第4話 美女の集い

 04美女の集い




 山村が私の名前を知っても「つる子」を思い出さなかったのは幸運だった。

 彼の記憶力が優れていれば、私の正体はとっくにバレていたのだ。

 本当はわかっている。

 私は、彼に正体がバレること前提で対策を考えねばならないのだ。


 山村がここまで私に興味を持つとは思わなかった。

 彼はおそらく、これからも私に関わろうとする。

 疼いた記憶の欠片を集めるため、何かと私に構うだろう。

 仕事で関わっているから、無視を決め込むわけにはいかない。

 下手な嘘もつけない。

 どうか、ずっと思い出しませんように。


 私の正体を知られるくらいなら、しつこく口説かれ続けるる方がましだ。

「だってつる子、ブスじゃん」

 この言葉の報復として、ズタズタに傷つけて振ってやることができるのだから。




「ねー、真咲。何なのこれ?」

 唯一無二の女友達、樋川あかりがテーブルを覆っている書類のいくつかを手に取った。

 それが何であるかなど、答えずともわかっているはずだ。

 不動産屋で印刷してもらった物件情報である。

 私はノートPCを操作しながら応える。

「とにかく引っ越したいの」

 山村のいる物騒なこの街から飛び出したい。

 そのために先日会社近くの不動産屋へ行き、通勤圏内でいくつか物件を紹介してもらった。

 今ノートPCを操作しているのは、お部屋探しサイトで紹介してもらった部屋の画像をチェックしているというわけだ。

「この部屋、気に入ってるんじゃなかったの?」

 もちろん気に入っている。

 日当たりは良好。収納は大容量。水周りの設備も充実。

 最大のポイントは、女性専用のオートロック付きマンションだというところだ。

 同レベルの賃貸物件としては初期費用が安いのに、安全性が高い。


「そんなに例の彼が嫌なの?」

「そう、嫌なの。あいつに会うかもって思ったら、買い物に出かけるのも億劫になるんだもん」

 出くわすのももちろん嫌だけれど、取引先の人間にスッピン&部屋着で酒を買う姿なんて見られるわけにはいかないのだ。

 心の休まらない街でなど暮らしたくない。

「そんなに嫌わなくてもいいのに。イケメンなんでしょ?」

「イケメンでも、言うことメルヘンすぎてキモいから」

 見た目がいい男をイケメンと表現するのなら、彼は間違いなくイケメンだ。

 だけど中身が伴っていないと、イイ男であるとは認められない。

「何言ったの?」

「私たちはお互いが運命の相手で、将来結婚するかもって」

「ぶはっ……運命って、何それ! 超ウケるんだけど!」

 あかりには笑い話として披露したが、私にとっては深刻な事態だ。

 もちろん運命の相手などではないからその心配はないのだが、少しでも彼と距離を置いて、たとえ彼が私のことを思い出しても安全に暮らせる場所を確保しなければ。

 私はそのために物件を探しているのだ。


 日本には1億2千8百万人の人がいて、そのうちの1千3百万人が東京都民だ。

 この国には47の都道府県があって、東京にもたくさんの市区町村がある。

 そんな中、私がこれまでに出会った中で最も恨んでいる男と偶然再会し、偶然同じ土地に暮らしているというのは、ものすごくレアなケースである。

 悪運の強さに、我ながら舌を巻く。

 因果応報という言葉があるが、これが私の嘘に対する報いなのだろうか。

 私は嘘つきだけど、人を傷けるつもりはなかった。

 原口のように、結果的に傷つけてしまったことはなきにしもあらずだが、そんな風にならないように配慮はしてきたつもりだ。

 それなのにこれほどの報いを受けるとは。

 だったら私を深く長く傷つけた山村は、不幸のどん底で呻いているくらいでないと割に合わない。

 正直者は救われるだなんて、いったいどこの誰が決めたの?

 救う側の神様? 仏様?

 神様や仏様は、正直だった頃の私を救ってはくれなかった。

 嘘つきは泥棒の始まりだなんて、いったいどこの誰が決めたの?

 私は嘘つきだけれど、物を盗んだことなど一度もない。


 一通り笑ったあかりは、自らの左手の薬指に着けているエンゲージリングを指差した。

「その彼、次に会う時にでも指輪を持ってくるかもよ?」

 山村が指輪を持って営業所に来る様子を想像してみる。

 様にはなるだろうが、喜ぶのは堀口さんだけだ。

「さすがにそこまで馬鹿じゃないって。もし持ってきても受け取らない」

「もらえるものはもらっておけばいいのに」

「やだよ。受け取ったら結婚しなきゃいけなくなるじゃん」

「してみたら? どんな子供が生まれるか楽しみね」

 笑えない冗談だ。

 我が親友ながら、本当にいい性格をしている。

 他人の災難や不幸を笑うような女だが、生まれながらの美人で、これから幸せな結婚までするとは、まったく世の中は不公平だ。

「私は誰とも結婚するつもりありませーん」

「はいはい、そうでしたー」


 あかりは自身の指輪に触れ、笑いながらダイヤのの輝きを楽しむ。

 彼女が結婚すると言いだしたときは、本当に信じられなかった。

 私と同じく遊んでいる男はたくさんいたし、誰とも真面目には付き合っていなかったはずだ。

 指輪だけもらっておいて「やっぱ結婚やめる」なんて言い出すような気が、しなくもない。

 彼女の判断基準は損得勘定で快楽主義。

 損をすることや他人に縛られることを嫌い、豪華な食事やブランド品を好む。

 私よりも男性に対するコミュニケーション能力が高く、自力でどんどんお金持ちの男性と知り合い、複数の人と親密な関係になったり、高価なプレゼントをもらったりしていた。

 一匹狼版“港区女子”とでも言おうか。

 SNSで自慢したりしないため、隠れて遊びたい堅実派の男性たちには重宝されていたように思う。

 つまり、かなり美味しい思いをしていたはずだ。


「あかりの婚約者ってどんな人なの?」

「何よ急に。真咲、そんなの気にしたことなかったのに」

「もしかしたら聞いたらいけない人かもって思ってたから、あかりから言ってくれるの待ってたんだよね」

 だけど一向に相手の話にはならないから、しびれが切れたというわけである。

 あかりは少女のように照れた顔になり、それを隠すように膝を抱えた。

 え、なにそれ可愛い。

 金持ち相手にさんざん男遊びしてきたあかりがこんな顔になってしまうほどの人だということ?

