第6話 新たなステップ




 06新たなステップ




 舟木と山村。

 どちらも整った顔をしている。

 舟木は一流企業の花形部署勤務、山村は優良な零細企業の稼ぎ頭だ。

 つまり、あかりの派手な元カレたちには引けを取るが、経済力は申し分ない。

 私には見えていないけれど、彼らの愛情を求めている女は多くいるだろう。

 愛想を振り撒いておけば、都合のいい女が簡単に釣り上げられるに違いない。


 そんな彼らには、ひとつ共通の欠点がある。

 私を好きだと言ってしつこく口説く大馬鹿野郎だということだ。

 私なんか愛したって何のメリットもない。

 駆け引きを楽しむくらいがちょうどいい。

 私に割く労力があるなら、他の女たちを笑顔にする方が有益だ。


 私はずっと前から、一人で自由に生きていくつもりで人生設計をしている。

 真実の愛とか、守られる安心感とか、そういう不確かなものは必要ない。

 若いうちだけたくさん遊んで、満足したところで落ち着き、恋愛とは違った趣味や楽しみを見つけながら生きていく。

 あかり以外に友達はいらない。

 恋人もいらない。

 大きな感動もなければ不安もない、ニュートラルで穏やかな人生を歩むのだ。




 ある日の午後、堀口さんが温かい紅茶を持ってきて言った。

「真咲ちゃん、なんだかお疲れじゃない?」

 確かに疲れてはいるかもしれない。

 身体的にではなく、精神的に。

 舟木と山村をどうしようか考えていると、それだけでメンタルを消耗してしまうのだ。

「そんな顔、してました?」

 そう尋ねると、堀口さんは快活に笑う。

「してたしてた。憂いた表情も綺麗だけど、美人は笑ってないとね」

 彼女が手本とばかりにスマイルを作るので、私は彼女に倣う。

 彼女は満足げに「よくできました」と告げ、おやつに個装されたクッキーを一袋くれた。


 堀口さんは年齢なりに綺麗だし、美人のなんたるかをよく知っている。

 年と経験を重ねた者にしかない気品がある。

 彼女はきっと、もともとは私が逃げたサークルにいるような女性なのではないかと思う。

 彼女には敵わないなぁと思うのも、そのためなのだと思う。

 私は一旦伸びをして深呼吸をした。

 エアコンの効いている部屋の空気は湿気が少ない。

 淹れてもらった紅茶を一口。

 私は、美女として生きる決意をした。

 くたびれている場合じゃない。

 職場の華としての役割を果たさねばならないのだから。


 この1ヶ月という短期間で、キープしていた男を何人も手放した。

 新たな出会いを求めて出歩く気力もないため、わりと暇だ。

 大学を卒業し、就職して仕事に慣れてからのここ数年間、優越感を得るために精力的に活動していた。

 ここらで一度休止してみてもいいだろう。

 自分の力で生きていくため、今は仕事に没頭する時期かもしれない。


「弦川さん。頼んどいたカタログ、準備できてる?」

 たった今外出先から戻ってきた新田主任が慌ただしく尋ねてきた。

 彼はこれからすぐミーティングルームで商談があるのだ。

「はい。すでにミーティングルームに置いてありますけど、変更でもありましたか?」

「いや、ないよ。ありがとう。いつも助かる」

 こんな風に感謝されると、優越感が得られる。

 自分には能力があると認めてもらったようで、心が潤うのだ。

