼の背中にそう言って、私は店の戸締りを終わらせて静かに店を去った。

 時刻は間も無く、午前二時を知らせて、夜の闇に沈んでいった。


 あれから二日が経つ。本日は金曜日。週終わりで、花金とも呼ばれるその日が、平日の中で一番混む日である。

 今日も私は昼過ぎから夜のシフトで、しかし機械のメンテナンスをするというサービス残業があるために、午前十時には勤め先へ来ていた。

 まだ午前中だというのにすでにお客様の出入りが酷く、余裕を持って作ったはずのシフトと人数だったがギリギリの様子だった。

 私は勤務時間外なので入れない。本当に限界だったら呼んで、後輩たちに声をかけてから事務所に顔を出す。

 いつもならそこでユウレイさんが声をかけて来そうなところ。しかしいつまで待っても驚くような登場すらしてこなかった。

 それから数時間が経過しても、一向にユウレイさんは現れない。彼は地縛霊らしいから、店から動くと霊力を使う。店のどこかにはいるのだろう。しかし探すにもこの時間だと、お客様の目があって探せないことが、もどかしく感じた。

 気がつくとすでに午後三時となる。その頃にはすでに例のグループもこの店を訪れていた。勉強している学生が少ない。テスト最終日だったのだろうか。

 カウンターでオーダーを受けていると、目の前に例の彼女……李子がやって来た。

 私がいると知っていてきたのだろう。ニコニコしながら近づいてきて、相変わらず丁寧に商品を注文していく。

 そのまま会計に移ろうとしたところで、ひらっと私の前にメモ用紙が飛んできた。なんだろうか。裏にするとそこには。

「……人使いの荒いことで」

苦笑と独り言が漏れて、李子が訝しげな顔をした。しかし私は逆にニコニコとしてメモの通りに言葉を紡ぐ。

「李子ちゃん、後で皆と店で待っていてくれないかな? 話したいことがあるんだ」

 私自身前回とは打って変わった言い方になってしまった、と気付く。しかしこれならきっと断られない。

 案の定私に気圧された李子は、少し引きつつも私の言葉に頷く。

 そして商品を落とさぬように運んでいく彼女を見送りつつ、私は小声で言った。視線はそのままに。

「これでよかったの?」

 このままだともう一度くらいは、彼女は怪我を負うことだろう。それはいいのだろうか、という疑問を口にする。

「うん、ありがとう。……大丈夫。今日は怪我を負うこともない」

 自信満々に言い切った声。姿を見なくともすぐそばにいることは間違いない。おそらく後ろにでもついているのだろう。

 彼のメモや、言ったことを全面的に信じたわけではない。けど彼が自信ありげに助けられるからと指示を出すのであれば、一度くらいは試してみてもいいかもしれない。そう思っただけだ。


