第8話 もっと美味い酒
08もっと美味い酒
今日は毎月恒例の親睦会だ。
宴が始まって1時間。
おおむねいつも通りに進行している。
私は取引先の男性たちにチヤホヤされて愛想を振り撒き、堀口さんは若い男性陣にお酌してもらって上機嫌だ。
新人の小柳はすでに誰かに酔わされていて、古田所長はデレデレした顔で娘の自慢中。
今月は山村も参加している。
先月は出張のため来られなかったと言っていたが、今日は暇だったようだ。
その前の月は山村がうちの担当になったばかりの頃で、さらに“原口ストーカー事件"の直後だった。
あの日山村は「自分の価値観を押し付けてましたよね」としおらしく謝ってきたくせに、先日は性懲りもなく舟木との交際について口を出してきた。
全然反省していない。
「うちにも弦川さんみたいな事務の子がいたらなぁ」
「そしたら直帰なんてせずに、顔を見に会社に戻るんだけどね」
取引先の男性たちは、毎月狙い通りの言葉で私に優越感を与えてくれる。
「みなさんの会社にも女性の事務員さんがいらっしゃるじゃないですかぁ」
私は得意の男ウケ抜群スマイルでそれを甘受する。
「うちの事務員さんはあまり気が利かなくてね。何かあったら弦川さんの方から連絡をもらえて助かるよ」
「もう。褒めたって何も出ないですよ?」
キープしていた男を手放し舟木ひとりに絞ったことで、私には優越感をチャージする機会がめっきり減ってしまった。
心の余裕を保つためにはどうしてもこの感情が必要だ。
私は美しい。そして優秀だ。ゆえに求められている。
そう実感することで幸せを感じられる。
幼いうちに承認欲求が満たされていないと大人になってこじらせるそうだが、私はきっとそのタイプだ。
だけどそんな私をイタいと笑う人間はいないのだから問題ない。
……いや、一人だけいたか。
その一人である山村を見ると、彼は私のことなど視界に入れる気もないという感じで、私に背を向け新田主任との会話に没頭していた。
別に顔を見たかったわけではないけれど、今日は私のもとに来さえしないから、ちょっとモヤモヤする。
酒はほどよくほろ酔いくらいがちょうどいい。
飲まれてしまっては美女失格だ。
「飲みなよ」と勧めてくる男らに「もう飲めませーん」と首を横に振るだけで喜ばれる特権を、今日もしたたかに行使する。
「大丈夫? 酔ってるみたいだね。俺、送っていくよ」
中には“取引先”というボーダーラインを守れず下心を露骨に見せてくる者もいるので、やはり酔うわけにはいかないのだ。
「大丈夫です。私、今日はもうお茶にしておきますから」
笑顔をキープしてそう答えるが、今日の男は諦めが悪いようだ。
「遠慮しないで。俺ら、確か同じ方向だったよね?」
酔ってないし遠慮してないし、家の方角を教えた記憶はないんですけど?
そう言いたい衝動を抑え、私は最近つけるようになった魔法の呪文を使うことにした。
「いいえ、遠慮なんて。彼氏が迎えに来てくれますし」
舟木が迎えに来るなんて嘘だ。
そもそも彼には、今日会社の飲み会があることも伝えていない。
いちいち禁止事項を突きつけられそうで面倒だと思ったからだ。
優越感をチャージする貴重な機会なのだから、自由に楽しみたい。
一次会が終わり店の外に出ると、男たちは二次会の相談を始めた。
堀口さんは「明日も息子の弁当の準備をしなきゃいけないから」と言ってそそくさと帰っていった。
潰れかけていた小柳はいつの間にか復活しており、元気に「俺カラオケがいいっす」と連呼している。
取引先の人たちも半数程度はここで離脱するようだが、山村は新田主任や古田所長に気に入られているため、ほぼ強制的に付き合わされるようだ。
山村が来るし、やはり私は帰ろう。
「お疲れさまでしたー」と小さく告げ、誰かに引き止められる隙を与えることなくこの場を後にする。
脱出は無事に成功した。
明日は楽しみな予定がある。
久しぶりにあかりに会えるのだ。
彼女の年下の婚約者や舟木とも会うのに、二日酔いの浮腫んだ顔を晒すなんてごめんだ。
今日は念入りにマッサージをして、ゆっくり眠ろう。
翌日、土曜日。
舟木との待ち合わせは外苑前駅3番出口。
先に店で待つあかりたちのもとへ、私たちは二人で向かうことになっている。
「真咲の友達かぁ。美人そう」
「美人だよ。でも彼氏と一緒だし、狙っても無駄だからね」
「狙わねーよ。俺には真咲がいるし」
「ふふ、ありがと」
目的のレストランがあるビルまでは、道を渡ってすぐだ。
日差しから逃げるように早足でビルに入り、レストランのある地下へと下る。
「俺、彼女の友達に会うとか初めてだから、ちょっと緊張する」
「私も初めてだよ」
誰かとちゃんと付き合うことすら初めてなのだから、当然なのだけれど。
店に到着。
思ったよりゴージャスなレストランで、私と舟木は少しだけ萎縮した。
さすがはあかりチョイスのお店だ。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
対応してくれたスタッフの恭しさに、また少し萎縮する。
「待ち合わせです。樋川の名前で予約されていると思うんですけど」