 私は別に、女としての優越感だけを求めているわけではない。

 社会人としても、他より優れた結果が出せるよう努力している。


 主任は私との不適切な関係など微塵も感じさせることなく微笑んで、バタバタ商談に向けての準備を始めた。

 気が重い。

 なぜなら新田主任の商談相手は、山村だからだ。

 彼を迎え入れるのは、私の仕事なのである。


 間もなくして、その時間がやってきた。

「こんにちはー。オリエンタル・オンの山村です」

 相も変わらず爽やかな風貌で入って来た山村に、私は白々しく頭を下げた。

「お待ちしておりました」

 顔を上げると彼と目が合う。

 彼が私に構う気だとわかったけれど、会社では逃げられない。

「弦川さん」

「何でしょうか」

「今日もお綺麗ですね」

 山村はとびきりの笑顔でそう言った。

 胸が勝手に動揺するが、私は平静を装うしかない。

「……恐れ入ります。こちらへどうぞ」

 白々しく、あくまで他人行儀に。

 彼に私を口説く隙を与えてはいけない。


 山村をミーティングルームへ案内し、冷たい麦茶を出す。

「新田も間もなく参りますから、お茶を飲みながらお待ちください」

「ありがたいです。外は暑かったので、生き返ります」

「おかわりありますから、ご遠慮なくおっしゃってくださいね」

 というのはもちろん社交辞令なので、遠慮してくださいね。

 私にも仕事があるからお茶汲みに時間を割けるほど暇じゃないし、あなたのことが嫌いだし。

「ははは、全然気持ちがこもってないですね」

 私の本音は見透かされていた。

「そんなことないですよ」

 嫌味ったらしく言ったのは、わざとだ。

「そんなに警戒しないでよ。仕事中にまで口説こうとは思ってないから」

 山村は苦笑いしながらそう言って、仕事モードをアピールするように書類や資料が入ったファイルを机に広げた。

「別に警戒なんてしてない。私の仕事をしてるだけよ」


 ミーティングルームに二人きり。

 新田主任が来るまで、誰の目にも触れない。

 ひょっとしてこれって、今までで一番危うい距離感なのでは。

「あのさ、つる子」

「違うってば」

「じゃあ、何て呼べばいい?」

「苗字で呼んでください。さん付けで」

「それじゃあ今までと変わらないだろ」

「変える必要がある?」

「俺が変えたいんだよ」

「私は変えてほしくないんだけど!」

 山村が楽しそうにクスクス笑う。

 図らずしも彼とテンポのいい掛け合いをしていることに、今さら気づいた。

「そんなに嫌わないでほしいな」

「なっ、別に嫌ってなんか……」

 ない、と言いそうになってしまった。

「ない、とは言ってくれないんだ?」

 言うわけがない。

 あんたなんか嫌いだ。大っ嫌いだ。

 意外と狡猾で、からかい上手で、しつこい。


 山村は私がツンとして黙ったのを見て、嬉しそうに笑っている。

 その表情には見覚えがある。

 彼は小学生の頃、好きな女の子には意地悪をするタイプだった。

 あれから15年以上も経ったのに、変わっていないのか。

「仕事で来てるんでしょう? からかわないで」

 毅然として言ってみるが、彼の表情に変化はない。

「からかうのをやめると甘い言葉で口説いちゃうけど、いい?」

 甘い言葉でって……何を言うつもり?