 あかりは半分顔を隠したまま、端的に答えた。

「幼馴染み」

「……え?」

 意外だった。

 もっと派手な回答を期待していた。

 IT企業の若手社長とか、ブランドをいくつも持っているデザイナーとか、芸能人とか、これまで付き合ってきたの、そういう人たちだったのに。

「しかも、年下」

「年下ぁ!?」


 意外すぎる。

 これまで付き合ってきたの、30代半ばから40代半ばの一番脂が乗った、ギラギラした男たちだったのに。

 あかりが結婚するなら、そういうタイプの男だと信じて止まなかった。

 その幼馴染みは、彼らを凌駕するほどのリッチマンなのだろうか。

「それで、彼は何をやってる人なの?」

「普通のサラリーマンだよ。2つ年下だから、まだ3年目のペーペー」

 サラリーマンと結婚することは普通のことだけど、社長やら売れっ子デザイナーと付き合ってきたあかりが、回り回って普通の男性を選んだのが、逆にすごいことのように思える。

 幼馴染みだということは、付き合いが長いということだ。

 長い時間が育んだ愛や絆があるのかもしれない。

 ふと山村の顔が頭をよぎる。

 違う違う。

 あいつは少しの間同じクラスにいただけで、幼馴染みではない。

 私たちは友達ですらなかった。


「結婚するって、幸せ?」

 結婚願望のない私の、素朴な疑問をぶつけてみる。

 あかりは即答せず、顔をしかめて唸る。

「うーん……正直、わかんない。まだ籍は入れてないし」

「そんなものなの?」

「幸せにするって言ってもらえて、嬉しい気持ちは大きいよ。でも、あたしみたいな女が結婚生活なんてできるのかなって、不安も大きい」

 私には結婚願望がないから、「不安が大きいのならやめておけば?」と言いたくなってしまう。

 プロポーズを受けてから、あかりは付き合っていた男たちとの関係を清算した。

 彼らからもらったブランド物や宝石類を売り払ったりしないあたりは彼女らしいが、遊びをやめたことによって、暇そうだ。

 ハンターのようにギラギラしていたあかりにとっては、つまらないのではないだろうか。

 損得勘定を重要視するあかりは、それでも彼のプロポーズを受けることを選んだのだ。

 私には計り知れないメリットが、彼女には見えているのかもしれない。




 6月に入ってしばらく経った。

 もうすぐ梅雨入りするという。

 私は梅雨が大嫌いだ。

 たまに降る雨は嫌いじゃないが、降り続くと面倒である。

 傘という荷物が増えるし、履物にも悩む。

 洗濯物を外に干せる機会が減り、やむなく部屋干しすることがあるが、汗をかくと生乾きのにおいがするのは本当に不快だ。

 美人たるものいつでもいい香りに包まれていなければならない。

 部屋干しが嫌で雨の中コインランドリーまで大型乾燥機を使いに行くのだが、部屋干ししたくないもの、例えばブラジャーなどに限って乾燥機に入れられないから辛い。

 暑くなったり涼しくなったり、着るものを選ぶのも難しい。

 とにかく梅雨時期は、色々と面倒なことが多いのだ。




「こんにちはー。オリエンタル・オンの山村です」

 数日ぶりに、山村が我が営業所にやってきた。

 すごく会いたくないけれど、対応するのは私の仕事だ。

「……お世話になっております。先日は懇親会にご参加いただき、ありがとうございました」

「……恐れ入ります」

 先日の運命発言のせいで、私たちはますます変な雰囲気になっている。

 山村は私の助言通り、新田主任に取り入ることに成功したようだ。

 主任も「あの山村ってやつ、いいね。使える」と言っていた。

 しかし、気に入られたということは、より頻繁に営業所へ来るということだ。

 飲み会の時は何か償いをと思ってアドバイスしたけれど、今さらながら失敗だったかもしれない。


 新田主任が「使える」と評価するということは、一般的に「仕事ができる」ということだ。

 私はそれがとても気に入らない。

 山村にはダメな男になっていてほしかったのだ。

 高校を中退し、バイトを転々として、そのうちヤっただけの女に子供ができて、渋々結婚し、大して稼ぎもしないのに酒ばかりガンガン飲んで、咎められると暴力を振るう、どうしようもない男であってほしかった。

