第2話 偽りの兄妹
02偽りの兄妹
私は、自分が大嫌いだった。
顔は不細工。
そのせいで性格は根暗で卑屈。
おまけに真咲という男みたいな名前だ。
誰にも害を与えていないのに、からかわれたりいじめられたりする、かわいそうな子供だった。
気が小さいため、やられっぱなしで仕返しもできず、ただ悔しさと悲しさに耐えるばかりの日々。
今思い返しても、私の子供時代は真っ暗だった。
さらに、私が育った家庭は決して裕福とはいえない貧乏家庭だ。
狭くて古い公営のアパートに5人で暮らしていて一人部屋もなかったし、欲しいものややりたいことがあっても、とにかく「お金がないからダメ」と言われ、欲求が満たされることはなかった。
ただでさえブスなのに、オシャレすらできない。
私を不細工に産み、性別にそぐわぬ名前を付け、金がないからと着飾ることも許さず、遊びも勉強もガチガチに制限してきた両親を、心の底から憎んでいた。
大人になった今は両親に感謝している部分もたくさんあるけれど、当時は家も外も敵ばかりで、全然心が休まる暇がなかった。
僻みやコンプレックスの
中学や高校時代はクラス替えの直後など、はじめのうちだけ仲よくしてくれた子もいたけれど、私と仲良くすると私を馬鹿にしているリーダー格の女子たちに私と同等の扱いを受けるというシステムを理解すると、逃げるように離れていった。
寂しかったけれど、彼女たちは賢明だと思う。
私も同じ立場だったらそうしていただろう。
結局私は、私と同じような境遇の子たち、つまりハブられ者同士で表面上の友情を演じ、自分を守り、やり過ごすように学校生活を送った。
私はとにかく、早く生まれ育った町から飛び出したかった。
私を誰も知らない世界で整形して、一から自分を作り直したかった。
そうすれば、きっと人生が変わると確信していたのだ。
高校卒業後は狙い通り、県外の大学へ進学することに成功。
私は逃げるように故郷を去った。
念願叶った大学時代。
「近頃の大学生は親の金で遊んでいるだけ」
ハゲ散らかした冴えない教授がそんな暴言を吐いて講堂が空っぽになったことがあったけれど、誤解も甚だしい。
苦学生は思ったよりたくさんいたし、私もその一人だった。
実家からの仕送りはほぼゼロで、誕生日の月に小遣いを貰う程度。
学費は奨学金、家賃等の生活費はバイトをして賄う。
加えて、整形のための費用も貯蓄する。
件のハゲ教授には「朝から勉強して、夕方から夜中まで働いてるよ! 高給貰って大した研究成果を上げていないお前より頑張ってるっつーの!」と怒鳴ってやろうかと思ったけれど、私にそんな度胸はない。
口の悪い教授はいれど、地元にいたときよりは大いに快適なキャンパスライフ。
自分の稼ぎでファッションを楽しむことができたし、メイクである程度カバーすることもできた。
それに、私をブスだと嘲り笑う連中もいない。
周りの子達よりは金銭的に余裕がなかったけれど、親の脛をかじらずに自分の力で生活しているという事実は、いつでも私を励ましてくれていた。
今の自分なら、何だってできると思った。
長年抱えてきたコンプレックスだって、今なら自分が頑張りさえすれば吹き飛ばせると確信した。
美しくなって楽しく幸せに生きたい。
幼い頃に叶わないと思っていた願いは、現実味を帯びた野望となった。
自分を変えるため、私は必死に努力した。
整形前には二重メイクをマスターしたし、ファッションを楽しむ方法も覚えた。
歯列矯正のおかげで自然とダイエットに成功していたのは思わぬ収穫だ。
そして、二十歳。
私は貯めたお金で目の整形をした。
未成年だと保護者の承諾が必要だから、待ちに待った二十歳だった。
二重術はリーズナブルなプランもいくつかあったけれど、妥協したくなかった私は、値は張るけれど、仕上がりのいい施術をチョイス。
プチ整形とはちがって術後はグロテスクに腫れたし痛みもあったけれど、そんなものは整形を決めた小学生のうちから覚悟していた。
親からもらった体へメスを入れたことに心は痛まなかったし、後悔もしていない。
大学入学以来、二重メイクはしていたけれど、整形はすぐにバレた。
明らかに顔が変わったのだから無理もない。
メイクなんかとは比べ物にならない、完璧な仕上がりだ。
整形で美女になった私を、周りの脛かじり学生たちは白い目で見た。
「あの子、顔変わったよね」
「あー、整形したらしいよ」
整形に寛容な時代になってきたとはいえ、整形で美しくなった私に対し、犯罪者を見るような目は常にあった。
だけどずっとブスだと笑われてきたことに比べれば屁でもない。
だって美しくなった私への羨望の裏返しだ。
優越感の味を占めたのはこの時だったかもしれない。