 いや、別に気になるとかではなくて。

「それも嫌」

 山村には、人間的にも男性としても魅力がある。

 私も傷つけられるまではその魅力に囚われていた。

 私はこの世に存在するどんな悪よりも、山村を恨んでいる。

 だから、このくだらないやり取りは、不快でしかない。

 不快でしかないはずなのだ。

「怒ってても可愛いな」

「は、はあっ?」

 原因のわからない苦しさが胸いっぱいに広がっていく。

 主任、早く来て……。

 そう思った次の瞬間、コンコン、とノック音がした。


「お待たせしました。新田です」

 新田主任の入室により、私と山村は無駄口を叩き合っていた口をつぐんだ。

 山村は表情をビジネスモードに戻し、挨拶のために立ち上がる。

「今日はよろしくお願いします」

 こう見ると、私と話していた時とは全然顔が違って見える。

 彼も本当は裏表があって、私とあまり変わらないのでは。

 そんなことを考えながら、商談の邪魔をしないよう、私は静かにミーティングルームを出た。

 部屋を出る直前、山村と目が合った。

 彼は不敵な笑みを見せ、私はそれを軽く睨み付ける。

 扉を閉めた瞬間、ふと気づく。

 今のやりとりはまるで、新田主任との秘密のアイコンタクトみたいだった。

「……ありえない」

 新田主任と山村。

 私の秘密……つまり弱味を握っている二人は、今後頻繁に顔を合わせて仕事をすることになる。

 新田主任に限っては私とのことを漏らすはずがないが、山村については警戒が必要だ。

 私を探る目的で、主任に何か吹き込むかもしれない。

 どうか山村が余計なことを言いませんように。

 私は不安を抱えたまま仕事に戻った。




 山村がうちの担当になって以来、ちょっぴり仕事がやりにくくなった。

 プライベートでも気が抜けなくなったし、いつものコンビニに行くだけでも彼に会うのではないかと緊張する。

 通勤電車の時間だって、早めにずらすことになった。

 彼との再会以来、試練の連続だ。

 整形し嘘の自分を作り上げた私に、嘘には限界があることを知らしめるための試練か、あるいはこの場から逃げろという思し召しか。

 私にはこの会社を辞めて転職し、山村のいるあの町から出ていくという選択肢もある。

 私には転居のせいで迷惑をかける家族などいないし、別れを惜しむような恋人もいない。

 知らない土地で嘘の自分をリセットすることだってできる。


 ありのままの弦川真咲を捨てた時点で、私は一度空っぽになった。

 新たな自分の中に積み上げたものなんて取るに足りない。

 たった6年分だ。

 捨てるのに大した苦労はないだろう。

 今のところは本気で転職を考えているわけではないけれど、何にも縛られていない私には多くの選択肢がある。

 それは安心のようでもあり、不安のようでもある。




 しばらく経って、新田主任と山村がミーティングルームから出てきた。

 商談は終わったようだが、商品名を連呼しながら難しい話をしている。

「今日はこれで失礼します」

 山村がやや難しい顔で頭を下げた。

「いつも無理を言ってすみません。しかし、御社の利益に貢献できると思いますので、何卒ご検討をよろしくお願いします」

 新田主任は、いつも通り自信を感じさせる笑顔だ。

 商談はまとまらず、持ち帰りになったらしい。

 去り際に、山村とまた目が合った。

 山村は仕事モードの顔のまま、私には何も言わずに去っていった。

 ……別にそれを、物足りなく思ったわけではない。決して。


 新田主任は自らのデスクに資料を置き、休憩スペースへと向かって行った。

 ミーティングルームの片付けをするついでに「お疲れさま」の一言でもかけようと、数分後に彼を追う。

 休憩スペースには自販機とベンチがある。

 新田主任はベンチの背もたれにグタッと背中を預け、リラックスした姿勢で座っていた。

 そしてどうやら電話をしているらしい。

「ははは、それは大変だったな」

 彼の話し方で電話の相手がわかり、思わず足を止めた。

「あ、今日は早く帰れそうなんだ」

 優しい声と口調。

「うん、うん」

 会社にいる時とも、私と二人でいるときとも違う、よき夫の声だ。

 つまり電話の相手は、彼の妻である。

「作ってくれんの? やった。楽しみ」


 新田主任は人のもの。

 出会ったときからそうだった。

 そのことについて嫉妬を覚えたことはない。

 美形で、仕事ができて、私に優しい。

 そんな新田主任に、入社したての私は憧れを抱いた。

 少女時代にイケメン先輩に憧れたのと似たような、叶えるつもりのない淡い恋心だ。

 だけど少女時代とは事情が違った。

 美女になった私は、彼の気を引くことができたのだ。


「主任。お疲れ様です」

 電話を切った彼に声をかける。

 新田主任は緩んだ顔をこちらに向けた。

「ああ、お疲れ」

「どうでした? 商談は」

「別に、いつも通りだよ」

 彼は私とのことをどう考えているのだろう。

 彼は幸せだと言っていたけれど、私と体を重ねることに、少しでも罪悪感を覚えたりしているのだろうか。

「そう言えば、彼」

 唐突な話題に、私は首をかしげた。

「彼?」

「オリオンの山村さん」

「……ああ、彼ですか」

 彼の顔が浮かんで、自然と体が強張る。

 まさかあいつ、変なことを吹き込んだんじゃ……。

「真咲とは近所に住んでるんだって?」

 ……ああ、やっぱり。

 嫌な予感は的中した。

「ええ。たまにコンビニでお会いしますよ」

 他に変なことを……特に過去のことを話していないか心配だ。

 だけどそれを知るために主任を問い詰めることもできない。

「何となくそう思うだけなんだけど、あいつ、真咲のこと好きなんじゃないかな」

 山村に隠す才能がないのか、それとも新田主任が鋭いのか、そんなことまでバレてしまっている。

 あるいは、わざと気持ちを悟らせた?

