第9話 失意のレコーダー

 09失意のレコーダー




「山村くんが1学期いっぱいで転校することになりました」

 担任教師がそう発表したのは7月の中旬、夏休み直前だった。

 クラスはどよめき、女子からは悲鳴が上がった。

 一斉に彼へと視線が集まり、「どうして転校するの?」「どこに行くの?」「夏休みの間はどっちで過ごすの?」など、次々と質問が飛び交った。

 私はその様子を眺めながら、安堵を感じたのを覚えている。

 これでもう傷つけられない、と。

 山村のブス発言から、たった一週間ほどのことだった。

 それから山村がどこへ行ってしまったのかは覚えていない。

「やまむーが転校したのはつる子に酷いことを言ったから」

「腹を立てたつる子が闇の力を使った」

 都合の悪いことを私のせいにした根も葉もない噂と陰口に堪えるのに必死だったから、山村の転校先なんかに構ってはいられなかった。




 山村と酒を飲んだ翌日。私は喉の渇きで目を覚ました。

「水……」

 唸るように絞り出した声が虚しく部屋に響く。

 起き上がろうとすれば頭が痛むが、起き上がらなければ水には辿り着かない。

 自分との戦いを何とか制して冷蔵庫まで移動し、ペットボトル入りの水をがぶ飲みした。

 完全に二日酔いだ。

 ペットボトルを持ったままベッドに戻り、再び横になる。

 深呼吸すると、自分の息からアルコールの匂いがした。


 昨夜の記憶を手繰り寄せる。山村ばかりが頭に浮かぶ。ずっと山村を見つめていた気がする。

 記憶が正しければ、抱き合ってぴったり密着した。山村に無理やり抱きしめられたのではなく、自分から甘えた。

 夢か現実か曖昧だけど、おでこにキスされた気もする。

 思い出すと何だか胸が苦しくなってきた。

 山村は優しかった。そして温かかった。

 私が泥酔していなければ、何か間違いが起きていたかもしれない。

 昨夜の私は、彼に迫られたらあっさり流され受け入れていたと思う。


 ベッドの下に置いてあるバッグを漁り、スマートフォンを取り出した。

 時刻は午後1時を回っている。

 嘘、そんなに眠っていたの?

 あかりから着信が来ているが、かけ直すのは後からにしてトークアプリを立ち上げる。

 あかりからメッセージが1件。

【邪魔しちゃった?】

 着信直後に受信している。

 私が舟木と一緒にいると思っているのだろう。

 舟木からの連絡は一切ないが、それはもうどうでもいい。


 それより気になるのは、知らないアカウントが友達登録されていることだ。

 そのアカウントからメッセージも届いているが、私は読むのを後回しにして、あかりに電話を折り返すことにした。

 昨日の今日だけれど、舟木のことも話さなければならないし。

『はいはーい』

 明るい声が頭にガンと響く。

「もしもし……私」

 我ながら酷い声だ。

『え、何その声』

「二日酔い」

『珍しいじゃん』

「いろいろあって、やけ酒した」

『いろいろ?』

「簡単に言うと、別れた」

「はあっ?」

 あかりの驚きの声が、頭にガツンと衝撃を与える。

 お願いだから今は静かに聞いてほしい。

 久しぶりに二日酔いしたけれど、こんなに苦しいものだったっけ。

『別れたって何で? 昨日一緒に食事したばっかりじゃん! わけわかんない!』

 あかりの驚きと疑問はもっともだ。昨日あかりたちと別れるまでは、ラブラブなカップルだったのだ。


「あの後、ちょっとしたことで大ゲンカしちゃって。面倒になっちゃった」

 ランチ中、舟木が不機嫌だったことに、きっとあかりも気づいていたはずだ。

 自分のせいだとは思わせたくない。

『真咲が振ったの?』

「まぁ、うん。そうなると思う。つい感情的になっちゃった。ムカついて自分をコントロールできなかった。その点は反省してる」

 誰かと付き合うのは思っていたより難しかった。

 本当に思い合っているカップルならケンカしたって仲直りできるのだろうけれど、私には無理だ。

 嘘をついていたことも白状してしまったし、何より自分がそれを望まない。

『それでやけ酒したってわけ?』

「そんなつもりはなかったんだけどね」

 山村のせいで酒が進み、結果的にそうなってしまった。

『はぁ……。儚い恋愛だったね』

「うん、ほんとに。初彼だったんだけどな」

『なのに思い出にもなんないじゃん』

 あかりにもっと聞いてほしい。

 だから本当は長話をしたいところだけど、二日酔いで辛いのでまた後日ということにして電話を切った。


 再びトークアプリを開き見知らぬアカウントのトーク画面をタップする。

【二日酔いお疲れ】

 ふざけたスタンプが添えられている。

 誰からのメッセージかなんて、アカウント名を見なくてもわかる。

「超腹立つ……」

 いつの間に私とID交換していたの?