美女として第二の人生をスタートした私が目指したのは、美人で賢くて男を手玉に取るイイ女。
外へ出ると、そこはもう夢の世界。
美しくなるだけで人の態度が変わることに感動した。
老若男女すべての人々が、驚くほど私に優しく接するようになったのだ。
6年前に自ら切り開いた素晴らしき新世界。
私は今日も、目覚ましの音を合図にその世界へと降り立つ。
「もう朝かぁ……」
私の朝は、寝汗を流すために軽くシャワーを浴びるところから始まる。
浴室を出て、洗面台の鏡に映る自分の顔を見てニコリ。
うん、今日もちゃんと美人だ。
それを確認して、少しホッとする。
金曜日は誕生日で少し食べ過ぎたけれど、土日でリセットしたからお腹のくびれも元通り。
唯一不満なのは、痩せた時に少し萎んでしまった女のシンボルくらいだ。
もう少し膨らみが欲しいなぁ。
新田主任は「俺はこれくらいが好きだよ」と言ってくれるけれど、私本人としては物足りない。
行儀が悪いとは思いつつ、メイクをしながら朝食を取る。
歯磨きをしてから髪を乾かし、もう一度鏡の前でニコリ。
時計を見ると、今日はいつもより早く支度が完了していた。
出発まで家でダラダラ過ごすのはもったいない。
得した気分で家を出て、駅前のカフェに入った。
カウンター席で読みかけの小説を片手に、温かいコーヒーを頂く。
優雅な朝のひとときに、美女力と気分が高まってゆく感じがする。
コーヒーを飲み終えたところで、ちょうど駅に向かう時間を迎えた。
今日はいろいろとタイミングがいい。
きっと今日はいい一日になる。
そう思っていたのだが。
「あ、弦川さん。おはようございます」
カフェを出たところで目の前に山村が現れ、上がっていた気分が一気に落ちた。
「……おはようございます、山村さん」
美女力だけは落とさないよう、笑顔は完璧に作る。
ああ、失敗した。カフェに寄るなら会社の近くの店にすればよかった。
さっきの香り高いコーヒーが恨めしい。
「今日もいい天気ですね」
山村は当然のように私の横を歩き始めた。
ここで逃げるのは不自然だ。一緒に駅へ向かう以外に道がない。
「……そうですね」
避けたいし離れたいし顔も見たくないのに、仕事関係の人間であるため無下に扱うこともできない。
さらに、彼が勤めるオリエンタル・オンと私が勤めるイズミ商事へ向かうには、ここから同じ方向の電車を利用する。
ああ、本当に失敗した。
「弦川さんは、独り暮らしなんですか?」
山村は爽やかな笑顔で、遠慮なく私のプライベートを探ってくる。
“近所に暮らす取引先の女子社員との何気ないコミュニケーション”のつもりだろうが、私があの時の「つる子」であることを思い出されるのが怖いから、あまり本当のことは言いたくない。
かといって取引先の人を相手に、下手な嘘をつくわけにはいかない。
本当は遊んでいる男たちに言うのと同じように、「実家暮らしです」と言いたいところだが、私は渋々真実を話す。
「ええ、独り暮らしです」
「そうなんですね。独り暮らしは長いんですか?」
彼からはすぐに次の質問が飛んでくる。話の主導権を握れない。
普通の女なら、見目麗しい男性が自分に興味津々で、グイグイ距離を詰めてくるこの状況を喜ぶのだろう。
彼は幼い頃から“カッコいい男の子”として生きてきたはずだから、自分がこう振舞って女性に嫌がられたことなどないのかもしれない。
「大学入学の時に実家を出ましたから、長いと言えるかもしれません」
ああ、今すぐ「あなたに話しかけられるのは不快です」という態度を取ってこの場を去ってしまいたい。そうできないのがもどかしい。
「何年くらいになるんですか?」
この調子でどこまで私のことを探るつもりなのだろう。
いい加減壁を作っておかないと、受け身のままではいつまでもこんなやりとりが続いてしまう。
私はここで、山村に負けないとびきりのスマイルをお見舞いした。
「年がバレちゃうので、秘密ですよ」
あなたにそこまで明かす筋合いはない。
というメッセージを暗に込めて冗談っぽく告げる。
「ははは、それは失礼しました」
山村は私が壁を設けたことを悟り、それ以上私のパーソナリティを探ることはしなかった。
年なんて、そう簡単に教えてたまるか。
同級生だなんてわかったら、どう「つる子」に繋がるかわかったもんじゃない。
山村の中にあるつる子の記憶を刺激するのは危険だ。
不自然にならない程度に避けて、正体を隠し続けなければ。
定刻通りに電車がやって来た。
混んでいる車両に乗ってしまえば、会話どころではなくなる。
完全にではないが、やっと彼から解放されるはずだ。
この駅で降車する人が車両から出るのを待ち、前の人に続いて乗り込む。
この時間は安定の満員で、隣り合う人とは体が触れ合ってしまうほどの混雑ぶりだ。