 それが実際は、ちゃっかりそこそこの大学を卒業して、仕事のできる爽やかイケメン営業マンとして充実した毎日を送っているのだ。

 彼女はいないようだが、普通にイイ男になってしまったのがすごく嫌だ。

 性格の悪さを露呈するようだが、私は彼に不幸であってほしい。




 この日の午後9時過ぎ。

 私は会社から少し離れた土地のホテルで、真っ白なシーツを乱すことに精を出していた。

「ねえ、主任」

 彼に跨った態勢で、会社にいる時のように呼びかける。

「んー?」

 彼はこの状況を一種のプレイとして楽しむように、口角を上げて応える。

 我を失う前の緩やかな快楽に耐えながら、私は聞いてみたかったことを尋ねた。

「主任は、結婚して幸せ?」

 新田主任は苦笑いをした。

 当然だ。今まさに、不倫相手と行為の最中なのだ。

 こんな時に家族のことを思い出させるなど、愛人としては邪道な行いである。

 所有者に無断で拝借しているのは悪いと思うこともあるが、所有者とはできないというのだから、不憫だと同情している。


「安心して。主任が幸せじゃなくたって、離婚して私と結婚してとか絶対に言わないから」

 私はただ、あかりが「わからない」と答えた質問に、彼がどう答えるか知りたいだけだ。

「ははは」

 笑った彼が体を起こし、今度は私がベッドに背中を預ける形になった。

 より深く彼を感じることができるが、私たちは0.02ミリの薄い壁に隔てられている。

 私は彼がそれなりに好きだけれど、愛してはいない。

 だから彼の妻に嫉妬することもない。

 もしかしたら彼の妻は不幸かもしれないが、私が知ったことではない。

「幸せかどうかって聞かれたら、俺は間違いなく幸せだよ」

「そうなんだ」

「子供は可愛いし、奥さんは尽くしてくれるし」

 でも、奥さんとはセックスレス。

 それは幸せに無関係なのだろうか。

「それに、真咲はイイ女だしね」

 当然だ。こんなに都合のイイ女、他にはいない。

 今日だって、本当は他の男と会う約束をしていた。

 だけど主任からの合図を受け取ったから、残業になったと嘘をついて延期にした。

 私がこんなことをするのは、特別にイイ男である新田主任にだけだ。

「奥さんも、こんな風に愛してあげたらいいじゃない」

「愛してるよ。でも欲を押し付けるのはなんだか恐れ多くてね」

「恐れ多い? 奥さんなのに?」

「自分の嫁さんをそう思うなんておかしいかもしれないけど、神々しくて」

「神々しい? マリア様みたいな?」

「そうそう、そんな感じ。聖母な感じ」

 きっと彼の妻はできた女性なのだろう。

 清楚で貞淑で、妻としても母としても完璧なのだ。

 神々しい妻に手を出せない代わりに、都合のイイ私の上で腰を振る。

 聖母に欲を見せないために私で体を清め、清い心で帰るのだ。

 そしてきっと、よき父・よき夫を演じる。

「だったら、ヘマしちゃダメよ? 家族と主任自身と、私の幸せのために」

「善処するよ」


 主任は奥さんから「パパ」とか「洋ちゃん」と呼ばれている。

 私も彼女の写真を見たことがあるが、私ほど美人ではなかった。

 まるで世間を知らないような幼さがあったが、年齢は私とさほど変わらないらしい。

 彼女が夫の不倫に気づかないのは、すれていない彼女が夫を疑うことを知らないからかもしれない。

「私も結婚しちゃおうかな」

「誰と?」

「誰かと」

 山村以外と。

 もちろんこれは冗談で、結婚など誰ともするつもりがない。

 私はずっと自分の力で、一人で生きていくつもりだ。

 ただ、もしかしたら、あのあかりが結婚しようという気になったように、いずれ考えが変わるかもしれない。

 ただし、決して山村の言葉に触発されたわけではない。


「真咲」

「なぁに?」

「いつか好きな男ができた時、俺との関係を清算できるか?」

「さぁ? 誰か好きになってみないとわからない」

 主任こそ、バレそうになった時に私ほどの“都合のイイ女”を手放せるのだろうか。

 仕事が順調で家庭も円満な新田洋輔だからこそ、体を重ねる価値があるのだ。

 私にとっては、この関係は優越感を得る手段であって、救いを求められるような関係なら意味はない。




“6月”と表記することに慣れた、6月中旬。

 先月誕生日を祝ってくれた男性の一人、久本と食事をした。

 帰り際、久本は「土曜日にどこか行かない?」とデートに誘ってくれたのだが、乗り気になれなかった私は「ごめんなさい。友達と先約があるんです」嘘をついてお断りした。

 食事からの帰り道の途中、あかりからのメッセージを受信。

『急にごめん。今日、真咲ん家に泊まってもいい?』

 これまでの付き合いの中で、急に泊まりに来るということはなかった。

 何かあったのだろうか。

『いいよー。これから来るの?』

『うん。ていうか、もう向かってる』

 やはりいつもと様子が違う。

 彼女に何かあったのは、ほぼ確実だ。

 私たちは駅の改札前で待ち合わせた。

 あかりのほうが先に到着していたようで、改札出たところ私を待ってくれていた。

「おまたせ」

「ううん。急にごめんね」

「話したいことがあるんでしょ? 酒とおやつ、買って帰ろう」

 山村と遭遇したコンビニでおやつと酒を買い込んで、私の部屋へと帰宅した。

 クローゼットから(今のところ)あかり専用のマットレスと掛け布団を取り出し、ベッド横のスペースに広げ、寝床を確保。

 順番にシャワーを浴びて、お互い念入りにスキンケアを施したところで乾杯した。


「で? 何があったの?」

 単刀直入に尋ねると、あかりは笑顔で答える。

「結婚したら、こうして真咲の家でお泊まりする機会も減るでしょ? だから今のうちにって思って」

 何となくだけど、あかりは結婚しても家庭に縛られず、奔放に過ごす気だと思っていた。

 しかし今の物言いだと、夫に気を使って生きるつもりがあるようだ。

 でも、あかりがそれを望んでいるようには思えない。

 だって笑顔に寂しさが滲んでいる。

「だったら、結婚までしょっちゅう来ればいいよ」

 私がそう返すと、あかりは「ありがと」言ってすぐに深く息を吐いた。

「機会が減るから来た……というのは、建前でね」

「建前?」

「本当は、結婚をやめるか迷ってるから真咲に相談しに来たの」

 あかりは決まりが悪そうにマットレスの上で膝を抱えた。

「やめるって……どうして」

「別に、トラブルがあったりとかはないんだけど。あたしなんかと結婚したら、あいつが不幸になる気がするんだよね」

 私の口からは、素直に思ったことが出て言った。


「らしくないじゃん」

 あかりはいつだって自分第一で、自分がよければ他人が不幸でもOKというタイプの女だ。

 結婚をやめると言うのなら、きっと年下サラリーマン婚約者の収入が歴代のハイスペック彼氏よりずっと低いのを不安に感じたのだろうと思った。

 自分ではなく彼のことを考えて結婚をやめるだなんて、これまで私が見てきた彼女を思えば信じられない発言である。

「あたしも、本気の指輪を突きつけられて舞い上がってたんだと思うんだよね。プロポーズなんてされたことなかったし。でもさー、結婚って今後一生を左右する大決断じゃん? 指輪一個にほだされてするもんじゃないよね」

