第11話 ライアーニュースタイル
11ライアーニュースタイル
数年ぶりに訪れた故郷は、驚くほどに変わっていた。
新しい幹線道路ができており、かつてのメインストリートはその役目を終え、暗く寂しい道になっている。
昔栄えていた店の数々が跡形もなく消え、見覚えのない施設が建ち、記憶にあった町の風景とはまったく違って見える。
たった数年であまりに変貌していて、私はここが本当に故郷なのかと疑った。
バスを降りるとバス停で母が待っていた。
「真咲、お帰り。あんたまた痩せたんじゃないの? ちゃんと食べてる?」
母は私を見るなり心配するような言葉を発しながら、嬉しそうに微笑む。
整形して以来、家族に会うのは2回目だ。
町以上に変わり果てた私をちゃんと娘だと認めてくれてホッとした。
「食べてるよ。食に困るほど貧乏してない」
「そうよね。真咲だもんね」
よく晴れていて日差しと照り返しが痛い。蝉がうるさいし、植物のにおいがする。町は変わったけれど、夏の暑さやにおいは記憶と同じだ。
間違いなく、ここは私の故郷だった。
実家はバス停から少し歩いて坂を上ったところにある、公営の集合住宅だ。
6棟ある中の3番めの棟の3階。5人で住むには狭い住宅なので住んでいる間は不満だった。
だけど独り暮らしが長くなった今は、家族との暮らしも楽しかったと思う。
弦川家はもうここに20年以上いるのだが、私と同年代の子供がいる家庭はとっくに別の住処を見つけて出て行ってしまっていた。
山村と一緒になってブスだと言い続けた人たちと出くわしたりしたくないから、都合がいい。
「ただいまー」
久々に実家のにおいに包まれる。
悪いにおいではないが、こんなにも強烈ににおうものなのか。
自分の中で「自宅」が変わってしまったことを実感する。
「おかえりー」
バタバタと出てきたのは大学生の妹だった。
「ねぇねぇ、お姉ちゃん! 何か気づかない?」
妹は嬉しそうな笑顔で何かを期待している。
私たち姉妹はよく似ていたけれど、妹は私と違って明るくて性格がいい。
「はいはい。気付いてるよ」
嬉しそうに笑みを浮かべた妹は、私と同じく二重の整形手術を受けたようだ。
「就活の前にって思って去年手術したの。お姉ちゃんには帰った時に見せようと思って黙ってたんだ」
「いいじゃん。パッチリしてる」
でも、私ほどの仕上がりではない。
私はメスを入れる切開法を受けたが、妹はおそらく、糸で簡単に施述できる埋没法だろう。
痛みや腫れが少ないし費用も安く済むけれど、完成度は切開法に劣る。
それでも黒目がどこにあるかわからないくらいに小さかった目は、パッチリと綺麗に開いている。
明るい妹にはそれで十分だろう。
顔を変えた娘たちを、母はどう思っているのだろう。
私が整形して初めて実家に帰った時、母はにっこり笑って言った。
「随分べっぴんさんになったじゃない」
そう言って笑ってくれた母は、嬉しそうにも見えたし悲しそうにも見えた。
父はただ一言「痛くなかったか?」と尋ねた。
本当はずいぶん腫れたし痛かったけれど、「思ったほどでもなかった」と答えると安心したように笑った。
両親は私や妹が顔のことで周りから悪く言われていたことに気付いていたから、決して無断で整形したのを責めたりはしなかった。
夜になると高校生の弟や父が帰ってきた。
久々に家族で囲む食卓は賑やかだ。
少し残念なのは、母の手料理が相変わらず美味しくも不味くもないというところ。
私の方がずっと美味しく作れるから、近々私が手料理を振舞うことにしよう。
「あのさ、ひとつお知らせがあるんだけど」
談笑の途中、私がそう切り出すと、家族の目が期待に輝いた。
私が続きを話す前に、母が興奮気味に言う。
「え? え? まさか、結婚するなんて言い出すんじゃないでしょうね」
「言わないし。私まだ結婚する気ないし」
まだっていうか、一生する気ないし。