 私の指は、勝手に彼への返信を入力していた。

【平気だし】

 送信。

 もちろん、ふざけたスタンプを添えて。




 週明け、月曜日。

 月末目前。入金関係の事務作業が増える時期だ。

 さらに今月は、8月の連休を考慮して早めに仕事を進めておく必要がある。

 みんなそのつもりで今月のうちから詰めて仕事をしているのだが、彼らの仕事が増えるということは、私の仕事も増えるということを意味する。

 私は自分の仕事だけではなく、他人の仕事のことまで考慮して動かねばならない。特に、古田所長の仕事は。

「弦川さーん。契約書と受注票、プリントアウトしてくれた?」

 所長は当然であるかのように声をかけてきた。

 契約書や受注表の作成は担当者本人の仕事であるのだが、私は嫌な顔ひとつ見せずに笑顔を作りクリアケースにまとめた書類を差し出す。

「はい。こちらです」

「ありがとう。あ、収入印紙貼ってくれた?」

「もちろん。ですから絶対になくさないでくださいね」

「気をつけるよ……」

 所長とそんなやりとりをしている時、新田主任が出先から戻ってきて、バタバタとミーティングルームへと向かって行った。

 忙しそうだ。

 今年は家族で沖縄に行くと聞いた。それをモチベーションに張り切っているのだろう。


 堀口さんには頼めない書類の作成や整理、来客のお出迎え。

 入金の情報をシステムに打ち込んで領収証を発行していたら、また新たに来客がやって来る。

 堀口さんが電話対応と雑務をやってくれていなかったら、きっと仕事が回らない。

「真咲ちゃん、そろそろ休憩したら? あったかい紅茶でも淹れましょうか」

 私が休みなく動いていることに気づいた堀口さんが、心配して声をかけてくれた。

「ありがとうございます。もう少しでキリがいいところまで終わるので、一緒に飲みましょう」

 今日は彼女にもたくさんの仕事をお願いしているのに、女神だ。

 紅茶をモチベーションに面倒な作業も頑張ろう。

 私が気合を入れたその瞬間、営業所の扉が開いた。


「失礼します。オリエンタル・オンの山村です」

 彼の声に、私の胸がこれ以上なく高鳴る。

 今日彼がここへ来ることは、先週のうちからわかっていた。出迎えは私の仕事である。

 酔って醜態を晒した私にどんな顔を見せるのだろうかと、昨日のうちからドキドキしていた。

「お待ちしておりました。ご案内します」

 みるみる熱くなった胸の温度が顔に出ないよう、必死に平然を装う。余計なことは口に出さない。

「ありがとうございます」

 山村もいつも通り爽やかな笑顔だ。しかし確かに一昨夜を思わせる、妖しさを含んだ笑みを浮かべている。

 どうしておでこにキスしたの? なんて、こんなところで聞けるわけがない。


 山村をミーティングルームへと案内し、冷えた麦茶を出す。

「おかわりありますから、おっしゃってください」

「お構いなく」

 お決まりの台詞を棒読みにするだけなのに、微かなイントネーションの違いや表情が特別なコミュニケーションになる。

 まるで新田主任とやっていたような、高度なコミュニケーションだ。

 別に山村と色っぽい関係になったわけではないけれど、少し前まであんなに嫌っていたのが嘘のよう。

 いや、もしかしたら私は、最初から嫌ってなどいなかったのかもしれない。


 先に取引先を演じるのをやめたのは山村の方だった。

「意外と元気そうじゃん。今日もダルそうにしてると思ったのに」

「仕事に支障をきたすような飲み方はしないから」

「一人じゃ歩けないくらい酔ってたね。あんな弦川さん初めて見た」

 そのことについては猛烈に反省している。

 酔い潰れて部屋まで男に送ってもらうなんて初めてのことだった。

「ご迷惑お掛けしてすみませんでした」

「それはそれで楽しかったけど?」

 山村は弱みを握ったとでも言わんばかりに口角を上げている。

「……楽しかったなら謝らない」


 色々聞きたいことはある。

 私たちは何時まで飲んでいたのかとか、前後不覚になった私が何か変なことを言っていなかったかとか。

 一応記憶はあるつもりだけれど、自分が忘れていることがあるかもしれない。

「あんたがもう少し元気だったら、もっと楽しかったかもしれないね」

「どういう意味?」

「俺、女の部屋に上がり込んで何もしなかったの、初めてだったから」

「何もしなかった……?」

 ぎゅっと抱きしめたのも、おでこにキスしたのも、“何もしなかった”に入るの?

