第7話 機械が作る空気
07機械が作る空気
当たり前だけれど、夏は暑い。
化粧は崩れやすいしテカりやすいし、汗のにおいや服の汗ジミも気になる。
完璧な美女でいようとすればするほど様々な面で自分が試される季節だ。
だからできるだけ自分をコントロールしやすい状態にしておきたいのだけど、私の手は今、舟木の手に捕らわれ自由を失っている。
「でさー、その友達がさー」
舟木の話は面白い。彼といると楽しい。
でも、ずっと手を繋いだまま歩くのは結構不便だ。
本物のデートがこんなにも不自由で暑苦しいものだとは思わなかった。
暑いのは季節的にも仕方ないが、手を繋いだままだというのは落ち着かない。
私ともあろう女が、初めての彼氏との初めてのデートに緊張している。
もしかしたらこの汗は、暑さではなく緊張から来る汗なのかもしれない。
舟木が初めてのデートに選んだのは水族館だった。
涼しげだからという理由だ。
確かに館内は涼しいし、華麗に泳いでいる魚やイルカのショーを見るのもなかなかいい。
けれど私の内心では、この後のことばかり気になっている。
私と舟木は恋人同士。
今日は土曜日で、明日は日曜日だ。
きっと夜には「もっと一緒にいたい」となって、「じゃあどこかに泊まろう」という話になる。
私たちは大人だし、健康な26歳の男女だ。
当然舟木は体を求めてくるだろう。
それが嫌だというわけではない。
私だって、それを想定して準備してきてはいる。
舟木はこれまでの人生をモテながら生きてきたはずだ。
それなりの女性経験があるのも知っている。
だけど私には新田主任としか経験がない。
つまり自信がないのだ。
でもビビッているだなんてバレたくない。
それ以前に、私はまだ彼女として何を話していいかさえ掴めていない。
今まで彼にしていたみたいに高飛車な女のふりを続ければいいのだろうか。
それともしおらしく一歩引いた方がいいのだろうか。
正解がわからない。
呼び方だって、今までずっと「舟木くん」と呼んでいたから、急に「直弘」とも呼べない。
「直くん」あたりから始めてみようかと思っているけれど、それもまだ勇気がいる。
一緒に歩いているだけでこんなに考えなきゃいけないことがあるのに、ちゃんとお泊まりを成功させられる気がしない。
準備はしている。
覚悟も決まってはいる。
けれど、私の体力と神経が持つか心配だ。
世の女性たちは、みんなこんな風に頭の中で様々なことを考えてデートしているの?
10代とか学生時代とか、若い頃なら多少の失敗も許されるだろう。
だけどこちとら手練れのイイ女を演じたことで成立したカップルだ。
失敗は許されない。
「真咲」
「な、なにっ?」
「今日、何時まで大丈夫?」
き、来た……!
「え……と」
便宜上、私は男たちに実家住まいだと言い続けてきた。
大人になっても父親が厳しくて泊まりはダメなのだと言って、肉体的な誘いを断ってきたのだ。
まだ初デートだし、今日はこの調子でお泊まりを回避しようか。
いや、この恥ずかしさや緊張は、いずれ乗り越えなきゃいけない壁だ。
せっかく準備したのだし、逃げたって仕方がない。
私が答えあぐねていると、ネガティブな返事を予期した舟木はしゅんとした顔になった。
「終電までに帰っちゃう?」
長いこと私を口説き続けてくれた彼のためにも、勇気を出して頑張ってみるしかない。
「ううん。家には帰らないって、言ってきた」
舟木の表情がパァッと明るく変わった。
なんてわかりやすいのだろう。
「じゃあ、うち来る?」
「うん、行きたい」
意外と単純でわかりやすい舟木は、すぐにでも私を連れ込みたくなったのか、館内を巡る足を速めた。
そんな彼が可愛くもあるし、滑稽でもある。
舟木はそれ以降、ずっとご機嫌だった。
「俺、車買っちゃおうかな。そしたら真咲といろんなとこ行けるし」
「都心に住んでるくせに、独身のうちからそんな贅沢していいの?」
「車を買えるくらいは稼いでるつもりだけどな」
「私だって、車の一台くらいは買えるけど」
「ははは。ていうか、実家に住んでる真咲の方が金持ってそうだよな。真咲が買うか?」
舟木の言葉に、ギクッと肩を震わせる。
いつか実家に招待して、親を紹介しろとか言われたらどうしよう。
「やだ。私ペーパードライバーだし、運転怖い」
「俺も、しばらく乗ってねーなー。運転できるかな」
「今度試しにレンタカーして出かけてみる?」
「それいいな」
次のデートの話になると、いっそう舟木は幸せそうに笑う。
付き合い初めのお互いが初々しい時期が一番いいと言われるけれど、彼はきっと今そんな状態の真っ最中なのだろう。
かたや私は、余裕がなくて楽しめていない。