 一時間後。私は休憩となり、再びワンセットを購入。今度は李子だけでなく、ほかの女子たちのいるグループが座る席。そのすぐ隣に腰を下ろした。

「麻里さん、お疲れ様です」

 グループの誰一人として気にも留めていなかったのに、李子が嬉しそうに声をかけたことから、一気に印象が変わっていく。

 信じられないものを見る視線。特に美和らしき人物からが一番強く感じた。

 もちろんそんなことに怯むほど私は弱くない。……あの頃も、このくらい強ければきっと今が変わっていただろう。

「ありがとう、李子ちゃん」

 私が笑顔で返事をすると、美和が少し顔を歪ませた。しかしそれも一瞬の事。すぐに万人受けしそうな笑顔を見せると、近づいてきた。

「こんにちは、李子の知り合いですか?」

 どこか近づきにくい綺麗なオーラ。動きはどこぞのお嬢様な彼女の瞳は笑っていない。なるほど、目は口程に物を言うとはまさにこのことか。

「ええ、滝沢です。よろしくね」

 言いつつ右手を差し出すが、彼女はにっこりと笑っただけで、握手には応じなかった。常識がなっていないと言えば、そうだろう。

 しかし何というか、李子に執着している感じが、痛いほどに伝わってくる。というのになんて複雑かつ面倒な状況になっているのだろう。

「そういえば、李子ちゃん。宝物の話」

 早速本題に入ろうと私が話題を振った瞬間。ガタっと立ち上がる一人の女子。彼女の顔は蒼白だった。

「あら? 花南、突然どうしたの?」

 美和がきょとんと首を傾げる。そこでハッと我に返る花南と呼ばれた女子。

「えっと、ごめん、なんでもない……」

 言葉に詰まって、再びゆっくりと腰を下ろす。その様子に、美和が疑心を向けたのが分かった。

 話を振られてあ当人である李子はというと、突然私が皆の前で禁句発言をしたことに戸惑いを隠せないでいた。

 美和がにっこりと李子に微笑みかける。

「私たちの宝物、見つかったの?」

 その言葉はどこか責めるような言い方だ。威圧に、李子は完全に委縮する。しかしここで引いては何も変わらない。

「李子ちゃん、あのね、宝物の場所……私、わかったかもしれない」

 私の発言に周囲は凍り付いた。再び椅子を鳴らして立ち上がった花南と、違う意味で信じられないといった顔でこちらを凝視する美和。

 委縮して俯きがちになっていた李子が、顔を上げた。そこには一筋の希望を見出した表情を浮かべている。

「一体どこに」

 どんなに探しても出てこなかったのに、と続ける李子。その言葉にビクッと肩を震わせる花南。

 私は頷く。

「あまり言いたくはないけれど……貴方よね? 彼女の宝物を盗ったのは」

 言ってから、花南の方へと視線を移した。さっきから血の気のない顔を強張らせたまま動かない彼女。

 その彼女の傍にあったカバンから、何かが落ちる。

「……え、それ」

 李子の震える声が、沈黙を作り出す。それは手と同じくらいか、少し大きいくらいの、河童のぬいぐるみ型ストラップだった。

「花南、それ」

「違う、違うの! これには訳が」

 瞬間、ブツッと、店内の証明が一斉に消えた。食事を楽しんでいたお客様の悲鳴が、ワンテンポ遅れて鼓膜を震わせた。

 一瞬で静けさが店を支配し、ほかの客が何事かと、周囲を見回す。目の前で言い争いに発展しかけていた彼女らですら、ビックリして不安そうに身を縮こまらせていた。

 しばらく経って何度か点滅してから電気が付く。つい癖でカウンターにいる従業員を見てしまった。彼らの様子を窺う限りだと、原因はわかっていないらしい。

 かと思えば、ユウレイさんが暗いオーラを放ちながらその姿を現した。「今のって……」と私が呟くと、ユウレイさんがふっと苦しそうに笑った。その瞬間、ゾワリと鳥肌が立った。

「何故貴方のカバンから李子の宝物が落ちるの」

 ふと、怒りがいくらか困惑に切り替わった美和がド直球に質問する。その言葉の裏には疑心と怒りが渦巻いているのが感じられ、思わず生唾を飲み込む。

 空気が凍り付くかのように冷たく感じた。

「何故、李子のストラップをあなたが持っているの」

 答えなさい、と低い声を出した美和。花南は叩かれて赤くなった頬を抑え、今にも泣きそうに身体を震わせる。

 再び沈黙が私たちの間を駆け抜ける。私はただきっかけを作っただけなのに、まるで蛇に睨まれた蛙のように、動けなかった。


「……出来心だったの」

 ほんの少しの間が過ぎ去った時、彼女は掠れた声でそう白状した。

「ちょっとだけ、困らせてやりたかった」

 彼女は語る。

 二か月前の入学式を終えた後。花南は一人教室で帰り支度をしていた。

 中学時代、友達とのすれ違いから皆に無視されて、まるで空気のように扱われて生きてきた花南。高校に入っても友人を作る気力が持てずに、結局誰とも会話することもないままに一日が過ぎ去ったのだ。それは数日間続いた。

 一週間と少し、時が過ぎた頃。日直の仕事で少し遅れて下駄箱に向かうと、そこには三年生に絡まれている李子の姿があった。

 最初は無視して通ろうと考えていた。身を翻しその場を離れようとしたほんの一瞬。李子と目が合った。

 咄嗟に下駄箱の影に身を隠した。もしこちらに助けなど求められてしまったら。巻き込まれでもしたら。そんな考えが駆け巡って、恐怖に身体が強張った。

 ギュッと目を瞑った。闇が、時間の感覚を狂わせる。いつ自分が標的になるか分からず、一秒一秒がゆっくりと過ぎていく。ところが、いくら身構えていても、彼女から助けを求める声は一向に飛んでこない。不思議に思ってそっと目を開ける。

もしかしたら目の前にいるかと思ったけれど、そんなこともない。そして再び下駄箱の奥の方を見た。

ドンッと、同時に柔らかい鉄が曲がりそうな、物騒な音が響いた。目の前の光景と、結びつかせたくない、そんな音。ワンテンポ遅れて崩れ落ちる李子の身体。あまりに生々しい。人の身体が崩れ落ちる瞬間は、こんなにも怖いものなのか。