後ろからグイグイ押されるのを利用して、山村と距離を取ろう。
そう決めていつもより後ろから押される力に身を任せた。
しばらく奥の方へ進んで、前から押し返される力とのバランスが取れたところに落ち着く。
さて、山村はどこに行っただろう。
これだけ動いたのだから、きっといい感じに離れているはず。
振り返って見回してみるが、彼らしき人物は見当たらない。
よかった。狙い通り離れられたようだ。
そう思った時。
「弦川さん」
耳元で囁くように呼ばれた名前に、肩が震えた。
「ひゃっ……!」
灯台下暗しとは、まさにこのことを言うのだろう。
てっきり離れたところにいると思っていた山村は、私の目の前にいたのだ。
「僕なら、ここにいますよ」
山村がそう言って微笑む。
彼を探していたのがバレて、ちょっと恥ずかしい。
いやいや、別に私、あなたと一緒にいたくて探していたわけじゃないですから。
心の中でそう毒づき、笑顔だけを返しておく。
それにしても、この体勢は困る。
上半身の半分が山村の方へと押し付けられ、彼とぴったり触れ合っている。
「すみません。僕、動けなくて。大丈夫ですか?」
大丈夫じゃありません。離れたいです今すぐに。
「平気です、慣れてますから」
間もなく次の駅に停まり、少しだけ人が流れる。
この隙に体勢を整えよう。
人の流れに乗るふりをして体を浮かせ、位置をずらす。
しかし新たに乗ってくる人からの圧力で、せっかくスペースを確保しても再び山村の方へと押し戻されてゆく。
私には手に負えない大きな力が、私と山村をくっつけようとしているような気がしてならない。
抵抗すべく、何とか足で踏ん張る。
だけど次の瞬間。
「弦川さん、こっちです」
小声がしたのと同時に、腰に熱を感じた。
軽く力が加えられ、私は山村の方へと強制的に引っ張られる。
「え?」
目の前に、山村の整った顔がある。
彼が私のためにスペースを作って、そこへ誘導してくれたらしい。
しかし後ろから背中を押され、私の体は山村の体に押し付けられて彼との距離は再びゼロに。
「ごめんなさい!」
「いえ、僕の方こそ……」
山村の手が腰に回ったままだ。そこだけがやけに温かい。
ふわり、彼のにおいが漂ってきた。
この体勢、さっきより状況がよくない。
抱かれているような態勢は側から見れば守られているように見えるのだろうが、私にとっては捕まっているも同然である。
彼に「つる子」のヒントを与えそうで、ヒヤヒヤする。
あまりに距離が近いから、ドキドキもする。
認めたくはないけれど、彼のにおいにクラクラする。
こんなの、山村にバレたら恥ずかしい。
早く彼が降りるに着いて……!
私は彼の乗り換え駅まで、ずっとそう祈っていた。
午前10時。
出勤したパートの堀口さんは、私の顔を見るなりこう言った。
「真咲ちゃん、今日は顔色がよくないわね。疲れた顔してるけど、どうしたの?」
しまった。私としたことが、顔に出してしまっていた。
しかし通勤の一件で疲れているのは事実である。
もう山村と同じ電車には乗りたくない。
会社に来るまでに一日の体力のほとんどを使ってしまった。
でも、堀口さんにこの疲れをを悟らせてしまったのは私のミスだ。
私は気を引き締め、表情はできるだけ緩めた。
「二十日締入金の確認をしていたんですけど、今月はいつもより未収が多くて。これから発行する請求書のことを考えてたから、こんな顔になっちゃったのかもしれません」
「あらあら。だったら私もお手伝い頑張らなくちゃ。何か私にできることはある?」
私を気にかけてくれる彼女の存在がありがたい。
彼女に心配をかけないためにも、山村ごときにペースを乱されてはいけない。
今日は仕事の後に予定がある。
残業にならないよう、仕事はさっさと片付けてしまおう。
そう意気込み、請求書の発行を猛スピードで進めていた時。
「弦川さん。ちょっとお願いがあるんだけど、いいかな」
急ぎたい時に限って所長の気まぐれなお願いが来るのは、もはやいつものこと。
どんな仕事も嫌がらず、笑顔でテキパキ能率的にこなすのが私のポリシーだ。
「何ですか、所長」
「今弦川さんのアドレスに資料を送信したから、軽く校正して30部ずつ印刷してファイリングしてくれない? 外部との会議用だから1部ずつプラスチックのファイルに綴じてね」
自慢の笑顔が引きつりそうになる。
こんな時に限って、ずいぶん手間のかかる雑用を押し付けてくれる。
ていうか校正って全然軽い作業じゃないのに、事務を便利屋みたいに使うのはやめてほしい。
腹は立つけれど、笑顔は決して絶やさない。
「わかりました。いつまでに仕上げればいいですか?」
「13時までにミーティングルームによろしく」
13時まで!? だったらもっと早く言ってよ!
