第5話 追憶と邂逅


 05追憶と邂逅




 もう15年以上前のことだ。

 私こと弦川真咲と山村由貴は小学4年生だった。

 山村は成績優秀でスポーツ万能。

 おまけに可愛らしい美少年。

 彼はクラスの人気者で、彼の周りにはいつも人が集まっていた。

 みんなに「やまむー」と呼ばれており、このキャッチーなあだ名がウケて誰からも気軽に話しかけられ、絶大な人気を誇っていた。

 当然、女の子からもモテモテである。


 かたや私は、地味でブスで、クラスでも目立たない存在だった。

 当時はまだ嘘つきではなかったけれど、自信の無さからか卑屈な性格で、当然のように友達も少なかった。

 私と山村には同じクラスということ以外、特に接点はなかったと思う。

 強いて挙げるとしたら、女なのに「まさき」、男なのに「ゆき」という、性別無視の名を付けられた同士の、半紙より薄い仲間意識があったくらいだ。

 もっとも、そんな仲間意識を感じていたのすら、私だけであっただろうが。


 日陰の存在である私は、弦川という名字をもじり、冴えないことへの皮肉を込めて「つる子」と呼ばれていた。

 私はババ臭いこのあだ名が好きではなかったけれど、真咲という男みたいな名も好きではなかったから、つる子なら辛うじて女性らしいと思い、甘んじて受け入れていた。

 というより、このあだ名を付けたリーダー格の女子に逆らえなかったという方が正しい。

 もっと可愛いあだ名だって付けられたはずなのだ。


 当時は私も人気者の山村と仲良くなることを夢見ていた。

 けれど、自分に自信を持っている女子たちのように馴れ馴れしく接したいとか、あわよくば両想いになりたいとか、そんな風に思ったことはなかった。

 ただ同じクラスのメンバーとして、気軽に言葉を交わせるようになりたかっただけだ。

 だから一度くらいは席替えで隣の席になれたらいいなと思っていたけれど、席が隣になることはなかったし、近くの席になっても目立つ子たちが作り上げているきらびやかな世界に飛び込む勇気は、私にはなかった。