しかしそう言うと母が悲しむ気がするから、言わないでおく。
「相手がいないんだろ」
弟の余計な口出しは無視。
「いいから聞いて。私、会社辞めたの。今ニート」
家族の反応は予想以上に薄かった。
「あらそうなの」
「ふーん」
「そっか」
「で?」
家族の中で、私は「しっかり者の長女」である。
勉強も運動も妹弟よりよくできた。
仕事を辞めたくらいで誰も心配しないのは、私がそれなりの考えを持ってそうしたのだと信じて疑っていないからだろう。
社内不倫がバレて、クビ同然で辞めたなどとは夢にも思うまい。
「うちに帰ってくるとか言わないでよ。家が狭くなるから」
生意気盛りの弟が顔を歪める。
「帰らないよ」
「こんな田舎よりも東京の方が楽しいものね」
「遊びに行く時は泊めてね」
母と妹も、私には東京にいてほしい口ぶりだ。
なんだかみんな、私がここにいてほしくないみたい……。
密かに寂しく思っていると、父だけは残念そうな顔をしてくれた。
「だったら少し長くここにいたらどうだ?」
「うん。でもまだ考え中」
いずれにしろ、これは一時的な帰郷で、この町に残るつもりはない。
ここを出たら東京で職探しをしてもいいし、どこか別の地方へ行くのもおもしろそうだ。
今度こそかつての知り合いと再会しない、まったく新しい土地でやり直すのもいいだろう。
そういう意味では、海外へ進出するのもいいかもしれない。
それから数日、私はひたすら家でダラダラ過ごした。
軽く家事を手伝いつつ、パートから帰った母とお菓子をつまみながらお茶をしたり、父の晩酌に付き合ったり。
出かけたのは妹に連れ出されて夜中のファミレスに付き合ったり、弟が欲しいというCDを買ってあげたりした時くらいだ。
あまりに無気力な私を見かねた母が口を出したのは、世間的にはお盆に入った頃だった。
「真咲。お友達と会ったりしないの?」
我が母ながら痛いところを突いてくる。私に友達なんて、あかり以外いないのに。母は私に友達がいないなんて思っていないのだ。
家族に心配をかけるようなことは何も言いたくない。だから友達がいないことは隠している。
「会社辞めたし、暫くはゆっくり体を休めたかったから、誰にも連絡してない」
「もったいない。次はいつ帰るかわからないんでしょう?」
「そのうちまた帰ってくるって」
いつになるかはわからないけれど。
私はまたごろんと寝転がった。
蝉の鳴き声が空気をビリビリ震わせている。
夏だなぁ。こんなにじっくり蝉の声を聞くのは小学生ぶりだ。
中学の時は部活、高校の時は強制参加の補習授業で忙しかった。
ふと16年前、小学4年生の夏休みのことを思い出す。
あの頃の私は、山村のブス発言のせいで外に出ることが怖かった。
この団地に住む同い年の男の子たちに遭遇すると「ブス! ブス!」とからかわれる。
誰にも会いたくなかった。
そして8月に入ってすぐ、逃げるように父の実家、つまり私の祖父母の家へと転がり込んだ。
感傷に浸っていると、母がふとこんなことを言い出した。
「ねえ、真咲。今思い出したことがあるんだけど」
「何?」
「たぶん、真咲が4年生の頃だったかな。あの頃、真咲ずっと元気がなかったじゃない?」
「……そうだっけ。覚えてないや」
もちろん覚えている、ちょうどそのことを思い出していた。
今も同じ男に傷つけられてここにいるのだ。
「そうよ。それで、真咲がおばあちゃんの家に行ってる時だったと思うんだけど、お友達が一人、うちを訪ねてきたのよ」
「お友達?」
あの頃の私にそんな存在がいた記憶がない。
周りはみんな敵だった。
「名前、何だったかなー。思い出せない」
「思い出してよ。気になるじゃん」
「もう15年以上前のことだからね。うーん、えっと……」
「名前なんていいよ。どんな子だった?」
母はそれなら明言できると言わんばかりに即答した。
「可愛らしい男の子だったわよ」
可愛らしい、男の子?