 ズンと胸が痛む。

 昨日一日中思い出しては照れていた自分がバカみたい。

「無理させて吐かれても困るし、可愛く甘えられても手を出すのは我慢したでしょ?」

「なっ……!」

 顔が一気に熱くなる。きっと赤くなっているだろう。

 そんな私を見て、山村はますます楽しそうに笑う。


「で、続きはいつしようか。俺としては、さっそく今夜でも大歓迎なんだけど」

「しないから! 絶対にしないから!」

 からかう男。ムキになる女。

 これから商談が行われるミーティングルーム。私たちはただの仕入れ先と特約店。

 だけどそんなことはすっかり忘れて、まるで教室でじゃれ合う男子と女子のよう。

 私が密かに憧れて実現できなかった男子と女子のやり取りが、今ここで実現している。

 ――コンコン

 部屋にノック音が響いて我に返った。

「お待たせしました、新田です」

 新田主任が入室すると、途端に部屋はビジネスの空気へと入れ替わる。

「それでは、私はこれで」

 私は彼らの邪魔をしないよう、すみやかに部屋を出た。

 どことなく胸が弾んでいるような感じがするのは、きっと気のせいだ。


 事務所に戻り、自分の仕事を再開。

 しかしものの数分で古田所長から呼び出しがかかった。

「弦川さーん」

 所長は名刺数枚を眺め、珍しく眉間にしわを寄せている。

「どうされました?」

「これ、ファイリングしてもらいたいんだけどさ……」

「わかりました」

 だけどいつもなら、堀口さんに頼んでいる仕事だ。

 わざわざ私に頼むということは、何か気になることでもあるのだろうか。

 所長はため息交じりに告げた。

「来月から担当の人がまた変わるんだよ。3社も」

「この時期に3社も? 最近本当に、変な時期にコロコロ変わりますね」

 思えば山村がうちの担当になったのも、5月中旬だった。

「現担当の人、揃いも揃って辞めるんだってさ。うちの担当って大変なのかな。小売りとの板挟みになる商社に比べれば、メーカーの方が楽だと思ってたんだけど」

 我々がそう思っているだけで、メーカーにはメーカーの苦労がたくさんあるのだろう。

 私はこの会社にしか勤めたことがないから、その苦労が想像できないけれど。


 所長の手元にある名刺を見てみる。

 とても感じのよかった人やよく私と堀口さんにお菓子を差し入れてくれる人、先日の飲み会で送り狼になろうとしていた人の会社の名刺だ。

 彼らとはもう、会うこともない。

「できれば同じ人に長く担当してほしいんだけどね。引き継ぎ大変だし、せっかく仲よくなれたのに、お別れは寂しいよね」

 所長は人と人の繋がりやご縁をとても大事にする人だ。

 わざわざ毎月飲み会を開いているのは、よりお互いを知ることでよりよい仕事をするためである。


 所長はさっき私が手渡した書類をカバンに詰め、立ち上がった。

「お出かけですか?」

「ああ、ちょっとね」

 あまり気乗りのする外出ではなさそうだ。

 行き先を伏せる時は、大体本社で上の人たちと会う時であると、私はわかっている。

「領収証のハンコ押し、まだ終わってないの忘れないでくださいね」

「戻ってからやるよ」

「絶対ですよ?」

「……はい」




 キリのいいところまで終わったらティータイムという約束だったのだが、新たに来客が来たり所員に急ぎの仕事を頼まれたりして、なかなか落ち着くことができなかった。

 イライラし始めたところで、ふわっと紅茶の甘い香りが鼻をかすめる。

「真咲ちゃん、頑張りすぎよ。いい加減ひと息入れなさい」

 堀口さんは私のパソコンのキーボードを押しやり、熱々の紅茶が入ったカップを正面に置いた。

 その横に小さなチョコレートを添え、にっこり笑う。

「適度に休憩した方が、作業効率も上がるんだから」

 堀口さんはいつも、絶妙なタイミングで私を労ってくれる。

「そうですね。ありがとうございます」

 温かい紅茶を飲むと、身体中がホッとした。

 詰めて作業をしていたせいで凝り固まっていたみたいだ。

 夏の休暇までずっとこのペースで働くわけだが、詰めすぎて自分が潰れてしまっては意味がない。

 舟木と別れて休暇の予定はなくなってしまったけれど、私だって休暇は元気に楽しみたいのだ。


 紅茶とチョコレートを美味しく頂き作業に戻ろうかという時、山村が一人で事務所にやって来た。

「今日はこれで失礼します」

 えらく神妙な顔をしている。新田主任はどうしたのだろう。

 いつもなら二人揃ってミーティングルームから出てくるのだけど。

「新田はまだミーティングルームですか?」

 そう尋ねると、山村はより険しい表情になった。

 商談が難航しているのだろうか。まとまらないまま帰社するのだと、雰囲気でわかる。

 山村は私の問いには答えず、ただ一言。

「後でLINEする」

 そう言ってそそくさと去っていった。


 LINEだなんて、私たちに個人的な関係があると暴露しているようなものじゃない。送るなら、勝手に送ってくればいいのに。

「真咲ちゃん」

 堀口さんが私を呼ぶ。

「……はい」

「LINEって?」

 ああ、はやり彼女が聞き逃すわけがなかったか。

「いや、あの」

 堀口さんがとても楽しそうな顔をしている。根掘り葉掘り聞くぞという圧を感じる。

「山村くんと付き合ってるの?」

「ま……まさか!」

「あらあら。これからが楽しみね」

「これからって、絶対そんなことにはなりませんから」

「照れなくたっていいのよ」

 照れじゃないから! 本気ですから!


 そんなことより、新田主任がまだミーティングルームから出てこないことが気になる。

 いつもならすぐにデスクに戻って、書類や資料を作ったりメールを打ったりするのに。

 まさか山村のやつ、主任に何かしたの?