ファイリングは堀口さんに手伝ってもらうとして、校正作業はすぐに取り掛からないと間に合わない。
私の今日の予定がメチャクチャだ。
「承知しました」
笑顔は決して絶やさない。
午後7時、新宿。
予定より遅れて到着した私は、唯一の女友達、
「ごめんね、あかり。時間遅らせてもらって」
「全然いいよ。おかげで欲しかった服がゲットできたし」
あかりはご満悦な顔でファッションブランドの紙袋を見せてきた。
私はカフェの座席もなかなか空かない新宿で無駄に待たせなくてよかったと、胸を撫で下ろす。
あかりは私を理解してくれる、貴重な友人だ。
唯一無二の大親友と言ってもいい。
本音で話ができる、この世界でただ一人の人物である。
あかりは私をわかってくれるから、嘘で塗り固める必要がない。
そしてあかりも私と同じくらい……いや、私以上に美しくて腹黒い。
彼女にとっても、私が貴重な女友達であることは間違いない。
あらかじめ目星をつけていたイタリアンの店に入り、簡単に仕切られた個室に腰を落ち着けた。
私たちの会話は、大体男か仕事の愚痴だ。
面白かったことや気に入らないことは大体あかりと共有する。
今日は先日の誕生日デートについて、
「で、どうだったの? 三人の男とのデート」
「やりきった!って感じ。でもさすがに疲れちゃったよ」
三人も相手にするのは、さすがに今年だけでいいかなと思う。
「プレゼントは何をもらったの?」
「今着けてるネックレスとピアス」
原口と久本から頂いたものを見せる。
頂いたからには、大切に使わせていただく。
「やっぱ無難にアクセサリーか。でも、ふたつだけ? 三人と会ったんでしょ?」
「用意はしてくれてたみたいなんだけど、付き合わないって言ったらくれなかった」
「うわ、ケチだねー」
「そういうポリシーがあるみたい。私は別にプレゼント目的じゃないから、どうだっていいんだけどね」
あかりは私と同じく女に敵を作りやすい性格だ。
男に媚びまくるし物欲が旺盛だし極めて腹黒い。
はっきりと裏表のある性格で、表の顔ばかり見る男は寄っていくし、裏の顔を目の当たりにしてしまう女たちは彼女から離れていく。
加えて、芸能人にも引けを取らないほどの美人。
ただし私と違って天然ものだ。
この美貌と色気を武器に、主にお金を持っている男性を手玉に取っていい思いをするのが、少し前までの趣味だった。
「真咲は欲が無さすぎる」
「求めているのが金品じゃないだけ」
あかりは物質主義者だが、私が求めているのは優越感のみ。
貧乏育ちがたたっているのか、物をもらうと相手に対して罪悪感に似た感情が発生してしまうから、もらうことがあまり得意ではない。
「もらえるものはもらっといた方が得なのに」
かく言うあかりは、最近めでたく婚約した。
左手の薬指には、ダイヤのリングが輝いている。
お相手の彼のことはよく知らないけれど、あかりが結婚を承諾するくらいだから、よっぽどお金持ちなのかもしれない。
あかりは引き続き楽しげに私へのインタビューを続ける。
「で、誰かとお泊まりしなかったの?」
「しなかったよ」
私の回答に、彼女はつまらなそうに唇を尖らせた。
「三人の中にスイートを取ってスタンバッてた男はいなかったの?」
あかりが遊んできたリッチな男性たちならそんなことをしてくれたかもしれないけれど、私のお相手はみんなエリートとはいえサラリーマン。
「そこまでしてくれる人がいたら考えたけど、これからどうする?って聞くだけで、私が帰るって言ったら普通に引き下がったよ」
それに、私が帰りたくないと言ったところで、どうせ自宅に連れ込むか、その辺のラブホテルにでも入るつもりだったのだろう。
いい歳して誕生日にラブホだなんて、学生じゃあるまいし。
この私とする気があるのなら、最低でも夜景の見えるラグジュアリーなホテルの上層階を手配してくれないと納得できない。
それなりに自己投資しているのだから、これくらいの高飛車は許されるはず。
それに、私がラブホで許すのは、新田主任だけだ。
「真咲って、ほんとガード固い」
「そうかな?」
別に、固いつもりはない。
自分がしたいと思ったら、するつもりではいるのだ。
というか、そもそも私は、あまりセックスが好きではない。
気持ちいいことではあるけれど、たくさんしたいとは思わない。
新田主任だけで十分だ。
「きっとその固さが、男にとってはたまらないのね」
私は意図してガードを固めている訳ではないのだけど、あかりはひとりでそう納得した。
正直なところ、男と一晩中一緒にいるなど、とてもじゃないけど堪えられない。
相手が起きている間、ずっと嘘の自分でいなければならないのだ。
さすがに息が詰まってしまう。
男と別れ、最寄り駅で電車を降りて、見慣れた風景にホッとして、肩の力が抜ける瞬間が好きだ。
ここでふと、あの男の顔が浮かんだ。
近所にあの男がいることがわかったせいで、私は自宅に着くまで緊張を解くことができなくなってしまったのだ。
「はぁ……私、引っ越そうかな」
私がぽつりと呟くと、あかりが首をかしげた。
「何かあったの?」
心配しているような素振りを見せているつもりのようだが、瞳は輝きに満ち、表情からは期待がうかがえる。
この腹黒女にとって、他人の不幸は蜜なのである。
「新しくうちの担当になった取引先の人が、小学校の時のクラスメイトだったの。しかも近所に住んでるんだよね……」
「すごい偶然! 真咲だって気付いた?」
彼女は私が整形していることを知っている。
「ううん。今のところ大丈夫……だと思いたい」
私はグラスに残っている白ワインを飲み干し、山村に対する過去の恨み辛みをあかりにぶちまけた。
彼に受けた仕打ちや私が受けた傷。
そして私が整形に至り、今の自分があること。
あかりは3割は同情的に、7割は蜜を楽しみながら私の話を聞いていた。
メインのローストビーフとともに私の不幸話を美味しく召し上がったあかりは、心底気の毒そうに尋ねる。
「その山村って男、弦川って名前を聞いても顔色ひとつ変えなかったの?」