「樋川さまのお連れ様ですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
ふかふかの絨毯が敷かれた床を踏みしめ、店の中へ。
地下にあるこの店のホールは、エントランスやレセプション以上に荘厳だ。
少し進むと、壁際の四角いテーブルに並んで座っているあかりを見つけられた。
彼女も私に気づき、笑顔で手を振る。
隣にいる男性が噂の婚約者だろう。
二人が立ち上がり私たちを迎えてくれた。
「初めまして。
あかりの彼がぺこりと頭を下げる。
こう言っては失礼かもしれないけれど、本当に普通の青年だ。
特別背が高いわけでもないし、抜群に顔が整っているわけでもない。
爽やかで、優しそうで、温かい雰囲気を醸し出している。
まだ20代前半ということもあり、少年っぽさが残っていて、あかりを口説き落とすのに一生懸命頑張ったのだろうことが容易に想像できた。
彼の弟的な雰囲気とあかりのお姉さん的な雰囲気が見事にマッチしている。
あかりの今までの彼とはまったく違うタイプだけれど、二人はお似合いだと思った。
「初めまして、あかりの友人の弦川真咲です。そして私の彼の……」
「舟木直弘です。どうも」
「樋川あかりです。真咲からお話はうかがってました。今日はお時間をいただいてありがとうございます」
あかりが愛想よく言葉をかけるが、舟木は「そうですか」とだけ応え、口を閉じた。
舟木の態度には違和感を覚えたけれど、そんなことよりあかりと婚約者に会えたことが嬉しくて、楽しい。
ただ、今日はお互いの彼氏と同席しているから、普段あかりといる時のノリで本音をうっかり口に出したりしないよう気を付けなければらない。
間もなく料理が運ばれてきた。
あらかじめ予約していたランチのコース。
一品目は前菜3種盛り合わせだ。
「あ、トマト……」
拓馬くんが小さく告げると、あかりがさも当然のように彼の皿から自分の皿へとトマトを移した。
「ごめん。予約するときにトマト抜いてもらうの忘れてた」
「ううん、大丈夫。ありがとね」
この二人のやり取りに、私は妙な感動を覚えた。
なんて自然体なのだろう。
二人は幼馴染みだそうだが、これが時間をかけて育まれた嘘のない関係なのか。
「あかりちゃん、綺麗に食べるね。俺、ナイフとフォークでサラダを食べるの未だに苦手だよ」
「箸もらう?」
「ううん。このまま頑張る」
拓馬くんはちょっと頼りない。
黙々とスマートに食べる舟木がいかに洗練されているかがわかる。
だけどあのあかりが男に媚びもせず自然体でいられるのは、彼が変に格好付けたりしないからだろう。
例えるなら気の強いしっかり者の姉と、頼りないけれど優しい弟。
拓馬くんはあかりが大好きだという感情が全面に出ているし、あかりもそんな彼を放っておけない。
彼はどんなプロポーズをしたのだろう。
想像すると胸がキュンとする。
あかりが結婚をやめると言った時は泣きついたそうだが、その様子も容易に想像できる。
「ねえ、直くん」
「ん?」
「あかりと拓馬くん、お似合いだね」
私がそう言うと、舟木は無表情で「そう?」と首を傾げた。
どうしたのだろう。なんだか機嫌が悪いみたいだ。
何か気に障るようなことでもあったのだろうか。
あまり雰囲気を壊したくなくて、私は舟木の分まで余計に笑顔を作る。
「二人の馴れ初め、聞かせてよ」
私のリクエストに、二人は照れた顔を見合わせた。
「馴れ初めって言われても、あたしたち幼馴染みだし、大してロマンチックなこともないんだけど」
あかりがそう答えると、拓馬くんがすかさずフォローを入れる。
「いやいや、そんなことないでしょ。俺たちにもあったよ、ロマンチックなこと」
「ちょっ……! 余計なことは言わなくていいの!」
こんなあかりは新鮮だ。
私は彼女を無視して拓馬くんに微笑む。
「余計なことなんかじゃないから、私たちにも聞かせて?」
「うーん。物心ついた時からずっとお隣さんだったから、どこから話せばいいかな」
「拓馬、話さなくていいから!」
「ええー、聞きたいのに」
私は生まれ持った顔とともに故郷や友人を捨てて新しい自分になった。
捨てたものに未練はないけれど、こういう話を聞くと羨ましく感じる。
「幼馴染みといえば、小さい頃に“大きくなったら結婚しよう”とか約束してたりして」
私は冗談で言ったつもりなのだが、二人は揃って顔を赤くした。
どうやら図星だったようだ。
「幼稚園の頃にそんな約束をしてたのは本当。でも彼女が小学校に上がってからは全然相手にしてもらえなくて。大人になって結婚できることになったのは俺がずっとしつこく彼女を好きだったからで、子供の頃の約束とは関係ないよ」
拓馬くんが恥ずかしげもなく語るから、あかりはますます赤くなった。
あかりの物欲主義も、彼の愛の前では無力だったのだ。
気が強い姉と気弱な弟と見せかけて、本当はあかりが彼にうまく牙を抜かれてしまっただけなのでは。
猛獣だって、扱いが上手い人にはお腹を見せて甘えることがあるのだから。
「子供の頃の約束が果たされるって、素敵なことだと思うな」
あかりの言う通り、拓馬くんはみんなに愛されて育ったのだろう。