窮屈に感じたり、焦ったり、胸が痛んだり……。
嘘をつくには頭を使うから、同じ人と長時間一緒にいるのは結構大変だ。
私たちはその後、小さいけれどムードのあるオシャレな店で食事をした。
次の目的地は舟木の自宅だ。
恋人らしく繋いだ手から、これから迎える甘い夜への期待を感じる。
本当の意味で二人きりになる時間が、いよいよやってくる。
上手くやれるか心配だ。
乗り慣れない路線のシートの色やアナウンスが新鮮で緊張が増す。
優しい彼は一人分だけ空いた席に「一日中歩き回って疲れただろ?」と私を座らせてくれた。
彼に愛されている私は幸福者だ。
それなのに、私はずっと、頭で別の男のことを考えてしまっている。
あいつとデートをしたら、一緒にいる間ずっと私をからかって笑うんだろうな。
先日のように卑猥に手を撫で回したり、私にしか聞こえない小さな声で羞恥を煽るようなことを囁いたり、きっとする。
だけどきっと、あいつも私を空いた席に座らせてくれるのだろう。
そして彼の部屋で二人きりになったら……。
もうやめよう。
こんな時に、一体何を考えているんだか。
私が山村とデートなんて、絶対にするわけがないのに。
緊張で頭がどうかしてしまった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
舟木の暮らすマンションの一室は、私が住んでいる部屋よりも明らかに立派だった。
建物の外観からも察していたが、ここは単身者向けの賃貸住宅ではない。
「広いね」
11階の3LDK。
一人で住むには広すぎる。
「転職する気もないし、遠方への転勤もないからね。4月に独身寮を追い出される機会に買ったんだ」
「買ったの? まだ若いのにすごいね」
「おかげで借金持ちです」
「住宅ローンは借金って言わないよ」
結婚願望が強い舟木のことだから、将来家族が増えることを想定して購入したのだろう。
ここなら子供ができても大丈夫だ。
男の独り暮らしだと聞いていたから単身者向けの狭い部屋だと思っていたのに、こんな立派なお宅に連れてこられて、緊張は増すばかり。
「コーヒーでも飲む?」
「うん。私、やろうか?」
「いいよ、俺がやる」
「ありがとう。じゃあ、大人しく座ってるね」
キッチンに調理器具はあまり見当たらない。
生活感のあるものはシックなシステムキッチンの棚に収められているようだ。
コーヒーメーカーはよく使うのか、見えるところに置いてある。
全体的に新しくてピカピカだ。
舟木は慣れた手つきで装置に濾紙をセットしたり豆を付属のスプーンで計ったりしている。
私はリビングからその様子を眺め、香ばしいコーヒーのアロマを楽しむ。
もう夜なのにコーヒーを淹れているのは夜を長くするため?
眠くならないようにしているの?
新田主任とは御休憩2時間のお楽しみだった。
彼は家に帰らなければならなかったから、朝まで一緒ということは一度もない。
ここは舟木の自宅。
私たちは恋人同士。
何時間お楽しみが続いたところで料金は発生しないし、終電を気にする必要もない。
明日も休みだから寝坊していい。
“夜は長い”という言葉の意味を、初めて理解した気がする。
「お待たせ」
白地にシルバーの装飾がされたカップがテーブルに置かれた。
香り高いコーヒーは、茶色と黒の二種類。
私が砂糖とミルク入りを好むことを覚えてくれていたようだ。
さすが、モテる男は違う。
「ありがとう。美味しい」
「そりゃどうも」
3人掛けのソファーで、私たちは間を空けずにぴったりくっついて座る。
舟木の肩に頭を預けると、彼が私の頭にキスをする。
恋人同士の甘ったるい時間に慣れていない私は、恥ずかしくて笑ってしまいそうだ。
「このカップ可愛いね」
「先輩の結婚式でもらった引き出物だけどな」
「そうなんだ。いいものもらったね」
どうしよう。こういう雰囲気の時、何を話していいかわからない。
「真咲」
彼に呼ばれ、見つめ合う。
整った顔に熱が宿っているのがわかって鼓動が強くなる。
舟木が私の手からカップを奪ってテーブルに置き、私を正面から腕で包んだ。
私も軽く背中に手を添えて応える。
彼の胸に頭を預けると、彼の心音が聞こえた。
私よりずっと落ち着いている。
舟木はきっとこういうシチュエーションに慣れているし、どうしていいかわかっているし、スマートに私をリードするだろう。
私の緊張がバレませんように。
舟木はイイ女の私に惚れているのだ。
初心者であることを知られてガッカリされたくない。
「真咲がようやく俺のになった」
舟木の幸せそうな声に、胸がチクリと痛む。
私は彼の恋人になったけれど、自分が彼のものになったつもりはない。