「うん。嫌味なくらいに爽やかな笑顔だった」
過去の私を思い出さなかったことに安堵しつつ、私の名を聞いても何も思うところがないのだと、ガッカリもした。
「営業マンとしては感じがいいみたいだけど、傷つけた女の名前すら忘れられるくらいには薄情だってことか」
「まあ、その薄情さのおかげで私は助かってるんだけど」
いや、過去に傷つけた女だと気づかずにやたらと構ってくるから鬱陶しいという一面もあるか。
「いるよねー。人を傷つけたことなんて忘れて、悪いことなんかしたこともありませんって顔でヘラヘラ笑ってるヤツ」
「あー、あいつ完全にそのタイプだわ。きっと反省も後悔もしてないんだわ」
話しているとだんだん腹が立ってきた。
自分がやったことと、それによって私がどんなに傷ついてきたかを思い知らせてやろうか。
そして私への罪悪感に押し潰されて、一生思い悩めばいい。
あの野郎。弦川なんていう名字は生まれて初めて聞きましたと言わんばかりの顔しやがって。
ああ、ますます腹が立ってきた。
怒りに顔を歪める私に、あかりが面白半分で提案する。
「自分からバラしてみたら?」
いっそのことそうしてやろうか……って、危ない危ない。
うっかりその気になってしまうところだった。
「いやいや、絶対バラさないから!」
もうずっと美人で気立てのいい事務員さんとしてやってきているのに、会社の人にまで整形がバレたらどうするの。
「つまんないのー」
「つまんなくて結構!」
私は必死なのに、あかりは他人事だと思って楽しんでいる。
もっと同情してほしい気持ちもあるが、その辺のブリブリした女子のように白々しく「ええ〜。かわいそう」と言われたり、暑苦しい正義感を振りかざして「そいつ、許せない」と言われるよりずっと清々しい。
「でも、本当にすっかり忘れられていたら悔しくない?」
「……まあね」
彼は「ブス」と罵った「つる子」のことを、ほんの少しでも覚えているだろうか。
私だと気づいてほしくはないけれど、もし忘れているのだとしたら、今の3倍は恨もうと思った。
楽しい食事を終え、私たちは午後10時前に解散した。
明日も仕事だ。美女は明日の美貌のために、しっかり眠らねばならない。
電車で座ることができて、揺られているうちに眠気が襲ってきた。
朝から山村のせいで疲れてしまったけれど、こんなところで眠ってはいけない。
電車で疲れて眠ってしまう女性の寝顔は決して美しいとはいえないし、何より危険だ。
乗り換える駅までもう少し。
せっかく座れたけれど、私は立ち上がって扉の近くへと移動した。
その時、視界にあった何かが、不自然に素早く動いたような気がした。
辺りを見回してみる。
特に変わったものもないし、怪しい人物もいない。
きっと虫か何かが車両に紛れ込んでいたのだろう。
今日は朝から山村と出くわしたから、神経質になっているのかもしれない。
だけどやっぱり、何か変な感じがする。
電車を乗り換えても、その違和感は続いた。
心地悪さのおかげで眠気は覚めたけれど、落ち着かない。
飲み過ぎてしまったのだろうか。
私も26になったことだし、もう深酒はするなという体のサイン?
これもいわゆる“曲がり角”と呼ばれる現象のひとつ?
モヤモヤ考えている間に、電車は最寄り駅に到着。
今朝のでき事を思い出して更なる心地悪さを感じつつ、逃げるように早足で自宅に向かう。
昼間は暑いくらいに暖かくなってきたが、夜風はまだ涼しくて気持ちいい。
しかし、ふとまたあの違和感に襲われる。
長い間この感覚に苛まれて、だんだんその正体がわかってきた。
おそらく、私は誰かに尾けられている。
駅から出たばかりで、まだ同じ方向に歩く人が多い。
自意識過剰な私の、気のせいならいいのだが。
普段使う人通りの少ない裏道ではなく、明るい道を選んで歩く。
違和感が、だんだん確信に近づいていくのが怖い。
気のせいであってほしい。
夜中に一人で歩いている時、知らない誰かが同じ方向に歩いているだけで追われているように錯覚したという経験は、誰にでもあることだと思う。
この違和感もきっと、それと同じだ。
ただ今日は、いつもよりちょっと敏感になっているだけ。
そう自分に言い聞かせ、恐怖心をごまかす。
もう少しで自宅だ。
その前にコンビニに入って、自分の背後に誰かいないか確認してみよう。
もし本当に追われているとしたら、このまま自宅に入るのは危険だし、誰もいないのなら安心できる。
私は祈る思いでコンビニへと飛び込んだ。
「いらっしゃいませー」
店員の明るい声に救われた気がした。
私は恐れる気持ちなどおくびにも出さず、すまし顔で雑誌コーナーまで歩いた。
窓からそれとなく外を見てみる。
駐車場や歩道など、見えるところに怪しい人影はない。
一度視線を外し、しばらく雑誌を物色するふりをしてからもう一度外を見てみる。
やはり怪しい人影は確認できなかった。
なんだ、やっぱり気のせいだ。
よかった。これで安心して帰れる。
窓から離れ、ドリンクコーナーへ。
お気に入りのオレンジ炭酸飲料を手に取り、レジで精算して店を出た。
安心して気を緩めていた私は、直後に現れた人物に鳥肌を立てた。
「真咲ちゃん」
声をかけてきたのは誕生日を一緒に過ごした男のうちの最初の一人、原口だ。
驚きと恐怖で息が止まるかと思った。
「ビックリしたぁ……。原口さん、どうしたんですか。こんなところで」
彼の住まいはもっと千葉寄りだったはず。
それなのに、どうしてこんな時間にこんなところにいるのだろう。
スーツだし、ビジネスバッグを持っている。
仕事でこちらの方に来ていた可能性もあるが、私の感じていた違和感の正体が彼だとしたら、鳥肌どころでは済まない事態である。
私は彼に、住所はもちろん、最寄り駅がどこかさえ伝えていなかったはずだ。
私はかろうじて笑顔を作った。
心臓は嫌にドキドキするし、体はヒヤヒヤするし、そのせいで自分の顔が固い。
原口は険しい顔をしている。
「話があるんだ」
話をするために私を尾けていた? いつから? どこから?