 彼と言葉を交わしたのは、ほんの数回だったと記憶している。


 実は「やまむー」には、唯一苦手なものがあった。

「音楽」だ。

 歌や合奏、リコーダー。

 当時の小学校の音楽教育のすべてにおいて、彼は平均点以下だった。

 容姿端麗、スポーツ万能、頭脳明晰。

 腹立たしいことに、そんな彼の弱点は「可愛い」と映り、人気に拍車をかけた。


 ある日の放課後。

 私はその日に使った体操着を教室に忘れて帰っていたことを思い出し、帰路の途中で学校に引き返した。

 ブスはすぐに臭い汚いと陰口を叩かれるから、一度使った体操着は必ずその日のうちに持ち帰らないと不安だったのだ。

 置いたままにしておくと、性格の悪い女子たちに洗っていない体操着が見つかり、みんなに聞こえるように罵られるかもしれない。

 今思えば、汚い言葉を使って下品に笑う彼女たちより私の方がよっぽど清廉であったと思う。

 だけど悲しいかな、子供の正義はブスで弱い私ではなく、可愛くて強い彼女たちの方にあるのだ。


 誰もいない児童玄関で上履きに履き替え、最上階にある4年生の教室へと急いだ。

 異常に気付いたのは階段を上りきる前だった。

 誰もいないはずの静かな廊下に、不快で不気味な笛の音が聞こえてきたのだ。

 私はそれをいつか聞いた怪談と結びつけて、教室に向かうのを躊躇した。

 しかしよくよく聞いてみると、メロディーはその日音楽の授業で習ったものだった。

 そこで初めて誰かが教室に残って練習をしているのだと悟り、私はホッとしてふたたび教室へと足を進めた。

 どうかいつも私の陰口を叩いている嫌な女子ではありませんように。

 そう願いながら、ゆっくりと教室の扉を開く。

 それと同時に笛の音が止んだ。


 教室にいた人物を見て、私は思わず「あ……」と声を漏らしてしまった。

 リコーダーの練習をしていたのは、なんと憧れの山村だったのだ。

「つる子!」

 山村は私を見て恥じるような顔をした。

 誰にも内緒で練習したかったのだろう。

 私は途端に申し訳ない気持ちになった。

「ごめんね。邪魔しちゃったね」

 緊張のせいで口が震えて、やけに早口になった。

「いや、別に……」

 せっかく山村と二人きりだけれど、気まずい空気に耐えられず、私は急いで自分のロッカーへと向かい、体操着を入れた巾着を掴み取る。

 たかだか十数秒。

 けれど、しんとしている教室では間が持たず、私は言葉を発した。


「偉いね、練習してるんだ」

「うん。俺、苦手だからさ」

 山村のリコーダーが下手であることは周知の事実。

 ヒョロヒョロと情けない音しか出せず、指が追いつかず遅れてしまう。

 でもそこが可愛いと評判だ。

「つる子はリコーダー上手いよな」

「え? そうかな」

 確かに私はリコーダーが得意だったが、それを彼が認識していることに驚きと嬉しさを覚える。

 山村が私を見てくれていたのだと、舞い上がった。

「つる子はどうやって上手くなったの?」

「うーん。特に練習とかはしてないけど」

 彼とまともな会話をしたのはこれが初めてだったと思う。

 普段は高飛車なリーダー格の女子たちが囲んでいて、私は彼に近づくことすら許されない。

 リコーダーの練習だって、我先にと率先して付き合うことだろう。


 だけど今は誰もいない。

 この機会を得て嬉しくなった私は、彼に少しだけレクチャーをすることにした。

「そんなに強く握り締めなくても大丈夫だよ」

「吹くときはフーッて吹くんじゃなくて、トゥーって吹くの。吹きっぱなしにしないで、一音一音ちゃんと区切って吹くんだよ」

「指の動きは体で覚えられる。体が覚えたら、きっと次の音楽の時間には上手になるね」

 山村は素直に私の話を聞き入れ、練習に精を出した。

「こんな感じかな?」

「うん、すごくよくなったね!」

 私のアドバイスで彼が少しずつ上達していく。

 それが嬉しくて、私は帰るのを忘れるほど指導に熱中した。


 午後5時半を回った頃。

「おーい。早く帰らないと暗くなるぞー」

 教師の見回りによってこの日の練習は終了した。

 私たちは一緒に学校を出て、途中まで一緒に帰った。

「つる子、ありがとな」

 分かれ道で別れる際、山村は私に笑ってそう言って、親しげに手を振ってくれた。

 このことは私の初恋において、最高にハッピーな思い出だ。

 後にも先にも、この時以上に胸がときめいたことなどない。


 しかし数日後、音楽の時間。

 担任の何気ない言葉のせいで、私の世界は狂いだした。

「やまむー、つる子と遅くまでリコーダーの練習を頑張ってたんだってな」

 クラスがどよめき、私と山村は固まった。

 担任としては、努力した山村と熱心に指導した私を褒めたつもりだったに違いない。

 しかし、この事は決してみんなに知らせないでほしかった。

 だってこんなことが知られたら、みんなは私たちの関係を勘繰りだす。

「つる子と二人ってどういうこと?」

「やまむー、まさかつる子が好きなの?」

 そして私に対する嫉妬が膨らみ、思考は悪い方へと流れていく。

「ていうか、なんでつる子なの?」

「つる子のくせに、抜け駆けとか生意気」

 聞こえてくるのは女子たちの僻みに満ちた陰口と男子の下世話な冷やかし。

「やまむー。お前の彼女がひとりで本読んでるぞ。構ってやれよー」

「あんたたち、バカじゃないの? やまむー困ってるじゃん」

 男子が私のことで山村をからかうと、女子がヒステリックに噛みつく。

 私の方は男も女も関係なく「つる子、やまむーに告白したらしいよ」などと事実無根の噂をでっちあげられ、嘲笑の対象になった。

 たった小一時間、私と山村が共に過ごしたせいで、クラスの雰囲気はどんどん悪化していった。

 当事者の二人を差し置いて、周りの勝手な憶測と下世話な醜聞ばかりが一人歩きしていた。

 私も辛かったが、山村もきっと辛かったと思う。


 そして間もなく、とうとう一人の女子が山村に詰め寄った。

「ねぇ、やまむー。やまむーはつる子のことが好きなの?」

 山村はそれまで、みんなを宥めるようにヘラヘラ笑って「やめろよ」とかわしてきた。

 なかなかハッキリ否定しないことに、彼を好いている女子たちは焦りや怒りを感じていたのだろう。

 ブスなつる子にやまむーを取られたとなると、格好がつかない。

 だから彼女らは、山村からの「つる子なんか好きじゃない」という言葉を欲しがっていた。

 クラス中が山村と私に注目していた。

 虫の居所が悪かったのかもしれない。

 さんざん冷やかされてストレスが溜まっていたのかもしれない。

 それまで穏やかにかわしてきた山村は、ついに声を荒げて言い返した。

「そんなわけないだろ!」

 女子たちは歓喜し、私だけが密かに傷つく。

 大きな声を出さなくたって、そんなのみんなわかっているのに。


 心無い男子が面白がってヤジを飛ばす。

「でも二人で練習したんだろー?」

 山村は必死になって言い返した。

「最初は一人でやってたんだよ。でも途中でつる子が乱入してきたんだ。ビックリしたんだ。別に俺、一緒に練習したかったわけじゃないし。つる子に絡まれて、むしろ迷惑だったし!」