「私、ミーティングルームの片付け行ってきます。電話番お願いしますね」

「あっ、真咲ちゃん! まだ聞きたいことがあるのにーっ」

「それはまた今度!」

 結果的に堀口さんの追求を逃れることに成功したが、本当に何だか嫌な予感がするのだ。


 彼らが使っていた部屋の扉は、まだ使用中になっていた。

 二回ノックをすると、低い声で「はい」と帰ってきた。

 ゆっくり扉を開く。部屋の中には着席したまま背中を丸めて頭を抱えている新田主任がいた。

「主任、どうされたんですか?」

 私が声をかけると、ゆっくりこちらを向く。眉間にしわを寄せ、目は血走っている。

 こんなに余裕のない新田洋輔は初めて見た。何か失敗でもしたのだろうか。

 私は部屋に入りを閉めた。

 うちのエースである彼のこんな姿を、他の部屋で商談をしている他社の人に見せてはいけないと思った。

 彼がおもむろに立ち上がり、怖い顔のままこちらにやってくる。

「しゅに……」

 呼び終える前に腕を強引に引かれ、私は彼の胸に抱きとめられた。

 もうこんな関係ではなくなったはずだが、拒む隙も与えられなかった。


「真咲……」

 ギュッと締められて苦しい。

「主任?」

 一体何事かと顔を上げると、今度は唇を奪われた。

 ここは会社だ。誰かに見られてしまったら大変なことになる。

 私は彼の肩を掴み、力いっぱい突き離した。

「主任、落ち着いてください! 何があったんですか?」

 やはり山村が何かしたとしか思えない。

 新田主任はふたたび椅子に腰を下ろし、力なく長机に肘をついた。

「ごめん。別れたのにこんなこと」

「一体どうしたんですか? 主任が取り乱すことなんて、これまで一度もなかったのに。山村さんと何かあったんですか?」

 主任は深くため息をつき、握った拳を机に落とす。

「彼とは仲よくできると思ったんだけどね。あんな男だとは思わなかったよ」

 その声は明らかに怒気を含んでいた。

 彼は私にもう一度「ごめん」と告げ、自分の荷物を持ってミーティングルームを出て行った。

 汗をかいた麦茶のグラスが二つ、照明を反射して虚しく光っている。


 山村と何があったのだろう。

 あいつは何をしでかしたのだろう。

 私はグラスを持ってデスクを拭き、片付けを済ませる。

 山村は後で連絡すると言っていた。

 会社のメールにではなく、プライベートのLINEにだ。

 主任の悔いるような顔。抱擁。キス。商談のもつれだけであんなふうになるとは考えにくい。

 まさか、二人は私のことで揉めたのではあるまいな。

 給湯室の流し台で麦茶のグラスを洗う。

 ふと手元に衝撃を感じて、反射的に手を引いた。

 ピシッと変な音がして、グラスが流し台に落下する。

 ただ洗っていただけなのに、グラスが割れてしまったのだ。

 反射的に手を引いたのは、鋭利になったガラスが私の指を切り付けたからだった。

 間もなくして洗剤の泡と鮮血が混じりだす。

 もったいつけるように遅れて痛みが走り、全身に鳥肌が立った。


 グラスが割れた時の音が聞こえたのか、堀口さんが駆け付けてきてくれた。

「真咲ちゃん! ちょっとー! 誰かー! 救急箱持って来て!」

 左手の人差し指の根本に、水で洗剤を流すだけでも耐え難い痛みが走る。

 そんなに深くは切れていないと思うが、傷が長い。

 死ぬほどではないが血がドクドク出ている。

 血液のにおいが鼻につく。どこを握れば止血できるかわからない。

 救急箱を持って走ってきたのは小柳だった。

「弦川さん、大丈夫ですかっ?」

「大丈夫……。備品の部屋から新しいタオル、持ってきてもらってもいいかな」

「すぐ取ってきます!」


 利き手でなかったことが不幸中の幸いだった。

 思った以上に血は出てしまったけれど、ちゃんと血は止まったし、ガーゼと包帯を巻いて仕事を再開することもできた。

 私が事務所に戻って時にはもう、新田主任の姿はなかった。

 あれからすぐ出掛けたのだろう。

 よかった、と思った。

 あんな状態の主任に心配なんかかけたら、みんなの前で粗を出しかねなかった。


 怪我のせいで作業効率を落としてしまった私が帰宅できたのは、夜の9時過ぎだった。

 閉店ギリギリでドラッグストアへ駆け込み、傷を早く治してくれるという絆創膏を買った。

 これからの生活が憂鬱だ。手の切り傷ほど厄介な怪我はない。

 何をしていても地味に痛むし、シャンプーをしている際に髪が傷に絡んだ時には最悪だ。

 想像するだけで身の毛がよだつ。

 いつ治るのだろう。傷が残らないように治せるだろうか。


 私は帰宅するなりベッドに体を沈め、まずはこれからどうやってメイクを落としたらいいか思案を巡らせる。

 絆創膏を貼ったままクレンジングオイルを使うのは憚られる。