そういう意味では、山村と似ていると思う。
だけど彼らのようなタイプの人間は、私たちのような素直に育たなかった人間を無意識に傷つける。
彼らのキラキラした内面に私たちが勝手に打ち拉がれているだけなのだけれど、それを自爆とは表現したくない。
あかりは彼に応えることができなくて苦しんでいる。
それでも一緒にいたいと思えるほどの魅力が、拓馬くんにあることはわかった。
「私、あかりに年下の彼がいるなんて聞いてなかったから、結婚するって聞いてすごく驚いたの」
ゴージャスな男たちと付き合っていたことは知っているけれど、わざわざここで言うことではないだろう。
「それは……何ていうか」
あかりは助けを求めるように拓馬くんへと委ねる。
拓馬くんは困ったように微笑み、まごつきながら言った。
「俺たち、ちゃんと付き合ってはいなかったから」
「えっ?」
これまで私たちの会話をほぼ無言で聞いていた舟木が、ここでやっと声を出した。
「付き合ってないのに、結婚するの?」
舟木の問いに、拓馬くんが頷く。
「さっきも言ったけど、俺はずっとあかりちゃんが好きだったし、長い間友達以上の関係ではあったというか。なかなか恋人にはしてもらえなかったけど、誰よりお互いを知ってはいると思う」
舟木が「信じられない」という顔で固まり、あかりは恥ずかしそうに肩をすくめた。
「今だから言えるけど、昔から結婚するなら拓馬しかいないって思ってた。幼稚園の頃の刷り込みかな? でも実際、こいつ以上に私を愛してくれる人、この世にいないと思うしね」
心の中がじんわりと温かくなる。
あかりは恥ずかしがって悪ぶっているから素直に言わないけれど、本当は拓馬くんのことが大好きで、大切で、結婚も嬉しい。
私としては長い間友達以上の関係だった話をもっと聞きたいところだけど、それは今度あかりと二人の時に追求しようと決めた。
「いいなぁ……」
そんなふうに思える相手がいて。
私にはあかりにとっての拓馬くんのような、深い絆を感じる相手はいないけれど、一生に一度くらい心から人を愛してみたい。
……なんて、柄にもなく思ってしまった。
「拓馬くん」
「はいっ」
あかりの唯一の女友達にして大親友である私の言葉を、よーく聞きなさい。
「あかりのこと、いつも一番に考えてあげてね」
あかりはすごく図々しく見えるし実際そうなんだけれど、大事なときほど優柔不断だ。見栄っ張りで弱味を見せたがらないから、辛いときほど平気な振りをする癖もある。
この程度のことは承知していると思うけれど。
「うん。今までもずっとそうだったけど、これらもずっとそうするよ」
拓馬くんは照れながら笑って私に誓った。
もし約束を破ったら、この私が許さない。
あかりはそんな彼を、彼以上に照れた顔でじっと見つめていた。
今までに見たことがないくらい、可愛い顔をして見つめていた。
神様。
なかなか私には味方してくれないから信じてはいないけれど、もし本当にいるのなら、どうかこの二人を幸せにしてあげてください。
私はこの先もずっと一人で生きていくつもりだし、あなたのもとで永遠の愛を誓うことはないと思うから、どうか私の分のご加護をこの二人へ。
今日は拓馬くんに会えてよかった。
26年間生きてきて、最もいいランチだった。
ランチ後はあかりと拓馬くんカップルと別れ、舟木と二人の時間だ。
彼の部屋へ行くため、駅に向かっている。
舟木は初対面の二人から解放されて肩の荷が下りたのか、気が抜けたように疲れた表情になった。
知らない人との窮屈な時間だったろうけれど私のために付き合ってくれた彼に、労いの言葉をかける。
「今日は知らない人ばっかりの場所に付き合ってくれてありがとう」
めいっぱい可愛い笑顔を作ったのに、舟木からは思わぬ返事が返ってきた。
「あー、うん。これからはこういうのやめてほしいかも」
よっぽど苦痛だったのだろうか。
これまでに見てきた舟木は人当たりがよかったし、
あかりや拓馬くんに失礼はなかったと思うが、何が気に入らなかったのだろう。
今日の約束を取り付けた時も、今日待ち合わせて店に向かっている間も、特に嫌がってはいないように見えていた。
様子がおかしくなったのは二人と会ってからだ。
「直くん、めずらしく機嫌悪かったね。私、何か気に障ることしたかな?」
「いや、真咲は何も」
舟木はそう言って顔を歪めた。
あの店が気に入らなかった?
料理は美味しかったしサービスも素晴らしかったと思うのだが。
不機嫌になられるの、すごく面倒臭い。
私もだんだんイライラしてきた。
それを察した舟木は、仕方なくといった感じに口を開いた。
「真咲の友達、あかりちゃんだっけ。ハッキリ言うけど、俺あの子嫌いだわ」
「……は?」
何かに胸を殴られたような衝撃が走った。
嫌いという言葉がエコーをかけられたようにリピートする。
悲しい気持ちに怒りの感情が混ざって泣きそうだ。
「嫌いって……どうして?」
悪印象を与えるようなことは何もなかったのに。
舟木は心底面倒臭そうに口を開く。
「真咲の友達だし、あんまり悪く言いたくないんだけどさ。俺、男を立てられない女、ダメなんだよね」
男を立てられない女?
