第3話 逃げられない宴会


 03逃げられない宴会




 例えば私が生まれながらの美人だったら、嘘なんて面倒なものを使わずに生きていけただろうか。

 答えは明確。ノーだ。

 嘘をつく能力がなければ、きっとまともには生きていけない。

 だけど生まれながらの美人であれば、8割も嘘で塗り固める必要はなかっただろう。




 月末。

 数ある月末作業の中、私は今、請求書と戦っている。

 顧客に送る請求書を発行し、仕入れ先から届いた請求書をまとめ、システムに上がっているリストを確認し、過不足や誤りは修正していく。

 取引先と金銭にまつわるトラブルは避けたいので、慎重に。

 事務仕事は毎月の流れが決まっているからいい。

 事前に予定を立て、その通りに実行しさえすれば、余裕を持って職務を果たすことができるし、イレギュラーにも対応しやすい。

 ただ、自分だけが余裕を持ったところで、なかなか思い通りには進められないのが現実だ。

 例えばこの時期は、事務処理に慣れない新人営業マンのミスに手を焼く。


「小柳くん。この内容じゃ請求書が発行できないんだけど」

「マジっすか? すんません、すぐ直します」

 学生気分の抜けない若造にイライラしても仕方がない。

 いずれ新田主任が上手く教育してくれるはず。

 願いを込めて新田主任に視線を向けると、彼もこちらを見ていた。

 私たちの間に色っぽい空気が流れる。

 しかしそれに気付く者は誰もいない。

 誰も知らない秘密の関係。

 彼とはこのままずっと都合のいい関係でありたい。

 小柳の次に手を焼いているのは、古田所長だ。

 所長は忘れっぽいところがあって、事務関連の提出書類をないがしろにする悪い癖がある。

「所長。先週納品していた分の伝票をまだ頂いてないのですが」

「ごめんごめん、忘れてた」

「請求書を発行したいので、今日中にお願いしますね。これ、未提出分のリストです」

「助かります」

 毎月のことながら、彼のフォローをするのは大変だ。

 まったく、所長なのだから所員の見本になるような仕事をしていただきたい。

 所長を新田主任と代わればいいのに。

 こんな人でも出世できるなんて、この会社の人事は大丈夫なのだろうか。


「あ、そういえば今思い出したんだけど」

 私は彼がまた何か重要な書類の提出を忘れていたと言いだすのではないかと、身を固くした。

「今日って、飲み会だよね?」

「それかよ!」と言いそうになったけれど、私はギリギリのところで飲み込むことに成功した。

 所長が思い出した通り、今日はみんなで定時に上がって飲み会の予定だ。

 共に働く者同士はとことん仲よくなるべきだということで、できるだけ毎月1回の頻度で親睦会をやるのがうちの営業所の方針だ。

 オフィシャルの飲み会としては頻度が高いけれど、頻繁である分、雰囲気はゆるい。

 この方針を打ち出しているのは古田所長なのだが、所長の狙い通り、うちの営業所の所員たちはみんな仲がいいのも事実だ。

 月末で仕事は多いけれど、定時で上がるために続きを頑張ろう。

 そう気合いを入れた時、事務所の扉が開いた。


「失礼します」

 聞きたくなかった男の声に、私の顔の筋肉が強張る。

 来客を迎え入れるのは私の仕事である。

「はーい」

「月末のお忙しい時にすみません。オリエンタル・オンの山村です」

 この男の顔を見るのは、原口との一件以来だ。

 会いたくなかったから電車の時間をずらしているし、あのコンビニにもあまり立ち寄らないようにしているが、仕事で会うのは避けようがない。

「いつもお世話になっております。本日はどのようなご用件で? ミーティングルームに予定はありませんでしたが、誰かとアポがありましたでしょうか?」