それがひどく不誠実であるような気がする。
「……ふふ、大袈裟ね」
きっと正しい回答は“うん。私はあなたのものよ”だとわかってはいた。
だけど私は、どうしてもそう口に出したくなかった。
唇を触れ合わせる。
彼のことは好きだ。嫌ではない。
直後、無遠慮に舌が侵入すると、私の体は素直に反応し体温を上げた。
生まれて初めての“彼氏”とのキスは、コーヒー味。
新田主任とのファーストキスも、コーヒー味だった。
ファーストキスは甘酸っぱいレモン味だなんて、誰が言い出したのだろう。
私のファーストキスはコーヒー味。
ほろ甘くてほろ苦い、嘘の味だ。
「真咲……」
舟木は今のキスですっかりスイッチが入ってしまったようで、妖しい手つきで私の背中を撫で回す。
私はいったん体を押し退ける。
「待って。せっかくのコーヒーが冷めちゃう」
拒否をするつもりはないし私だってそのつもりで来たけれど、まだ心の準備ができていない。
彼は私の肩に頭を乗せ、首に唇を触れながら告げる。
「待てない。コーヒーなんて冷めてもいいよ。また淹れる」
淡い刺激がゾクゾク全身に回るけれど、ここは私が余裕ぶって、焦らしたい。
「せっかく美味しいのにもったいないよ。お風呂もまだだし、いったん落ち着いて」
背中をポンポン叩くと、舟木は駄々をこねるように唸った。
「今バタバタ済ませるより、後でゆっくりたくさんする方がいいでしょ?」
「……うん」
私はちゃんと恋愛上級者の女を演じられているだろうか。
焦れている舟木の頬に触れる。
新田主任とは肌の感触が全然違う。
肌だけじゃない。
抱き締め方もキスの仕方も、鼻を掠めるにおいも、全部主任とは違った。
今まで“男なんてみんな一緒”と思って生きてきたけれど、一人ひとり全然違うのだと初めて実感した。
そういえば、手の繋ぎ方も山村とは全然違った。
舟木は良識を心得ているから、電車の中で卑猥なイタズラを仕掛けて楽しむような真似はしない。
ああ、まただ。
こんな時に、他の男のことを思い出している。
頭の中から、山村の記憶だけ消えてなくなればいいのに。
舟木とイチャイチャしながらコーヒーを飲み干し、先に風呂を頂いた。
パジャマ代わりにTシャツと短パンを借りたのだけど、こうして彼の服を着ていると、自分が彼の彼女であることを実感する。
舟木は長身だから、Tシャツだけでお尻がすっぽり隠れてしまう。
小柄な女ならワンピースほどの長さになりそうだ。
これがいわゆる彼シャツとはこういうことか。
なるほどむず痒い気持ちである。
舟木と風呂を交代し、リビングで肌を整える。
基礎化粧品は旅行用のミニボトルを持参した。
メイクを落とした肌を見られるのだから手抜きはできない。
念入りに化粧水を叩き込む。
肌の手入れを終えた頃、早くも舟木が風呂を出た。
「早かったね」
私の声に照れが混じっているのが、自分でもよくわかった。
だって、いよいよだ。これが意識せずにいられるか。
「そう? いつもこんなだよ」
「そっか。私、髪乾かしてくるね」
立ち上がり洗面所へと向かう私を、舟木の腕が柔らかく私を包んだ。
「ごめん。気が利かなかった」
「え?」
「うちにはドライヤーがないんだ。今日買えばよかったな」
彼はそう言って、肩に掛けていたバスタオルで私の髪の水気を拭う。
「じゃあ、自然に乾くまでベッドには入れないね」
私の髪はまだしっとり湿っている。
「……いや。そんなに待てない」
舟木はそう言って、私の手を引いた。
行き先を察した私の胸が高鳴る。
風呂上がりのいい香り。
セットされていない湿った髪に感じる色気。
今日ずっと意識していたことが、これから始まろうとしている。
寝室は舟木のにおいがした。
空気清浄機がクリーンにしてエアコンが冷やしても、なお主の存在は消えていない。
新田主任とはホテルのベッドしか使わなかったから、ベッドがこんなに相手を感じさせるものだとは知らなかった。
「怖い?」
不安が顔に出ていたのだろうか。
私は首を横に振った。
「ううん。でも私、こういうことするの久しぶりだからちょっと緊張してる」
こんな時でさえ嘘をつけるのだから、きっと大丈夫。
機械が作ったクリーンな空気は、あっという間に私の嘘で汚れてしまった。
互いのまだ濡れた髪の感触。
布の擦れる音。
蒸発していく汗。
体液と石鹸のにおい。
どれも私が経験したことのあるものだったけれど、舟木の愛し方は新田主任のそれとはまったく違った。
肌を滑る感覚も与えられる快感も。
していることはほとんど同じなのに、不思議としか言いようがない。
別の男はどうなのだろう。
例えば、山村なら?