「どういう意味?」
「偉そうっていうか、高飛車っていうか。男に対して“私が結婚してあげるのよ”って感じじゃん? 妻になろうとする女なんだし、もっと男の面子を大事にすればいいのに、全部自分が前に出るんだもん。男は男でナヨナヨしてるし、さすがにイライラしてた」
あまりに辛辣な言葉に唖然とした。
確かにあかりは拓馬くんを立てるという感じではないし、どちらかと言えば逆だけれど、あれが二人にとって心地いい関係のはずだ。
舟木はあの二人に愛や絆を感じなかったのだろうか。
「あいつらたぶん離婚するよ。女の方が浮気しそう。それに……」
「もういい。わかった」
聞いていられなくなって言葉を遮った。
ここで止めなければ、延々と続けそうだった。
このままあかりへの侮辱が続くと、さすがの私も感情を抑えられなくなるような気がする。
未だかつて、これほどの憤りを覚えたことはなかった。
冷静に、冷静に。落ち着け、私。
そう自分に言い聞かせるけれど、口が勝手に言葉を発する。
「直くん、あの二人の何を見てたの?」
どうしよう。止めたくても止まらない。
「男を立てる? 女は男がいつでも気分よくいられるように、ずっと気を使ってなきゃいけないってこと?」
「そういうわけじゃ……」
舟木は「ない」とは言い切らない。
「男女のあり方なんて、人それぞれだよ。あの二人はすごく幸せそうだった。素直になれないあかりと気持ちを繋ぐのに必死な拓馬くん、お互いが一生懸命で素敵だと思った。私、うらやましい」
「あれがうらやましいって? さすがに冗談だろ?」
舟木がバカにしたように笑う。
ダメだ。口が勝手に余計なことを言いそう。
「バカみたい。自分の価値観でしか世界を見られないから、私の嘘にも気付かないんだね」
ここが都会の街中でよかった。
私たちの間に流れる思い空気は雑踏によってかき混ぜられ、喧騒が私の声を溶かす。
行き交う人々は私たちには無関心だ。
だけど、私の言ったことが彼の耳に届いている限り、なかったことにはならない。
「嘘って何?」
舟木の整った顔が歪んでいる。
私がしばらく黙秘すると、舟木は焦れて声を荒げた。
「なぁ、嘘って何だよ!」
何もかもが嘘なのに、いちいち「これが嘘です」「あれが嘘です」とは説明できるわけがない。
これはもうダメだ。舟木との関係をこれ以上続けられない。
きっと彼のことを好きになると思っていたけれど、もう無理だ。
あかりが嫌いだと口に出す男を許容できるほどの器は持ち合わせていない。
やっぱり私に恋愛は向いていなかった。
こんな男、もうどうでもいい。
「最初から、全部が嘘だよ」
本当のことを吐き出すと、心がちょっぴりスッキリした。
「全部って、わけわかんねーよ」
舟木が動揺している。
いい気味だと思ってしまう自分の性格の悪さに笑えてくる。
「実家暮らしっていうの、嘘。本当は一人で暮らしてる。だから東京出身も嘘。“今何してる?”って連絡くれた時の返信も半分くらいは嘘。あ、私の誕生日の時、女子会やってたっていうのも嘘。本当は男と会ってた。ちなみに直くんは三番目の相手だったの」
一気にまくし立てると、彼は口をあんぐりと開けて唖然とした。
私、何を話しているんだろう。
こんな話、絶対にしちゃいけないのに。
だけど、私の8割を犠牲にしてでも、この男に報復したかった。
精神的にショックを与えて、落ち込ませたかった。
唯一無二の親友は、優越感のために付き合った彼氏よりずっとずっと大切なのだ。
ていうか、舟木だって付き合う前は高飛車な態度を好んでいたくせに、ここのところ貞淑な態度の方を喜ぶのは“高飛車なじゃじゃ馬を手懐けた”という優越感が欲しいからなのでは。
そう思い至ると、もう彼と付き合うことに何の魅力も感じられない。
「ごめん。直くんが好きになった嘘の私、もう演じられなくなっちゃった」
「嘘の私って……真咲は一体、何者なんだよ」
本当の私はブスで卑屈な嘘つき女だ。
「さぁ? 私も忘れちゃった」
「わけわかんねーって!」
「嘘つきでごめん。今までありがとう。さようなら」
私は彼に向けて深く頭を下げ、隠れるように雑踏へ紛れ込んだ。
最後に見た舟木の顔は、驚きと困惑と怒りと悲しみが混じった芸術的な顔をしていた。
きっと舟木にはまだ私が見えているけれど、追っては来ない。
それが彼の答えなのだ。
本当のことを吐き出してスッキリしたはずなのに、腹の底に湧いているこの気持ち悪さは何だろう。
とうとう嘘をついていることを口に出してしまった。
絶対にダメだって頭ではわかっていたのに、自制できなかった。
あれが私の限界ということか。
大学時代に美女へと生まれ変わって以来、理性的に行動できていたと思う。
さっきの私は何だったの?