 本当に、必死だった。

 泣けちゃうくらい必死だった。

 そして。


「だってつる子、ブスじゃん!」


 あの時の笑顔は何だったんだろう。

 感謝の言葉は何だったんだろう。

 私は教室の隅っこで静かに堪えた。

 唇を噛み締めて、溜まった涙が溢れたら手の甲で拭った。

 クラス中の視線が刺さる中、せめて無様に大泣きしたりしないよう、床をじろりと睨み付けて、涙が最小限で済むよう静かに泣いた。

 自分の顔が美しくないことは、私だって自覚していた。

 だけど好きな人にそのことを揶揄されたことによる精神的ダメージは相当なものだった。

 そこまで言われなければならないほど、この顔は醜いの?

 堪えて、泣いて、堪えて、泣いた。

 山村と周りのクラスメイトは、その顔が余計にブスだと笑った。


 これで終われば、私はここまで彼を恨むことはなかったかもしれない。

 私を長く苦しめたのは、このことで「つる子を堂々とブス呼ばわりしていい」という風潮ができ上がったことだった。


 それからおよそ1ヶ月後。

 1学期が終わるのと同時に、山村はどこかの学校へと転校してしまった。

 こんなにも私の心を傷つけ、周りの人間と一緒に傷口をえぐっておいて、一言の謝罪もないまま。

 山村が去っても風潮は残り、それ以降も私はブスだブスだと言われ続けた。

 五年生になってクラス替えしても、小学校を卒業しても、ずっとだ。

 そんな私が、“素直ないい子”に育つわけがない。

 歪みに歪み、ひねくれにひねくれ、元々の僻み根性も相まって、性格の悪さをこじらせた。

 私は自分と自分の好きな人だけが幸せならそれでいい。

 出会う人間はだいたい敵だ。


 私の8割は嘘でできている。

 残りの2割が真実とは限らない。


 それくらい徹底していないと、心安らかに暮らしてさえいけない。




 山村に正体を勘付かれてから、1週間と少しが経過した。

 あれ以来山村とは会ってもいないし、あかりと連絡を取ってもいない。

 私の気分を反映するように、梅雨、豪雨、台風のニュースが聞こえてくる。

 毎日のように雨が降るし、晴れると嫌になるほど暑い。

 外は不快だが、それでも我が社の営業マンは果敢に顧客のもとへと飛び出していく。

「もうすぐボーナス」という魔法の呪文で自らを励ますのが、この時期を乗り切るコツなのだそう。

 汗をかいて営業所に戻った彼らを見ていると、毎日冷房のある場所で快適に働いているのが申し訳なくなる。

 私とて毎日それなりに忙しくしているが、この時期ばかりは彼らに同情するし、尊敬の念を抱く。


 もしかしたら自分はとても不幸で、とても弱い人間なのではないかと思うことがある。

 生まれの容姿や育ちなどを振り返ると、どうしても暗い気持ちになってしまうのだ。

 整形して美人になって、ある程度は乗り越えた。

 だけど、私の根底には「ブス」と罵られて育った「つる子」としての私がいる。

 こんな歪んだ性格で幸せに生きていけるはずがない。

 誰かに愛される人生など、とうに捨てている。

 自分の子孫を残すつもりも、私にはない。

 そんな私に生きる価値や意味はあるのだろうか。

 きっと答えはない。

 だから私は、自分に都合よく生きていく。

 自分が楽しければ、それが私の生きる意味だ。




「私は誰かに必要とされているのだろうか」

 そうぽつりと漏らしたところ、誕生日を一緒に過ごした最後の男、舟木がこう言った。

「俺が必要としてるだろ」

 本来ならとても嬉しい言葉なのだろうけれど、彼が求めているのは嘘で塗り固めた私だ。

 演じている彼好みの私を気に入っているだけであって、本当の私を必要としているわけではあるまい。

 それをわかっている私は、今日も彼好みの女を装ったセリフを返す。

「どんな風に必要としてくれてるの?」

 期待通りの返しだったのか、舟木は満足げに微笑む。

「真咲に癒されたい」

「癒すの? 私が?」

「つーか、真咲に入れたい」

「……何を」

「言っていいのか? こんなところで」

「ダメ。雰囲気台無し」

 今日は舟木の誘いで小洒落たイタリアンレストランに来ている。

 結局穴かよ。

 内心呆れつつ、この会話を楽しんでいるフリをして白ワインを一口。

 芳醇な甘味と酸味がささくれた心を潤してくれた。

「真咲に入れて癒されたいよ」

 解せない。