 オイルの成分で剥がれたりしないだろうか。剥がれるのはいいけれど、沁みたら嫌だなぁ。傷が治るまでは、シートタイプのクレンジングを使うのがいいかもしれない。

 右手を使ってバッグからスマートフォンを取り出した。

『後でLINEする』と言っていたが、山村からの連絡はまだない。

 私は落胆してため息をつく。……が、すぐに正気を取り戻した。

 どうしてこんなことで落胆しなきゃいけないの。

 山村の連絡を楽しみにしていたわけではない。

 彼が主任と何があったのかを私に話すつもりなのだろうと期待していたから、それがないことへの落胆だ。


 山村と再会して以来、私の生活は波だらけだ。

 新田主任との関係を断ち切ろうと思ったのも、舟木と付き合ってみようと思ったのも、全部あいつのせい。

 自分は人のことをブス呼ばわりした悪者のくせに、正義ぶって説教を垂れる大馬鹿野郎。

 避けようとしたはずなのに、彼との距離は縮まるばかりだ。

 私の8割は嘘でできている。

 残りの2割も真実とは限らない。

 山村には全然それが通用しない。

 嘘で作ったバリアを簡単に打ち破り、弱い私に触れようとする。


 彼から連絡がないだけで、こんなにモヤモヤするのが癪でならない。

 ムシャクシャしてきて、その場にあった自分の枕に八つ当たりした。

 だけど左手の傷が痛み、すぐさま猛省することになった。

 余計にイライラして、うつ伏せになり、ベッドで脚をばたつかせる。

 すると今度は足にも鋭い痛みが走った。

 慌てて確認すると、バタついた衝撃で伸びていた足の親指の爪が割れてしまっていた。

 ……今日は本当に運の悪い日なのかもしれない。

 いったん深呼吸をして、爪切りと爪ヤスリを取るために立ち上がる。

 その時、私のスマートフォンがメッセージを受信した。


【話がしたい。家、行ってもいい?】

 ポップアップで見えたメッセージに、胸がドキンと反応する。

 家……って、ここ、だよね。

『続きはいつしようか。俺としては、さっそく今夜でも大歓迎なんだけど』

 昼間の会話を思い出すとメッセージの内容が俄然やましいものに感じられて、自分の顔が熱くなるのを感じる。

【家はダメ】

 送信。すぐに既読がつき、次のメッセージが来る。

【じゃあ、いつものコンビニに集合】

 行くしかない。

 主任とのことが気になるし、ただ事ではなかったはずなのだ。

 私は割れた足の爪を整え、左手の絆創膏を貼り直してから家を出た。


 私がコンビニに着いた時、山村はすでに灰皿の横に立っていた。

「こんばんは」

 白々しく声をかけると、山村は不満げに頬を膨らませた。

「遅い」

「待たせてごめんなさいね。会社でケガしたから準備に手間取っちゃって」

「ケガ?」

「あんたに出した麦茶のグラスが割れて、ざっくりと」

 絆創膏を貼った手を見せつける。

「えっ、うわ、結構傷が大きいな。大丈夫?」

 山村が期待通りに表情を歪めたのを見て、満足を覚える。

 彼を操ってやったという、小さな優越感だ。

「不便だけど死ぬわけじゃないし。で、話って?」


 本題を促すと、山村は途端に真剣な顔つきになった。

 しかしすぐには話し出さない。よっぽど切り出しにくい話であるようだ。

「新田さんのことなんだけど」

 ……やっぱり。

 私は思わず力んでしまい、傷がジンと痛む。

「主任?」

 私は白々しく首をかしげておく。

 何にも気づいていないという体の方が、警戒されないだろうと思ったのだ。

 山村は真面目な顔のまま言った。

「あの人、マジでクレイジーだな」

 一体こいつは何を言っているのだろう。あの新田主任がクレイジー?

 狂っているのは山村の方だ。そう言ってやりたいのを堪え、気持ちだけこの一文字に込める。

「は?」

 山村は眉間にしわを寄せ、深くため息をついた。


「何も知らないのか」

「新田主任についてなら、あんたよりは知ってるつもりよ」

 だてに愛人をやっていたわけじゃない。

 私が食って掛かると、山村は馬鹿にしたように鼻で笑った。

「あんた、人を見る目がないな」

「失礼ね。それなりに養ってきたつもりよ」

「全然養えてない。あんたの目は節穴だ」

 何なの? 新田主任と私を侮辱するために、わざわざ私をここに呼び出したの?

「主任と何かあったの?」

 山村が帰った後、新田主任の様子は明らかにおかしかった。

 出かけたきり営業所に戻らなかったのも気になる。

 ハンコ押しを約束していた所長も戻らなかったが、何か関係があるのだろうか。


 山村は私に許可も取らず、煙草に火をつけた。

「今日、新田さんにとんでもない取引条件を突きつけられた」

 彼は私がいない方に煙を吐いたが、風に乗って香ばしい煙のにおいが漂ってくる。

「とんでもない条件?」

「“弦川真咲に近付くな”。端的に言えばそういう条件だった」

 何それ。どういうこと?