私は地下鉄の窓に映る自分に無言で問いかける。
窓の向こうの私は神妙な顔をするばかりで、何も答えてはくれない。
舟木には笑って「そんな風に見えたかもしれないけど、あかりは本当はすごく努力家で、彼の前では照れ屋なだけなんだよ」とでも言うのが正解だった。
舟木好みの雰囲気を作って「私の友達なんだから、嫌いだなんて言わないで」と可愛く言えば、重い空気は簡単に払拭できた。
「短い初恋愛だったなぁ」
でも、勉強にはなった。
自分の未熟さを痛感したし、体が理性を無視して暴走することもあるとわかった。
いつかまたその気になるまで、しばらく恋愛はいいや。
自宅の最寄り駅にたどり着いたのは、午後4時前だった。
気分と同じくらい足が重い。自宅まで歩くのも面倒だ。
帰ったらシャワーで汗を流して、ベッドでゴロゴロしよう。
夕食は作り置きしたものを適当に温めて食べればいい。
特にすることもないし、コンビニで酒でも買って帰ろう。
まだ明るいけど、シャワーを出たら飲んでしまおう。
舟木と別れたことをあかりに話したいけど、拓馬くんとのデートを邪魔したくないから今日は我慢だ。
いつものコンビニに到着。
最近よくない日はいつも山村に遭遇していたから覚悟をしていたのだけど、今日はいないみたいだ。
別に期待していたわけではない。
誰にも絡まれることなくチューハイを2本買い、帰宅した。
即シャワーを浴びて汗とメイクを洗い流し、エアコンの前で素っ裸のままチューハイを缶の半分ほど一気飲み。
酒気を帯びた息が鼻を刺激する。
時刻はもうすぐ午後5時になる。
夏は日が長い。太陽はまだ高い位置にある。
部屋着を身に着け濡れた髪をヘアクリップで留めてベランダへ出た。
日を浴びながら酒を飲むのも嫌いじゃない。
たかだか3階から見える住宅地の景色は特段美しくはないけれど、あと1時間もすれば、西の空に真っ赤な夕日が見られることだろう。
近所の子供たちが走り回ってはしゃぐ声。
近くの幹線道路を通過する自動車の音。
遠くで鳴った電車の汽笛。
音はうちの窓に反射して、前から後ろから私を包む。
お前は孤独だと嘲笑っているように聞こえてしまうのは、心が荒んでいるからか。
「はぁ……」
ため息をつきながら視線を地面に写すと、小学生ほどの子供たちが路地を走って通り過ぎていった。
その後ろをスーパーの買い物袋を下げた主婦が歩いている。
帰って夕食を作るのだろう。
彼女の後ろを学生らしき茶髪の男の子が、そして彼の少し後ろを、黒髪の若い男性が歩いている。
黒髪の、やけに見覚えのある、若い男性が歩いている。
「……山村由貴」
彼の名を、小さく口に出してしまった。
私に気付くだろうか。
私はあえて声をかけることなく、存分に彼を観察しながらチューハイを飲む。
彼と顔を合わせても私はプイッと顔を背けてばかりだったから、じっくり彼を見るのは初めてかもしれない。
やっぱりカッコいいなと思ってしまって、自分を呪いたくなる。
山村は小学生の頃から、もろに私のタイプなのだ。
すぐそばの道を歩いているけれど、山村がこちらを見上げる素振りはない。
それどころかポケットからスマートフォンを取り出していじり始めた。
なーんだ。ドキドキして損した。
一人で勝手に興奮して一人で勝手に拍子抜けしただけなのだが、ふてくされた気持ちで缶に口をつける。
……が、なかなか中身が口に入ってこない。
缶を横に振る。ちゃぷんと小さく音がしたが、ほぼ空だ。いつの間にか飲み干していたらしい。
私はここで、重大な失敗をした。缶を振ったのがいけなかった。
空になった缶は私の指をスルリと滑って、あっという間に地面へと引き寄せられていった。
「あっ!」
声を出したコンマ数秒後、カコンと軽い音が鳴った。
缶は山村の数メートル前に転がっている。
驚いて足を止めた山村の視線は、必然的にこちらを向いた。
隠れたって無駄だ。
私と山村は数秒間、無言で見つめ合った。
山村が歩き出し、私が落としてしまった缶を拾う。
そして再び私を見上げ、私がしたように缶を横に振った。
しかし彼の指から缶が滑り落ちることはない。
「まだ明るいのに、もう飲んでんの?」
「悪い?」
「いいと思う。俺も飲もうかな」
「お好きにどうぞ」
私と山村の声がビルの壁を反射して響いている。
「ねぇ、弦川さん」
「何?」
「飲み行かない?」
「は?」
「こんな安い酒じゃなくて、もっと美味い酒。一緒に飲まない?」
山村が邪気のない笑顔で私を誘う。
先日また気まずくなったばかりなのに、そんなことなどまるで記憶にないかのようだ。
今日の私は、やっぱりちょっと調子がおかしいのかもしれない。
私の口は、勝手にこう動いていた。
「10分待ってて」
私は猛スピードで屋内へ戻って部屋着を脱ぎ、夏らしい生地のマキシ丈ワンピースを身に着けた。
それから簡単にメイクを施し、まだ濡れている髪にオイルをなじませドライヤーを当てる。
しっかり乾かしている時間はないので、半乾きのままスイッチオフ。