「その前に、どうして私がここにいることがわかったのか教えてください」
原口は私の質問を無視して、震える声で尋ねてきた。
「この間、俺と別れたあと、何してた?」
……なるほど。どうやら彼は私の悪行に勘づいているらしい。
そして、威圧的に出れば私が白状するとでも思っているのだろう。
だけど私を責める前に、私の質問に答えるのが先だ。
尾けてきたとは言いにくいのだろうけれど、そうはさせない。
ここで黙秘を許せば私が不利になる。
「質問に質問で返してごまかさないでください。どうしてここがわかったんですか? 私、すごく怖いんですけど」
大げさに一歩コンビニの方へと後退し、「変なことをしたら店員に頼んで警察を呼んでもらいますよ」と示唆すると、彼は狙い通りに怯む。
私が強気に出たのが意外だったのだろう。
世間は女の味方……いや、美女の味方だ。
こういう状況において、私は圧倒的に有利である。
面倒だし、このまま諦めて帰ってもらうしかない。
私は追い討ちをかけることにする。
「原口さん。私を尾けたんですね?」
原口が視線を逸らす。
やはり彼は私を尾けていたのだ。
私は脅しの意味でコンビニの方へ小さく2歩後退した。
社会的に抹殺されたくなければ、早く私に謝罪しここを立ち去るべし。
「待って!」
自分の罪を認識している彼が、焦って私を呼び止める。
「俺はただ、あの日俺と別れたあとのことを聞きたかっただけなんだよ。答えてくれたらすぐに帰るし、もう二度とこんなことしない」
おめでたい男だ。
“二度と”と言ったが、一度でもこんなことをした彼に再びチャンスがあるとでも思っている。
質問に答えれば満足だと言うのなら、答えてやろうじゃない。
「原口さんと別れたあとは、自宅に帰りました。母がケーキを焼いてくれたからって、お伝えしたと思いますけど」
私がそう答えると、原口が食い気味に叫ぶ。
「嘘だ! 真咲ちゃん、渋谷で電車を降りたよね?」
まさか、この男。あの日も私を尾けていたのか。
「男と待ち合わせてお酒飲んだよね?」
それも見ていたのなら、もう下手な嘘は通用しない。
私が彼の前で演じていた“真咲ちゃん”は、偶像と化した。
「俺たち、別に付き合ってるわけじゃないけど……俺は真剣なんだ」
だから何? 付き合ってもいないのに、自分が真剣だからって、どうして男と会ったことをとやかく言われなきゃならないの。
面倒だが仕方がない。
申し訳ないけれど、彼には徹底的に悪者になってもらうことに決めた。
ここは久しぶりに、“女の武器”を使わせていただくことにしよう。
私は鼻で軽く息を吸って目頭に力を込めた。
間もなく私の瞳は潤う。
原口の怒りの表情が、ふたたび焦りに変わる。
「原口さん、ひどい……。今日だけじゃなく、あの日も尾けていたんですね」
「違うんだ、俺は」
私は泣きながら、さらに彼を追い込んでいく。
「嘘をついたのは認めます。渋谷で会ったのは昔お世話になった地元の先輩で、原口さんとお食事をしている間に誕生日祝いの連絡をくれたんです。たまたま近くにいるって言うから会いに行ったけど……私、何か悪いことしましたか?」
「いや、悪いことというか……」
「私、原口さんとお食事できてすごく楽しかったのに」
言葉に詰まる原口。もう彼に勝ち目はない。
さあ、さっさと謝って帰りなさい。
溢れた涙をしおらしく手の甲で拭い、もう一度目に涙を溜める。
新たな涙を彼に見せつけるべく顔を上げた時、私は再び鳥肌を立てた。
原口の後ろに知っている男が一人、気まずそうな顔でこちらを見ている。
山村由貴だ。
よりによって、こんな時にこの男と出くわすとは、今日はとことんついていない。
私と目が合うと、山村は苦い顔で会釈をした。
店の前で繰り広げられている痴話喧嘩に口を出せず、でも私を無視することもできず、その場に突っ立っているといったところだろう。
山村に気づかない原口は懲りずに尋問を重ねる。
「でも、家族とケーキは嘘だったってことだよね?」
ああ、しつこい。
山村由貴。
この場に居合わせてしまったのが運の尽き。
この際だから、あなたを使わせていただきます。
私は原口に見せる用に「気まずい」という顔を作り、山村に向かって言った。
「お兄ちゃん!」
山村と原口は同時に目を見開く。
原口が後ろを振り返った隙に、私は山村のもとへ走った。
「お兄ちゃん、おかえり。今日も遅かったんだね」
そう口に出しながら、表情だけでSOSをアピールする。
私たちは似ていないけれど、目力強めの美形という点は共通している。
原口はきっと信じる。
「ああ……ただいま」
助かった。山村は察してくれたようだ。
「そちらは?」
山村は困惑しながら原口に目を向けた。
