映画を観に行く。

はまりー

映画を観に行く。


 暇をつぶそうと本を一冊もってきていたのだけれど、電車の窓を叩く氷雨がうるさくてぜんぜん集中できなかった。

 読みかけのページに栞をはさんで、ぼくは本を閉じた。窓の方を振りむくとそれだけで顔に冷気を感じる。雨滴が斜めに奔る窓のむこうはまったくの暗闇で、電車がどこを進んでいるのか見当もつかなかった。人家の灯りすら見えない。ずいぶん寂しいところにきてしまったなとすこし心細くなった。

 窓に映りこんだ車内に、人影がある。

 ぎょっとして振り返った。さっきまで車内にはぼく独りだったはずだ。向かいの長椅子に顔見知りの女の子が座って、肩をゆらせて笑っていた。

「ハジメくん、ずいぶんと熱心に読書してるから」

 口元に片手をあててそう云いながら、マキさんはまだ笑っている。ふわりとした黒髪の毛先が肩で丸まって揺れている。

「邪魔をしないでおこうと思っただけなんだけど……幽霊を見たような目で見るの、やめてくれる? 傷つくよ」

「いえ……あの……すいません」

 うまくことばがでてこない。マキさんにあったらカマしてやろうと思っていた気の利いたセリフも、どこかへ吹き飛んでしまった。ゆうべノートの前で3時間もかけて練ったすてきな会話プランがあったのに。

 マキさんはぼくらの仲間で……なんの仲間なんだって訊かれると返事に困ってしまうのだけれど、“映画”って知ってるだろうか? 返事がノーだった場合、かなり説明が長くなってしまうけど、まぁ簡単に云ってしまえばぼくらは……趣味の同好会の一員だ。

 マキさんはひとつ歳上の大学生で、ぼくとおなじ街に住んでいる。とはいえ通っている大学はべつだし、ほのかな期待を抱いて街中を彷徨ったこともあるけれど、ばったり出会ったことなんていちどもない。フルネームすら知らない。ぼくらがいつも出会うのは映画館のロビーか、さもなければこうやって映画館に行く道中だ。

「ひょっとして、飛行機も一緒でした?」

「たぶんね。さっきまで隣の車両にいたのよ。ハジメくんが居たのは気づいてたんだけどね……なんの本を読んでるの?」

 そう云いながらマキさんは立ち上がってぼくのとなりに座りこむ。ぼくの膝から本を取りあげるとき、マキさんの髪からいい匂いがただよってきた。ぼくは心臓の鼓動を聞かれるのではないかと気が気ではなかった。

「つまんない本ですよ」

 ぼくは言い訳のようにそう云う。気が早いマキさんはもう本のページをめくっていた。白紙。マキさんが長い指でどれだけページをたぐっても、どこにもなにも書かれていない。

「ほんとだ。つまんない本」

 そう云って本を閉じると、マキさんはぼくに微笑みかけてきた。

「ねぇ、映画、楽しみだね」

「ぼ、ぼくも楽しみです。今夜はとくにね。マキさんは例のうわさ、聞いてます?」

「うわさって?」

「1年前からフランス海軍の深海探査艇が中央アメリカ海溝でこそこそやってたじゃないですか。コスタリカに近いあたりで。なんでも今夜掛かるフィルムはそこの深海1200メートルで見つかったそうなんです」

「ふーん」

「あ、ピンときてませんね。ただのフィルムじゃないんですよ。なんでもそれが……キャプテン・アメージングの50本目だとか」

「キャプテン・アメージングって49本しか撮られてないって話じゃなかったっけ?」

「だからみんな内心穏やかじゃないんですよ。ファンが作った海賊版(ブートレグ)って話もあるし、それだったらがっかりですけど、ロバートソン監督が撮った正真正銘の本編って可能性もあるんですよ! キャプテン・アメージングの物語の決着が観られるかもしれません」