「まさか。どうしてそう思ったんですか?」

「だから、何となくだって」

「そうですか」


 私たちは仕事と身体だけの付き合いであって、生活に干渉し会うほどの間柄ではない。

 私は都合のいい女でありたいし、彼には都合のいい男であってほしい。

 ちょっと特別というくらいがちょうどいい。

 お互い求めすぎると火傷してしまう。

 新田主任にとって私は、性欲と承認欲求を満たすためだけの女だ。

 誰が私に惚れようが、誰が私を奪おうが、大した問題にはならない。

 理解しているし、それでいいと思っている。

 私が彼に求めているのは快楽と優越感だけであって、愛情ではない。

 バレてしまえば互いに社会的信用を失うことになるけれど、私たちは秘密を守れる有能な人間だ。


 自分を正当化する気も、不倫を肯定する気もないけれど、浮気は100%する側が悪いというのは間違っていると思う。

 もし彼の妻が彼の欲求を満たしていれば、私なんかを相手にすることはなかったのだ。

 主任は幸せだと言ったが、妻もおそらく幸せなのだろう。

 新田夫妻が重大な問題を抱えていることは確かであるが、そんなこと私にはどうだっていい。

 世間が聞けば最低やらゲスやらと罵倒されるだろうことも、どうでもいいい。

 私は初めから、誠実であろうとか善人であろうというつもりがない。

 自分に害さえなければ、それでいいのだ。

 もし彼が独身で子供もいなかったとしても、私と彼は真剣な交際などしなかったと思う。


「主任、いつも奥さんと幸せそうに話すよね」

 皮肉を込めて告げると、祝福されていると勘違いした主任が無邪気に返す。

「幸せだもん、俺」

 彼の答えに安心する。

 その幸せが私の身を削ってできているものだと、ちゃんとわかっていればいいのだが。

 関係を持ち始めて3年。

 私に女としての自信をつけてくれたのは新田主任だ。

 私を求めてくれたし、甘えてくれたし、求めさせてくれたし、甘えさせてくれた。


「最近元気がないな。何かあった?」

「別に、何もないですよ」

 あえて答えるなら山村との再会だが、そんなことは言えない。

「最近やけに仕事してるし、早くも夏バテってことでもなさそうだな」

「最近やけにって、いつもちゃんと働いてますけど?」

「ははは。そうだな」

 新田主任は私に優しい。

 仕事に関しては厳しいし、不倫するような男だけど、優しい。

 3年前の入社当時、私はまだ人に優しくしてもらえることに慣れておらず、整形前につけられた傷も癒えていなかった。

 だから憧れの新田主任からの優しさは、とても身に沁みた。


 だけど3年経って私は変わった。

 美しい者が無条件で受けられる優しさに慣れ、当たり前になった。

 次第に優しさに対するハードルが上がり、自分に対する優しさの意図がだんだんわかるようになってきた。

 主任が私に向ける優しさは、新人小柳の教育と似ている。

 一人前ではない小柳が大きなミスを犯したり、途中で仕事を投げ出したりしないよう、コントロールするために気遣っている振りをする。

 つまり彼の優しさは、弱みを握る私が腹を立て、彼の秘密について口を滑らせたり、思わせぶりな態度を取ったりしないよう、都合よくコントロールするための演出なのだ。


 ここ最近、私の胸の中では黒い好奇心が燻っている。

 私を失ったら、彼はどうするのだろう。

 私が惜しいと縋るだろうか。

 それともさっさと次の女を見つけて、また身を削り合うのだろうか。

 その答えを見てみたい。

「私、好きな人ができたの」

 私がそう告げると、彼は驚いたような顔をした。

 私たちは、私に好きな人ができたら別れることになっている。

「……へえ、どんなやつ?」

「イケメンだよ。仕事もできるみたいだし」

「俺より?」

「違う会社の人だから、そこまではわかんない」


 いつかは彼と別れるつもりだったけれど、今日そうする予定はなかった。

 ただ、好奇心が膨らんだだけだ。

 彼に不満があったわけではないし、本当に好きな人ができたわけではない。

「その人、主任とは絶対的に違うポイントがあるの」

「何?」

「独身で彼女なし」

「あっははは。そりゃ敵わねぇ」

 主任はおかしそうに笑った。

「だから、主任」

「わかってるよ」

 少しは動揺してほしかった、というのが本音だ。

 さすがは新田洋輔だと言うべきか。

 彼は私が憧れていた通りの、大人の男だった。


 ベンチの隣。

 距離にしておよそ40センチメートル。

 もうこれ以上彼と接近することはないのだろうと思うと、ちょっとさみしく感じる。

 せめて最後に一回……というのは、イイ女が言うことではないと思ったからやめておく。

 疑似恋愛だったけれど、初めて報われた恋だった。

 報われただけで実ったわけではないが、彼のおかげで私はステップアップすることができた。

 愛ではなく、優越感。

 そして奥さんや子供がいても手を伸ばしたくなるほどのイイ女だという自信。

 3年間、十分に頂きました。