 憎い気持ちを押し殺し、会社の人間として恭しく接する。

 山村も同じ気持ちなのか、口角だけが上がっている固い笑顔をしている。

「いえ、アポはありません。今日は今月の請求書をお持ちしただけですので」

「郵送でよろしいんですよ?」

 打ち合わせもないのに、わざわざ会社まで来ないでほしい。

 こちらは会いたくないし、できるだけ関わりたくないし、顔も見たくないのだ。

「いいえ。きちんと弦川さんに手渡すようにと、前任の高田からも言われておりますので」

「そうでしたか」

 私は山村から、請求書入りの封筒を受け取った。

 これで用事は終わったはずなのだが、山村は踵を返さない。

「今日はみなさんがお揃いのようですから、ご挨拶させていただきますね」

「ダメだ帰れ」と言ってやりたい。できないのが歯がゆい。

「どうぞ」

 私が渋々道を開けると、山村はしっかりとお辞儀をして入ってきた。


 同じ空間にいるのに耐えられない。

 郵便局や銀行など、要外出の用事でも済ませてこよう。

「ねぇねぇ、真咲ちゃん」

 速達や書留の郵便物をまとめていると、怪しい笑みを浮かべた堀口さんが私を呼び止めた。

「はい」

 私が応えると、堀口さんは口元に手を当て、私に耳を近づけるよう促され、従う。

「山村くんと何かあったの?」

 そう尋ねた彼女の声は、小さいながらも弾んでいた。

 私たちの短い挨拶から何を感じ取ったのだろう。

「え? 何かって、どういう意味です?」

 そんな質問をされる意味がわからない程度には心当たりがない、という風を装ってそう返す。

「なんだか不自然によそよそしかったから」


 不自然……か。

 山村への敵意を隠しきれなかったのは私の落ち度だ。

 私はにっこりと笑顔を作り、彼女が喜びそうな答えを口にした。

「素敵な方ですから、ちょっと緊張してしまったのかもしれません」

 そんな風には微塵も思っていないのに、我ながらよく言えたなと思う。

「うふふ、そういうことだったのね。てっきりそういう関係に発展したのだと思っちゃった」

 そういう関係だなんて、冗談じゃない。

 彼女のご期待に添えるようなことは絶対にないだろう。

「まさか。私なんか、相手にされませんよ」

 山村だって、私の本性を知って引いているはずだ。

「またまたぁ。真咲ちゃんほど綺麗な子を無視できる男なんかいないわよ」

「そう言ってくれるのは堀口さんだけです」

 山村がまったくの初対面なら、素直に素敵だと思っていたかもしれない。

 仕事の関係者だから遊び相手にしたりはしないけれど、彼が営業所へ来るたびに軽く心がときめいただろう。

 だけど山村は、私が人生で最も恨んでいる男だ。

 私の青春を地獄にした張本人だ。

 極力関わりたくないし、正体がバレてしまうのも避けたい。

「私、郵便局と銀行に行ってきます」

 山村が所員と話している間に、私は逃げるように営業所を出る。

 私が営業所に戻る頃にはいなくなっているだろう。




 無事に本日の業務を終えることができた我々株式会社イズミ商事西関東営業所一同は、定刻通り駅前にある居酒屋へ集合することができた。

 月によっては仕入れ先の営業担当者を招くこともあるのだが、彼らはいつも私をチヤホヤしてくれるから悪い気分ではなかった。

 むしろそれを楽しみに臨んでいた。

 だけど今日は楽しめそうもない。

 山村が参加するからだ。

 接待費として会社から預かってきたであろう一万円だけ置いて今すぐ帰ってほしいものだが、うちの担当になったばかりの彼にとっては営業チャンスになるため、欠席などしてくれるはずもない。