原口が口を開く前に私が答える。
「お友達の原口さん。金曜日に誕生日をお祝いしてくれた人なの」
二人はよそよそしく頭を下げ合う。
「ああ。妹がお世話になったようで……」
「いえ……」
山村の演技は下手だが、この場面では協力してくれているだけありがたい。
私は山村に隠れるようにして、次のセリフを繰り出す。
「でも原口さん、私がそのあとに別の人にもお祝いしてもらったことを、すごく怒ってるみたいで……」
「え? なんで?」
「わからない。でも、そのことはいいの。ただ、金曜日に別れたあとと、今日。原口さん、私を尾けていたみたいで……怖くて……」
そう言って山村にも涙を見せる。
「尾けていたって……」
山村が険しい顔になる。
原口を悪者に仕立て上げ、山村をいう
私に喧嘩を売るということは、こういうことだ。
「彼と、付き合ってるの?」
山村の問いに、私ははっきりと横に首を振った。
「いいなとは、思っていたんだけど」
原口とはいい関係を続けたかった。
スマートな人だと思っていたのに、私の見込み違いだった。
本当に残念でならない。
「真咲ちゃん……」
原口ががっくりと肩を落としながら私の名を呼んだ。
山村に私の下の名前を知られてしまったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「原口さんとおっしゃいましたね」
「は、はい」
山村が仕事の時とは全然違う低い声を出し、原口の肩が震えた。
私の騎士が動いたことで、この場の空気がいっそう張り詰める。
「彼女を尾行していたというのは本当ですか?」
「……申し訳ありません。ですが、それは」
「理由が何であろうと、これはストーカー行為ですよ。彼女が望めば、あなたを警察につき出すこともできる」
「ストーカーだなんて、決してそんなつもりでは」
山村の追求に、原口はただ焦って言い訳している。
だからさっさと謝って帰ればよかったのよ。
「あなたがどういうつもりかは問題ではありません。事実、彼女はそう主張しています」
「……それは……」
原口にはもう、返す言葉がないようだ。
それを悟り、山村は落ち着いた声で告げる。
「ご自身の社会的地位を守りたければ、お引き取りください」
なんて勇ましいのだろう。
過去のことがなければ、うっかり好きになってしまったかもしれない。
「真咲ちゃん」
原口が悲しげに、ふたたび私の名を呼んだ。
私は怯えたふりをして山村にすり寄る。
ここまでくると原口が可哀想な気もするが、同情していては自分の身が守れない。
私は自分の利益のために嘘をつき、人を利用する悪い女だ。
原口は気の毒にもこんな私に引っかかり、腹を立て、報復を試みて失敗した。
これはただそれだけの話。
「尾けたりしてごめん。ネックレス、着けてくれてて嬉しいよ」
「気に入ってるんです。でも、お返しした方が……いいですよね」
「いいよ。俺、使わないし」
原口は私に笑顔を見せ、偽の兄に頭を下げた。
「妹さんに怖い思いをさせて、すみませんでした」
そして足早にこの場から立ち去った。
もう彼とは会うこともないだろう。
後味の悪い別れだった。
今までありがとう。
尾けられて怖い思いをしたことは、ずっと忘れない。
原口が去り、緊迫していた空気に穏やかさが戻った。
しかし、一難去ってまた一難。
私はこれから、もうひとつの問題に対処しなければならない。
「あの、弦川さん」
「はい」
こんなことに付き合わせてしまったのだから、追求は覚悟の上である。
隠していた下の名前も知られてしまった。
彼は私が「つる子」であることを思い出したかもしれない。
戦々恐々としていると、山村は私の肩を掴み、撫で始めた。
「大丈夫ですか? 怖かったでしょう?」
……あれ。なんか、思っていたのと違う。
どうやら心配してくれている、らしい。
私が唖然としていると、彼は私の肩を放して「あ、すみません」と謝った。
「怖かったです……。でも、山村さんのおかげで助かりました。ありがとうございます」
「驚きましたよ。突然お兄ちゃんだなんて」
「変なことに巻き込んでしまってすみません」
「本当にありがとうございました。今度何かお礼をさせてください」
「いえいえ、お構いなく。大したことはしてませんから」
恨みがあるからあまり褒めたくはないのだが、私を助けてくれた時の彼は悪くなかった。
当たり前のことだけれど、この15年で山村も大人になっている。
小学生の頃ほど未熟ではないし、もう気に入らない女をむやみに傷つけたりはしないのだろう。
……いや、ちょっと違うか。
私はもうブスじゃない。
もし私がブスのままだったら、同じように助けてくれたかはわからない。