 マキさんは片手の指を折りながら、2、16、27、8……と数を数える。

「わたし、4本しか観てない。ハジメくんは?」

「12本ですね。見つかってない欠番も多いし」

「それでいきなり新作を見せられて、話についていけるかなぁ」

「大丈夫だと……」

 思いますよ、とつづけようとしたとき、電車が急にブレーキを掛けた。マキさんの襟元のファーがぼくのピーコートの肩にぶつかる。またいい匂いがして、こんどは胃がでんぐり返りそうになる。

「着いたみたいね」

 マキさんが云い終えないうちに、電車のドアが開く。冷気と雨の匂いが車内に入りこんでくる。

「ホームの景色も見えないのに、よくわかりますね」

「目的地は終点でしょ」

 そう云うとマキさんはさっさと腰を上げて電車から降りてしまう。ぼくはあわててマキさんの後を追った。

 駅はどうやら無人駅らしかった。ホームは真っ暗で、線路をはさんでむこうがわの出口のあたりにしか灯りがない。いまにも廃線になりそうな第三セクター運営のローカル線とは云え、終着駅が無人ってことがありえるのだろうか?

 ホームに降りたってすぐに、ぼくらを背後から照らしていた灯りが消えた。

 振り向くと、ここまでぼくらをつれてきた電車の中は真っ暗になっていた。ドアは開いたままで、まるで大きな獣の口のなかを覗いたようだ。

「おーい、小僧!」

 呼ぶ声が聞こえて、ぼくは声の主をさがす。むかいのホームに見えた灯りは、よく見ればなにかを燃やしているドラム缶だった。ゆらめく炎に照らされたシルエットはナルセさんだ。もう一人、見覚えのないやたらとずんぐりむっくりな人影も見える。

 ぼくとマキさんは雨の音を聞きながら、むかいのホームにつづく階段をのぼった。

 ナルセさんはいつも通りの不機嫌そうな顔でぼくらを出迎えた。皺だらけのコートの襟に顔をうずめ、背中を丸めてドラム缶の火に当たっている。歳を訊いたことはないけれど、三十代半ばくらいだろうか。髪をととのえて、無精髭を剃れば、いまよりずっと男前に見えるだろう。

「ナルセさん、車じゃなかったんですか」

 ぼくが声をかける。

「車だよ。映画館のそばに止めてる。おまえらを迎えにきてやったんだよ」

 ナルセさんはそう云って、コンビニの白い傘をふたつ、ぼくらに差し出す。ぼくとマキさんは思わず顔を見合わせる。マキさんが吹きだした。

「ナルセさん、過保護しすぎでしょ。幼稚園児じゃないんですから」

 マキさんが笑いながらそう云って、ナルセさんの眉間の皺がさらに深くなる。舌打ちした。

「小便くさい小娘が、会うたびに生意気になりやがる。大人の親切は素直に受け取っときゃいいんだよ。まだ親のカネで暮らしてる身分だろうが」

「父性を持て余しぎみじゃないですか、おとーさん?」

「うるせぇ!」

 マキさんを追い払うように傘を振りながら、それでもナルセさんはちょっと嬉しそうだ。長い付きあいだからわかる。

 ナルセさんは都内在住のフリーライターで、映画に関してはぼくなんかよりもずっとずっと詳しい。まだぼくが中坊のころ伊勢崎のオートレース場跡地で上映会があって、そこでてんぷらうどんを奢ってもらって以来のつきあいだ。ナルセさんには離婚した奥さんと娘さんがいる。別れた家族とは映画館でしか会えない。

「おい、焼けてるぞ、喰え」

 ナルセさんがかたわらの影に声を掛ける。

 恐ろしい鳴き声が響く。その人……というか熊は、大きな口をぱっくりと開けていた。そこから耐え難いくらいの生臭い匂いがただよってきた。

 熊は片手に持った棒をドラム缶の火にくべていて、それを器用に持ち上げて、棒の先についた焼けたマシュマロにかぶりついた。咀嚼しながら満足気に喉をならす。黒と白のつややかな毛並み。鋭い牙。うしろの二本足だけで立っているが、これはどう贔屓目に見たって……熊だ。