 快感を得るという目的はわかるけれど、あんなに汗をかく行為のどこに癒し効果があるというのだろう。

 舟木は頬杖をついて、情欲を訴えるように私を見つめる。


 さて、今日はどうやってかわそうか。

 私は新田主任以外の男性との肉体関係求めていないから、彼の要求には応えられない。

 ただし、とびきりの優越感をくれるなら、考えを変えるかもしれないが。

「俺たちがこうやって一緒に飯を食う仲になってどれくらい経ったっけ?」

「さぁ? 一年くらい?」

「いい加減俺の女になってくれませんかね」

 私は誰とも付き合うつもりがない。

 だけど舟木があまりに熱心に口説いてくれるから、付き合うことを前向きに考えてみたことも何度かあるけれど、結論は決まって却下なのだ。

 だって彼には結婚願望がある。

 結婚したいなら、私では不適任だ。

 本当はさっさと私から手を引いた方がいい。


「なんで私がいいの? わがままだし、してあげられることも少ないよ?」

 おまけに顔は整形だし、嘘つきだ。

「女を好きになるのに理由なんかねーよ。俺の体が、勝手に好きになった」

「今のイイ。ゾクッとした」

 やっぱり、舟木は魅力的だ。

 彼に愛されてみたいという、好奇心が掻き立てられる。

「つーか、もうそろそろ限界なんだけど」

 舟木が苦しげに顔をしかめる。

「何が?」

「苦しいんだよ。真咲に触れられないお預け状態が」

 口説かれて得られる優越感は、私の必須栄養素。

 特に舟木から得られるそれは極上だ。

 苦しい思いをさせてしまっているのは忍びないけれど、私には私の事情がある。

 せめて彼に報いようと、私は舟木の手をキュッと握った。

「触れたよ?」

 そういう意味じゃないと、舟木は呆れを含むため息をついた。

 そしてしばらく触れている私の手を愛撫し、指と指を絡める。

「もっとして?」

 私がそう言うと、彼は舌打ちをして私の手を放した。

「もっと他のところも触らせろ」

「エロオヤジ」

「うるせーよ」

「ごめんね。意地悪で」

 でも、彼は意地悪に接する私が好きなのだ。


 私だって、人並みに恋心を抱くことは何度もあった。

 恋心自体はとても淡いものだったけれど、恋愛に対する憧れは強かったと思う。

 でも、相手を好きになればなるほど自分の醜さにうちひしがれた。

「つるかわ? 誰だっけ?」

「ほら、あのちょっと男っぽい名前の」

「いや、わかんないや」

 高校時代に好きだった人には、クラスが同じなのに認識さえされていなかった。

「罰ゲームは弦川真咲に告白すること」

「うげぇ。俺あいつだけは無理だよ」

 中学時代に好きだった男子には罰ゲームのネタにされたあげく、それすら拒否されてしまった。

 そして、小学校時代。

「だってつる子、ブスじゃん」


 私は女ではなくブスという生き物だ。

 私が好意を持つと相手の迷惑になる。

 思いに気付かれたら嫌われる。

 私にとって誰かを好きになるということはそういうことだった。

 だから私は、もう誰も好きになりたくない。

 整形した今なら愛し愛されることも可能かもしれないけれど、私はもう、恋をするという感覚自体を忘れてしまっている。


 舟木が私を求めているのは、恋なのだろうか。

 彼は豊富な恋愛経験がありそうだし、身の焦がれるような恋はとうに卒業済みだろう。

 そして穏やかかつ冷静に結婚相手を探している。

「いい時間だな。そろそろ出ようか」

「そうだね」

 付き合う気もないのに彼と会っている私は、彼を傷つけているのだろうか。

 私が関係を曖昧にしたままデートをするのは、イイ男に言い寄られる優越感を味わうためであり、その先の関係や結婚には興味がない。

 舟木は私を十分に満足させてくれた。

 限界だと言うのなら、もう曖昧な関係に甘んじてはくれないのだろう。

 私は彼を解放するべきかもしれない。


 店を出て、駅までの道を話しながらゆっくり歩く。

 人気の少ない裏通りを選んだのは、お互いの声が聞こえやすい環境を望んだからだろう。

「お前さぁ、俺のどこが気に入らないわけ」

 舟木はきっと自分に非があると思っているのだろう。

 だから私が首を縦に振らないのだと。

「気に入らないところなんてないよ」

 私がそう答えると、舟木は納得の行かなそうな顔をした。

『相手のためを思って騙すという方法もあるんですね』