気が付くと花南の目の前には大きなカゲが二つあった。

「お前、誰? コイツのオトモダチ?」

 怪訝な顔で近づく顔。怖いことには変わりはないけど、どうにかしなきゃ、という考えの方が強かった。

「やめて、ください」

 絞り出した声は掠れ過ぎ。先輩たちの顔はさらに歪む。

「ぁあ? 聞こえねーよ」

 グイッと胸倉をつかまれる。急に首が圧迫されて、声が出なくなった。呼吸も出来ず、漏れ出すのは、言葉にならない呻き声。

「――そこまでになさい」

 廊下から響いたのは、凛とした、よく通る綺麗な声。突然の介入者の連続で、乱暴に顔を向けた先輩の、顔から赤みが消えていく。

 どうにか首を動かし、視線を先輩の先へ移す。

「……女神…………」

夕日が丁度彼女を包み込むように差し込んむ。少し陰った彼女の鋭い瞳が、敵を射抜くように光っていた。


「まるで女神の様に美しかったの」

 一頻り語った花南の顔は、熱を帯びたように赤みを増していた。目一杯に溜められた透明のそれが、今にも溢れそうに揺れる。

「だから、だから、私は美和に気に入られたかった。地味でも幼馴染で、それで特別仲がいい李子が、羨ましくて、妬ましかった。悔しかったの。だから……」

 そこまで言って、俯く花南。辺りに微妙な、生暖かい空気が漂い始める。李子ですら何も言えずにただ花南を見ているだけ。

 しかし美和は変わらず彼女を睨んでいた。

「それが、理由?」

 咎めるような物言い。たださっきより毒が少ない。その声の変化に気付いたのか、花南は顔を上げる。

「そう、これが理由。すぐに返そうと思ってた。けどまさか、まさか李子ですら美和に攻撃の対象にされるなんて、思ってなかったの。ショックで、怖くなって、時間が経つにつれてどんどん言い出せなくなってた」