 あかりはヘラヘラ笑いながら、早口で一気に捲し立てた。

 本心がまだ見抜けていないので、下手に口を挟めない。

 代わりに手に持っていた甘い缶チューハイを一口すする。

 あかりも同じタイミングで缶に口をつけたが、喉を潤すというより、己を奮い立たせるように一気に煽った。

 空になった缶をテーブルに置く軽い音が、静かな我が家に響く。


「もう大体10年くらい、女子高生の頃からリッチな男たちにチヤホヤされてきたんだよ? 毎週のようにフルコース食べて、スポーツカーで都心をドライブして、高級ホテルで朝まで汗だくでセックスして……それでも財布から1円も出て行かない生活をしてたんだよ?」

 聞けば聞くほどえげつないが、あかりは本当にそんな生活をしていた。

「そんなあたしが、急に一人の男に縛られて、家庭料理作って、隣の部屋の住人を気にしながらお行儀よく静かにセックス? そんなの無理じゃん? そのうち絶対発狂する」

 否定はできない。

 一般的に想像される幸せな結婚像からすれば、誰もがあかりには向いていないと言うだろう。

「だから、どうせあたしは発狂する前に浮気とかしまくると思うんだよね。そうなるとさ、旦那が可哀想じゃん。その頃に子供がいたらとか考えると、もう不幸な末路しか見えなくない?」