意地悪に笑いながらあえて羞恥を掻き立てる言葉を使い、肉体的にも精神的にも追い込んで、私が余裕を失っていく様を楽しむに違いない。
この想像で、私の興奮度合いが上がった。
体の芯がキュッとなり、影響を受けた舟木が反応する。
自分のふしだらさには驚かされる。
事の最中にまで山村のことを思い出すなんて最低だ。
舟木との触れ合いは長く長く続いた。
タイムリミットのない中でのセックスは初めてだったけれど、まさかこんなにクタクタにさせられるとは思わなかった。
シャワーを浴び直さなければなければならないほど汗だくだ。
けれど舟木にはその体力が残っていないのか、「張り切りすぎた」と笑って言った直後、あっという間に眠りに落ちた。
私は彼が起きないよう、静かにベッドを出て風呂場へと向かう。
「疲れた……」
だけど決して悪くはなかった。
いい汗をかいた。これはもはや、スポーツと表現すべきなのでは。
今日のことを色々想定して準備を重ねた甲斐はあったと思う。
体毛処理はもちろんのこと、電子書籍でHow To本を読み漁ったり、下着を新調したりした。
デートの間だって、食べる量を調節して胃が張らないように気を使った。
それくらいの気合を入れていないと、裸なんて晒せない。
主任との時は、バレないようにするために終わってからも気を使わなければならなかった。
秘密にする必要のない恋人とのまぐわいは、終わってみると案外あっけない。
つまらなかったということではない。
むしろとてもよかった。
ひたすら甘くて、制限もなくて、罪悪感もない。
相手と自分のことに集中できて気が楽で、没頭できた。
不倫しかしたことがなかったせいで、誰かと体を交えるには入念な準備と後片付けが必要だと思い込んでいたようだ。
セックスがこんなに簡単なことなら、既婚者でない男ともっと楽しんでおけばよかったとさえ思う。
ああ、話したい。
誰かにこの気持ちを聞いてもらいたい。
誰か?
いや、誰でもいいわけじゃない。
ただ一人、あかりに話したい。
私が男の誘いを断ると、あかりはいつも言っていた。
「もったいない。イイ男としたって失うものなんてないのに」
してみてわかったけれど、あかりの言った通りだった。
私は主任との行為で神経をすり減らしていたから、他の男とする時も同じくらい消耗するものがあると思い込んでいた。
不倫なんて馬鹿なことをして、せっかくの若い時期を無駄にしてしまったと、今ならわかる。
もしかしたら私にもまともな恋愛をする才能があったかもしれないのに。
今の私は、嘘なしに舟木とは付き合えない。
この顔が整形で、性格もあなた好みの女を演じているだけで、他にもたくさん嘘をついている……なんて今さら言えるわけがない。
シャワーを浴びて、汗を流した。
脱衣所にある洗面台には、本当にドライヤーがない。
今日のところは仕方がないから、丁寧にタオルドライをして、乾くまで起きていよう。
時刻は午前2時半を回り、もうすぐ3時になろうとしていた。
私が眠ったのが何時だったかは覚えていないが、目覚めたのは午後になってからだった。
明るいうちからまた数回肌を重ね、夕方、私は電車で帰路についた。
舟木の部屋では、ほぼセックスしかしていない気がする。
ひとつになっていない時間が惜しいという感じだった。
まさか世の中のカップルはみんなこうなのだろうか。
だとしたら、ドラマやマンガで見る恋人像は嘘っぱちだ。
それにしても体が重い。
舟木といる間は気を張っていてそう感じなかったけれど、一人になった途端に疲労がどっと押し寄せてきた。
これからこれがほぼ毎週続くことになる。
体が持つか心配だ。
慣れていないせいで、私にそういう体力がないのかもしれない。
慣れなければ、彼の彼女は務まらない気がする。
初めてのことが多すぎて、不安だ。
座席に座れたタイミングでスマートフォンを取り出し、トークアプリを立ち上げた。
あかりのトーク画面を開き、入力フォームをタップ。
しかし何から書いていいのかわからない。
先日言い過ぎてしまったことへの謝罪をすべきだろうか。
それとも何事もなかったかのように用件を入力すればいい?