「カンパーイ」

 所長の一言のあと、威勢のいい掛け声で宴会が始まった。

 私は堀口さんと新人小柳に挟まれ、控えめにビールに口をつける。

 遠くの方にいる山村は、遠慮がちに微笑みながら他のメーカーの人たちと談笑している。

 もうしばらくしたら、彼らは所員に挨拶回りを始める。

 イケメン好きの堀口さんが山村を長々と引き留めるだろうことは予想がついている。

 その場に居合わせるのは嫌だ。

 その直前のタイミングを見計らってトイレへ逃げ込もう。

 そう決め、料理に手をつけた。


 堀口さんの息子さんと娘さんの話を聞きつつ、メーカー陣の動きをチェックする。

 ずっと山村を見張っていないといけないから、せっかくの飲み会なのに全然楽しめないのが口惜しい。

 山村さえ来なければ、気分のいい宴会になるはずだったのに。

「息子はね、今年は受験生だっていうのに、まだ部活ばっかりやってるのよー。大して強くもないのにさー」

 酒を飲むとおしゃべりに拍車のかかる堀口さんに「そうなんですか」と相打ち。

 それと同時に、メーカーがいよいよ動き始めたのを確認。

 私は自分のバッグからポーチを取り出し、逃走の準備を進めておく。

 さぁ、山村さん。いつでも来るがいいわ。

 逃げる準備は万全だ。

 挑むような気持ちで彼を見ると、バッチリ目が合ってしまった。


 ……しまった。

 一度目を逸らし、もう一度彼に目を向けて見る。

 再びバッチリ目が合ってしまった。

 もう嫌な予感しかしない。

 ポーチを握りしめていつでも立てるよう体勢を整えるが、山村は私から視線を外さない。

 嫌な予感は的中した。

 山村が私と目を合わせたまま、逸らしてくれない。

 逃がさないとばかりに、こちらへ向かって来てしまったのだ。

 いつでも来るがいいわ、だなんて思った自分のバカ。

 山村に避けていることを悟られてでも立ち上がればいいのだが、強い視線に囚われてそれができない。

「弦川さん」

 名前を呼ばれてしまっては尚更だ。

 山村はまっすぐ私のもとへとやって来て、堀口さんの横に跪いた。

 ご丁寧に、瓶ビールを持って。


「お疲れ様です。どうぞ」

「……ありがとうございます」

 素直にグラスを出し、注がれたビールに口をつける。

 一体どういうつもりなのだろう。

「堀口さんも、ビールをどうぞ」

「まぁ、ありがとう」

 山村にメロメロの堀口さんは、いっそう頬を緩めて上機嫌だ。

 この様子なら得意のマシンガントークでこの場を繋いでくれるだろう。

 おとなしくしておけば、私は余計に彼と絡まなくて済むはずだ。

 そう思ったのだが。

「ねぇ、山村さん。うちの真咲ちゃんなんてどうかしら?」

 よりにもよって私とくっつけようとし始めてしまった。

「ちょっと、堀口さん!」

 慌てて制止するが、彼女はただ無邪気に私を薦める。

「美人だし気が利くし、仕事もできる子よ」

 山村は困ったように「ははは」と笑い、曖昧に受け流している。

 ……それはそれで納得いかない。

 私はお世辞ではなく美人だし気が利くし仕事もできるのだ。

 ここは「僕にはもったいないですよ」と言うところである。

 私の嘘つきな性格や男を誑して遊んでいることを知ってるからといって、社交辞令を忘れるなんて二流のすることだ。

 私は腹が立って、グラスのビールを飲み干す。


「あなたなら年も近いし誠実そうだし、お似合いだと思うのよぉ」

 山村は「ははは」と笑顔だけはキープしたまま、堀口さんのグラスにビールを注ぎ足す。

 私のグラスも空いているのだが、堀口さんにやり込められて私のグラスには気づかない。

 いい気味だ。このままずっと困っていればいい。

「濁してばかりね。すでにお付き合いしている人がいるの?」

「いいえ。残念ながら、いません」

 ……ふーん。

 いないんだ。ふーん。

 山村の答えに、堀口さんは表情をパアッと明るくした。

「だったら! 前向きに、検討してね」

 ああ……もうこれ以上薦めないで。

 プライベートに巻き込んで本性の半分くらいを知ってしまった彼にとっても迷惑に決まっている。

「僕の気持ちだけではどうにも……ねぇ、弦川さん」

「え?」

 ここで私に振っちゃうの?

 山村が助けを求めているのは、表情を見ればすぐにわかった。

 一生困ってろ、とも思うけれど、私の意思を無視して私とくっつけようとし続けられるのも嫌だ。

 私はにっこりと笑顔を作った。

「堀口さーん。山村さんを独り占めしちゃダメですよ」

 これ以上山村に余計なことを言われるくらいなら、いっそのこと酔い潰れてくれた方がいい。

 近くにあった瓶ビールを彼女のグラスに注ぎ、飲み放題メニューを見せる。

「そろそろお好きな梅酒のロックを頼みましょうか」

「あらまぁ真咲ちゃん。ほんと気が利くわぁ」

 山村と目を合わせる。

『ありがとうございます』

『いえいえ』

 無言でこんな意思疎通ができたような感覚がして、くすぐったくなった。

 ていうか、私のグラスは空いたままなんだけど。

 気が利かない男め。

 だから彼女ができないんじゃないの?