歯を磨き、日除け兼冷房対策の麻地ブラウスを羽織る。
少し迷って、お気に入りの香水をワンプッシュ纏った。
山村が相手なのだからそこまで気合を入れなくても……と思ったけれど、やはり彼にも私はイイ女だと思われたいと思い直した。
財布とハンカチ、そしてスマートフォンだけを入れた小さなバッグを持ってサンダルを履く。
エレベーターで地上へ降りると、山村は影になっている右側の壁に寄りかかって私を待っていた。
「お早いご到着で」
「待ち足りなかった?」
「俺のためにもっと気合い入れてめかし込んでくれてもよかったんだよって意味だよ」
「そんな必要ないから。これじゃご不満?」
「滅相もない。来ていただけるなら、俺はスッピンでも何でも構わない」
山村は片方の手に私が落とした缶を持ったまま、もう片方の手を差し出してきた。
「この手は何?」
「また繋ぎたいなと思って」
“また”というのは、いつぞやの電車でのことを言っているのだろう。
不覚にもドキッとしてしまった私は、それを悟らせないためにプイッとそっぽを向くしかなかった。
「嫌よ。暑苦しい」
「ちぇー」
手を繋ぐなんて、冗談じゃない。
私たち、デートしてるわけじゃないんだから。
私はただ美味しい酒が飲みたくて誘いに乗っただけ。
別に、相手が山村じゃなくたってよかったんだから。
「で? どこ行くの?」
「どこにしようか」
「私、電車には乗りたくない」
「俺も」
かつて淡く抱いていた恋心を思い出す。
ズタズタに切り裂かれ、その傷が私を変えた。
私は彼の罪を許しつつあるのだろうか。
あるいはもう許しているのだろうか。
私はもう、自分がつる子であると認めてやるべきなのだろうか。
「なんだか今日はいい匂いがするね」
「失礼な。私はいつもいい匂いよ」
「今度電車で嗅いでいい?」
「ダメに決まってるでしょ!」
難しいことを考えるのはやめておこう。
今日は舟木のせいで生まれたモヤモヤを晴らすため、美味い酒を飲むのだから。
私たちはオシャレなバーと居酒屋で迷って、居酒屋に入った。
美男子と入るならバーの方が雰囲気を楽しめるのだが、山村といい雰囲気になっても仕方ないと思って、私から居酒屋の方がいいと申し出たのだ。
カップルと思われた私たちは個室に案内されたのだが、その個室がバー以上にいい雰囲気で、私は己の選択が失敗であったことを悟る。
座席は対面ではなくL字型のカップルシート。
山村との距離が、近い。
「生でいい?」
「うん」
「すみませーん。注文いいですか」
山村は女性をリードすることに慣れているようだ。
吊るされた照明が彼のまつ毛の影を頬に落とす。
悔しいけれど、カッコいいし色気がある。
この頬に触れてみたい。
どんな感覚がするのだろう。どんな顔をするのだろう。
不埒な想像を膨らませてしまう前に思考を遮るべく、私は悪態をついた。
「なんかムカつく」
山村の顔がこちらを向いた。罪な照明によって瞳に光が増し、ドキッとしてしまった。
「何が?」
何がって、どんなに嫌っても私の心を惹きつけるあんたが、だ。
「私、ちょっと前まで別の男といたのに、どうしてあんたと二人で飲んでるんだろ」
山村はそれがどうしたとばかりに笑う。
「飲みたいから来たんだろ?」
「そうだけど……」
「あんたも俺も、飲みたいから来た。それでよくね?」
山村はそう言ってメニューを開き私に見せてくる。
魅力的なメニューがたくさん載っている。
飲みたいから来た。
そうだけど、それでいいんだけれど、胸がざわざわして落ち着かない。
私はきっと、チューハイを飲んで既に酔っている。
だから判断力が鈍って、つい誘いに乗ってしまった。
「私、お刺身の盛り合わせと豚肉のチーズ巻きとミックスピザ、あとこの煮卵食べたい」
「了解、他には?」
「後から考える」
「はいはい」
主導権が握れない。山村に転がされている。
頬杖をついて私を見つめる山村が、今までの誰よりもカッコよく見える。
肌が綺麗だな。唇もプルプルだ。
首の喉仏と血管が浮き出てる腕がセクシーだし、手が肉厚で骨っぽい。
カップル向けのL字席、侮れない。
相手がよく見える距離感が絶妙だ。
間もなくビールが届いた。
その時のスタッフに食べ物の注文をして、乾杯をした。
無意識にビールを煽る彼の喉仏を密かに見つめてしまっていた。
今日は酒が回りそうだ……。
山村の前では下手なところなんか見せたくないのに。
始めのうちは仕事の話をしていた。だけどすぐに飽きてしまい、必然的にプライベートな話題へと転換していった。
「そういえば、男といたって言ってたね。彼氏?」
もう舟木のことを彼氏とは呼べなくなってしまった。
どう答えていいかわからず視線だけ彼に向けて口を結ぶ。
「帰ってきたってことは、ケンカした?」
ケンカというほどのことはなかった。
でも。
「あかりのこと、嫌いだって言ったの」
「あかりちゃん?」
私は首を縦に振る。