 もしあかりが今まで通り、リッチな男性にチヤホヤされる生活を続けたいと思っているのなら、最初からプロポーズを断っていたと思う。

 私が思うに、あかりはただ、自分を変える自信がないのだ。

 だから私に背中を押してほしくて、大丈夫って言ってもらいたくて、ここまで来た。


 だけど私は、無責任に大丈夫だなんて言いたくない。

 残念ながらあかりの言い分はもっともだから、どう答えるのが正解なのかがわからない。

 友達に気の利いたことが言えない不器用さは、「つる子」のままだと痛感する。

 ブスだった私には友達と呼べる存在があまりに少なくて、誰かを励ましたり勇気づけたりする機会に恵まれなかった。

 というより、卑屈になっていた私は、友人関係をよいものにする努力を根本的な部分から怠っていた。

「気の利いたことが言えなくてごめん。代わりに、主任が言ってたことを話してもいい?」

「主任って、奥さんがいる真咲の彼?」

 私は首を縦に振る。

 彼の結婚を破綻させる要因になりかねない立場から偉そうなことは言えないが、先日主任が言ったことは、あかりの胸に届くかもしれない。

「主任、幸せだって。私と不倫してるくせに、笑っちゃうけど。奥さんのこと、神々しく感じるくらい愛してるって」

 だからあかりも、今までと違う生活から得られる幸せを掴めるのではないだろうか。

 あかりの婚約者だって、そんなあかりとの幸せな未来を想像できたからプロポーズしたはずだ。

「そっか。あんたの彼、ゲスなくせに幸せなんだ。だったら私も幸せになれるかも」

 あかりはそう言って、呆れたように笑った。




 あかりと出会ったのは、東京に来て間もない頃だ。

 もう4年も前になる。

 私はとにかくこの大都会に溶け込もうと、単身で乗り込める女性向けのイベントや街コンなどのお見合い系パーティーなどに、精力的に参加していた。

 そうしていれば会社以外の人との出会いもたくさんあったし、女友達はできなかったけれど、遊べるメンズは簡単にゲットできた。


 とあるイベントで、私はやたらときらびやかな女性に声をかけられた。

 女性は20代後半に見えたが、若く見えるだけで30を超えているだろうと予想する。

「美人だけを集めた女子会サークルをやってるんです。活動は月イチでおしゃれなレストランを貸し切ってランチ会をするくらいなんですけど、よかったら入りませんか?」

 サークルの名刺を渡され、次回の活動日と活動場所を案内された。

 体験なら会費は取らないから覗くだけでもしてほしいと、熱心に誘われた。

 嬉しかった。

 整形して美しくなったつもりだったけれど、東京には当たり前のように美女が溢れている。

 田舎から出たての私は、自分の美が本当に東京で通用するのか不安になっていたのだ。

 しかしそのサークルに誘われたことで、私の美は証明された。


 都会でも私は美人に属するのだと舞い上がった私は、女性が教えてくれた会場へと足を運んだ。

 場所は、港区の住宅地にあるおしゃれなレストラン。

 入り口には「本日ランチタイム貸切」の看板が出ていて、オープンテラスから女性で賑わっている音が惜しげもなく漏れ出ていた。

 私は正面から堂々と入る勇気がなくて、いったんテラスの方から中を覗いてみた。

 中にいるのは、誰も彼もが洗練された美女。

 顔立ちも、着ているものも、髪型も、すべて美しいと賞賛されるにふさわしく、驚くべきことに、彼女たちは総じて美しいことが当たり前のように自然体なのだ。

 本物の美女とは、美しく生まれ、美しく育ち、美しく咲き誇ってこそ育まれ、そのように育った生粋の美女には、まるで毒が感じられない。

 私を誘った女性も、自らを美人であると口に出しながら少しも嫌味に感じなかった。


 しかし私はしょせん、人生のほとんどをブスとして生きてきた、紛い物の美女である。

 私は入口へと足を進めることはできなかった。

 彼女たちのキラキラしたオーラが、私のどす黒い過去を跳ね返したのだ。

 私は中にいる美女たちのように、心まで美しくはなれない。

 私はすぐに踵を返した。

 すると、私と同じようにテラスのそばから覗いている女がいた。

 私が足音を立てたことで、彼女も私に気づき、自然と目が合った。

 彼女も美しいが、彼女も中の美女たちとは違うのだと、すぐにわかった。

 彼女はきっと、私と同じタイプの女だ。

 そしてそう思ったのは、彼女も同じだったらしい。

 そう。彼女こそが、樋川あかりだったのだ。

「中に入らないの?」

 私が尋ねると、あかりは不敵に笑った。

「入らない。友達になれそうな人、いそうもないし」


 私たちはその場で意気投合して、駅近くのカフェチェーン店に入った。

「あそこにいた人たち、みんなピュアっぽくて。あの中に入るのは無理だなって思ったの」

「わかる。観賞されて褒められるだけの花って感じ。その美貌を使って得をしてやろうとか、のし上がってやろうとか、まったく考えてなさそうだった」

「そうそう。苦労せずに心も綺麗なまま育ってきた人たちなんだろうね。幸せそうでうらやましいわ」

「でも、あたしたちを誘ってきたくらいだから、人目を見る目はないんじゃない?」

「見る目がなくたって、こうやって私たちが避けるから問題ないんでしょ。ああいう人たちのことを、別世界の住人って言うんだと思うの」

 話せば話すほど気が合った。

 嘘で塗り固める必要なんてなかった。

 この日、あかりは私にとって唯一無二の大親友になったのだ。


 自分が何よりも大切で、与えられることが喜び。

 金持ちの男が好きで、そんな彼らと都合のいい関係のために自分を磨き、己の欲を満たすために自らの美をひけらかす。

 すべての女を敵に回すことを覚悟して、自分に正直に男に媚びる。

 その潔い邪道ぶりは痛快だ。

 与えられることに慣れておらず、優越感だけで満足してしまう私には到底真似できない。

 私は友として……いや、女として、あかりを心底尊敬している。

 私ももう少し心が強ければ、山村をうまく騙せる悪女になれたかもしれない。

 彼女が結婚すると言い出したときは血迷ったかと思った。

 けれど、私とは違って一般的に「女の幸せ」と表現されるものを求めているのであれば、間違った選択ではないと納得した。


 婚約者である幼馴染みは、どんな男なのだろう。

 あかりを指輪一個でほだしてしまうほど、素敵な人に違いない。




 一夜明けた。

 私たちが活動を始めたのは、午前から午後に変わろうという時間帯。

 天気予報で「梅雨の晴れ間もこの日まで」と聞いて、うちから1キロほどのところにある公園へと散歩に出かけた。

 道中、ベーカリーでサンドイッチなどの軽食を購入し、コーヒーショップでドリンクを購入。

 ラフな服装。

 スッピン隠しのサングラス。

 気分はニューヨークのセントラルパークに集うセレブリティだ。

 この公園はセントラルパークほど広くもないし美しくもないが、ファミリーが弁当を広げていたり、カップルが微笑み合っていたり、この界隈の憩いの場となっている。


「この公園、久しぶりに来た。あ、あそこ空いたよ!」

 タイミングよく空いた木造のベンチに腰掛ける。

「あたしは3年ぶりかな」

「そういえば、連れて来たことあったっけ」

 コーヒーやサンドイッチを袋から取り出し、左右に座る私たちの間に並べる。

 青空ランチのスタートだ。

 話のネタは、いつものゲスな愚痴や馬鹿話。

「この前話した、夜のメール返さないと朝から電話とかしてくる勘違い男。しばらく電話も出ないようにして、メッセージもスルーしてたのー」

「ああ、例の人ね。あんなのスルーでいいっしょ」

「そしたら先週、マジ切れしたメッセージ来てさ」

「何て書いてあったの?」

「あんまりちゃんと読んでないけど、“お前みたいな女いらねーし!”みたいなこと書いてあった」

「何それウケる。捨てられたのそっちだって気付いてないじゃん」

「あと、六本木のバーで声かけてきた男がさー」

「ナンパ?」

「うん。スーツ着てたし、まともそうな雰囲気だったんだけどね。急にヤバいことカミングアウトしてきたの」

「ヤバいこと?」

「そいつ、常にノーパンなんだって」

「ノーパン? え、つーかその情報、初対面の女にカミングする必要ある?」

「ないよねー。でもそんなこと言われたら、自然と目がそっちに行くじゃん? ズボン越しに履いてないのわかってドン引き。ただの変態だった」

「あっははは。どうして履いてないってわかったの?」

「ダイレクトにズボンの布地だから、うっすらカタチが浮き出てたんだよ。ごめん、食事中にする話じゃなかった」

「ホントだよー。でもマジ笑える」


 青い空、白い雲。

 生き生きとした木々と草。

 噴水の音。

 子供たちの笑い声。

 キラキラした景色にそぐわない、下世話な与太話。

 いつもなら私なんかよりよっぽど面白い話がたくさん聞けるのだけど、今日はあかりからは話題が出ない。


 わかっている。

 あかりはもう、これまで関わってきたたくさんの男たちのことなど頭にはなく、ただ一人、婚約者のことばかりを考えている。

「ねぇ、あかり」

「ん?」

「結婚、本当にやめちゃうの?」

 私はそう尋ねて、サンドイッチを頬張った。

 咀嚼している間、私は口を開けない。

 あかりが話すしかない、という状況を作りたかった。

 あかりは口に入れようと持ち上げていたサンドイッチを、膝に下ろした。

「たぶん、やめる」

 断言しない。

 まだ決心したというほどではないということだと思う。

「結婚式はいいの? ウェディングドレスが着られるって喜んでたじゃん」

 あかりの口角が急激に下がり、唇が固く結ばれた。

 サングラスをかけているけれど、あかりの表情がガチガチに固まっているのが、私にはわかる。

 どうやら核心に触れたようだ。

「結婚式のことで、何かあったのね?」

 あかりはゆっくりと、頭を縦に振った。

 私たちのベンチ周りだけが重苦しい空気に包まれる。

 浄化するように爽やかな風が吹くが、彼女の表情はなびかない。


「真咲、結婚式に呼べるような友達って、いる?」

「あかりだけ」

「あたしも、真咲だけなの」

 私は敵を作りやすい性格で、女友達を作ることを半ば放棄している。

 女とは上手に付き合えないからだ。

 でも、それを不便に思ったことはない。

 私にとって、ほとんどの女は敵だった。

 そしてそれは、あかりにとっても同じだ。

「あたし、披露宴やりたくないの。だって呼べる友達、真咲以外にいないんだもん。だから海外に飛んで、お互いの家族だけで結婚式をやって、日本では親戚に挨拶だけ……って形にしたい」