 山村の言葉がよぎる。

 私が今しようとしていることは、そういうことだ。

 私の8割は嘘でできている。

 だけど嘘は悪いものばかりではない。

 だからどうか信じてほしい。


「私ね、きっと男の人を好きになれない体質なの」

「体質? 女が好きなのか?」

「そうかもしれない」

 彼の顔が強張る。

 いいように勘違いしてくれればいい。

 舟木は明らかに動揺した。

 それでいい。今まで素直に騙されてきたように、今回も私の話を信じればいい。

「かもしれないって……ハッキリしないもんなのか?」

「そうね。そうありたくないって思ってるし」

 私は目を合わさずに小さな声で嘘を重ねていく。

 こんなこと、恥ずかしいから本当は誰かに話したりしたくないのよ、という複雑な表情を上手に作れていればいいのだが。

「俺のことは、どう思ってんの?」

「好き……になるんだと思ってた」

「過去形か」

 グッと目の奥に力を込め、涙を目に溜める。


 関係を絶つのなら、私も相手も悪者にならないよう演出しなければならない。

 それが揉めないためのコツだ。

 そして関係を綺麗に断つことができた時、私はその成功から優越感を得る。

 先日ストーカーまがいのことをされた原口のことはとことん悪者にしてしまったがこれは特例だ。

 私は、私に欲しいものをくれた男性たちをリスペクトしているし、感謝しているし、幸せになってほしいと思っている。

「真咲」

 舟木の右手が私の左頬に優しく触れる。

「男が……いや、俺が怖い?」

 首を横に振った。

「そいういうわけじゃないの」

 ここで頷いておけばそこで諦めてくれたかもしれないが、そうした時の彼の表情を想像すると憚られた。


 私は嘘つきだけれど、人を傷つけるのには慣れていない。

 相手の悲しむ顔は見たくない。

 舟木のもう一方の手も、私の右頬にそえられた。

 熱い手に閉じ込められているようでドキドキする。

 彼の手足は長いけれど、ものすごく彼を近くに感じる。

「舟木くん?」

 パッと視界が暗くなった。

 次の瞬間、唇に柔らかいものが触れた。

 それが彼の唇であることはわかったけれど、拒否したり突き飛ばしたりはできなかった。

 彼の唇が離れて、目と目が合う。

 心臓が激しく動いている。

「殴られるの、覚悟してたのに」

「ビックリしすぎて、そこまで考えられなかった」

 だって私はそもそもレズビアンではないし、舟木が嫌いなわけでもない。

「嫌だった?」

「ううん。ドキドキした。ていうか今もしてる」

 ドキドキするのは驚いたせいだ。恋じゃない。

 だけど舟木とのキスは嫌じゃなかった。

 私は比較的潔癖だと思っていたけれど、案外誰とでもキスできる女なのかもしれない。

「今日はこのくらいで勘弁しといてやるよ」

「なんでそんな偉そうなの」

「また誘うよ」

「うん、ありがと」

 舟木はそれ以降駅で別れるまで、私には指一本触れなかった。

 限界だと言って許可なくキスをしたけれど、そこで引いたのが彼の誠意であることはわかっている。

 私はもっとちゃんと、彼のことを考えた方がいいのかもしれない。


 自宅の最寄り駅で電車を降り、とぼとぼ歩いて自宅へ向かう。

 早く帰りたいけれど、考え事が頭から離れず、歩くことに集中できない。

 舟木とのキスに抵抗がなかったことで、私の価値観は大きく揺さぶられた。

 もしかしたら私は舟木のことを恋愛的な意味で好きなのかもしれない。

 だけど、彼の気持ちを重いと感じる。

 ネットや雑誌の恋愛コラムには「重い女」について書かれているものも多い。

 重いと感じる要因は、主に束縛や期待だ。

 私は舟木一人に縛られることを望まないし、結婚への期待には応えられない。

 誠実さに欠けている自覚があるから、深く関わることを恐れている。

 相手を安心させ、よい関係を築くための努力を一生続けなければならないなんて、嘘つきな私にはあまりに面倒だ。


 恋愛は、お互いが幸せを感じるための関係だ。

 苦しい思いをしないと継続できないのなら、恋愛なんてしなくていい。

 そう考えてきたせいで、まともな恋愛などしたことがないけれど。

 私は整形によって美しくなったけれど、人格の根本はブスなままだ。

 私が幸せになれるはずがない。

 私が愛されるはずがない。