一言打っては消し、打っては消し……と繰り返しているうちに、自宅の最寄り駅に到着してしまった。
これ以上悩んでも仕方がない。
私は改札階へのエスカレーターに乗っている間に、【元気?】と一言だけ送信した。
改札を出て数秒後、スマートフォンが震える。
ディスプレイには【着信 樋川あかり】と表示されている。
私の胸は、舟木とキスをした時と同じくらい高鳴った。
「もしもし」
『真咲、久しぶり』
あかりの穏やかな声を聞いた瞬間、嬉しくて泣きそうになった。
自分が選んでそうしたのに、あかりと連絡を絶っていた約1ヶ月は本当に苦しかった。
「ほんと、久しぶりだね」
私は話しながらある行きたい気分になって、あかりとケンカ別れしたあの公園へと向かうことにした。
『あたしは元気だけど、真咲はなんだか元気ないね。何かあった?』
電話でたった一言交わしただけなのに、それに気づくあかりはすごい。
「この1ヶ月でいろいろありまくりだよ」
『聞かせてよ』
「あのね――」
私ははち切れんばかりに膨らんでいたものをぶつけるように喋り倒した。
言葉が止まらなかった。
あかりが今まで通り、いいところで相槌を打ちながら上手に聞いてくれるから、話が止まらなかった。
舟木とのことを一通り話し終えた頃、私は公園の広場に到着した。
あかりとランチを食べたベンチがちょうど空いていたので、私はそこに腰掛け夕日を眺めながら会話を続けることにする。
夕焼けが闇と混じるこの時間になると、人気が引いて静かだ。
ウォーキングやジョギングをしている人がまばらにいる程度で、広場で遊んでいる子供はもういない。
だけどそのおかげで電話越しのあかりの声はよく聞こえる。
『とにもかくにも初彼じゃん! おめでとう』
「ありがとう。でもずっと一緒にいると、ちょっと窮屈かも」
『普通付き合いたてって“帰りたくない、もっと一緒にいたい”ってなるもんなんだけど、真咲だとそうなるんだ。いつまで持つか見ものだわ』
「しばらくは頑張ってみるつもり」
『しばらくって、1ヶ月くらい?』
「そんなに根性なしじゃないから!」
いつもの毒舌に安心する。
下手に『頑張ってね』などと励まされたりしたら、逆に距離を感じてしまう。
「それより、あかりの方はどうなの?」
私が尋ねると、あかりはうんざりしたように『ああ』と漏らした。
どうやらあまり上手くは行っていないようだ。
『結婚やめるって言ったら、相手に泣き付かれてね。あたしも彼と結婚したくないわけじゃないから、婚約破棄するのはやめたの。でも、式の件については、まだ折り合いがついてない』
「そっか……」
きっと上手くいっていると信じていた私としては、残念だ。
『でも、話し合いは進んでるよ。私に合わせてもらうしかないっていうのはわかってくれてるけど、自分の希望が叶わないことを受け入れるまでには時間がかかるんだと思う』
自分の希望する披露宴ができないことを理由に結婚をやめるような相手でなくてよかった。
あかりはきっと、ちゃんと愛されている。
「お相手の幼馴染みくんって、どんな人なの?」
私たちより年下で、普通のサラリーマンだということは聞いた。
顔は? 性格は? 体格は? ファッションのタイプは?
気になるのに想像ができない。
私の問いに、あかりは意外な言葉を返した。
『真咲、会ってみる?』
「え?」
『あたしも真咲の初彼に会ってみたい。せっかくだから、4人で会えないかな』
つまり、ダブルデート。
私たちは二人でしか会ったことがなかったから、すごく刺激的なお誘いだ。
「いいね。いつにしようか」
私が乗ると話が決まるのは早かった。
日にちの候補や利用する店など、瞬く間に具体的にプランが完成。
あとはお互いの相手に了承を得るだけというところまで話し合い、終話した。
久しぶりのあかりとの会話はあっという間だったけれど、ディスプレイには【通話時間 34分52秒】と表示されていた。
「長話しちゃったな」
私の声が周辺の木々のざわめきにかき消える。
いつの間にかすっかり暗くなっていて、人もいない。
暗い時間までこの公園にいたことはなかったけれど、点在する街灯ではさほど明るくなく、ちょっと不気味だ。
せっかく嬉しい気持ちで電話を切ったのに、その気持ちが不安と混ざって中和されていく。
私は立ち上がり、自宅へ向けて歩き出す。
頼りない街灯と向こう側に見える自動販売機の明かりしかないけれど、広い通りまではあと少し。
人気のない公園の道に、コツコツと私の靴音が響く。
風になびく木々の音。
そして公園の外から聞こえる自動車の音。
そこにかすかに私とは別の足音が聞こえてきた。
誰かが早足でこちらへ近づいてきている。
この公園のコースを利用しているウォーカーだとわかっていても、ちょっと怖い。
恐怖から逃れるため、私は無意識に足を速めた。
つけられているような気がするのは、春に原口の一件があったから自意識過剰になっているだけかもしれない。
あの日の嫌な感じはまだ鮮明に覚えている。
大通りはすぐそこなのに、公園は木や柵で仕切られているため、あと70メートルは歩かないと出られない。
とにかく人通りのある早く明るい道に出たい。
足音はどんどん私の方へ近づいている。
ここで振り返って、足音がただの見知らぬウォーカーによるものだと確認すれば安心するのだが、そうでなかった時のことが頭をよぎって勇気が出せない。
舟木に電話する?