 それは理解できる。

 披露宴で新婦側の来賓が勤務先の人たちと私だけでは、あまりに格好がつかない。

 しかし、彼の希望はあかりの希望には沿わなかったようだ。


「彼は地元の式場に友達をたくさん呼んで、盛大にやりたいみたい。そりゃそうよね。彼は私と違ってみんなに好かれてて、友達もたくさんいるんだもん。結婚するなら、みんなに祝ってほしいよね」

 昨日、『あたしなんかと結婚したら、あいつが不幸になる気がする』といった理由がようやくしっくりくる形で理解できた。

 あかりは自分のせいで、彼が祝福されるという幸福を奪うことを懸念している。

「でもさ、やるとなるとあたしが困るじゃない? 呼べる友達は真咲だけ。彼の方の来賓は何十人もいるのに、惨めすぎるでしょ。結局彼も気を使ってやらない方向でまとまるのは目に見えてる」


 女友達を確保する努力をしてこなかった私たちは、生き方を間違ってきたのかもしれない。

 自分が楽な道を選んで生きたばかりに、大事な人が残念な思いをするかもしれないという葛藤が、あかりのメンタルを消耗させている。

「彼にはちゃんと祝福されてほしい。だから、相手があたしなんかじゃダメなの」

 価値観の違いや性格の不一致など、男と女がうまくいかなくなった理由の言われ方はいろいろとあるけれど、友人の数の不一致で婚約破棄だなんて聞いたことがない。

 かつて私たちが目を背けた美女サークルの記憶が蘇る。

 彼はきっと、あっち側の世界の人間なのだ。

 内面からキラキラと輝いていて、私たちのような闇を持つ人間は弾かれてしまう。


「あかりは、彼のことが好きなんだね」

「うん」

「彼もあかりのこと、好きなんだよね?」

「たぶんね。プロポーズしてくれる程度には、好いてくれてる……はず」

 だけどあたしに充てがうにはもったいない。

 そう聞こえた気がした。


 私たちは食事を終えて、公園内のランニングコースを散歩することにした。

 日が高くなって気温が上がり、さらに湿度も高い。

 この公園のコースには緩急さまざまな坂があって、じっとりと汗をかいてきた。

「暑い! 帰ってシャワー浴びたい!」

「それより水! 水飲みたい」

 ちょうど駐車場の脇に自販機があるのを見つけ、それぞれ冷たいミネラルウォーターを購入して飲めるだけ飲む。

 生き返るような気持ちで一息ついた時、後ろから聞き覚えのある男性の声がした。

「弦川さん?」

 条件反射で振り向く。

 そこにいたのはランニングウェアを身に着けた山村だった。

 髪が汗でしっとり濡れており、それを首に巻いたタオルで拭っている。

 近所に住んでいるとはいえ、いくらなんでも遭遇しすぎなのでは。

「山村さん!」


 たぶん、自販機の商品がよく見えるようにと、サングラスをカチューシャのように上げたのがよくなかった。

 かけたままにしていれば、私だと気付かなかったかもしれないのに。

 私が口に出した名前に覚えがあるあかりが、サングラス越しに彼を凝視する。

「こんなところで、奇遇ですね」

 お得意の爽やかな笑顔を惜しげもなく向けてくる。

 私に会えて嬉しいという感情を隠しもしない。

「そうですね。山村さんは走り込みですか?」

「はい。最近太りやすくなっちゃったので、運動しないと」

 腹をさすってみせるが、全然太っていない。

 汗をかいている姿も様になっていて腹が立つ。

 あかりがサングラスを外した。

「真咲、そちらのイケメンさんは?」

 知っているくせに、満面の笑みが白々しい。

 私は一応形だけ、「取引先の山村さん」と紹介する。

 山村はあかりにも分け隔てなく、にっこりと笑顔を見せた。

「初めまして。山村です。弦川さんにはいつもよくしていただいています」

 ……は? よくしていただいている?

 私、一度たりともあなたによくした覚えはありませんけど。

「初めまして。友人の樋川あかりです」

 女殺しの山村と男殺しのあかりがとうとう相見えた。

 あかりも山村も、何を言い出すかわかったもんじゃない。

 変なことにならないうちに、山村から離れたい。

 二人を引き離したい。

 しかし願望は脆くも崩れ去る。


「私たち、ちょうど散歩の途中だったんです。ご迷惑でなければ一緒にどうですか?」

 あかりが満面の笑みで山村に告げる。

 やめてよ! こいつと一緒だなんて絶対に嫌!

 私の気持ちがまったく無視されることは、初めからわかりきっていた。

「いいんですか?」

 山村が嬉しそうに答える。

 ダメです! 絶対ダメです!