 どんなにチヤホヤされても、根底ではそう思っている。

 いくら自分を嘘で塗り固め、イイ女を演じたところで、私は過去に受けた傷を癒すために優越感を搾取する卑しい醜女。

「だってつる子、ブスじゃん」

 そんなこと、山村に言われなくたってわかっていた。

 山村が言うより前から、みんなに陰でそう言われているのも聞こえていた。

 世界は美しい者には優しいが、醜い者には残酷だ。

 その証拠に、私がブスであったがために、山村と二人の時間を過ごしたことが罪になった。

 その罪を私一人に押し付け、周囲に私を傷つけて見せることで、山村は罰を逃れた。

 傷ついた私を見て、周囲の人間は楽しんだ。

 醜い者を傷つける行為は、大衆にとって娯楽なのだ。

 中には泣く私を見て同情してくれた者もいるかもしれないが、私の受けた屈辱が軽くなったわけではない。

 いつか山村の口から「つる子、綺麗だね」という言葉が聞けたら、私は彼を許す気になれるだろうか。


 飲み物を買うために、いつものコンビニに足を向けた。

 駐車場に差し掛かったところで香ばしい煙草の匂いがふわりと届く。

 このコンビニには、ゴミ箱の横に円柱形の灰皿が設置されている。

 私は吸わないからあまり気にしていなかったけれど、今夜ばかりは無視することができなかった。

 そこにいる男が、明らかに私へ視線を向けていたからだ。

 私はコンビニに立ち寄るのをやめてしまおうと思ったが、それより先に男が私を呼んだ。

「つる子」

 また山村である。

 彼は煙を吐き、灰皿に火種を押し付けた。

 私は不快感を隠すことなく彼を睨みつける。

「違うって言いましたよね。変な名前で呼ばないで」

 文句だけ言って店内に入ろうとしたが、「弦川さん」と引き止める呼び方をされ、仕方なく立ち止まる。

 いくら近所に住んでいるからって、どうしてこう何度も何度も彼に出くわしてしまうのだろう。


「遅いお帰りですね。俺が御社に伺った時には、もう退勤されているみたいでしたけど」

 山村は残念そうにそう告げた。

 私に会いたかった、みたいに言うのはやめてほしい。

 そもそも私が仕事の後に何をしようが、山村には関係ない。

「今日はデートだったんです」

「……そうですか」

 彼がちょっとイラっとしたのが伝わる。

 私が誰とデートしようが、山村には関係ない。

 というか。

「あなたとは本当によくお会いしますね。偶然にしては頻繁すぎて、ちょっと怖いくらい」

 私がそう言うと、彼は面白がるように口角を上げた。

「今日に関しては、偶然ってわけでもないんです」

「どういうこと?」

「ここにいたら、弦川さんに会えるような気がして」

「待ってたの?」

 まさか、山村までストーカーになってしまったのだろうか。

「ええ。といっても、別に何時間もここにいたわけじゃありませんよ。コンビニで買い物して、煙草を一本吸って、このコーヒーがなくなったら帰ろうと思っていたんです。期待はしてたけど、本当に会えるなんて思ってなかったし」

 山村はまだ中身が入っているアイスコーヒーのプラカップを横に振って見せ、用済みとばかりに飲み干した。


「会ってどうするつもりだったの?」

「話をするつもりでした」

「どんな話?」

「つる子の話」

 無視して店へ向かった私の腕を山村が掴んだ。

「待って!」

 電車の冷房で冷やされていた私の腕が、彼の手の熱を急速に吸収する。

 彼自身が私の内部に入り込んできているような錯覚がして、妙な緊張が走った。

 平たく言うと、ドキドキしているということだ。

「放してください」

 脈が強くなったことを悟られたくない。

 山村には調子を狂わされてばかりだ。

「知りたいんです、弦川さんのこと」

「私は知られたくありません」

「つる子なんでしょう?」

「違います」

 認めたくない。関わりたくない。

 山村といたらブスだった自分に戻ってしまいそうで怖い。


山上やまがみ小学校、4年2組。出席番号は誕生日順で、たしか俺より少しだけ前だった」

 魔法を解く呪文が聞こえる。

 化けの皮が剥がれていく。

「俺たちは友達と言えるほど仲良くはなかったけど、ある日の放課後、たまたま二人で教室に居合わせて、俺はつる子にリコーダーを教えてもらった」

 一枚一枚、服を脱がすように真実を暴いていく。

 私が必死に守ってきた繊細な真実を剥き出して、何をしようというの?