いや、まっすぐに帰ると約束した手前、寄り道したとは言いにくい。
それに、舟木に電話で相談したところで、ここまで最短で40分はかかる。
私に何かあったとしても、彼に守ってもらうことはできない。
つまり、何の安心にもならないということだ。
整形前は夜道でもこんな風に恐怖を感じることはなかった。
当時の私みたいなブスを襲う男なんていないと思っていたからだ。
でも今は違う。
私は自他ともに認める美人だ。
襲われることもあるかもしれない。
美人に生まれ変わったことによる唯一のデメリットだ。
気になるからやっぱり振り返ってみようか。
いや、ここでこの顔を見せると逆効果かもしれない。
通りまであと30メートル。
後ろを歩く人との距離は、もう10メートルも離れていないと思う。
あと20メートル。
大通りまではもうあと数秒だ。
ここまで来れば、きっともう大丈夫。
――タッタッタッ……。
安心した次の瞬間、背後のウォーカーが走り出した。
危機を感じ、条件反射で後ろを振り返る。
「あ、やっぱり!」
姿を確認するより早く、男の声が聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
頼りない街灯に照らされ、ようやく男の顔が見えた。
彼の顔を見た瞬間、安心で緊張の糸が一気に緩んでいく。
「なんだ……山村さんか……」
先日見たのと同じランニングウェアを着ている。
「なんだじゃないよ。こんな時間にこんなところで、しかも一人で何してんの?」
山村がちょっと怒ったように尋ねてきた。
そんな言い方をされると、こちらもつい反発したくなる。
「別に関係ないでしょう? どうして私が怒られなきゃいけないの」
「危ないからだよ」
「危ない?」
「ここ、夜は変質者やら不良やらが出るんだぞ」
それは知らなかった。
つまり山村が腹を立てているのは、私を心配してくれているからということ?
なんだか本当に彼に好かれているような気がしてしまう。
つる子であると認めさせたいがために、からかっているだけに決まっているのに。
「あんたこそ、こんな時間にこんなところで何やってんの。まさか、変質者ってあんたのことじゃないでしょうね」
売り言葉に買い言葉。私の反発心はまだ治らない。
「この格好見りゃわかるっしょ。走ってたんだよ」
「歩いてたじゃない」
「走ってたけど、筋を痛めたから歩いてた。だから変質者に成り下がれる元気はないぞ」
ああ、まただ。
こんなの、仲良しの同級生みたい。
今はこんな関係、望んでなんかいないのに。
「ていうか、あんたこそ昼間に走ればよかったでしょう?」
「昼間は用事があったの」
用事? なにそれ。
もしかして他の女とデート?