てっきり表面的にだけ仲よくしてくれていたクラスの女の子だろうと思っていたのに。
「その子ね、“つる子さんいますか”って訪ねてきたの。あの頃の真咲のあだ名よね?」
……つる子。
確かに私は当時、クラスメイトにつる子と呼ばれていた。
弦川の“つる”を取って、わざとダサくつけられた、ブスな私を蔑むためのあだ名だ。
「それで?」
「真咲ならおばあちゃんの家に行ってていないって説明したら、残念そうに“そうですか”って言って帰ってったのよ。真咲が帰ってくる日も教えておいたんだけど、来なかったわね」
こんなの、初耳だ。
どうして今まで15年以上、そのことを思い出してくれなかったの。
「昔のことだからまったく心当たりないけど、大した用事じゃなかったんじゃない?」
嘘だ。大嘘だ。
一人だけ、心当たる人がいる。
もしかしたらあいつが遠くに引っ越してしまう前に、私に謝りに来てくれたのかもしれない。
違うかもしれないけれど、期待してしまう。
今さらそれがわかったところで仕方ないのだけれど、もし本当にそうだったら、少しだけ……嬉しい、かもしれない。
この日の晩、私は気まぐれに旅に出た。
旅といっても、別に遠くへ出向いたわけじゃない。
変わってしまった故郷を、父の車でフラフラするだけだ。
私はほとんどペーパードライバーだから、久々の運転は緊張した。
途中、駐車場の広いコンビニで炭酸飲料を買い、一口飲んで再出発。
駐車の時は本当にドキドキしたけれど、案外上手く停められた自分を褒めたい。
父に頼まれたので、セルフのガソリンスタンドで給油もした。
初めての経験だったのだが、ちょっと楽しい。
さっきのコンビニもこのガソリンスタンドも、私がいた頃にはなかったものだ。
ガソリンを入れながら周囲の景色を見ると、ここが通っていた山上小学校の近くであることに気付く。
母の話を思い出した私は、懐かしの小学校へ向かってみることにした。
小学校付近は街灯が少なく、暗くて不気味だった。
校舎が見える道をぐるりと一周し、門からは少し離れているけれど、車を停められる側道で降車した。
車内で冷房を直で浴びていた体に、夏の夜の空気が心地いい……と思った瞬間、ビリっと左手が痛んだ。
グラスで切った傷は、まだ完全には治っていない。
ゆっくり歩いて校門に向かう。
柵を越えれば敷地の中に入れそうだが、関係者以外立ち入り禁止の看板を見て思い止まる。
「懐かしい」
ぽつり呟く。
誰もそうだねとは言ってくれない。
今も昔も、私は孤独だ。
門から通学路を歩いてみる。
たった一度だけ、この道を山村と歩いたことがあった。
嬉しかったし、楽しかった。
自分から声をかける勇気はなかった彼と、もしかしたらこれからも仲よくできるのではないかと、私の心は期待と希望に満ちていた。
笑ってくれて、「ありがとな」と言ってくれて、こんな私にもクラスメイトとして接してくれた彼を、ますます好きになった。
……だからこそ、その直後につけられた傷が深くなったのだ。
しばらく歩くと分かれ道になる。
私と山村は違う地域に住んでいたから、あの日はここで別れた。
笑顔で手を振った彼の笑顔。
髭が生えるようになったくらいで、今もそんなに変わっていない気がする。
分かれ道のガードレールに腰掛ける。
小学生の頃は、ここにこうして腰を掛けるのは禁止事項だったっけ。
手を振った後、あっちの道を進み始めた彼のランドセルが夕焼けを反射して綺麗だった。
ここで別れるまでの夢の時間。
恋が叶ったような気分になれたのは、これまでの人生でこの時だけだ。
風が吹いて木々がざわざわ騒ぐ。
小さく足音が聞こえてきた。街灯が少ないから姿は見えない。
この辺りは人通りこそ少ないが、近くに民家のある公道だ。
こんなところに一人でぼんやりしていると怪しまれるかもしれない。
そろそろ車に戻ろう。
立ち上がってお尻をはたき、歩き出した時。
後ろから信じられない言葉が聞こえた。
「つる子?」
振り向くのが怖かった。
今の私の姿を見て「つる子」と呼べる人物は、どう考えても世界中に一人しかいないからだ。
「つる子」
確信したように、もう一度。
「つる子だろ?」
ここで見つかってしまっては、もう振り向かないわけにはいかなかった。
そこには心底驚いた表情の山村が立っている。
「まさか本当に会えるなんて、思ってもみなかった」
言ってこちらに駆け寄る。
ここまできたら、もう私がつる子であることを否定する意味はどこにもない。
「やまむー」
私がつる子であると認める代わりに、そう呼ぶ。
山村は今にも泣きそうな顔をしていた。
「どうしてこんなとこにいるの? 夏休みの旅行にしても、センスなさすぎ」
他に言葉は見つからず、つい憎まれ口を叩いてしまう。
だって、もう二度と山村のことで期待したくないのに、理由なんて一つしか浮かばないのだ。
「わかってんだろ。あんたを探しに来たんだよ」
探して見つけて、今さらどうする気?