「今まで、ありがとうございました」

 私はそう言って、ミーティングルームを片付けるべくベンチから立ち上がる。

「なあ」

 自分が呼び止めたくせに、彼はこちらには目も向けず、真っ直ぐどこかを見つめている。

「何ですか?」

 私たちは先ほどの瞬間から、ただの上司と部下。

 私はあえて敬語で返す。

「俺が初めてだったろ?」

 彼の言葉に全身が強張った。

 心臓が嫌な感じに動きだす。

「まさか」

 鼻で笑いながら嘘をつく。

「そうか」


 うまくいった。

 動揺は伝わっていないはずだし、声が震えたりもしていない。

 私はミーティングルームへと足を動かす。

 彼はそれ以上追及しなかったし、追っても来なかった。

 どうしてわかったのだろう。

 どこがいけなかったんだろう。

 初めて新田主任と繋がったあの日、私は精一杯経験者を演じたのに。

 痛みは我慢したし、それほどでもなかった。

 血が出たりもしなかった。

 それでも男にはわかるものなのだろうか。


 弦川真咲、26歳。

 独身、彼氏なし。

 彼氏いない歴は年齢と同じ。

 経験人数は新田洋輔ただ一人。


 そんなこと、誰にも言えない。

 だから私は嘘をつく。




 仕事を終えた私は、小柳の「今日ご飯行きましょうよ」とう誘いを断って会社を飛び出した。

 ビルを出てすぐにスマートフォンを取り出し、着信履歴から彼へと発信する。

 まだ仕事中なのか、彼はしばらく出なかった。

『もしもし? 真咲?』

「あ、舟木くん? ごめん、まだ仕事中だった?」

『うん。けどちょっとなら大丈夫。どうした?』

 私は今夜、新たなステップを踏み出すつもりだ。

 外見ばかりで中身のないモテ期は近い将来終わりを迎える。

 気に入れば媚びる女から、ステップアップするべき時が来た。

「話があるの。今夜、会える?」

 私だって、一度くらい誰かと真面目に付き合ってみたい。

 彼氏がいない歴に、今日終止符を打とう。

 私はその初めての相手に、山村ではなく舟木を選んだ。


 別に、彼氏ができなかったわけじゃない。

 一人に絞るのが嫌で、作らなかっただけだ。

 作ろうと思えばいつだって作れた。

 ……というのはもちろん事実だけれど、こんなの、モテない女の言い訳みたいで気に入らなかった。

 彼氏くらい、すぐに作れる。

 これを証明したい。

『俺も会いたい。仕事、なるべく早く片付けるよ』

「うん」

 正直、自分がどれほど彼女を演じれるかわからないけれど、彼の気持ちになら応えてみようと思った。

『じゃあ、また後で連絡する』

「わかった」


 今夜、私は舟木の女になる。

 記念すべき初彼氏。

『今度、二人で食事しませんか』

『好きなんだよ』

『本当に運命感じるんだよ』

 山村の言葉が頭をよぎるが、こんな言葉を真に受けてはいけない。

 山村はただ、私と再会したことを特別に感じているだけだ。

 それは私も同じだし、さしてロマンティックな運命ではない。

『だってつる子、ブスじゃん』

 私たちの運命は、この言葉の呪いで悪戯に交差しているだけだ。




 舟木が待ち合わせの店に来たのは、午後7時半頃だった。

「お待たせ」

 この暑い中、急いで来てくれたのだろう。額に汗が滲んでいる。

「たまには私が待たなきゃね」

「そうだな。いつも俺が待たされてる」

 舟木はそう言って笑いながら、手持ちのハンカチで汗を拭う。

 そしておしぼりを持って来た店員に、ビールを注文した。

 ここは可愛らしい内装が自慢の居酒屋だ。

 いつもの小料理屋もいいけれど、こういう話をするなら個室がいいと思った。

「で、話って?」

 舟木は仕事の疲れが顔に出ていて、気だるげに頬杖をつく。

 どうせまたくだらない愚痴でも聞かされるとでも思っているのだろう。

「告白の返事」

 私がそう告げると、急に真面目な顔になって背筋を伸ばした。

「え、マジか」

 私をガン見して返事を待つ彼を、少し焦らす。

 長い間、私の都合で返事を引き伸ばしてごめんなさい。

「こんな私でよければ、よろしくお願いします」

 嘘で塗り固めた、私なんかでよければ。

 舟木はとても嬉しそうに微笑み、安堵と歓喜のため息をついた。

「ありがとう。嬉しい。待った甲斐があった……!」

 こんなに喜んでもらえて、私も嬉しい。

 私は嘘つきだけど、いい彼女になれるよう、私なりに努力してみるつもりだ。




 目覚ましの音で目覚め、寝汗をかいた体を清めるためにシャワーを浴びる。

 朝食のパンをかじりながらメイクを施し、アイメイクまで完成したところで鏡に向かい、にっこりと微笑む。

 自分が美しいことを確認するために行う、毎日恒例の儀式だ。

 朝食を食べ終え、歯磨きをして、さてこれからリップを塗ってメイクを完成させようかという時、テーブルに置いていたスマートフォンが短く震えた。

 メッセージの受信音だ。

 ポップアップに差出人の名前が表示されている。

【舟木直弘なおひろ