「あの……初対面ですけど、この方は」

「熊だろ」

「ですよねー」

「あまりこいつの前でイキった態度見せんなよ。さっきまでクボタが一緒だったんだけどな。この熊を相手にゼルキン監督に関する蘊蓄をたれてるうちに、いきなり喰われた。骨も残らねぇ」

 ぼくはなんとなく足元を見る。ドラム缶に半分かかる感じで、足元にどす黒い染みができていた。

「熊はプライドが高いんですねー」

「映画に関しては初心者らしいけどな……まぁクボタの家にはあとでおれが連絡しとく。上映まであんまり時間がないからな」

「クボタさん、根は悪い人じゃなかったんですけどね。ちょっとウエメセで初心者相手にマウントとってくるところありましたからね」

「悪い人でしょ。わたし、映画館のなかでおっぱい触られたことがある」

「極悪人だ! 喰われてよかった、あんな人!」

 熊が咀嚼し終えるのを待ってから、ぼくらは駅を出て歩きはじめた。

 駅前にはコンビニ一軒すらない。荒れた田圃と、あとは古い家屋が道の両側につらなっているが、氷雨の打ちつけるビニール傘ごしに覗くかぎり、生きた住人が住んでいる気配はない。もちろん街灯の灯りもなかった。

 傘を差したぼくら三人のあとを、熊がのしのしと歩いてきた。バッグに入れた折りたたみ傘を貸してあげようかな、と思ったけれど、喰われたらえらいことだから黙っていた。熊は雨を気にする様子もなく鼻をスンスン鳴らしている。

「ここら辺りはむかし、炭鉱で栄えた街でな」

 ナルセさんが云った。

「大昔には羽振りがよかったらしい。この沿線だけでも二十は演芸場が建ち並んでいたそうだ。人の笑い声も泣き声も絶えることなく、ずいぶんにぎやかな場所だったらしい。いまから行くのは、そのつぶれた演芸場のひとつだ」

 炭鉱跡地だと云うナルセさんの言葉を裏づけるように、駅からまっすぐつづく一本道の傾斜はかなり激しい。スニーカーの下を流れる冷たい雨水に足をとられてひっくり返らないように気をつかわなければならなかった。

「ひとつ前が寂れた漁港のカニカマ工場でしょ」

 ぼくの隣で傘をくっつけあったマキさんがまた指を折る。

「その前が荒川区の銭湯。愛知県のサイダー工場跡。廃校になった小学校……ずいぶんと寂しい場所ばかり選ぶのね、映画って。しかも上映は夜ばっかり」

「べつに法に触れることしてるわけじゃねぇんだ。気にすることもないだろう」

 ぼくらの先に立ったナルセさんが鼻を鳴らす。

「ま、でも学校のお友達にはしゃべらない方が賢明かもな。全国津々浦々飛びまわって、なんでそこまで熱心に“映画”なんてものを追いかけているんだなんて訊かれても答えられないだろう、おまえたちも」

 それはそうだ。きっと多くの人には理解できない。

 ぼくの行為をパルチザンの聖なる戦いだなんて美化したいわけじゃない(そんなことをしたら背後の熊に喰われてしまう)。でもほんの偶然で映画館への招待状インビテーションを手に入れて、はじめて映画に触れた時から、ぼくは治らない熱病にかかったみたいに映画を追いかけつづけてきた。正直な話、その情熱はマキさんに対する気持ちよりも、すこし勝っている。動機は他人にはなかなか理解してもらえないだろう。今夜、この坂の上の映画館に集まる仲間たちを除いて。

 そこには見たことも聞いたこともない世界が広がり、びっくりするようなすごい冒険や、恋愛や、笑いや、ときに涙や苦々しい思いをぼくらに与えてくれる。魂だけをジェットコースターの座席に置き忘れたみたいに、ぼくらの気持ちは毎度起伏の激しいライドをこなす。終わったときにはもう映画にメロメロだ。考えることといったら来週提出のレポートのことなんかではなく、次の映画をいつ観られるかということ。