「それでムカついて、たくさん余計なこと言っちゃった」
「余計なこと?」
「嘘ついてたこととか」
「ああ……」
山村は察したように苦笑いした。
「んで、別れた」
「“んで”って……。今からでも謝れば、仲直りできるんじゃない?」
「仲直りなんかしなくていい。言っとくけど、私から振ったんだからね!」
それに、舟木だって、自分を騙していた私を許すことはないだろう。
あかりと拓馬くんを見て、私も愛し愛される恋愛をしてみたいと思った。
嘘などつく必要のないくらい、ありのままの自分を愛してくれる人でないと無理だとわかった。
こんな女を好いてくれる男なんて、きっとこの国にはどこを探したっていないだろうけれど。
「はいはい、わかったよ」
「もー、信じてないでしょー」
「そんなことないよ」
私も山村も同じペースで飲んでいるのだが、山村は頬がほんのり赤くなっている程度でしっかりしている。
かたや私は呂律の怪しい口調で自分勝手にくだを巻いている。
悪い酔い方をしている私が山村に絡んでいる状態だ。
山村はきっと、ちっとも楽しくないだろう。
だけど私には関係ない。山村を楽しませるつもりなんてさらさらない。私が勝手に楽しむのだ。
「同情するよ。あんたじゃなくて、男の方に」
「なんで男の方なの?」
私と飲んでいるのだから、私の味方をしなさいよ。
「付き合ってる女が自分に嘘ついてるとか、知りたくなかっただろうな」
「そんな私を好きになったのが悪いんだもん」
「うわ、自己中」
そう言って顔を歪めるが、口元は笑っている。
その余裕に、なんだか無性に腹が立つ。
「そんな嘘つきの自己中女にちょっかい出してるあんたは何なのよ」
好きだとか何とか言ったくせに。
満員電車で手を繋いだり、卑猥に撫で回したりしたくせに。
山村は唇を尖らせる私に、にっこりと笑顔を見せて言った。
「つーかあんた、俺には大して嘘なんかつかないじゃん」
酔っ払った頭でも、その言葉はガツンと響いた。
そんな言い方、まるで私が山村とだけありのままの自分で接しているみたいだ。
そりゃあ彼は仕事の関係者だし、不用意に嘘をついたりしていない。
近所に住んでいて住まいもバレている。
距離を取りたかったから媚びたりもしていない。
遠慮なく嫌な態度を取ってきた。
私が山村についているのは、私がつる子ではないという、もうほぼバレている嘘だけかもしれない。
「人と関わっていくためには嘘も必要なのかもしれないけど、深く付き合っていくためには腹を割って本音を見せ合わなきゃいけないと思うよ」
「やだ。本音なんて言いたくない。絶対引かれる」
「その可能性もある。ケンカしたり嫌ったり嫌われたり、男女だったら別れてしまったり。でもお互いをシャットアウトせずに受け止めていかなきゃ、誰かと生きていくなんて無理だろ」
また山村の説教だ。
穏やかな口調だからって「はいそうですね」とはならないんだから。
「私、一生一人で生きていくって決めてるもん」
プイッとそっぽを向くと、彼の腕が伸びてきて顎を捕らえられ、無理に正面を向かされた。
顔が、近い。
「そうやってはねつけないの。俺が今言ったこと、全然わかってないでしょ」
言いたいことはわかっている。
人と共に生きていくために、あんたの言葉も受け入れろってことでしょう?
そんなの嫌だ。
私は顔に触れる彼の手を払う。
「あんたの言葉は響かない」
私をブスだと糾弾して好意をはねつけたくせに、偉そうに。
容姿にも能力にも恵まれ人に愛されて生きてきた人間の戯れ言など、虐げられて生きてきた人間には響かない。
私みたいなブスは、本音なんて晒そうものなら容赦なく迫害されてきた。
山村は同情するようにため息をつく。
「じゃあ言い方を変える」
言い方を変えたって私の考えは変わらない。
あんたの言葉なんかで変わってたまるか。
「嘘で見栄を張ったり自分を守ったりしなくても、あんたの本当の姿を受け入れてくれる人間が必ずいるよ」
必ず?
「何を根拠にそんなこと」
「根拠は、俺」
嘘だ。絶対に嘘だ。
私が本音を漏らす度に、いつも説教するくせに。
説教して、そのくせまたすぐに馴れ馴れしく絡んでくる鬱陶しい男。
「……聞いてる?」
「芋焼酎おかわり。ロックで」
山村はガックリ肩を落とした。
「はいはい」
本当は、会社の飲み会や遊んでいたメンズたちの前ではまず口にしない、可愛くない酒が好きだ。
山村相手なら注文できてしまうことは、もしかしたら幸福なことなのかもしれない。
カップル向け個室の色っぽい照明。
狭いテーブルとL字の座席の距離感。
いつ触れてもおかしくない山村の腕、手、指。
私好みの顔と声。
迫られたら逃げられない緊張感。
煙草の煙、喉仏の動き方、視線の向き。
山村のすべてが私を酔わせる。
こんなに飲んだの、いつぶりだろう。
男といるのに酔っ払うまで飲んだのは初めてだ。
「だいぶ飲んだね。大丈夫?」
言いながら私の頬に触れる指が憎たらしくて愛しい。
……愛しい?