「全っっっ然、意味わかんないんだけど」

 これが事実だとしたら本当にクレイジーだけれど、あの新田主任がそんな取引条件を出すわけがない。

「俺だって耳を疑ったさ。でも、本当なんだ」

 山村が嘘をついているようには思えない。

 嫌な予感が確信へと変わっていく。

「具体的には、何を言ったの?」

「色目を使うな。個人的に話をするな。プライベートで関わるな。できれば目も合わせるな。守らなければうちとは取引をしないし、セクハラで訴えさせる……とか、そんな感じ」


 私は思わず吹き出してしまった。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。そんなことを取引条件にするなんて、まるでわがままな子供だ。

 小柳ならともかく、新田主任に限ってそんなことを口に出すはずがない。

「そんな幼稚なパワハラ、冗談でしょ。社会でそんな条件がまかり通るはずがないじゃない」

 さっき山村がしたのと同じように鼻で笑ってやる。

 しかし彼は軽く受け流すように紫煙を吐いた。

「書類上、イズミとオリオンは対等な特約店契約を交わしているかもしれない。でも実際は対等なわけじゃない。俺たちみたいな小さなメーカーにとって、イズミは大きな特約店だ。取引がなくなると打撃が大きい」

「何が言いたいの?」

「多少の理不尽にはできるだけ応えるようにしている。たとえそれがメチャクチャな要求でもな」

 しかし、今回主任が出してきた要求は度が過ぎていると言いたいのだろうか。

 あんなの、冗談に決まっているのに。


「それで、あんたは主任のメチャクチャな要求をどうするつもりなの?」

 真に受けちゃって、馬鹿みたい。

「その条件は飲めないって即答したよ」

「……そしたら?」

「金輪際取引しないと恐喝された。俺は真面目に話そうとしたよ。でも……」

 主任は聞き入れなかった。

 なぜ?