 映画は楽しい。楽しみにしていた映画を観る直前の、いまのワクワクする気分だって最高だ。おまけに隣のマキさんからいい匂いが漂ってくる。まったく人生は素晴らしい。

 そのとき、熊が鳴いた。

 ずいぶんと余韻の長い、悲しげな鳴き声だった。思わず振り返ったぼくは、クボタさんと目を合わせてしまった。

 熊にかじられたあとなのか、クボタさんは顔の左半分を失っていて、残ったうつろな右目はぼくに焦点が合っていなかった。シャツもパンツも血塗れだ。

「未練がましい奴らが、また沸きだしたな」

 ナルセさんが静かにそうつぶやいた。

 気がつけば、ぼくの隣には軍服を着た旧日本兵らしいおじさんが錆びたライフルを片手に坂をのぼっていた。その隣には着物を着たおばさんがいる。他にも、たくさん。彼らは雨に濡れる心配をしなくて良かった。雨滴は彼らの身体を素通りしていく。

 幽霊たちはいつだって映画を観ることを望む。映画館に映画がかかる夜には、決まって彼らは姿をあらわす。なぜかって、そんなのぼくにはわからない。かたわらでマキさんが息を呑む気配がした。彼女が誰の姿を見たのか、ぼくは問わずにおくことにした。

 妙に大所帯になったぼくら一行は、ひどく無口な集団になっていた。ようやく坂の頂上にたどりついたときには思わずホッとしてため息が出た。映画館に様変わりした元演芸場のまわりには、灯りをつけた提灯がずらりとぶら下げられていて、ぼくはずいぶんと寂しい灯りだなと思った。いちばん先に着いたツキシロさん親子が準備をしてくれたのだと、ナルセさんが云った。

 映画館のドアの前で、ぼくは振り返った。階段の下で幽霊たちがうらめしげにこちらを見つめている。ぼくは悲しい気分で首を横に振った。どんなに美しい人だって、どんなにお金持ちの人だって、生前どんな偉業を成し遂げた人だって、死んでしまったら映画館に入ることはできない。

 映画を観ることはいつだって、生きている人間だけの特権だ。

 後手でドアを閉めると、清潔で暖かい空気がぼくをつつんだ。

「「いらっしゃい、ハジメさん。もう来られないのかと思っていました」」

 ユニゾンで耳障りの良い声がステレオで響く。

 まったく同じ顔をした二人の少女が、ぼくの正面にならんで立っていた。

 まるでオーブンで膨らませた焼き菓子みたいな、裾の広がったフリルだらけの純白のアンダードレス。その上に纏っているのは、これまたフリルだらけの漆黒のコットンドレス。ヘッドドレス。スタンドカラーが広がった胸元には、大きな蝶がとまっているかのような薔薇のコサージュ。

 二人はまったく同じ格好をしていた。母親のモミジさんでなければ、見分ける方法はひとつだけ。黒髪のショートカットの娘がツキシロ・アサハ。銀髪のショートカットの娘がツキシロ・ヨルハ。二人はツキシロ家の双子だった。

「アサハちゃんに……ヨルハちゃん。驚いたな。ふたりともずいぶん大きくなって。もう気軽にからかったりできないなぁ」

「「いつものハジメさんでいてくれたら、うれしいです」」

「いくつになったんだっけ?」

「「14歳です」」

「そんな格好してるってことは、どちらかが受付をしてくれるの?」

「「はい。映画はアサハ(わたし)が観ます。受付にはわたし(ヨルハ)が立ちます。どちらかが観れば、二人で映画を観たのと同じことですから」」

「便利でいいねぇ」

「「双子ですから。招待状はお持ちですか?」」

 ぼくはカバンから白い封筒を取り出す。表にはぼくの名前と住所が書かれ、裏側にはなにも書かれていない。切手が貼ってあるべき場所には朱肉で誰かの拇印が推してある。切手無しでどうしてぼくの家に届くのか、それはぼくにはわからない。