 そう言って彼女は、意を決したようにグッと背筋を伸ばすと、李子に向かって直角に頭を下げる。

「李子、ごめんなさい。貴方の宝物を盗ったりして、本当にごめんなさい」

 その声は、もう震えていない。自分の行動の理由に、納得したからか、吹っ切れたかは知らないが、少なくとも彼女は真剣に向き合うことを決めたのだろう。

 美和は眉間に皺を寄せたまま花南をじっと見つめた。その表情はさっきと少々違っていて、彼女の行動の理由が理解できない、と言いたげである。

 しかし謝罪された李子は。

「……うん、許すよ」

 あっさり言い放った。感極まったようにふるふると震わせる肩。グッと結ばれた口元。しかしどこか嬉しそうなその表情に、周りは一瞬理解できずに固まった。

 驚いて顔を上げた花南は、その表情に「え?」と一瞬引いた様子。しかし後ずさる隙を与えずに李子が花南の両手を取った。

「花南は美和の美しさを理解しているのね? それが原因で間違った行動をとってしまったのは仕方ないよ。……ね、美和」

 そのまま振り返った李子は、未だに理解できない、と首を傾げる美和に向かって、にっこりと微笑んだ。

「宝物も見つかったし、今回はこれくらいで許してくれない?」

 その姿は、私の最初の印象を覆すのに十分だった。美和という女子を女王として例えるのなら、李子はきっと宰相だろう。つまり女王美和は、彼女の押しに弱い。

 李子のあまりに優しい微笑に、美和は、ふっと表情を緩めた。

「……今回だけ、ね」

 その優し気な微笑は、私が知る中で一番女神の様に美しいものだったことは、口に出すまい。


「なんだか釈然としないな」

 あれからさらに一週間が過ぎる頃。未だに理解できないと不満を漏らしては彼女たちを眺めるユウレイさんがそこにいた。

 あの後、休憩も残り十五分を切っていたので、李子にそう言って離脱した。なので詳しいことはよくわからないが、私がカウンターへ戻った時にはすでに姿を消していた。

 代わりにアルバイトの子が、手紙を託されていて、すぐに目を通す。内容は簡単に「ありがとうございました。また来ます」とだけ。

 しかし、宝物も見つかって、犯人も白状して、美和にも許された。となれば当初の悩みの種はすべて解決したと言ってもいいだろう。

 ユウレイさんは納得いっていない様子だが、私は本人たちが納得していればそれでいいと思っている。なんとなく予想もついているが。

 六月も、もうあと少しで終わる。梅雨明けもそろそろか、と傘立てを準備しながら、私は口角を上げた。

「敬愛される者と敬愛する者たちってことよ」

 答えにはなっていないだろう言葉を返す。案の定さらに首を傾げるユウレイさんが、なんだか可笑しくて微笑むと、後輩たちの視線が刺さる。

「……滝沢さん、大丈夫ですか?」

 心配してそういう後輩たちの様子。それすら面白くて、ついに声をあげて笑ってしまった。

「大丈夫、まだまだ元気よ」

 そう言ってにっこりと笑う。その姿に納得がいかない後輩たち。仕方ないな、と思って仕事を何か押し付けようと、シフト表を手に取った時。

「麻里、親子二人組が来るよ」

 ユウレイさんの声と同時に店の扉が開く。「了解」と言ってから私はいつもより、些か無邪気な笑みを浮かべて振り返った。

「いらっしゃいませ!」

 本日は曇りのち晴れ。きっとこのまま梅雨明けとなるでしょう、とお客様のラジオの声が嬉しそうに店内へ溶け込んでいった。


「ところでユウレイさん」

 親子二人組のお客様へ商品を渡し終えてから、シフト表を手に一旦カウンターの脇によけて話しかける。丁度そこにユウレイさんが目を細めながら、店内を見渡していた。

「何?」

 不思議そうに聞きつつ店内を見ているので、私は隣に立って、シフト表に視線を落としながら聞いた。

「電気、霊力使って消したの?」

 聞いた途端、ユウレイさんの動きが一旦止まった。「なんのこと」とまで言って逃げようとする。私は冷静にもう一度聞き返した。

「霊力使って電気付けたり、消したりしたの?」

「……ごめんなさい、感情任せです」

 自白した。薄々感づていたから、驚きはしないが、やはり一瞬恐怖が全身を駆け巡った。彼を幽霊なのだ、と改めて考えさせられる。とは言え、今問題なのはそこじゃない。

「麻里怒ってる?」

「いや、怒ってるわけじゃないよ」

「ごめんなさい」

 落ち込むように語尾が小さくなったユウレイさんに、呆れつつ私は聞いた。

「あの時どんな状況で不安定になった?」

 なんとなくわかってはいるけれど、あえて私は聞いてみる。彼は、考えるように天井を仰ぎ見た。しばらくそうしてから「怒り、かな」と呟く。

「怒り?」

「そう、美和って子の、怒りに同調しちゃったんだと思う」

 気付けば私は彼をじっと見つめていた。周りからの視線を気にせずに……何故だろう。何故か、その瞬間そうしなければ、と思った。彼の表情をちゃんと見たかったんだ。

 問題の彼は悲しそうに、辛そうに、吐き捨てるように言った。掠れた男性の声が店の喧騒に呑まれそうで心配になる。

「オレ、美和がどれほど李子の事を大切に思ってるのか、知ったんだ」

「美和の感情が流れ込んできた、みたいな?」

「そう、そんな感じ。だけど、同時にそんな自分が嫌いで、崇拝するようにくっついてくる李子もあまり好きじゃなかったんだ」

 だから、ストラップがなくなったのは好都合だった、と付け加えてから項垂れる。美和自身の苦しみを知ったうえで、その近くにいる李子の事も分かってしまうから、こんな力は欲しくない、と。

「いいんじゃない? 自分の力、嫌ってても」

「……え?」

「自分の事だからって、好きになるのは難しいでしょ」

 私はシフト表を軽くいじると、一枚捲る。それも軽く上から目を通して、小さく書き込みをして、カウンターへ目をやった。その先には朝比奈が丁度店を去ろうと、トレーを持っていたお客様に声を掛けているところだった。

 トレーを受け取ってそれを片付ける。一連の動作が終わったところで、私は指示を出した。

「……朝比奈さん、サンキューボックス、確認しといて」

「はーい」

 元気に返事が来て、彼女が仕事へ戻ると、私は再びユウレイさんへと視線を移した。彼の目を見て、ちゃんと口にする。

「少なくとも使い方次第で毒にも薬にもなる」

「怖くないの?」

「怖いけど、少なくとも嫌いじゃない」

 本音だ。言い切った。それもちゃんと直接、彼の目を見て、言い切った。彼がそれをどう受け取るかは分からないが、なんでもいい。

「……そっか、うん。ありがとう麻里」

 少し俯いて、自分なりに解釈をしたらしい。ようやく緩んだ彼の表情に、安心して私も微笑んだ。

「あ、あと麻里。オレここ動けないから……これからよろしくね」

 はにかむような言い方に、今更、と呟く。動けないことは最初から分かっていたのだ。私の答えはもう出ている。

「もちろんいいよ、その分色々手伝ってもらうけどね」

「え、色々って何?」

 慌てたユウレイさんの問いには答えず、軽く笑いながら、私はシフト表を脇に挟んでカウンター端から離れた。

後ろから温かい空気が漂ってきて、なんだかくすぐったく感じ、また背中を押されているような感覚で仕事に戻るのだった。

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