「弦川さーん。グラスが空いてるじゃないっすかー」

 左隣の小柳が私のグラスに気づき、瓶を差し出してきた。

 独特のチャラい話し方で、ドボドボと私のグラスにビールを注ぐ。

 勢いよく注がれたビールは荒く泡立ち、グラスの半分が白色の泡で埋まっている。

 全然美味しそうには見えないが、誰かさんとは違い、こうして気を使ってくれたことを評価したい。

「ありがとう、小柳くん」

 未だに堀口さんのペースから抜けきれない山村に聞こえるように言ってやった。

 私の嫌味になど気づいていないようだが、まあそれはいい。

 私も小柳のグラスにビールを注ぎ足してやると、彼は嬉しそうにそれを飲んだ。

「あざーっす、うまいっす!」

 可愛げのある後輩だ。

 学生っぽさは抜けないが、そこは伸び代と判断する。

 彼がこれから社会人としてどんな風に成長するのか、私は密かに楽しみにしている。


 微笑ましい気持ちで彼と話していたのだが、小柳は急に、ムッと拗ねた顔になった。

「ちょっとあんた。えっと、山中さん」

 ビシッと山村を指差す。

「……山村です」

「そうそう、山村さん」

 すっかり酔っているようだ。

「小柳くん、人に指を差すのは失礼よ」

 私は山村を指差す小柳の手を掴み、手を下ろさせる。

 山村に絡むのは構わないけれど、私を挟んでやるのはやめてほしい。

 小柳は素直に手を下ろしたが、山村に絡むのはやめない。

「俺たちの弦川さんを口説こうとしてるでしょー?」

「いえ、僕は」

 散々堀口さんに絡まれていた山村は、やれやれ、といった感じに苦笑いを浮かべる。

 また弦川かと呆れているに違いない。

 ざまあみろ。


「いいのよ小柳くん。私、真咲ちゃんは山村くんにあげるって決めたの」

 割って入ってきたのは堀口さんだ。

「勝手に決めないで下さいよー。俺、弦川さんがいるから毎日会社に来れるんすよ」

「ふたりがくっついたって、真咲ちゃんが会社を辞めるわけじゃないのよ?」

「それでもモチベーション下がるんすよー」

 私と山村を挟んで、酔っぱらい同士が無意味な攻防を繰り広げる。

 私は山村なんかとは絶対にくっつかないので、小柳には安心してほしいし、堀口さんにはそろそろ黙っていただきたい。

 ふと新田主任に視線を向ける。

 彼は遠くの席で、他の仕入れ先の人たちに囲まれている。

 私の視線に気づいてほしくて、しばらく彼を見つめてみる。

 すると彼は事情をわかっているかのように、すぐに私の方を見た。

 堀口さんと小柳の大きな話し声と状況から、私の今の状況を察していたのだと思う。

 困った顔を見せてみるが、主任は口元に笑みを浮かべただけで助けてはくれない。

 むしろ私が困っている様子を、遠くから楽しんでいる。


「小柳くん、可愛い彼女がいるって言ってたじゃない」

「いますけど、弦川さんは女性として別格じゃないですかぁ」

「やだぁー、浮気者!」

「男はみんな浮気しますって」

「うちの旦那は浮気できるほどモテないわよ?」

「モテなくたって、願望はありますよ。浮気する男としない男がいますけど、願望は絶対ある!」

 二人の会話がだんだん不謹慎になってきた。

 小柳が絶対と言い切る根拠は不明だが、超絶美人の奥様のいる新田主任だって私と不倫しているのだから、私には真理に聞こえてしまう。


「そうなの? 山村くん」

 堀口さんが再び山村に話を振り、油断していた彼は驚いて変な声をあげた。

「え? 僕ですか?」

 話が私から逸れている今がチャンスだ。

 私は二人の会話の邪魔をしないよう気遣いながら、ゆっくり腰を後ろに引いた。

「私、お手洗いに行ってきます」

 山村の助けを求めるような視線を感じたが、気にすることなく立ち上がる。

 小柳が私を賞賛する言葉を聞いて優越感に浸りたい気持ちはあるけれど、山村と一緒にいたくないという気持ちの方がダントツで優っている。

 どうして一番に私のところへ来たのだろう。

 新しく担当になったのだから、最初は所長のところへ行けばよかったのだ。

 もしかして、先日の原口との一件について、私に何か言いたいことでもあったのだろうか。

 個室を出る際、仕切りの扉を閉めながら山村の様子をうかがう。

 整った顔立ちを、遠目に見る分にはいい。

 これで私をブス扱いしたあの山村じゃなければ、キープしている男の中の一人にしようとしていたかもしれない。


 しばらく戻りたくないので、ゆっくりメイク直しをする。