 中には折りたたまれた赤い紙が一枚はいっている。そこには今日の日時と、この映画館への地図だけが描かれている。

「「けっこうです。ロビーにお進みください」」

 双子はそう云って、深々とぼくにお辞儀をしてみせる。

 ロビーにはいつもの面々が、すでに集合していた。

 落ち着きなくうろつきまわっているノナカくん。壁にもたれて、前に観た映画の感想を話し合っているニシノくんとヒガシノくん。

 ブーブー鳴きながら壊れた自動販売機の前に糞を垂れている豚。豚はぼくらのなかではいちばんの年長者で、年に2000本は映画を観るといううわさだった。招待状は年に五、六回しか届かないから、フカシじゃないかという疑惑も上がっている。熊がさっそく目をつけたらしい。豚の方を見つめながら、しきりと鼻をぴくぴくさせている。

 ケイコさんはロビーの朱色のソファに腰かけて、自分の両肩を抱いて震えて泣いていた。すっかり怯えてしまっている。ケイコさんは大阪のOLらしい。上映前はいつもこんな感じなので、ぼくは親しく話をしたことはない。

「神様、どうかわたしにあなたを信じさせて下さい。神様、どうかわたしにあなたを信じさせて下さい。神様、どうかわたしにあなたを信じさせて下さい……」

 そう呟きながら手にした十字架に祈りを捧げるアマサワ神父。彼は揺るがない信仰を取り戻すために映画館に通っているらしい。

「遅かったのねぇ。一杯どう、ハジメくん」

 お猪口を載せた銀の盆を抱えて、ツキシロの双子の御母堂、モミジさんがぼくの目の前に立つ。ツキシロ家は新潟で代々つづく日本酒の蔵元なんだそうだ。モミジさんはあの細い双子の母親とは思えないくらいに貫禄たっぷりだ。

「娘さんたち、ずいぶん立派になりましたね」

 差し出されたお猪口を断りながら、ぼくはそう云った。

「そりゃわたしの娘だもの。手を出しちゃダメよ。あ、ハジメくんにはそんな度胸ないか!」

 豪快に笑いながら、モミジさんは去っていく。

 このロビーそのものが、火にかけられた鍋のようなものだった。底の方からぐつぐつと煮られ、期待に膨れあがった空気ができあがっていく。ノナカくんはモミジさんからもらった酒で顔を赤くしながら、いまはじっと絨毯をみつめている。その視線の先になにがあるのか、ぼくにはわかる気がした。ぼくらはこれからどんな映画を見せられるのか、なにも知らない。ひょっとしたら今夜観る映画は人生で二度と味わえない感動と興奮をぼくらに与えてくれるかもしれない。誰もがそれぞれのやり方で、このじれったい、それでいて充実した時間を過ごしていた。ケイコさんはしゃくりあげるのを止めて、目元をなんども拭っている。マキさんがその肩に手をおいて、なにか話しかけていた。

「だからその独善的な考え方がほんとうに鼻につくんだよ、ナルセ!」

 こちらの方もあいかわらずだ。

「おまえの考える映画観をどうしておれが受け入れなきゃいけないんだ」

「そりゃこっちのセリフだ、スピーカー屋!」

 ロビーの反対側では、ナルセさんとムナカタさんが互いの襟首をつかみあげながら、顔に唾を飛ばして激論を交わしている。ムナカタさんは豊橋在住の自営業で、オーディオ機器を販売して生計を立てている。歳のころは四十代くらい。ナルセさんとはソリがあわなくて、顔を見合わせるといつも最後は罵りあいになる。いつものことなので、止めようとする人は誰もいなかった。もちろん、ぼくも。

「妙な期待はよせ、ナルセ。いつまで待ったっておまえの望む映画は掛かりゃしないよ。『オルフェウス殺し』? あんな駄作、二度と掛かるもんかよ。今夜掛かるのは『キャプテン・アメージング』だ。それもガセで騒がれているような50本目とかじゃない。47本目だ。ウィーンが舞台でサイドキックのリトル・アウェイサムの初恋を描いた、隠れた名作だよ」