散々私を利用して、悪事を晒しクビにまで追い込んでおいて、よくも顔を見せようなんて気になれたものだ。
私は精いっぱい軽蔑を込めて「フッ」と鼻で笑ってやった。
「こないだイズミに行ったら違う女に迎えられて。あんた会社辞めたって聞いて。それって絶対に俺のせいだから。確かに新田さんには辞めてもらうつもりだった。でも、あんたに対してはうちからは何も要求しなかったし、謹慎か異動で済む見込みだったんだ」
焦ったように捲し立てる山村がとてもとても滑稽だ。
「社内不倫がバレたんだから、いられなくなって辞めるのが普通でしょ。でも別にあんたのせいじゃない。自業自得」
「それでも、俺が引き金なのは間違いないし」
「だからわざわざ謝りに来たって?」
ここで謝られても、惨めになるだけだ。
私はまた山村のために犠牲になったのだと突き付けられる。
「堀口さんに聞いたら、あんた夏休みは地元に帰るって言ってたから」
おしゃべりおばさん、余計なことを。
「つる子の住まいなんて覚えてないし、昔の土地勘はアテにならない。町を歩いてもいないし、会うとか無謀だと思ってはいたけど。まさかここで会えるとは……あー、もう来てよかったー!」
一人でベラベラ喋る山村に呆れた視線を向けた。
「バカね。何のために酔った私から連絡先を入手したの?」
「俺が電話したところで、あんた出ないだろ? 出たってどうせ嘘をつく」
確かにそうしていただろうと思う。
「あんたは俺のこと、たぶんすげー恨んでると思うけど。俺、どうしても謝りたくて」
「別に、謝罪なんて……」
いらないのに。
「ごめん!」
私が喋り終える前に、山村の頭が勢いよく下げられた。
「小学校の頃、酷いこと言ってごめん」
やめて。謝らないで。嫌な奴のままでいて。
私はあんたを恨むことで強く生きてこられたのだ。
「利用してごめん。傷つけてばっかでごめん」
いつかこいつが謝って来たりしたら、土下座でさせて無様な姿を笑い飛ばしてやろうと思っていたのに。
感極まって泣いたりなんて、絶対にないと思っていたのに。
泣きたくなんかないのに。
「これからは傷つけてしまった分、癒したい。幸せにしたい」
涙がとめどなく頬を伝う。
私は静かに手の甲で涙を拭った。
これからって、癒すって、幸せにするって。
まるで私たちに未来があるような言い方だ。
文句を言いたいのに、上手に口が開けない。
山村がゆっくりと頭を上げた。
私の顔を見て、さらに泣きそうな表情を浮かべる。
「つる子」
「見ないで」
私は彼に背を向けるが、彼がすぐに正面に回る。
「無理」
「あっち行って」
「無理だってば」
山村が私の両手を掴む。
顔を背けるどころか涙を拭うことすらできなくなってしまった。
「つる子、本当に綺麗になった」
「やめて……」
整形だってわかってるくせに。
「本当に本当に、綺麗になった」
本当はブスだってわかってるくせに……。
山村のことは一生嫌いでいたい。
これからも強く生きていくために、嫌いなままでいさせてほしい。
「俺やっぱ、あんたのこと好きだよ」
「嘘」
「本当だって。好きだよ」
嫌だ。私は好きだなんて思いたくない。
こんなに彼を愛しく思っていることを、認めたくない。
山村がもっと小汚くて無能で卑しい男ならよかった。
そしたら泣いたりせず、気持ちよく罵倒できたのだ。
思いつく全ての罵詈雑言を浴びせ、気が済むまで胸につっかえたものを吐き出して、スッキリして清々しい毎日を過ごせたはずなのだ。
なのに実際の彼は、カッコよくて働き者で、たまにムカつくけどとても優しい。
どんなに跳ね返そうとしたって、私の心を何度も奪うのだ。
ぎゅっと彼の腕に包まれる。
新田主任や舟木に抱き締められたときとは比べ物にならない幸福感に満たされる。
会えて嬉しい。探し出してくれて嬉しい。
私を2度もドン底に突き落とした男なのに、私はやはり見る目がないようだ。
「あんたなんて、大っ嫌い」
あんたのこと、すごく好き。
「うん」
「この世から消えちゃえばいいのに」
私を探し出してくれて嬉しかった。
「うん」
「いなくなっちゃえばいいのに」
もう少しそばにいて。
「うん」
「嘘。今の、全部嘘」
「わかってるよ」
山村は私が泣き止むまでずっと抱き締めていてくれた。
初恋の傷が少しずつ癒えていく。
風が吹いて、校庭に植えられた木々から清々しいにおいがした。
私が泣き止んだ頃、山村は校舎を見上げて呟いた。
「懐かしいなーここ」
私は鼻声で情けなく軽口を叩く。