 鏡に映る人工の美しい顔が、私の誇りだ。

 努力で手に入れた、かけがえのない宝物。

 山村はまだ、私が小学校時代の同級生であると気付いていない。

 そのことが、ものすごく悔しい。

 あんなに私を傷つけたくせに、あいつは私のことなんてこれっぽっちも覚えていないのだ。

 気付かれたくない。でも、傷ついた私のことを忘れてほしくない。

 忘れられている方が都合がいいのに、それを望まない自分の非理性的な感情が、すごく面倒だ。

 この顔も、この生活も、すごく気に入っている。

 コンプレックスから解放されて、やっと理想のライフスタイルを手に入れた。

 美しいからこそ向けられる周りからの羨望と賞賛の眼差し。

 美しいからこそ無条件に与えられる優しさ。

 痛みを伴う高額な美容整形やダイエットは、人生をより豊かにするための、ハイリターンな投資だった。


 整形をバカにする人もいる。

 それは個人の自由だが、「だったらブスだと罵られる苦痛を味わってみろ」と言ってやりたい。




 十分に時間を使ってから、座敷へと戻った。

 席へと戻る前に、状況を確認しておく。

 小柳と堀口さんは今でも二人で語り続けているが、その場に山村はいない。

「ちがうんすよ。その大会で青春の全てを注ぎ込んで、スポーツに悔いなくケリをつけてから勉強に打ち込むんすよ」

「そんなもん? 今は勉強してなくても平気?」

「そりゃあしないよりはした方がいいんでしょうけど、部活が中途半端になって一生悔やむよりはいい人生になると思うっす」

 ふたりは堀口さんの息子さんについて話している。

 真面目な雰囲気だし、私が水を差して邪魔してはいけない。

 どこか割り込めそうな席を探そう。


「弦川さん」

「ひゃあっ!」

 突然真横から山村の声がして、私はうっかり間抜けな声を出してしまった。

「すみません、脅かすつもりはなかったんですけど」

「……いえ、大丈夫です」

 彼はいつも神出鬼没というか、油断しているときに限ってすぐ近くに現れるから怖い。

 こんなところにいるということは、席を立った私を待ち伏せしていたのだろう。

 ……迷惑な話だ。

「少しお話、いいですか」

 よくない。関わりたくない。

 だけどこの場で嫌だとは言えないから仕方がない。

「……はい」


 席へは戻らず、再び部屋の外に出て、角にあるスペースに落ち着いた。

 同僚や上司たちの目が届かないここなら、もし山村が過去の話を持ち出したり、原口の一件について追求してきても大丈夫だ。

 山村は私が話を聞く体勢を整えたのを確認するなり、勢いよく頭を下げた。

「先日はすみませんでした」

 彼の口から出た謝罪の言葉に、なぜか胸が震える。

 頭が勝手に「つる子、ブスじゃん」という発言についての謝罪を受けたように錯覚をしたのだ。

 むろん山村が謝っているのはブス発言のことではなく、この間の説教のことだとは理解している。

 けれど、大人になった山村とランドセルを背負って走り回っていた小学生の山村は、私の中では常にシンクロしているし、間違いなく同一人物。

 当時から彼に謝ってもらいたいと願っていたが、思わぬ形でそれが叶ってしまった。

 もちろん、形だけで、本当の意味で叶ったわけではないが。


「やめてください、山村さん」

 私がそう告げると、山村はゆっくりと顔を上げた。

「僕、自分の価値観を押し付けてましたよね。キツい言い方をしてしまって、本当にすみませんでした」

 彼が本当に反省しているような顔をしているから、私の方こそ申し訳ない気持ちになる。

 そんな自分に愕然とした。

 私は彼に対して「あんたなんか謝って当然よ」と思っているはずなのに、頭を下げられても動揺するばかりで全然清々しない。

「私の方こそ、あの日は取り乱してすみませんでした」

 私も軽く頭を下げる。

 私だって一応、反省はしているのだ。

「いえ、僕のせいですから」

 小学校の頃がどうであれ、今の山村はきっと、普通にいい人なのだと思う。

「お詫びと言ってはなんですけど、弊社について有益な情報を教えてあげます」

「有益な情報?」

 私の言葉に、山村は意外そうな顔をした。

「はい。うちの営業所、所長は古田ですけど、実質仕切っているのは主任の新田なんです。ほら、今日いらしてるメーカーさんも、新田のご機嫌をうかがっている人が多いでしょう? うちで売り上げたいなら、新田に気に入られるといいですよ」