「おまえこそなんの根拠があってそんなこと云えんだ」

「おれの情報ソースを疑うのか」

「地方都市のスピーカー屋にどんなソースがあるっていうんだよ!」

「おまえだってフリーライターって肩書きだけは立派なチンピラじゃないか!」

「うるせぇんだよ、ハゲ!」

 ナルセさんが怒鳴ったあとで、ロビー中がしんと静まり返った。ムナカタさんの頭頂部はみごとに禿げあがっている。そのことをムナカタさんが気にしていることを全員が知っていた。豚がピギー、ピギーとうるさく騒ぎまくる。熊が右手を振るって一撃で豚をしとめ、そのまま飲み込んでしまった。

 ムナカタさんは顔を真っ赤に染めて下をむいている。

「おまえ、重いんだよ、ナルセ……別れた女房と娘を捜すために映画を観るなんて……そんな無駄なこと、やめろよ」

 こんどはナルセさんが顔を赤くする番だった。

 ぼくがまだ中学生の頃、ナルセさん一家の姿をいちどだけ観たことがある。綺麗な奥さんと、まだ幼い娘さん。協議離婚が成立したあとで、ナルセさんは最後の望みに、娘さんに映画を見せたいのだと家族を連れてきたのだ。

 「オルフェウス殺し」。それがどんな映画だったのか、その後の騒ぎのせいでぼくはよく覚えていない。劇場が明るくなったあと、ナルセさんの奥さんと娘さんが姿を消してしまったのだ。ナルセさんは半狂乱で荒れ狂った。警察の捜査の結果、ナルセさんの家族はフィルムのコマとコマのあいだに落ち込んでしまったのだという結論が出た。それ以来ずっと、ナルセさんは別れた家族の消息を探している。

 ぼくらの重い沈黙を破ったのは、開場を知らせるベルの音だった。

「上映がはじまります。みなさん劇場のなかへお進みください」

 メイド服に身を包んだヨルハが静かにそう告げた。アサハがヨルハに駆け寄って、ふたりはキスを交わす。アサハだけが劇場のなかへと進んだ。

 アサハのあとを追って、ぼくらは映画観の内部へと進む。元演芸場という話にたがわず、足元は緋色の絨毯が敷かれ、その上に枡席がもうけられていた。ぼくらはてんでばらばら、適当な枡に腰かける。ぼくは、マキさんの隣に腰かけた。

 そして映画がはじまった。

 場内の灯りが消えた。暗闇のなかに白いスクリーンだけがぽっかりと浮かび上がる。

 フィルムが巻かれる渇いた小気味良い音。

 泡のようにはじけるノイズの音さえ好ましい。

 最初にスクリーンに映ったのは、天を穿つような急峻な山並み。

 そこからカメラが引いていくと、赤と青のおなじみのコスチュームに身を包んだキャプテン・アメージングの背中が目に入る。

 そこにかぶせるように大きなタイトル。


Captain Amazing : The Final Problem。


 ぼくの全身を鳥肌がつつんだ。これはキャプテン・アメージング幻の最後の一作だ!