 過去に一度、あからさまに私と関係を持ちたがっていた男から守ってくれたことはあったが、山村を同じように見て私を守ろうとしてくれたのだろうか。

 だけどそれにしてはスマートさに欠ける。

 昼間のミーティングルームでの彼の行動は不可解すぎる。

 関係は終わらせたのに、まるで私を求めているようだった。


 山村は煙草を灰皿に落として最後の煙を吐き、睨むように私を見据えた。

 どうやら今までの話は序章で、ここからが本題のようだ。

「新田さんの話ぶりと、この間のあんたの話から判断して聞くけど。あんたの別れた彼氏って、新田さんなの?」

「違う」

 別れた彼氏は舟木直弘だ。

 即答はしたけれど、新田主任とやましい関係だった私は目を泳がせてしまった。

「本当に?」

「嘘じゃない。ていうか主任、結婚してる」

「知ってるよ。でもその上で聞いてるんだ。あんたと新田さん、何かあるはずだよ。確信してる」

 最悪だ。私の正体どころか、主任との関係までバレるなんて思ってもみなかった。

 何事もそつなくこなし、嘘をつくことにも慣れていて、抜かりがない。

 そんな私と新田主任だからできた、スマートで刺激的な関係だったはず。

 バレそうになったり私に好きな人ができたらスッパリ関係をやめる。

 そういう約束だったし、もしミスをするなら私の方だと思っていた。

 まさか新田主任の方が取り乱すなんて、考えたこともなかった。


「確信って……証拠もないのに」

 こうなった以上私が上手くやらなくちゃ。

 山村にこの事実まで暴かれてしまったら大変なことになる。

 私も新田主任も、彼の奥さんと子供も不幸になる。

 どう取り繕うか。どう引っくり返そうか。

 考えろ。頭脳をフル回転させて捻り出せ。少しでも怯んだら付け込まれる。

「証拠……ね」

 山村がポケットに手を突っ込み、何か細長い機械を取り出した。

 その機械が何かを察知した瞬間、私の背筋から熱が引いた。

 状況は初めから、私の想像以上に悪かったのだ。

「ボイスレコーダー……」

「俺がイズミの担当になってからの商談は、すべてこれに録音してある」


 このご時世、言った言わないのトラブルを避けるため、会議や商談などの音声を録音する会社があるのは知っていた。

 相手に無許可での録音は通常であれば違法だが、相手に不審があり、その証拠のための録音であれば、合法だ。

 つまり、山村はイズミの担当になったときから、新田主任に不審を抱いていたことになる。

「今この会話も、録音させてもらってる」

 何ということだ。私も不審の対象だったとは……。

 もう気軽に発言できない。

 山村は私と新田主任の不適切な関係を暴き、取引の武器にしようとしている。

 私と主任を貶めて、自分を守ろうとしている。


『俺、もう二度とあんな居た堪れない思いはしたくなくて。あれからはどんなにからかわれたり冷やかされたりしても、自己保身のために他人を犠牲にすることはやめました』

 嘘つき。大嘘つき。

『だってつる子、ブスじゃん』

 あんたがしようとしていることは、あの時と同じことじゃない。

 少しでもほだされた私が大馬鹿だった。

 悪いのは不貞を犯した私たちだということは理解している。

 どんなにイイ女を演じたって、どんなに相手の家族に配慮していたって、不倫は不倫。

 明るみに出れば、社会的制裁は免れない。

 だから、全力で避けるのみ。

 誰が認めるもんか。

 私は山村を睨みつける。


「本当に録音なんかしてあるの?」

 私の挑発に、山村は簡単に乗ってきた。

「今日録音した新田さんとの会話、聞いてみる?」

 私は大きく頷く。

 私の嘘に、新田主任の話との矛盾があってはいけない。

 山村はしばらく慣れた手付きでレコーダーを操作し、私に聞こえるよう再生の音量を上げた。


 音声は思ったよりクリアに録音されていた。


 ◆◆◆


 うちの弦川と、随分仲がいいようだね。

 え? ええ。

 まぁ、二人で飲みに行く程度には。

 付き合ってるの?

 いえいえ、“まだ”そういう関係ではないですよ。

“まだ”ってことは、狙ってる?

 いずれそうなれたら嬉しいとは思っています。

 ふーん。

 そういえば君、彼女とは近所に住んでるって言ってたね。

 はい。

 本当に近くて、徒歩2分くらいの距離です。

 できるだけすぐに引っ越してくれないかな。

 え?

 君にあまり近付いてほしくないんだ。

 ちょっと待ってください、新田さん。

 彼女、見ての通り美人だし、気持ちはわかるけど色目は使わないでほしいな。

 仕事上必要な会話以外は慎んで。

 それはどういうことでしょうか?

 プライベートで会うのもやめてくれないかな。俺としては、できれば目も合わせてほしくない。

 ちょっと待ってください。

 商談中に突然そんなこと言われても困りますよ。

 新田さん、彼女と何かあるんですか?

 ははは。そんなこと、君には関係ないよ。

 関係ないって……何かあるって言っているようなもんじゃないですか。

 そう思いたければ思えばいい。とにかく俺は、彼女を君から守りたいだけなんだ。

 新田さん。お気持ちはわかりましたから、今は仕事の話をしませんか。弦川さんの話は、別の機会に彼女を交えてしましょう。

 山村くん、わかってないね。これは僕なりに考えた、今回の取引についての条件なんだけどな。

 は? 条件?

 そうだよ。君がうちの弦川真咲と必要以上に接触するつもりなら、金輪際うちがオリオンを使うことはないと考えてもらっていい。

 ……そう来ますか。

 さすが、話がわかるね。助かるよ。

 いいえ、僕は納得していませんよ。その条件、飲めません。

 だったら今日の商談、これでおしまいってことになるけど、いいの? 月300万の商談を棒に振るんだ。度胸あるね。

 新田さん、どうか冷静になってください。そんな条件、契約書に記載できますか? これは僕とあなたの商談じゃない。弊社と御社の商談です。個人的な感情で契約書を作成できるわけがないでしょう。

 ……そうだね。じゃあもっと冷静に話をしようか。確かに契約書にこんな特記事項は認められないだろうね。でも、僕個人の感情で御社との取引をゼロにすることはできるんだよ。だけど彼女に近付かないだけで、御社は安定的に売り上げを確保できる。悪い条件ではないと思うけどね。

 ……僕にとっては最悪の条件です。やっぱり、その条件は飲めません。

 そんなに彼女のことが好きなの?

 はい。是が非でも手に入れたいと思う程度には。

 ……ふーん、そう。じゃあ、わかった。条件が飲めないなら、彼女に君をセクハラで訴えさせるよ。

 は? セクハラ?

 とりあえず手始めに、君の会社宛に内容証明郵便を送らせようか。

 弦川さんはそんなメチャクチャなことをする女性ではありませんよ。

 それはどうかな。彼女、僕の言うことなら大体聞いてくれるからね。

 常識的な彼女が承諾するとは思えません。

 君はまだまだ甘ちゃんだね。正攻法だけで世の中は渡り歩けないよ。ビジネスにおいては尚更だ。より有利に取引を進められるよう最善を尽くすのが、ビジネスマンの腕の見せ所なんだよ。俺には出せるカードが何枚もある。ハッタリじゃない。

 どういう意味ですか?

 彼女を説得するためのカードだってあるということさ。だけど君にはない。つまり俺には敵わない。女一人諦めればいいんだから、お安い勉強代だと思うけどね。

 ……新田さん。生憎ですが、若輩者の僕にだってカードはいくつかあるんです。僕が気に入らないならこの商談がなくなっても構わない。会社としては痛いですが、倒産するわけではありません。彼女に訴えさせたければ好きにすればいいですよ。その代わり、僕はあなたを全力で――ピッ