 また傷つけて笑いたいの?

 逃げたいけれど逃げられない。

 山村は私の腕を掴んだままだ。

「どんな経緯かは忘れてしまったけど、それがクラスメイトにバレて、冷やかされて。堪えられなくなった弱い俺は、自分が冷やかしから解放されるため、つる子にとても酷いことを言ったんだ」


“だってつる子、ブスじゃん”


 大人になった彼は、あえてその言葉を口にしなかった。

 しかし私の脳内ではクリアに再生される。

 避けたり知らないふりをしたり、できるだけ彼と関わらないよう頑張ってきたけれど、無駄だった。

 避けようとする言動が不自然過ぎて、逆に山村を刺激していたのかもしれない。

 私がつる子であることは、いずれにしろバレてしまう運命だったのだ。

「俺、本当はそのことを謝りたかったけど、タイミングが掴めなかった。自分が泣かせた女の子にどう接していいかもわからなかった」

 言い訳なんかどうでもいい。

 結果的に、謝らないまま私から逃げたのが真実なのだから。

「それからすぐに親父の転勤が決まって、俺はまた転校して。それ以来、つる子に会うことはなかった」

 山村の手が私の腕からそっと離れる。

 今なら逃げ出すこともできるけれど、ここで逃げ出したら自分がつる子だと認めるようなものだ。


「話はそれで終わり?」

「つる子って、名前が鶴子なんじゃなくて、弦川という苗字のあだ名だったんですね」

 忘れていたというより、当時から私の本名なんかに興味はなかったのだろう。

 私は山村由貴という名をハッキリ覚えていたから、腹立たしい。

「違うんじゃないですか? だってつる子なんてあだ名、全然可愛くないじゃない」

「どうしても認めない?」

「私には覚えがないと言ってるの」

 山村は諦めるようにため息をついた。

 彼はもう確信している。

 私が意地になって認めていないだけだということもわかっている。

 わかったうえで、私に話を聞かせているのだ。

「俺、もう二度とあんな居た堪れない思いはしたくなくて。あれからはどんなにからかわれたり冷やかされたりしても、自己保身のために他人を犠牲にすることはやめました」


 彼が後悔や誠意を見せるほど、私は嫌な気持ちになる。

 山村には悪者でいてもらわないと困るのだ。

「自己保身のために他人を犠牲にするのは、正当防衛では?」

「それでも、俺はやりません。つる子に恥じない自分でいたいから」

 そんな努力、私には何の意味もない。

 それで私の傷が癒えることはないのだから、ただの自己満足に過ぎない。

「あなた、間違ってる」

「え?」

「あなたは当時のまま、自分のために他人を犠牲にする非道な人間でいた方が、彼女は喜んだと思います。見下して馬鹿にできるよう、クズみたいな人間でいてくれた方が、スカッとするでしょうから」