整形して以来、私は嫌というほど実感してきた。
男という生き物は、同じ女でもブスには辛く当たるくせに、美人にはとことん甘い。
とはいえ、助けられたのは事実だ。
そのことには、素直に感謝しなければならない。
私が初めて山村を好意的に受け止めた次の瞬間、山村の表情が一変した。
「ところで、弦川さん」
先ほど原口に見せていた、責めるような冷たい表情。
私を呼ぶ声も、いつもの柔らかさはなく、冷ややかだった。
「はい」
「さっきの彼に、何をしたんですか?」
背筋がゾクッと震えた。
どうやら山村は、私が清廉潔白でないことを察知しているようだ。
「……どういう意味ですか?」
何もわからないふりをして首をかしげる。
山村は小馬鹿にするように軽く鼻で笑った。
「弦川さんは、彼の気持ちを弄んだ。少なくとも彼はそう思ったから、怒っていたんですよね」
「人聞きの悪いことをおっしゃいますね。私はただ、彼が誕生日をお祝いしてくれると言うから、ありがたく好意を受け取っただけなのに」
「問題はそこではなかったはずです。そのあと、別の男性と会っていたと」
「ですからそれは、先輩が」
「男は特別な感情でもない限り、女性の誕生日をふたりきりで祝ったりしませんよ。それくらい、あなたにもわかっていたでしょう?」
だから私が原口の気持ちを弄んだことについて言い逃れはできないと言いたいわけか。
どうして私が、あんたなんかに説教されなきゃいけないの。
今になって原口の肩を持つなんて、納得いかない。
「わかっていたとして、それが何なんですか? 私だって、彼に特別な感情がありましたよ。真剣にお付き合いを検討していたんです」
「まったくそんな風には見えませんでしたけどね」
山村はきっぱりと言い切った。
たった数回話しただけのくせに、わかったようなことを言わないでほしい。
いったい私の何を知っているというのか。
ただ悔しいかな、山村の考えは正しい。
私は原口の気持ちを弄んでいた。
口を結んだ私を、山村はさらに責める。
「男を騙して楽しいですか?」
楽しいですよ、とても。
あなたに「ブス」と言われて以来、男を弄んで楽しむことを目標に生きてきたのだから。
だけど私は、男を傷つけるつもりはないし、何かを奪うつもりもない。
原口のことだって、尾行や攻撃をされなければ、傷つけるつもりなどなかった。
楽しい時間を演出してくれた彼には、心から感謝していた。
だってつる子、ブスじゃん。
そう言って私を傷付けたあなただって、とても楽しそうにしていたじゃない。
15年抱えてきた怒りが腹の中で膨らみ、横隔膜が震えた。
かつて経験がないほどの膨張に心身が追いつかず、怒りはあっという間に私のリミッターを突き破った。
「うるさい!」
私の叫び声が辺りにビリッと響く。
マズい、自分を止めなきゃ。
理性ではそう思うが、本能が突っ走る。
「私には嘘が必要なの。自分の身と心を守るために、誰かを騙すことも必要なの」
こんな女に誰がしたと思ってるの。
他でもない、あんた自身じゃない。
「守るためって……意味がわからない」
山村が応戦してくるから、私は余計にヒートアップする。
「わからなくて結構です。あなたには、私の傷なんて見えないでしょうから」
「あなたが過去に傷ついたからって、男を騙していい理由にはなりませんよ」
だったら自分が美形だからって、ブスを傷つけていい理由にもならなかったはずだ。
15年前の胸の痛みを振り返して、目頭がツンと熱くなる。
絶対にこいつの前では泣くもんか。
私はもうあの頃の自分とは違う。
つる子とは違う。
私は深くため息をついた。
「もうやめましょう。私たちが言い合っても意味がない」
山村も私と同じように息をつく。
「そうですね」
山村に助けを求めたのは間違いだった。
原口とのことは、自分だけで解決するべきだった。
これから彼とは、正体がバレることを恐れつつ、今日のことを気まずく思って仕事をしなければならない。
そう思うだけで、気が重い。
「今日は失礼します。助けてくれてありがとうございました」
これ以上こいつと一緒にいたくない。
私は頭を下げ、彼に背を向け足を踏み出す。
しかしすぐに腕を掴まれ止められた。
「あんなことがあったあとです。送ります」
冗談じゃない。
「結構です。すぐそこですから」
私は乱暴に山村の手を振り払って駆け出した。
「弦川さん!」
私の8割は嘘でできている。
真実の方がよっぽど人を傷つけるから、私は嘘に包まれて生きていきたい。
仕事があるから無理だとわかってはいるけれど、もうこの男には二度と会いたくない。
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