 お願いだから断って。

「もちろん。お話しするなら多い方が楽しいじゃないですか」

 それは相手次第。山村が相手なら、私は全然楽しくない。

 あかりも山村も、この状況を面白がっている。

 さっきまで結婚のことで泣きそうな顔をしていたくせに、この切り替えの早さと逞しさはすごい。

「ふだん複数の女性をひとりでお相手する機会なんかないので、なんだかドキドキしますよ」

「別にいじめたりしませんよ?」


 楽しそうにお喋りを始めた二人。

 私は密かに歩幅を狭めて、あえて少し距離を取る。

「あ、こんなところを見られて、彼女さんに怒られたりしませんか?」

「残念ながら、彼女はいないんですよ」

「じゃあ、真咲なんてどうですか? この子も彼氏いないんですよー」

「ははは。実は僕、弦川さんには一度振られてるんです」

「ええっ? ちょっと真咲、本当なの?」

 ……もう帰りたい。

 事情、知っているくせに。それを聞いて笑い転げていたくせに。

「やめてよ。山村さんも、変なこと言わないでください」

 ムキになって返した私を二人が笑う。

 私はサングラスをかけ直して、極力二人の会話に参加しないよう再び距離を取った。


「樋川さんは、彼氏さんがいらっしゃるんですか?」

「婚約者がいます。でも結婚が決まってからが、うまくいかなくて」

 驚いた。ここで本当のことを言うとは思わなかった。

「式の準備で揉めているとか?」

「そうなんです。よくあることみたいですけど」

 あかりがやけに素直だ。

 婚約して男性関係を清算したから、この件について男性側の意見を聞ける貴重な機会だと思って真面目に話しているのかもしれない。

 私は黙って二人を見守る。

「無責任なことを言いますけど、きっと何とかなりますよ」

「なるかしら。もう結婚自体をやめちゃいたいと思い始めているのに」

「僕の友達も何人か結婚しましたけど、みんな口を揃えて披露宴の準備段階で結婚自体をやめたくなったと言ってました。でもダメになったやつはいません。乗り越えて、より絆が深まる……というか、準備自体が夫婦最初の試練なのかもしれませんね」


 山村の話に、私の胸が勝手に熱くなる。

 話自体は、どこかで聞いたことのあるありきたりないい話だ。

 でも“あの山村が私の親友の幸せを願って話している”という事実が、得体の知れない感動を引き起こしている。

「試練か……私たちも乗り越えられるのかな」

「できると信じましょう」

 山村が、あかりに“いい人”として映っているのが癪だ。

 あかりにはさんざん彼の悪口を吹き込んできたけれど、もう同調してもらえない気がする。

「参考程度に聞かせてほしいんだけど、男の人も披露宴に憧れがあったりするの?」

 この質問の重みがわかっていない山村は、至極ライトに答えた。

「人によると思いますけど、僕も憧れはありますよ。自分が何かの主役になることって、人生においてそうチャンスはありませんから」

 ああ……。今、その答えはまずい。

「そっか」

 あかりが立ち止まった。

 2、3歩遅れて私と山村も足を止める。

「やっぱりあたし、結婚やめるわ」

 山村が焦ったように尋ねる。

「えっ……どうしてです?」

 無理もない。

 少なくとも彼は、あかりが結婚に前向きになることを望んで発言していたつもりなのだ。

 それが裏目に出ていたことなど、事情を知らない彼にわかるはずもない。


「真咲」

 あかりが私に視線を向ける。

 私はサングラスを上げ、聞く姿勢を整えた。

「あたし、決心がついた」

 昨夜漏らした苦悩。

 さっき打ち明けた葛藤。

 悩んでいたのは、それでも彼と結婚したい気持ちがあったから。

 そしてあかりが“結婚をやめる”と結論づけたのは、彼は祝福されて幸せになるべきだと思ったから。

 婚約者と同じ、キラキラした世界にいる山村が「憧れはある」と答えたことで、余計にその気持ちが高まった。

「あたし、彼のために自分が我慢しようっていう気になれない。試練、乗り越えられない。だから彼との結婚、やめる」

「あかり……」


 すべて彼への愛ゆえだと、自分で気づいているのだろうか。

 自信家で自分勝手で利己的なあかりが、まるで別人のように他人のために悩んで、彼の希望や期待に沿える女に嫉妬している。

 彼を幸せにすることにおいて、己の無力さに打ちひしがれている。

 相手は幼馴染みだと聞いた。

 ということは、純粋だった幼少期、世間を知り始めた青春時代を経て、今のような自他共に認める腹黒女になるまでの一部始終を垣間見てきたはずだ。

 二人の間には、長い年月をかけて育んだ強靭で深い絆がある。

 あかりにとって彼は、己の欲を満たすために付き合っていた男たちとは次元の違う特別な存在。

 彼だって、あかりを大切に思っているからこそプロポーズした。

 それなのに、結婚をやめていいの?

 後悔しない?

「ねぇ、あかり」

 私の8割は嘘でできている。

 だから、よーく聞きなさい。


「それがいいんじゃない?」

 私は本心を隠すように、再びサングラスをかけた。

「弦川さん!」

 制止しようとする山村を無視して続ける。

「初めからわかってたじゃん。一般人と結婚なんて、あかりには向いてないよ」

 あかりはまるで映画やドラマに出てくるようなハイスペックで現実離れした男性とばかり付き合っていた。

 大衆向けに作られた物語なんかより、あかりから聞くリアルなエピソードの方がずっと面白いから、私は長い間彼女のライフスタイルのファンだった。

 そのライフスタイルが完結するのは、彼女が結婚を決意した時であろうと予想はしていたけれど、いちファンとしては、とびきりのハッピーエンドでないと納得できない。

「それに」

 会ったこともない婚約者を悪く言うのは、いくら私でもものすごく胸が痛むけれど。

「自分が祝われたいがために、あかりの意向を無視して盛大にやりたいとか、自己中すぎない? そういう男がゆくゆくはモラハラとかやりだすんだよ。女が恥をかこうが悲しもうが、関係ないんだよ。だから――」

「もうやめて!」

 あかりがひときわ大きな声をあげた。

 私は言われた通り、いったん彼の悪口を言うのをやめて口を結ぶ。

「あいつの悪口、言わないで。モラハラとかないから。優しいやつだから」

 婚約者を庇うあかりの表情にキュンとする。

 だけど、まだ芝居の途中だ。

 ここでやめるわけにはいかない。


「優しい男なら周りにたくさんいるでしょ。あかりなら、もっとレベル高い人と結婚できるって。その幼馴染みの一方的な願望のために、自分が苦しい思いをしてまで結婚する意味ある? たぶんだけど、この人の方がよっぽどいいんじゃない?」