 山村がイイ男に成長したことが気に入らない。

 私はそんなあんたを望んでいたわけじゃない。

「はは……言いますね」

 私の言い分に、さすがの山村も引いたようだ。

「今のあなたが彼女に何を償えるっていうの? 私をつる子だと思っているのなら、贖罪として二度とその話題を出さないで」

 とことん落ちぶれていてほしかった。

 これ以上ないほどの優越感を味わいながら、鼻で笑えるくらいに。

 今の山村では、私は救われない。


 今日はなんてハードな日なのだろう。

 ただでさえ舟木の告白で心を消耗していたのに、山村のことまで抱えきれない。

 山村が現れるまでは何でも上手くやっていたのに、彼が現れて以降、私の神経はすり減り過ぎている。

 こんな時に限ってあかりとはケンカ中で、愚痴ることすらできないのが口惜しい。

 一人で生きていくと決めているけれど、一人ぼっちは私の思っている以上に苦しい選択なのかもしれない。

「弦川さん」

 山村の呼びかけに、私はやる気なく応える。

「今度は何ですか」

 またつる子の話を始めたら、今度こそ無視してこの場を去ろう。

 そう決心して彼に耳を傾けたのだが、彼が放ったのは意外な言葉だった。

「今度、二人で食事しませんか」

「は?」

「俺ともデートしてください」

 山村は私の予想の斜め上をいくのが本当に上手だ。

 何を考えているのか、私には皆目見当がつかない。

「しません! デートって……どういうつもり?」

「男として、気になる女性を誘っているんです。つる子のことは話題に出したりしません」


 まさか本当に口説くつもりなのだろうか。

 いや、つる子のことを認めさせたいから構いたいだけに決まっている。

「気になるって……そういう意味じゃないくせに」

「そういう意味もあります。もっとあなたのことを知りたい」

 騙されちゃダメだ。これは山村の罠だ。

 私がつる子であると認めさせるための餌なのだ。

 こんな駆け引きに負けてたまるか。

 今の私がどんな女であるか、思い知らせてやる。

「そうよ、私がつる子なの。あなたに酷いこと言われて落ち込んじゃったけれど、今はこの通り元気に楽しく暮らしてるから問題ないわ。だから私なんかに構わず、他にいい人を見つけてちょうだい」

 嫌味っぽく棒読みで言い放つ。

 山村は再び、諦めたようにため息をついた。

 これでいい加減、私が真面目に打て合う気がないことを悟っただろう。


「わかった。つる子のことなんてもうどうでもいい。あんたはつる子じゃない。それでいいよ、もう」

 山村が投げやりに敗北を宣言する。

 これで解決、終戦だ……と思いたかったが、やはり山村は私の想像の斜め上をいく男だった。

「でも、あんたのことが好きなのは本当だから」

「は?」

「好きなんだよ。この間言った通り、本当に運命感じるんだよ。俺ら、たぶん結婚すると思う。本気で」

「……バカじゃないの」

 山村が壊れてしまった……のか?

 それとも、さっきの嫌味に対する報復で私を撹乱させたいだけ?

「あんたがつる子じゃないとしたら、何の恨みもない取引先の営業マンを、問答無用で振ったりはできないよな」

 山村はそう言って口角を上げる。

 私がつる子ではないというスタンスをこんな形で利用されるなんて思ってもみなかった。


 彼はあえて私たちの関係をどんどん複雑にしている。

 それはきっと、私を逃さないために。

「私はそんなにいい子じゃない。問答無用で振ることだってできる。言ったでしょう? 私、今日はデートだったのよ」

「一応聞く。彼氏いるの?」

 山村が敬語を使うのをやめた。

 声色や目つきも変わった。

 爽やか営業マンのキャラを演じるのをやめたということだ。

 あくまで同級生として接するつもりだということだろう。

「いるの。だから邪魔してほしくない」

 嘘だけど、これ以上付きまとわれてたまるか。

「やだね。俺はあんたを奪いたい」

 体がカッと熱くなった。

“奪いたい”だなんて、真面目に言われたのは初めてだ。

 営業マンのベールを脱いで男を見せ始めた彼に、全身が警鐘を鳴らしている。

「どうして私なの?」

「だって弦川さん、綺麗だから」


 その言葉を、彼の口から聞いてみたかった。

 聞けたらきっとスカッとすると思っていた。

 とびきりの優越感に浸れて、過去のことを少しは許す気になれるかもしれないと。

 だけど今、私が胸に感じているのは、山村が思い通りにならない憤り。

 因縁の相手に恋愛関係を望まれることへの困惑。

 そして、山村に美しいと賞賛されたことへの喜びと感動だ。

 こみ上げた感情は目頭を熱くして、止める間もなく心の汗が漏れる。

 整形以来、綺麗だなんて言われ慣れている。

 そのはずなのに、こんなにも胸を打たれている自分が嫌だ。

 山村の前だと、私はすぐにミスを犯す。

 私を好きだなんて、どうせ嘘に決まっている。

 私が整形美人であることにも気付いているはずだし、嘘つきな性格もバレている。

 こんな女を好きになるはずがない。

 山村はかつてのように、自分の弱みをちらつかせて私の同情を誘い、私を罠にかけようとしているだけなのだ。

 だから私は、まだ彼を許さない。


「そんな言葉で私を口説けると思わないで」

 声が震えないよう、めいっぱい力んで言い捨てた。

 逃げるようにこの場から立ち去る。

 買い物はしそびれてしまったが、これ以上山村と同じ空間にいることに堪えられない。


 顔を変え、故郷から離れた土地で生活すれば、美女としての生活を問題なく続けられると思っていた。

 山村との再会は致命的な誤算だ。

 嘘をついたところで、隠せる真実には限りがある。

 必死に構築した嘘よりも、何気ない真実の方がずっと強い。

 なぜなら真実は、決して変えることができないものだからだ。


 私の8割は嘘でできている。

 たとえそれが嘘だとバレていても、私は嘘をつき続ける。


 往生際が悪くてカッコ悪くても、嘘をつき続ける。



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