 たくましい四肢を振り切って、われらのキャプテンは坂道を山頂へと登り出す。

 ぼくはあわててその背中を追った。キャプテンに置いていかれないように。

 キャプテンの足は速い。足元は小さな岩が散らばる悪路だ。ぼくの心臓は跳ね上がり、すぐに息が上がった。

 それでもぼくはあきらめない。キャプテンの背中を追いつづける。

 ふとかたわらを見ると、おなじように息を切らしながらマキさんが走っている。キャプテンの背中を見つめていた彼女が、ふとこちらを振り返り、目が合った。

 ぼくはためらうことなくマキさんの手を取り、ぼくの胸へと引き寄せる。

「ずっと好きだったんだ。このおれの心臓に掛けて」

 それはぼくがゆうべ3時間も悩んでノートに書き綴った告白のことばだった。

 マキさんがうなずき、ぼくらはキスを交わす。

 もうキャプテンの背中は見えない。それでもかまわない。キャプテンはいつまでも追いつけないからこそヒーローなのだ。

 ぼくは震える手で、彼女の左手に指輪をはめる。

 わっと歓声が沸いた。ぼくらの頭上に紙吹雪が舞う。

 結婚式場につめかけた仲間達がぼくを祝福してくれた。

 ナルセさんや、ツキシロ一家、ノナカくんやアマサワ神父、熊。みんなそこに居て、拍手をしてぼくらを祝福してくれた。

 やがて一年が過ぎ、ぼくらに赤ん坊が生まれる。

 娘はぼくの福音だった。ノリコと名づけたぼくらの娘はすくすくと育っていった。幼稚園、小学校、大学、やがて研究室を出て、大きな製薬会社に勤めた。

 ぼくとマキさんはすっかりと老いぼれて、海辺の街で余生をすごす。

 デッキチェアをふたつ並べて、ぼくはカモメの鳴き声を聞きながらマキに云う。

「ぼくを愛してるかい?」

 マキは顔の皺をすべてほころばせて微笑んで、そして。

 そして。

 ふいに渇いたリズムが途切れて、スクリーンは暗転する。

 ぼくは劇場の枡席の仕切りを両手でにぎりしめ、暗闇のなかで呆然としていた。

 いったいいま観たのはなんだったのだろう。考える余地もなく、ドアを叩く激しい音が耳をつらぬく。

 まだ映画は上映中らしい。ぼくの横顔を映写室からの光が照らしている。

 仲間たちは映画に夢中だ。枡席に座りこんだ影からはしわぶきひとつ聞こえない。

 また激しいノックの音が響く。ぼくは身を焦がしそうな怒りの衝動に突き動かされ、立ち上がる。

 自分に起きたことがまだ信じられなかった。ぼくは映画の途中で現実に引き下ろされたのだ。

 大股で通路を歩き、ドアを開ける。

 顔を強ばらせた小林さんの姿がそこにあった。

「ああ、ハジメくん」

 震える声で小林さんは云った。

「済まない。どうしても外せない用事で遅くなったんだ。頼む。中に入れてくれ」

「ムリだね」

 ぼくは云った。

「どんな馬鹿な考えを起こせば、もうフィルムが回っている映画館に途中から入れると思ったんだ。死ねよ」

「殺生なことを云わないでくれ。おれは映画を観たいんだ。頼む」

「何度も云わせるな。死ねよ、クソ野郎」

 目に大粒の涙を浮かべた小林は、ありえないという様子で弱々しく首を振った。背後から忍び寄ったヨルハが、背後からその首にワイヤーを掛ける。小林の顔はすぐに真っ赤に膨れあがり、首のワイヤーに手をかけようとむなしくもがいた。暴れる小林のからだをヨルハが引きずっていく。