 一通り話し終えても、山村はポカンとした顔で黙ったままだった。

 せっかく教えてあげたのだから、もっとありがたがったらどうなの。

「ごめんなさい。余計なお節介だったみたいですね」

 私がしびれを切らし、そう告げる。

 すると山村は焦ったように手を振った。

「いえいえっ! とんでもない! 貴重な情報をありがとうございます!」

 そう思っているのなら、最初からそう反応してくれればいいのに。

 しおらしく見えるように作った表情が崩れてしまいそうだ。

「いずれわかることですから、貴重というほどではないんです」

「いやいや。前任者が倒れてほとんど引き継ぎなしで担当になったので、そういう情報は本当に助かりますよ」

「お役に立てて何よりです」

 でも、別にあんたのために教えたわけじゃないから。

 早く私から離れて主任のところに行ってほしかっただけだから。


「あ。でも、それって」

「はい?」

 山村は申し訳なさそうに顔を引きつらせる。

「いえ。すみません。何でもないです」

「ええ? 気になるじゃないですか。教えてください」

 私が詰め寄ると、山村は信じられない言葉を口にした。

「僕を騙してるってことは……ないですよね?」

 ……教えて損した。

 もう二度と親切になんてしてやらない。

 彼の言い分はわかる。

 私が原口を騙して気持ちを弄んでいたから、自分も同じように扱うのではないかと疑っているのだ。


 全力で笑顔をキープする。

 あまりの腹立たしさに、一瞬でも気を抜くと崩れてしまう。

「ご自分でお確かめになったらどうです?」

 言葉に棘が出るのを抑えることはできなかった。

 私の怒りを感じ取った山村が、余計に焦った顔をする。

「すみません! 俺、あ、いや、僕、また失礼なことを……」

「そんな、失礼だなんて。私、あなたには半分くらい本性がバレてますから、それくらい思われて当然ですよ」

 もうこの際、怒っていることがバレバレでも構わない。

「本当にすみません……」

 しゅんとした表情が、いっそ可愛く見える。

 この顔で何人の女に失礼を許されてきたのだろう。


 私は絶対に許さない。

 このまま私を怒らせたことを申し訳なく思って、うちの会社に来るたびに気まずく思えばいい。

 そして気まずさを理由に、私を避けてくれればベストだ。

「それじゃ、頑張ってくださいね」

 私は嫌味っぽくそう告げ、山村を置いて自分の席へと戻った。


 それから山村は、他の所員に挨拶をして回り、最終的に新田主任にピッタリついて話をしていた。

 腹の虫は治まらないが、私の教えに素直に従ったことは評価しよう。

 山村がいなければ、おしゃべりな堀口さんとうるさい小柳の間だって平和だ。

 彼の動向を見張って気を張ったりしなくていいし、料理だって楽しめる。

「弦川さーん。あなたのために、あなたの好きなカシスオレンジを頼んでおきました。褒めてください」

 堀口さんとのトークが一段落した小柳が、次に絡むターゲットを私に絞った。

 別にカシスオレンジが好きなわけではないけれど、自分を可愛く見せるためによく頼んでいたのを、こいつは覚えていたらしい。

 希望通り、褒めてやることにしよう。

「ありがとう。小柳くん、気が利くね」

 とびきりの笑顔でそう告げると、「でへへ」とだらしなく笑って喜ぶ。

 仕事でもこれくらい気が利くようになってくれることを期待したい。


「ていうか弦川さん、どこいってたんすか? なかなか帰ってこないから、探しにいこうかと思ってたんすよ」

「空きっ腹で飲み過ぎちゃって。ちょっと静かなところで休んでたの」

「もう平気っすか? 俺がカシオレ飲みますから、ソフトドリンク頼みます?」

「ううん、大丈夫。これは私に飲ませて」

 小柳はお調子者だしバイト敬語も直っていないから、一見何もわかっていない子供に見える。

 だけど私の見立てでは、おそらく抜け目ないタイプだ。

 仕事を覚えて社会人としての自覚を持てば、化けるだろうと思っている。

 山村も小柳くらい素直であれば可愛げがあるのに。

『僕を騙してるってことは……ないですよね?』

 せっかく本当のことを話したのに、思い出したらまた腹が立ってきた。

 カシスオレンジをグイッと飲み込む。

 甘酸っぱくフルーティーな味わいのあとに、濃度の高いアルコールが鼻を抜ける。

 特にこのカシオレはリキュールが強い気がする。

 ……まさか。


「ねえ、弦川さん」

 小柳が声を絞って私を呼ぶ。

「ん?」

 私は条件反射的に耳を彼に傾けた。