「大丈夫じゃないみたい」
だって私今、彼の指にキスしたいと思った。
頭がおかしくなっている。
「だろうね」
酒に飲まれるなんて言語道断、美女失格だ。
でもいいや。相手は山村だもん。
私が本当は美女じゃないと、知っているんだし。
「まだ遅くはないけど、6時前から飲んでるからなぁ。もう帰る?」
「やだー。まだ飲むー。帰るなら一人で帰ってよ」
「酔った女一人置いて帰れるかっての。気が済むまで付き合いますよ」
山村の大きな手が私の頭を撫でる。気持ちいい。
山村の言葉に安心して、またグラスに口をつけた。
私は透明な酒ばかり飲んでいるのに対して、山村はずっとカラフルなものを飲んでいる。
今のグラスは、濃いオレンジ色。
「ねぇ、何飲んでるの?」
「これ? これはマンゴーオレンジサワー」
「何それ美味しいの?」
「美味しいよ。飲む?」
差し出されたグラスを掴み、一口。
甘酸っぱくて、フルーティー。
「美味しいね」
私が笑って見せると、彼もにっこり口角を上げる。
「だろ?」
「さっきから、お酒のチョイスが女の子みたい」
「俺、甘い酒好きなんだよ。仕事飲みの時は飲まないようにしてるけど」
「せっかくカッコつけてたのに、私の前で飲んでちゃ意味なくない?」
「相手が弦川さんだからいいんだよ。あんたこそ、懇親会では甘い酒しか飲まないくせに、俺の前で焼酎飲んでる」
「山村さんだから、いいんだもん」
最大の秘密に気付いてすら構ってくる男相手にかわいこぶっても意味がない。
そういう意味で言ったのだが、山村は嬉しそうに微笑んだ。
「可愛いこと言って、俺がその気になったらどうすんの」
顔が一気に熱くなって、余計に酒が回る感覚がする。
「もうー。さてはあんたも酔ってるでしょ?」
「酔ってるよ。だから俺、何するかわかんないよ?」
「ふふふ、何するつもりー?」
「そうだな。何しようか」
山村が笑っている。すごく楽しそうに笑っている。
酔っているせいか、それがとても幸せなことに思える。
きっと私は山村以上に笑っている。
酔って無様に笑っている。
「鍵どこ?」
次に聞こえたのはこんな言葉だった。
朦朧とした意識の中で何とか“鍵”というキーワードを認識できた私は、日常生活で体に染み付いた動作で鍵を取り出し山村に手渡す。
そのうちにカチャッと軽い音がして、扉が開いた。
嗅ぎ慣れた自宅の匂いに包まれ、安心して余計に眠くなる。
「んー……」
「こら、まだ眠っちゃダメ」
体を支える何かがとても温かくて気持ちいい。
しがみつくように擦り寄ると、期待通りに温めてくれる。
「甘えん坊だなぁ。普段もこれくらい素直になればいいのに」
山村が何か言っているが、頭が回らなくて何を言っているか理解できない。
体が傾き、ゆっくり沈む。
さっきとは別の何かに包まれた。
少しひんやりしてちょっとだけ目が覚めた。
目の前に山村の顔がある。
山村は私の顔にかかった髪をゆっくりと掻き上げ、「おやすみ」と言って額に軽く口付けた。
身体中にマンゴーオレンジサワーのような、甘酸っぱい感覚が駆け巡る。
胸がきゅうきゅう締め付けられるのに、それをどう表現していいかわからない。
「おやすみ」
私が小さく返すと、山村が微笑んだ。
「またね。今日はありがとな」
そして軽く手を振った。山村が、笑顔で、手を振った。
それを見た私は、ものすごく不安な気持ちに襲われた。
目頭がツン熱くなる。私には涙をこらえる力が残っていない。
流れた涙が枕を濡らす。
「何で泣くの」
山村が困惑した顔で尋ねる。
「あんたが帰ったら、すごく悪いことが起こる気がして、怖い」
私の言葉に、彼はハッとした表情を浮かべた。
私の不安の理由に、心当たりがあったのだろう。
切なく歪んだ顔が近づき、掛け布団越ごと彼の腕に包まれる。
キスされる……と身構えたが、彼は頬と頬を合わせるに留めた。
トン、トン、と背中にリズムを感じる。
私も彼の背に腕を回した。
「大丈夫。大丈夫だから」
「ほんと?」
「本当だよ。大丈夫」
私は再び目を閉じた。
まぶたに押しやられた涙がまた枕を少し濡らした。
背中のリズムは止まらない。触れ合う頬も離れない。
再び睡魔がやって来るのに時間はかからなかった。
私は自らの意識が途切れるその瞬間まで、山村にしがみついていた。
意識を手放し腕から力が抜けると、それに気付いた彼が十分に温まったベッドの中に収める。
「おやすみ、つる子――」
彼は私の額にキスをして、頬にもキスをして、静かにこの部屋を去っていった。
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