 ぼくはドアを閉めて、その場に崩れ落ちた。

 いったい人は人生で何本の映画を観られるのだろう。映画館のまわりをむなしく彷徨う幽霊に落ちぶれ果てるまで、何本の。

 そのうちの一本を最後まで見通す権利を、ぼくは永久に失ったのだ。

 ぼくは虚しい気持ちに絶えきれず、振りかえる。

 正面のスクリーンには、ただ真っ白な光が反射しているだけだった。

 そこにはなにも映っていない。なにも。

 よろけながらぼくは自分の席に帰る。

 マキさんの顔を覗きこむと、彼女は目をつぶったまま、おだやかに微笑んでいた。

 ぼくは周囲をみまわす。

 仲間たちはみんな瞼を閉じていた。

 笑っている人もいる。泣いている人もいる。怒りに震えている人もいる。

 誰もが、瞼の裏に映る、自分だけの映画を堪能していた。

 びしょ濡れになった仔犬みたいな気分で、ぼくはその場をあとにする。

 ドアを開けると、ヨルハがすぐに駆け寄ってくる。

「コーヒーでも淹れましょうか?」

 やさしさに溢れたことばだった。ぼくは泣きそうになる。

「甘えていいかな。頼むよ」

「かしこまりました」

「小林の死体は?」

「処分しました」

 ぼくはヨルハの顔を見る。

「きみは泣いているね」

 ヨルハの白い頬に、流れるものがあった。

「悲しい映画ですね」

 ヨルハは涙を流しながら微笑む。

「わたしとアサハは、この映画を忘れられそうにありません」

「そうか……よかったね」

 ヨルハはすぐに紙コップに淹れたコーヒーを持ってきてくれた。ぼくはそれに口をつけず、ただ立ち上る湯気だけを見つめながら虚しい時を過ごした。

 やがてドアの向こうから万雷の拍手が聞こえてきた。鋭い口笛を鳴らしたのはニシノくんだろうか。てんでに席を立つ、にぎやかな気配。蹴破るような勢いで、最初にドアをくぐってきたのはナルセさんとムナカタさんだった。ふたりとも泣きじゃくりながら、がっしりと肩を組み合っている。

「やられたよ。参った、降参だ。満点だよ。まさかキャプテン・アメージングの48本目がくるなんて思わないよ。あのクリフハンガーはないよな。鳥肌が止まらないよ。キャサリンどうなっちまうんだろうな……」

 ムナカタさんが泣き声でそう云った。

「やっと巡り会えた。オルフェウス殺しに。連れて帰れなかったけれど……娘の手をたしかにつかんだんだ。ほら、このてのひらにまだ感触が残ってる……」

 ナルセさんは泣きじゃくりながらそう云った。そのままふたりは仲良く肩を組みながら、劇場の外へと出て行った。

 ロビーはにぎやかになった。笑ったり、泣いたりしながらみんな自分の観た映画の余韻を楽しんでいる。どんな映画が上映されたのであれ、今夜の上映会は大成功らしかった。

 ふと気がつくと、ぼくの視界の真ん中に、マキさんが立っていた。マキさんはぼくの姿に気づいて、にっこりと微笑んでくれた。

「楽しい映画だったね。外に出ようか」

 マキさんにつづいて映画館をあとにする。雨はすっかり上がっていて、濡れたコンクリートを提灯の灯りが照らしていた。

 ちいさく声を出しながら、マキさんは伸びをする。

「やっぱり映画って最高だね。やみつきになりそう……もうなってるか」

 そう云って、マキさんは明るく笑う。おぼろげな灯りに照らされたマキさんの顔は美しかった。

「マキさん、ずっと好きでした」

 ぼくは云った。

 マキさんはたちまち顔を曇らせた。

「そうか……ごめん。どこかで期待させるようなこと、態度にみせるか云ったかしたんだね、わたし」

 マキさんは云った。

「わたし、もう好きな人がいる。いま一緒に暮らしてる」

 ぼくはむりやりに微笑んでみせた。

「そうですか。でも、よかったです。やっと告白できました」

「ほんとにごめんね……」

「いいんです。玉砕覚悟でしたから」

「たぶんね……たぶんだけど、ハジメくんは本当のわたしを知らない。幻のわたしを愛したんだと思うよ」

「みんなそうですよ」

 ぼくは声に出して笑う。

 鳥が大空を飛ぶように、魚が海を泳ぐように、自然というものがそうであるように。

 ぼくらはみんな、自分の瞼の裏側に映った幻しか愛せない。

「また一緒に、映画を観てくれる?」

「思ったよりキッツイですね、マキさんって」

「ほら、あなた幻しか見てないから」

「返事はもちろんオーケーですよ。映画を観ることをやめられるわけがないじゃないですか」

 暗闇のどこか遠くに、朝日の気配を感じる。じきに夜は明けるだろう。そうしてぼくらは森が風をはらむように、ごく当たり前に呼吸して、食べて、生きていく。

 太陽のそのまた裏側に、次の映画が待っている。

 ぼくらは映画を観ることを止められない。



(了)


 

 


 





 




 


 




 


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映画を観に行く。 はまりー @hamari_sugino

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