「……あっそ」
別に私には関係ないし、嫉妬したわけじゃないから。
互いの自宅が近い私たちは、必然的に一緒に歩き出した。
変質者の話を聞いたから、いつものように「一人で帰りなさいよ」なんて憎まれ口を叩く気にはなれなかった。
こんな奴でもいないよりはマシだ。
身の安全には変えられない。
「あのさ、つる子」
「違うってば」
山村はまだ私につる子だと認めさせることを諦めていない。
「……弦川さん」
「何?」
「今日はいちだんと可愛い格好してるね」
「そりゃあ、昨日からデートだったので」
いつも彼が見ているような、会社の制服や通勤時の格好とは違うに決まっている。
「昨日からって……デリカシーの欠片もないな」
「本当のこと言っただけでしょ?」
「あんたが好きだって、俺は何度も言ってるのに」
人通りのある歩道にもかかわらず、山村は堂々とそう言ってのけた。
私の胸が素直にドキッと反応する。
私は嫌いなのだから、そんなに好き好き言わないでほしい。
「私は好きじゃないし彼氏いるもん。変に気を持たせたくない」
「そういうの得意だろ。俺にも勘違いさせてよ」
こいつ、頭おかしい。
「好きになってよ」とか「付き合ってよ」と言うならまだしも、「勘違いさせてよ」とは意味がわからない。
「何それ。誰得?」
「俺得。勘違いできたら、もっと強気にグイグイ攻められるから」
「今でも十分強気だと思うけど」
もっと強気になったら、一体どのくらいグイグイ来るつもりなのだろう。
電車が一緒になっただけであれほど私を翻弄できるのだ。
本気になったらどうなるのか、想像もできない。
「まだ本気出してないのに」
「出しても無駄よ」
「ちぇー」
山村との会話は、思いの外弾む。
ついさっきまで公園にいたのに、いつものコンビニに到着するのがあっという間に感じる程度には夢中になって話してしまっていた。
山村の術中にまんまとはまっているような気がして悔しい。
「家、ここから近いんでしょ? 送るよ」
彼のこの申し出に、「しまった」と思った。
そう提案される可能性を想定していなかった。
「いい。近いし」
それに、家の場所を知られたくない。
「あ、もしかして警戒してる?」
「……まあ、ある程度は」
「大丈夫。送り狼になんかならないよ。会社に告発されて契約打ち切られたら困るし」
「それは説得力あるかも」
山村ならまあいいか、と思った。
仕事上の関係があるから下手なことはしないだろうし、仕事に対して誠実であることはすでに知っている。
それに、うちは女性専用のマンションだ。
住人の来客であれば男性も入館OKということになってはいるが、女性専用を理由に入り口でお引き取りいただける。
「じゃあ、建物の前までお願いできますか」
私がそう言うと、山村はにっこりと微笑んだ。
「喜んで」
この笑みが子供の頃を思い起こさせて、何とも言えない気持ちになる。
いつの間にか山村と普通に話せる関係になってしまった。
関わりたくないと思っていたのに、環境がそれを許さない。
何か大きな力が私と山村を引き合わせようとしているような気がする。
……というのは、きっと自意識過剰だけれど。
それにしても、つくづく私は彼女に向いていない女だなと思う。
彼氏の家からの帰り道を別の男に送らせているなんて、どんなビッチだ。
「手を繋いでもいいですか?」
「ダメです」
「それじゃあ代わりに腰を」
「ダメです」
「せめて最後まで言わせてよ。冷たいなぁ」
「あんたが暑苦しいからよ」
こんなやり取りが嫌じゃない。
そっぽを向いてもめげずに構ってくる彼との間に「取引先の人」以上の関係が芽生えていることを否定できない。
「弦川さんって堅苦しいから、名前で呼んでいい?」
「ダメ。苗字で呼んでください、山村さん」
「えー。俺のこともユッキーって呼んでいいからさ」
「はぁ? 呼ばないし」
嫌じゃないというより、むしろ少し楽しく感じてしまっている。
舟木とおしゃべりしている時より、ずっと。
そんなのおかしい。
恋人より嫌いな男との会話が楽しいだなんて、絶対に間違っている。
舟木の顔が頭をよぎった時、バッグのポケットに入れていたスマートフォンが震え始めた。
舟木からの着信だ。
自宅マンションまではあと数十メートル。
山村と別れてからかけ直そうか迷っていると、山村が「どうぞ」という仕草をした。
相手が私の彼だと察しているようだ。
「もしもし」
『あ、真咲? まだ家に着いてないの?』
幸か不幸か、最近の通話は音質がいい。
ちょっとした音で山村と一緒にいることがバレないかヒヤヒヤする。
「うん、まだ。お使い頼まれちゃって、スーパー寄ってたんだ」
私が堂々と嘘をつく様子に、山村が眉間にしわを寄せ呆れた顔をした。
『そっか。到着の連絡がないから心配だった』
「もう少しで家だから心配しないで」
『わかった。気を付けてな』
「うん、ありがとう」
ここで山村が軽く咳をした。
その音をマイクが拾って舟木にバレるような気がして落ち着かない。
早く電話を切って山村と別れ、部屋に帰ってからかけ直したい。
『あ、それと、言い忘れてたんだけど』