 ◆◆◆


 山村が再生を止めた。

 その電子音にさえ恐怖を感じてしまうほど、生々しい音声だった。

 どう聞いても山村が正常で新田主任が狂っている。

 山村はレコーダーをポケットに戻し、手を中に突っ込んだまま真剣な顔をして言った。


「俺はオリエンタル・オンの人間だ。だから、俺は自分の会社のために動かなきゃいけない」

「そんなの、わかってる」

「俺はこれからかなり高い確率で、新田さんを追い込む」

「主任はそんなにヤワな男じゃない」

「これ聞いてもそんなこと言うのかよ。新田さん、ボロ出しまくってただろ」

「それでも、彼はいつでも用意周到で論理的で、感情的になることなんて……」

「俺が言いたいのは!」

 私の言葉を遮った彼の声が、コンビニの駐車場に響く。

 空気がピリピリして、体のあちこちが痛い。

「何よ」

「……あんたを確実に巻き込むってことだ」


 新田主任を潰すために、私をその道具として利用する。

 山村は私と主任の関係を確信している。

 でも、彼の想像は微妙に事実とズレている。

 まだ巻き返しのチャンスはあるはずだ。

「好きにすれば? どうやるつもりか知らないけど、私と主任は別に何もないから」

「まだそんなこと言うのかよ。往生際が悪いぞ」

「往生なんてしない。あんたの誤解よ。主任はただ、私をあんたから守ろうとしただけじゃない」

「守る? 違うだろ。俺からあんたを引き離したかっただけだ。独占欲だよ」

「違うってば!」


 新田主任はちゃんと奥さんを愛している。

 私はただの都合のいい女で、好きだなんて言われたこともない。

 それなのに……どうして今さら私を独り占めするようなことを、よりによって山村に言ったのだろう。

「どこまでも新田さんの味方なんだな」

「当たり前でしょう? 私はイズミの人間だもの」

「そういうことじゃなくて」

 山村が切なげに顔を強張らせた。

「は?」

「俺の気持ちにはノーコメントなの?」

 ぐ、と言葉が喉元で詰まる。

「もう何度も言ってるけど、俺だってあんたのこと好きなんだ」


 急激に何かが冷めて行く感じがした。

 好きだなんて、本当は思ってないくせに。

『だってつる子、ブスじゃん』

 この言葉が頭から消えてくれない。

 ブスだって思ってたんでしょう? この顔も整形だってわかってるでしょう? 性格も嘘つきだって知っているじゃない。

 今なんて、私のことを利用としているじゃない。

「好きだなんて、この状況で誰が信じられるの」

 山村は「じゃあ」と置いて告げる。

「あんたは俺のこと、どう思ってんの?」

 縋るような目に胸が揺さぶられる。

「どうって……」

 再会したときはすごく嫌だったけど、今はそれほど嫌いじゃない。仕事ができることも知っている。優しい性格であることも知っている。

 でも、優しい人間が信用に足るとは限らない。

 現に今彼は、私を利用しようとしているのだから。


 再会以来、どんなに山村が私に好意を見せてきたって、また裏切られるかもしれないという意識は常に付きまとっていた。

 たっぷり期待させておいて、最後には私のことを奈落の底に突き落すのだと、嫌でも頭が勝手に想像してしまうのだ。

 私は小学生の時ほど単純じゃないし、純粋でもなければバカでもない。

 彼の言動を鵜呑みにしたら、こっちが傷つけられる。

「答えて。俺たちの関係を、今ここでハッキリさせておきたいんだ」

 俺たちの関係?

 そんなの、今後一生変わるわけがない。

 だって、私はあんたを心の底から憎んでいるのだから。


「私はあんたのこと、絶対に好きになんかならない」

 そう口に出した途端、ブスだと言われたあの時と同じくらいに胸が痛んだ。

 昔教室の隅で堪えた痛みと似ている。

「そうか」

 彼の声が震えたのがわかったけれど、私こそ彼以上に震えた声しか出せないような気がして何も言えない。

 今までにも私が彼の気持ちを拒否したことはあった。

 けれど、彼はいつもヘラヘラ笑ってしつこくつきまとってきていたから、こんな風に受け止められたのは初めてだ。

 ねぇ、私に振られてどんな気持ち? あんたこそ私のこと、本当はどう思ってるの?


 しばらく無言で見つめ合う。

 先に沈黙を破ったのは山村の方だった。

「あーあ。振られちゃった」

 いつもの調子ではない。声は今でも震えている。

 山村は構わず続けた。

「だから俺は今、あんたのことを完全に諦めた。もう何の迷いもなく、行動に移せるよ」

 宣戦布告だ。私を巻き込んで新田主任を潰すという、最悪の果たし状だ。

 私は何も言えずにただ突っ立っていることしかできない。

「じゃあ、また」

 彼が歩き出すと、コンビニの窓に情けない私の姿が反射した。

 舟木と別れた時と同じ後味の悪さを感じる。

 緊張で無意識に力んでおり、グラスで切った左手がじわじわ痛みだす。


 山村がふと足を止めた。

 そして一言。

「あんた、やっぱブスだわ」

 そう吐き捨て、早足で去っていった。


「やっぱ」に込められたのは私たちの過去への確信だ。

 ブスだなんて言われたのは整形以来初めてだ。

 この言葉は今でもしっかり私の心に突き刺さる。

 手を切ったグラスよりも深く深く、私の心の古傷を切りつける。

 気付いたら涙が出ており、手の甲で拭っていた。

 なるほど、この仕草は私の癖なのかもしれない。



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