 本文にはたった一言だけ。

【おはよう】

 舟木らしい無駄のないメッセージだ。

 私は同じ言葉を、スタンプで返信する。

 人生初の“彼氏”という存在のため、私のライフスタイルは少しずつ変わろうとしている。

【よく眠れた?】

【眠れたよ】

【いい夢見れた?】

【夢は見てない。覚えてないだけかも】

【俺は真咲の夢を見たよ。嬉しいからかな】

【どんな夢を見たの?】

【ここには書ききれない】


 朝なのに、メッセージのやり取りに時間を取られる。

 準備を優先してあとから返信すればいいのだろうが、舟木が返信を待っているところを想像すると、返してあげたいと思ってしまう。

 こんな私だけれど、初彼に舞い上がっているのかもしれない。

 だけどそのせいで、いつもより出発が15分も遅くなってしまった。

 時計を見て焦る。

 余裕はあるため遅刻にはならないのだが、この時間に家を出ると山村と遭遇する可能性が高いのだ。

 前に出くわして以来、念のため2本早い電車に乗るようにしていたけれど、これ以上遅らせたくはない。

 電車を降りてから会社まで早足で歩けば次の電車でも間に合うのだが、汗だくになるのは避けたい。

 朝から汗臭くなるのは嫌だし、せっかく頑張っているメイクも早く崩れてしまう。

 私は彼と遭遇しないことを祈り、駅へと向かった。


 駅への道を歩きながら、舟木とのやりとりを続ける。

【今日も一日頑張ろう】

【おう】

 それにしても、世の恋人たちは、時間さえあればこうして恋人と言葉を交わすものなのだろうか。

 それとも付き合い始めだけ?

 駅に向かう人々の中には、スマートフォンを操作しながら歩いている者も多い。

 彼らも私と同じように、恋人とやりとりをしているのだろうか。

 26歳にて恋愛経験皆無の私は、恋人のいる生活をどう構築すればいいか、まだわかっていない。


 駅に到着。

 改札を抜け、ホームのいつも利用するスポットへと向かう。

 体がそう覚えてしまっているから、無意識だった。

 今日はいつもより遅く家を出てしまい、山村と遭遇する可能性があったのだから、考慮して彼と出会ったスポットは避けるべきだったのに。

 それに気づいたのは、私を見つめる彼を目にした時だった。

 私は覚悟を決めなければならない。

「おはようございます。弦川さん」

 山村は、獲物を見つけた猛獣のような妖しい視線をこちらによこす。

 不用意に抗っても意味がない。

「……おはようございます。山村さん」

 これまでの人生、神が私の味方をしてくれたことがあっただろうか。

 答えがNOであることは明確だ。


「浮かない顔してるね。どうしたの?」

 あんたと出くわしたからに決まってるでしょう?

「は? 私、浮かれっぱなしですけど」

「そうは見えないな」

「目がおかしいんじゃない? 彼氏と楽しくLINEしてるの」

“彼氏”というワードに、山村の表情が微かに強張る。

 しかしすぐに笑顔に戻った。

「ほう。それじゃあ俺は、それを邪魔するしかないよね」

「はぁ? ちょっと、見ないでよ!」

 画面を覗こうとするから、私はやむなくスマートフォンをバッグへとしまう。

“邪魔するために覗く”という体で、山村が体をこちらに寄せてきている。

「近寄らないでくれません? 暑苦しいんですけど」

「俺は暑くても離れたくないな」

「うっざ」

「はは。弦川さん、やっぱ怒ってても可愛いよ」


 この馴れ合いは何?

 こんなの、仲よしの二人みたいだ。

 これは山村の術中なのだろうか。

 彼のコミュ力の高さが身にしみてわかる。

 構内にアナウンスが流れ、間もなく電車がやってきた。当然のように混んでいる。

 ドアが開くが、住宅地であるこの駅ではあまり人が降りない。

 7月になってから暑さはますます厳しくなったのに、電車もこれなのだからげんなりする。

 それでもこの電車に乗らねばならない。

 東京の夏は厳しい。

 人を押すようにして車両に乗り込み、後の人にグイグイ押され、どんどん奥へと足を進める。

「弦川さん」

 山村の声がしたと思ったら、ポールのある立ちやすいところで圧力がなくなった。

 山村が私について来て、すぐ横で踏ん張ってくれている。


 ドアが閉まり、発車。

 車両が揺れて、私たちの距離はすぐにゼロになった。

 山村の匂いがして、不可抗力で胸の内側が膨らむ。鼓動が強くなって息苦しい。

 彼とこんな距離で接するのを避けるために早い電車に乗っていたのに、今日は失敗した。

「近いよ。わざと?」

「もちろん」

 本当に、この距離はよくない。

「ねぇ」

 山村が顔を近づけ、耳元で囁く。

「何?」

 小声で不機嫌に返事をする。

「彼氏がいるって嘘? ほんと?」

「疑ってるの?」

 この間「いる」と言った時は嘘だったけれど、真実にした。

“噓から出たまこと”ということもあるのだ。

「俺、それ信じないことにしたから」

「は?」

「だってあんた、嘘つきじゃん」

“だってつる子、ブスじゃん”