 そうまくし立てて山村を差し出すと、彼は私を睨み諌めた。

「弦川さん! 言い過ぎですよ」

 うるさいな。あんたは黙ってて。

 言い過ぎだということくらいわかっているし、私はわざとそうしている。

「真咲、人を本気で好きになったことないでしょ」

 そう言ったあかりの声は震えていた。

「うん。ない」

 そしてその予定もない。

「好きな人にプロポーズされるとさ、すごく嬉しいんだよ。それだけでもう、一生幸せに暮らせてしまうような気がするの」

「気がしただけってことだよね。さんざん悩まされて、結果的に結婚やめるんだから」

 酷いことばかり言うのは心苦しい。

 こんな言葉で何くそ根性を煽ることしかできない私を許してほしい。

 私の8割は嘘でできている。

 彼女はそれをわかっているはずだから、いつか私の真意に気付いてくれると信じている。


「あたし、帰るわ」

 あかりは私と山村を残し、コースを外れ早足で公園を歩いて行く。

 これでいい。私はよくやった。

 大好きな親友に向けてここまで辛辣な言葉を発するのは、さすがに辛かった。

「弦川さん! あかりさんを追わなくていいんですか?」

 山村が一人で焦っている。

「いいんです」

 気まずい思いをさせて申し訳ないけれど、今は山村なんかのフォローをしている余裕がない。

 足は震えているし、目頭が熱くてたまらない。

 涙、引っ込め。

 いつでも女の武器が使えるよう「出す」方の練習はしていたけれど、「止める」方の練習はしていなかったから上手くいかない。

「弦川さん……」

 山村にも、泣いていることを悟られてしまったようだ。

「ごめんなさい。変なケンカに巻き込んでしまって」

 面倒な女だってわかったでしょう?

 だからもう、私なんかに構わないで。

「それはいいんですけど。大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですよ。あそこまで言ったのは、わざとですから」

「わざとって……」

「あれだけ言えば、私への憤りとか悔しさで、もう一度結婚を前向きに考えてくれるはずです。でも、さすがにちょっとしんどかったかな」

 ははは、と笑ってみるが、まだうまく笑えない。

 涙はまだ止まらない。

 サングラスを着けていてよかった。

 この男にふたたび無様な泣き顔を晒すのはごめんだ。


「相手のためを思って騙すという方法もあるんですね」

「それ、嫌味?」

「違います。褒めてるんですよ」

「そうは聞こえないけど」

 頬に流れた涙を拭うため、山村に背を向けサングラスを外し、手の甲で流れた涙を擦る。

 しかし新たに溢れるため、なかなか頬が乾かない。

 鼻をすすり、手の甲で涙を拭い続ける。

 この男にこんな姿は見せたくないが、もうどう頑張ったところで格好はつかない。

「弦川さん」

 せっかく背を向けていたのに、山村が私の正面へやって来た。

 ただでさえスッピンで、さらに泣き顔なんて見られたくなかったのに。


 彼は切なげに眉を寄せ、持っているタオルで私の濡れた手の甲を拭いた。

 距離にして30センチ。

 満員電車に乗り合わせて以来の距離感だ。

 不覚にもドキッと胸を高鳴らせた次の瞬間、山村は落ち着いた声で告げた。

「思い出した」

 至近距離で放たれた言葉は、クリアな音質で私の耳に届く。

「何を?」なんて、彼の表情を見れば尋ねる必要もなかった。

「やっと思い出したよ。あんたのこと」

 自分の血の気が引く音が聞こえる。

 涙がピタリと止まった。

「……え?」

 山村は感情の読めない不思議な表情を浮かべている。

 悔しげに眉間にシワを寄せているのに口角は上がっていて、漏らした笑いは安堵にも自嘲にも聞こえる。


「卒業アルバムを全部見たけど、あんたの名前は見当たらなかった。ネットで検索してもヒットしなかったし、SNSで検索しても、あんたらしいアカウントは見つけられなかった。もう興信所に頼むくらいしか思いつかなくて、思い出すことを半ば諦めてたんだ」

 まだ……まだ望みはある。

 彼はまだ、私の正体が何者であるかを口に出していない。

 彼の答えが間違っている可能性だってあるのだ。

「でも、たった今思い出した。その泣き方でわかった」

 泣き方?

 私が特徴的な泣き方をしたとは思えない。

 彼に泣き顔を晒したのは15年も前だし、当時とは顔が違う。

 誰か他の人と間違えて……


「あんた、つる子だろ」


 全身のいたるところが粟立つ。

 とうとう気づかれてしまった。

 真実なんかに負けるな、私。

 白を切れ。

 私が認めなければいい。

 山村は“つる子”にたどり着いただけで、私がつる子である証拠はない。

「は?」

 私は何のことかさっぱりわからないという風に首をかしげる。

「初めて会ったとき、ビビビッと来た。弦川真咲。どこかで聞いたことのある名前だとも思った」

 きっと大丈夫。認めなければ大丈夫。

 自分に言い聞かせるが、心臓は落ち着かない。


 山村は続ける。

「つる子のことは覚えてたんだ。だけどあんたに結び付かなかった。つる子は“鶴子”っていう名前だと思っていたし、こんなに華やかな女性というイメージもなかったから」

「あの、さっきから言ってる意味わかんないんですけど」

「間違いない。あんた絶対につる子だ」

「勘違いですよ。私、つる子なんて変なあだ名じゃありません。あなたにも、過去に会ったことはありません」

 私はきっぱり言い切ったけれど、手遅れのようだ。

 山村はもう、確信している。

「どうしても認めない?」

「認めるも何も、違うんだから仕方がないじゃない」


 私は、あの頃の私とは違う。

 山村に「ブス」だと罵られ、メソメソ泣いたつる子なんかではない。

 私は生まれ変わった。

「私、これで失礼します」

 サングラスをかけ直し、数分前にあかりが進んだ道へと足を伸ばす。

「つる子! 俺……」

 山村が何か言おうとしたが、無視して歩いた。

 しつこく追って来なくてよかった。

 私がつる子であると思うのであれば、この顔が整形によって作られたものだとわかるはずだ。

 そしてそこまでわかれば、私の顔にメスを入れさせたのが自分であるともわかるはず。


 あんな男、私に会うたびに罪悪感に苛まれてしまえばいい。

 私は自分がつる子であるとは、今後も認めるつもりはないが。




 私の8割は嘘でできている。

 残りの2割を守るために、私は新しい嘘をつき続ける。


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