 彼は私の耳に手を添え、私にしか聞こえない声で告げる。

「二次会の前に、二人で抜けませんか?」

 やはり思っていた通り、こいつは抜け目のない男だった。

 このカシオレのリキュールが強いのが偶然だとは、もはや思えない。

「もう〜、何考えてるの?」

 私が冗談っぽく返すと、小柳は邪気のなさそうな笑顔を見せた。

「やだなぁ。弦川さんの調子が悪そうだから、送ろうと思っただけっすよ」

 ただの同僚を送るだなんて、下心が見え見えだ。

 よからぬことを期待しているのが、自意識過剰でなくともわかる。

 彼女持ちのくせにエリート主任の愛人を口説こうだなんて、生意気な後輩だ。

「私は大丈夫。酔っ払った後輩に送ってもらわなきゃいけないほどじゃないよ」

「酔っ払ってなんかないですよ」

「酔ってる人ほどそう言うの。顔だって真っ赤だし」

「俺、すぐに顔が赤くなるだけで、意外と強いんすよ」

 小柳をいなしながら、新田主任の様子をうかがう。

 彼も私を気にしていたようで、目が合った。


『大丈夫か?』

『これくらい何ともない』

 視線だけで会話をする。

 一秒にも満たない秘密のアイコンタクト。

 これくらいゾクゾクさせてくれる人でないと、服を脱ぐ気にはなれない。

 新田主任と初めて寝た時だって、こうして目と目で駆け引きをして、口なんかほとんど開かずに肌を重ねたのだ。

 女に脚を開かせるのは言葉から察知できる下心ではなくそれを凌駕する大人の色気であり、言葉をあまり交わさないことこそ、秘密の関係を保つ秘訣である。

 というわけで、生意気な後輩が悪さをしないよう、私は責任持って彼を成敗することにする。


「お酒、強いんだ。じゃあ、やっぱり飲んでもらっちゃおうかな。飲みかけで申し訳ないけど」

 甘えるような顔でそう告げ、リキュール多めの私のグラスを彼に寄せる。

「あざーっす! 飲みかけで全然構わないっす!」

 小柳は嬉しそうにグラスを受け取り、調子に乗って一気に飲み干した。

「美味しい?」

「超うまいっす」

 本当に酒の強さには自信があるのかもしれない。

 しかしこの手のカクテルが効いてくるのは時間の問題だ。

 グラスが空いたのを見計らって、すかさず彼のグラスを近くに置いておく。

 ちょうどいいタイミングで空いたグラスを受け取りに来た店員に「ハイボールと烏龍茶」とオーダー。

 もちろんハイボールは小柳の分である。


 酔わせて持ち帰ろうなど、姑息な手を使うなら返り討ちだ。

 こういうタイプはどんどん調子に乗せて潰すのが手っ取り早い。

「烏龍茶とハイボールお待たせしましたー」

 彼が好きなハイボールがやってきた。

「小柳くん、おかわり来たよ」

「あざーっす!」

 飲めないとは言わせない。

「すみません、ハイボールもう一杯お願いします」

「はい喜んで」




 数十分後。

 小柳がトイレから戻ってこなくなったのを確認して、私は立ち上がった。

「みなさん、ごめんなさい。私、今日はこの辺でお暇しますね」

 申し訳なさそうに眉を寄せると、周囲の面々が惜しむ声をかけてくれる。

「あら真咲ちゃん。今日はずいぶん早いのね」

「今日は二次会行かないの?」

 今日は山村もいるのだから、二次会なんか参加したくない。

 トイレから戻って来た小柳の世話を押し付けられるのも面倒だ。

 もちろんそうとは言えないので、それらしい理由を添えておく。

「明日、早朝から予定が入ってて。寝坊できないんです」

「あらあら、デートかしら?」

 堀口さんの言葉には、笑ってごまかしておく。

 今日はメーカーのおじさんたちのチヤホヤが堪能できなかった。

 タダ飯とタダ酒は十分に頂いた。

 帰ってメイクを落として、ゆっくりしたい。

 ちょうど山村もいないし、この隙に帰ってしまおう。

「それじゃあ、また来週。お疲れ様でした」

 脱出成功。

 店を出てすぐ、私は伸びをして深呼吸した。

 嘘で固めていた体に血が巡り、心と体がほぐれていくのを感じる。

 今日は朝から本当に嫌な一日だった。


 駅に向かおうとした時、ヌッと人影が現れた。

 見覚えのある白シャツとバーガンディーのネクタイ。

 顔を上げると、シャツの上には今一番会いたくない男の顔が見えた。

「……山村さん」

 個室内にいないと思ったら、こんなところにいたのか。

 酔った様子はない。どうやら酒には強いらしい。

「弦川さん。あなたに言っておきたいことがあります」

「何ですか?」

 もうこの男に愛想を振り撒いても意味がない。

 私は露骨に不機嫌な顔を見せた。