 私が動揺することを狙って、あのセリフと同じ言い方をしたのはわざとかもしれない。

 相変わらずいちいち腹が立つ。

 それで私を好いているというのだから意味がわからない。

「好きにすれば? 信じようが信じまいが、私には関係ないし」

 私だって、あんたの言葉なんか信じない。

 ぷいと彼から視線を外す。

 山村が楽しそうにクスクス笑う。

 冷たくしてもへこたれない。

 察してフェードアウトしてくれない。

 私を怒らせるのを楽しんで、嬉しそうに頬を緩ませる。

 まるでかつて彼が好きな女の子にそうしていたように。


 電車が次の駅で止まった。

 人が流れ出て、そしてまた流れ込んでくる。

 私の体は他人によって容赦なく山村に押し付けられる。

 私は少しでも彼から離れたいのに、彼は待ったましたとばかりに私の体を受け止める。

 何とか密着しないように体を傾けて山村を肩でガードしてみるのだが、彼は必死な私をあざ笑うかのように、堂々と私の腰を抱き、手繰り寄せた。

「ちょっと……」

 抗議する間もなく、抵抗は無意味だと言わんばかりにギュッと手を繋がれた。

 指と指を絡めた、いわゆる恋人繋ぎだ。

 ごく自然にそんなことができるのが、不思議でならない。


「放して」

「やだね」

 山村はきっぱりそう言って手に力を込めた。

 抵抗してみるが逃れられない。

 幼い頃から疑問に思っていたけれど、自分に自信のある人間って、どうして傲慢に振る舞えるのだろう。

 傲慢なタイプの男は今までにも関わったことがあるけれど、相手が山村だと上手く対処できない。

「こんなことして、何の意味があるの?」

「愛情表現だよ」

「本当は好きだなんて思ってないくせに」

「どうして信じてくれないかなぁ」

「いいから放して」

「やだって言ってんじゃん。乗り換えの駅まで放さない」

 山村はそう言ってより強く手を握った。

 私はまた軽く抵抗するが、満員電車でモゾモゾ動くのを、横にいる中年男性が迷惑そうに咳払いした。

 私は仕方なく、本当に仕方なく、彼の手を受け入れなければならなくなった。


 すると山村は、次の行動に出る。

 手を繋いだまま指の腹を使って、絶妙なタッチで手の甲を撫で始めたのだ。それはもう、卑猥な感じに。

 電車の中なのに、いけないことをしている気分だ。

 キッと睨みつけるが、山村は悪びれもせず続ける。というより、涼しい顔で私の反応を楽しんでいる。

「どうしたの? 顔、赤いけど」

「別に。暑いだけ」

「そう」

 それなら遠慮なく、といった風に、彼の指が私の手のいたる部位をゆるゆると愛撫する。

 彼が撫でた部分から全身に痺れが広がる。

 手に触られるだけで体中の血が巡るなんて、新田主任は教えてくれなかった。


 こんな気持ちになっていることを悟られてはいけない。

 バレてしまえば「朝っぱらから何考えてるの?」とからかわれるに違いない。

 だから私は、彼の指の動きを止めるためにギュッと彼の手を握り返した。

「お、その気になってくれた?」

 口角を上げる山村をひと睨みして無視する。

 山村には敵わない。

 散々男を弄んできた美女としてのプライドが揺らぐから認めたくないけれど、私の過去を知る相手に強気に出られないという言い訳をして、無理に納得することにした。


「そういえば。あかりちゃんとはその後どうなったの?」

 山村がそう尋ねてきたのは、彼の乗り換え駅まであと3駅というところだった。

 あかりのことはずっと気になっていたから、動揺で繋いだ自分の手がピクッと震えてしまった。

「あれから連絡、取ってない」

「そっか」

 あかりの結婚がどうなったか、私だって知りたい。

 だけどあんな言い方をした手前、自分からは連絡しづらい。

 私は余計なことを言いすぎたのではないだろうか。

 もっと他に方法があったのではないだろうか。

 あれから何度も反省したけれど、時間を戻すことはできない。

 このまま一生あかりと仲直りできなかったらと思うと泣きたくなる。

 胸が詰まってきて、無意識に山村の手をキュッと握りしめる。


「あのあかりだもん。大丈夫に決まってる」

 幸せになることに貪欲なあかりなら、きっと危機を乗り越えているはずだ。

 山村が励ますように私の手を握り直した。

「頑張ってついた嘘が効いていればいいね」

 温かい言葉に、私は不覚にも泣きそうになってしまった。

 山村は私の心を震わせるのが上手い。

 いや、過去のことがあって、私が勝手に意識しすぎているだけかもしれない。

 いい意味ではないけれど、私にとって山村は特別な存在だ。

「うん」

 まだちょっと気まずいけれど、そろそろあかりに連絡してみよう。