「ここを卒業してないくせに、自分の学校みたいに言わないで」
それをおかしそうに笑った彼は、当時を思い出してしみじみと言う。
「楽しかったなぁ」
そりゃあ、あんたは楽しかったでしょうよ。
たくさんの友達に囲まれて、女子にもモテまくって。
「私はあんまり楽しくなかった」
「そうなの? 色々思い出があるでしょ。初恋とか」
「初恋ねぇ……」
私が呟くと、山村がちょっとそわそわしだす。
「誰?」
「どうしてあんたに教えなきゃいけないの」
「そりゃあ期待してるからだよ」
「何を?」
「俺だって言ってくれるのを」
誰がそうだなんて言うもんか。
「……違うし」
確かに否定したはずなのだが、山村は満足げに笑う。
「あのさぁ、つる子」
「つる子はやめて」
「弦川さん」
「何?」
「殴られるの覚悟で思ったこと言っていい?」
「その覚悟があるなら、どうぞ」
山村はライトな感じでその“思ったこと”を口に出した。
私はそれを聞いても不思議と驚かなかったし、殴ろうとも思わなかった。
「偶然ね。私も同じこと考えてたの」
「本当に?」
「嘘だと思うなら、やめとく?」
「無理」
あの日笑顔で別れたこの道で、私たちは初めてのキスをした。
それが嬉しくて、私はまた少し泣いてしまった。
そしてしっかり手を繋いで歩き出す。
一秒でも早く二人きりになりたかった。
「今だから言えるけど、俺、リコーダー教えてもらってる時からつる子のこと好きだったんだよね」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないって。俺は正直な男なの」
15年以上の歳月をかけて叶った初恋は、胸焼けするほど甘く、なのにスパイシーで、眠るのも忘れてしまうくらい熱く、もう人生に悔いはないと思えるほど幸せだった。
こんな幸せをくれるのなら、もっと早く彼を許してあげればよかったのかもしれない。
東京に戻ったのは8月の下旬。
ゆっくり時間をかけて荷ほどきをしていたら、いつの間にか9月になっていた。
暇であればあるほど、時間が経つのは早い。
「それで? 山村くんとは?」
あかりの質問に、私はこう答えた。
「別に何も」
あかりは満足そうに薄笑いを浮かべ、「ふーん」と言って私のベッドに寝転んだ。
別に隠したくてそう言ったわけではない。
嘘は時として関係を育むコミュニケーションツールなのだ。
婚約者の拓馬くんと些細なことで喧嘩して家出中のあかりは、片手にスマートフォンをギュッと握り締めて彼からの連絡を待っている。
きっといつものように、電話で必死に謝ってきた彼を許してあげるのだろう。
「私、出掛けるから留守番よろしくね」
「はいはい、ごゆっくりー」
目的地はマンションを出て数十メートル先のアパート。
到着まで2分もかからない距離である。
チャイムを鳴らすと、数秒後に部屋着姿の男が現れる。
「いらっしゃい」
セットされていない髪型の方が、私は好きだ。
にっこり笑顔の彼に、私は無愛想に応える。
「たまたま暇だったから来ただけだし」
「はいはい」
「だからすぐに帰るかも」
「好きにしていいよ」
こんな風に振る舞っても、彼は決して怒ったりしない。
むしろ少し上機嫌になる、変な奴なのだ。
「ねぇ、ちょっとここに座って」
私が言うと、私のために用意したオレンジジュースのペットボトルを冷蔵庫から持ってきた彼は、「ここでいいの?」と素直に従う。
私が彼の前に腰を下ろし背を預けると、彼は笑って軽口を叩く。
「俺はあんたの座椅子かよ」
「そうだよ」
彼の部屋に来るようになったのはここ1~2週間のことだけど、私の小さな嘘や憎まれ口は全く彼に通用しなくなった。
「ギュッとしてほしいならそう言えばいいのに」
「違うもん。背もたれが欲しかっただけだし」
「はいはい。ほんとに可愛いな」
彼はすぐにそういうことを言うから、私はむず痒い気持ちになってしまう。
でも、悪くない。
私の8割は嘘でできている。
残りの2割も真実とは限らない。
真実に囚われて生きるなんて馬鹿馬鹿しい。
私はこれからだってずっと、自分を嘘で塗り固めて生きていく。
「ねぇ。俺のこと好き?」
「大嫌い」
「ふふふ、そっか」
嘘を使って正直に生きていく。
それが私のライフスタイル。
fin.
ライアーライフスタイル 坂井志緒 @shiobooks
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