 しかし山村は凛とした表情のまま、私をまっすぐに見据えて告げた。


「弦川真咲さん。やっぱり俺たち、過去に会ったことがあると思うんです」

 鳥肌が立った。

 核心には至っていないようだけれど、彼は確実に勘づきかけている。

「そんなはずはないって、先日も言ったじゃないですか。それとも、そういう体で私のことを口説いてるんですか?」

 私は嫌味のつもりで言ったのだが、山村は至極真面目な顔で返す。

「そうかもしれません。あなたのことが気になって仕方がないのは確かですから」


 胸が高鳴り、全身が震えた。

 気になるというのは私の正体のことであって、女性として魅力的だと言われたわけではないのに。

 私が気になって仕方がないなら、存分に惚れればいい。

 原口の時よりずっと、こっぴどく振ってあげる。

「やだ。私、冗談で言ったのに」

「いや、初めてあなたを見た時、ビビビッと来るものがあったんです。このどうしようもなく胸に引っ掛かる感じ……本当に会ったことがないのなら、俺たち、案外お互いが運命の相手かもしれませんよ」

 こいつ、頭大丈夫?

 私たちの間に「運命の相手」なんてメルヘンなワードが存在するわけがない。

「わけわかんない」

「俺とあなたは、過去に出会っているか、将来結婚するか。このどちらかなんじゃないかな」


 驚きすぎて、返す言葉が見つからない。

 将来結婚? 冗談じゃない。

 ビビビッと来たのは、ただ私の面影から記憶の欠片が疼いただけ。

 実際は過去に出会っているのだから、どちらかだと言うのなら運命の相手ではない。

「ぷっ……あははははは」

 私は笑いを堪えられなかった。

「ちょっ……俺、本気で言ってますからね」

 いい歳した男が「ビビビッと来た」やら「運命の相手」と本気で言っているのなら、余計におかしい。

「面白い人。今度はプロポーズですか?」

「今のは違います!」

“今のは”ということは、いずれはするかもしれないと言いたいのか。


 私とあんたが結婚なんて、ありえない。

 恋愛さえすることはない。

 美人へと生まれ変わった私に興味を持ったのはわかるけれど、私をブスと罵り、傷つけ、地獄へ突き落とした事実がある限り、私があなたを受け入れることは永久にない。

「生憎ですが、どちらも違うと断言します。私はあなたとは会ったことがないし、結婚もしません」

 あんたの言い分はとっても面白かったけれど、正体がバレるのも、結婚するのも、絶対にお断りだ。

 山村がムッと表情を歪める。

「そんなの、わからないじゃないですか!」

「わかりますよ。なぜなら私たちはお互いの記憶がないし、私は誰とも結婚するつもりがないからです」

「誰ともって……」

 ぐ、と彼が怯んだところで、私は「失礼します」と歩き出す。

 しかしすぐに腕を掴まれて、強制的に彼の方を向かされた。

 小学校時代より男らしくなった彼の顔が、魅力的で腹立たしい。


「じゃあ、せめて出身地を教えてください。俺、親が転勤族だったから、学校が何度も変わったんです、もしかしたらその中の……」

 マズい。

「お断りします!」

 強めに告げ、掴まれている彼の手を振り払う。

 これ以上思い出されると困る。

 彼の口から学校というキーワードが出てしまった。

 バレるのは時間の問題かもしれない。

 やっと手に入れた理想の生活を脅かさないで。

「いい加減にしてください。これ以上個人情報を開示するつもりはありません」

 しかつめらしい言い方をしたのは、本当に迷惑であることを表現するためだ。

 どうやら良識のある山村は、察知して引いくれた。

「……わかりました。でも、俺なりに調べます。思い出してみせます」


 きっと大丈夫。

 同じ学校を卒業していないから、卒業アルバムを見たところで私は載ってない。

 投稿型SNSは見る用でしか使っていないし、使っているものでも実名登録などしていない。

 試しに自分の名前をネットで検索したことがあるが、私に繋がる情報などひとつも見つからなかった。

「それでもダメなら、自分の直感を信じてあなたを口説き落としてみせます」

 なんて自信過剰なの。

 せいぜい頑張ってみればいい。

 私が落ちることは絶対にないけれど。


「失礼します」

 私は彼の言葉を無視して、今度こそ駅へと向かった。

 酔いはすっかり覚めてしまった。

 いつものコンビニで甘めのワインでも買って帰ることにしよう。

 今日ならあの店で、山村と出くわすこともない。



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