 山村に背中を押されるなんて不甲斐ないけれど、いいきっかけになった。

 もしこの件に山村が関わっていなかったら、私は唯一の女友達を失っていたかもしれない。


 彼の乗換駅に到着した。

 私はもう少し先までこの電車に乗る。

 車両の扉が開いた瞬間、私の手は解放された。

「じゃあね、弦川さん」

 汗ばんだ手がヒヤッと熱を放出する。

 山村は人の波に押し出されるように降車していった。

 窓越しにホームを歩く山村を目で追う。山村も私を見ている。

 彼は「またね」と口を動かし、微笑んで手を振った。

 私も笑って手を振り返しそうになったけれど、すんでのところで思いとどまる。

 代わりにフンとそっぽを向き、怒っている風を装う。

 そんな私を見て、彼はまた嬉しそうに笑っていることだろう。

 それでももう、あまり嫌な気持ちはしなかった。


 これは慣れただけで、気を許したわけじゃない。

 あかりを気にかけてくれて嬉しかったから、一時的に心が広くなっているだけだ。

 一人になった私は、バッグからスマートフォンを取り出した。

 案の定、舟木からメッセージが届いている。

 簡単に返信をすると、すぐに既読がつき、次の返信が来る。

 女子高生並みに返信が早い。

 舟木も満員電車で通勤途中だと思われるが、私が山村と手を繋いでいる間、ずっと私の返事を待っていたのだろうか。


 付き合いたての恋人がいるのに、別の男と手を繋いで通勤。

 あれ、これってもしかして浮気?

 いやいや、別にいやらしいことをしたわけではないし。

 山村の手つきはいやらしかったけれど、そういう行為に至ったわけじゃないし。

 それにしても、これから毎日このペースでメッセージのやり取りをするのだろうか。

 すでに面倒に感じているのだけれど、私には“彼女”としてやっていけるか不安だ。

 生まれ変わってからの6年間で、男の引きつけ方やあしらい方は学んできた。

 だけど、向けられた愛への応え方に関しては、まったくの素人だと言っていい。

 ステップアップするためには、いくら面倒でも彼女としての仕事をクリアしていかなければならない。

 彼女として優越感を得られるレベルに達するまでにはしばらくかかりそうだ。


 愛されることを拒み続けていた私にはハードだけれど、何事も習得するまでには努力を要する。

 とりあえず今のところは、舟木からのメッセージに対し、きちんと言葉を返すことで愛に応えることにしよう。

 また、明日からは早い電車に間に合うように気をつけよう。

 誰かと付き合うなら、他の異性に付け入らせてはいけない。

 今日だって本来なら手を握られたりしてはいけないのだろうけど、最善を尽くした結果握られてしまったのだから不可抗力だ。

 私には何も、やましいことなどない。




 会社に到着。

 更衣室で制服に着替え、鏡で身なりをチェック。

 約2ヶ月に1度のメンテとお高いシャンプー&トリートメントでツヤをキープしている髪。

 毎日念入りに手入れしている肌。

 少しだけトレンドを取り入れつつ、顔のバランスを重視して施したメイク。

 数年前にメスを入れ、パッチリと開いた目。

 鏡には洗練された美女が映っている。

 もう以前の顔なんて忘れてしまった。

「よし。今日も頑張ろう」

 小さく自分に言い聞かせ、仕事モードのスイッチをオン。

 勢いよく更衣室を出る。


「おはようございまーす」

 笑顔を振り撒き職場に華を添えつつ、仕事を確実にこなす。

 私はなりたかった自分を実現し、これからも充実した毎日を送る。

 新田主任が出勤した。

「おはよう、弦川さん」

「おはようございます」

 特別な関係は終わったが、同僚としての関係は良好だ。

 私たちの罪は消えないけれど、思い出や経験として、今後の人生の糧になることだろう。

「弦川さん、ちょっといいかな?」

 焦った様子の古田所長に声をかけられ、立ち止まる。

「どうされました?」

 だいたい予想はついている。

 また何か面倒なことを頼むつもりだろう。

「今日、朝礼後すぐに出かけなきゃいけないんだ。会議で使う資料の作成を頼んでもいいかな」

「何の会議ですか?」

「本社の定例会議だよ。詳しくは移動しながらメールで送っておくね」

「わかりました。いつまでに完成させれば間に合いますか?」

「明日使うから、今日中で」

 ……この野郎、本当は自分で作るつもりだったけど、間に合わないと悟ったから私に押し付けたな。

 軽く怒りを覚えるが、笑顔は絶やさない。

「わかりました」

 臨むところだ。

 仕事も恋愛もステップアップ。

 これから私は再び生まれ変わる。



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