私の気持ちなど知り得ない舟木は、会話を続ける。
「なに?」
『8月の連休、二人で旅行しない?』
「いいね。でもどこに?」
『それは今度、一緒に考えよう』
それからいくらか言葉を交わし、電話を切った。
私は清廉潔白な彼女を演じられていただろうか。
……ちょっと待って。
私は帰路でたまたま取引先の営業マンに出会い、送ってもらっているだけだ。
それなのに舟木に罪悪感を覚えるのはおかしい。
電話をしている間に、私たちはアパートの前へと到着していた。
山村は何か言いたげな顔で私を見ている。
私はあえて自分から言葉を発した。
「また嘘ついてるって、言いたいんでしょ」
山村はそんな私を鼻で笑う。
「今の、彼氏なんじゃないの? あんた、彼氏にまで嘘つきまくってんの?」
図星を突かれ、私は言葉に詰まってしまった。
さっき私が発した言葉から、彼はいくつもの嘘に気づいている。
「最初は自己防衛のためだったの。でも今さら本当のことなんてどう切り出していいかわからないし、その必要があるとも思ってない」
舟木に見せるために作っていた私像を守るためには、このまま嘘をつき続けるしかないのだ。
「付き合ってんのに、そんなんでいいのかよ」
「別にいい。嘘を突き通す覚悟はできてるし」
「あんたの彼氏に同情するよ。もう一度聞くけど、男を騙して楽しいか?」
ほぐれかけていた心が再び凍りついていく。
「……楽しむために嘘をついているわけじゃないから」
「だったらどうして嘘つくんだよ」
確かに初めは楽しむためだった。
けれど、今でも彼に嘘をつき通しているのは彼を傷つけないためでもある。
「あんたに関係ないでしょう?」
「弦川さん、本当にそいつのこと好きなの?」
ギクッとした。
舟木のことは好きだ。
だけど、燃えるように恋い焦がれているわけではないことも事実だ。
ただ一言「好きだよ」と答えればいいだけなのに、嘘に慣れているはずの私の口が動かない。
私の本音がノーであると解釈した山村は、深くため息をついた。
「結婚っていう話になったらどうすんの。一緒に生活しながら一生騙し続けるのは無理だろ」
私を好きだと言ったくせに舟木の肩を持つ山村に腹が立つ。
「結婚なんて、誰ともするつもりない」
「だから嘘ついていいでしょって? あんた本当に自分勝手だな」
誰のせいでこんな女になったと思ってるの。
そう言いそうになったのをグッと堪えた。
自分勝手なのはわかっている。
だけどそれを、あんたに非難されるいわれなはない。
「人の恋愛に首突っ込んで勝手なこと言ってるのはそっちでしょう?」
「それはそうだけど、この年になると恋愛が人生を左右するのはわかってるだろ。あんたは本気じゃなくても、相手の男が本気だったら男として一番輝ける時期を丸々棒に振ることになるんだぞ」
いつも何を言っても軽くあしらうのに、珍しく熱くなっている。
彼が言っていることは正しい。
だけど私は、嘘をついている私を求められて舟木と付き合っているし、それに応えているだけだ。
不誠実に付き合っているつもりはない。
この応え方は間違っているかもしれないけれど、だからってどうして山村なんかに説教を受けねばならないのだ。
今までどれほど素晴らしい女とどれほど美しい恋愛をしてきたか知らないけれど、真実を突きつけることで私を深く傷つけた山村なんかにそんな資格はないはずだ。
私は舟木を傷つけないために嘘をつき続けている。
結局山村由貴という男は、傷口に塩を塗っては何度も私を傷つけるのだ。
「うるさい。大きな声出さないで。どうしてあなたに干渉されなきゃいけないの?」
そう告げた私の声は、低く震えていた。
震えだけでも止めたいけれど、力を抜けばきっと泣いてしまう。
「それは……」
山村は悔しげに顔を歪める。
「生きていくには嘘が必要なの。恋愛にだって必要なの」
真実をさらけ出すのは、素っ裸で出歩くようなもの。
無様で無防備で、すぐに傷がつく。
へこんで、えぐれて、削られて、どんどん鋭くなって、いずれ人を傷つける。
だから私は嘘を上手に使って生きていく。
嘘で自分を飾り、守り、愛し、自分が傷つくことも、人を傷つけることもないように。
そんな快適なライフスタイルのヒントを与えてくれたのは。
“だってつる子、ブスじゃん”
この言葉で私を深く傷付けた山村なのだ。
「送ってくれてありがとう。またそのうち会社で」
私はそっけない口調で礼を述べ、逃げるように建物へと足を進めた。
ここは女性専用マンション。
私が招かなければ彼は立ち入れない。
「弦川さん!」
私を呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返ったり立ち止まったりはしない。
やっぱり山村とは関わるべきじゃなかった。
私たちは決していい関係なんか築けない。
部屋に帰って楽しいことを考えよう。
舟木に電話して、旅行のことを考えよう。
観光、温泉、グルメ。
まだ何も決まっていないけれど、8月がとても待ち遠しい。
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