人の気持ち(1)

「そのとおりです… やったのは私です…」

 テレビの中で、一人の中年男性が急に涙を流しながら自分の罪を告白し始めた。

 七月末。学期末の試験もレポートもすべて片を付け、名実ともに夏休みに入ってから二週間近くが経つ。世間では、先週から近くの主要な海岸での海開きが次々宣言され、先週の金曜日には毎年恒例の大規模ロックバンドフェスティバルが行われたことが報じられ、様々な場所で花火大会が行われ始めるなど、夏本番といった様子だが、僕自身はこの二週間、特に何かしたわけではない。

 実家暮らしの僕は、今日も、自分以外の家族が出かける中、冷房のきいたリビングでソファの上に横になりながら、平日昼間特有のよく分からんサスペンスドラマを一人で見ていた。休みに入ってから毎日大体こんな感じである。

 しかし、テレビをつけたらやっていたので何とはなしに見ているドラマだが、実際自身の罪を目の前で暴かれたからといって、泣きながら自白する犯人などいるのだろうか。

 いるとは思えない。しかし、あまり自信が持てなかった。

 

 これは、他人の心情に関する問題だ。

 この数カ月、紆余曲折あり、いくつかの、少し変わった人々の行動について、その原因を考えた結果、そこそこ的を射た結論に達してきたことは認めてもいいだろう。

 一方で、『では、その人は、その時、どんな気持ちだったのですか?』という問いに関しては、同様に納得のいく答えを得られた、とは言えない。

 確かに、僕は他人のことに対する興味は人より薄いかもしれないが、他人を理解する能力が欠けているとは思っていなかった。

 つまり、『普段は意識していないけれど、しかるべき時には、きちんと他人の気持ちを理解し、しかるべき対応もとれる』と思っていたのだ。数カ月前までは。

 最初は、単純に経験がないことだから分かるはずもないというだけだ、と考えていた。

 自分は交際相手がいたこともないし、ましてや子供をもったこともない。カレシカノジョの気持ちや子を持つ親の心情など想像できなくても無理はない。

 しかし、先日は違った。桜井が突如投げかけてきた、一人の子供の行動についての問い。

 子供というのは誰しもが一度は体験するものだ。そして、その独特の環境もである。

 結果として僕は、あの子の心境まで考えが及ばなかった。

 そして、桜井は、さも僕がそうなるだろうと予期していたような話し方をしたのである。

 『やっぱりお前は分からないよな』と言われたような気がしたのだ。

 今までの人生で、特に人の気持ちを理解する能力を重要視してきたわけでは決してない。

 しかし、あの日以降、鬱々とした日々が続いている。

 思い返していたらまた気分が落ち込んできた。ドラマを見る気力すら失い、リモコンでテレビの電源を落とす。まあ、タネの部分はもう聞いたので、特に未練もない。

 ケータイで時間を確認すると、一時手前であった。同時に、何やらメッセージが届いているのに気づく。西島からである。

『大至急来てくれ!』

 約束をしていたわけでもないし、大至急呼ばれる理由に見当はつかなかった。

 しかしまあ、いい気分転換になるかもしれない。


***


 指定された、大学近くの喫茶店に着くころには二時を回っていた。最も暑い時間帯である。

 入口の扉を開け中に入ると、適度に冷やされた空気が体を包んだ。奥の二人席で天然パーマの男、西島が手を振っているのが見えたので、案内に来た店員に待ち合わせであることを伝え、席に向かう。

「いやあ。悪いね。」

「別に。暇だったからな。」

 軽い挨拶を済ませ、席に着いたのち、西島がメニューを渡してきた。

 食べ物を頼むつもりはなかったが、受け取って初めて今日まだ昼飯を食べていないことに気づく。ドリンクとともにランチメニューの方にも軽く目を通し、近くの店員を呼んでナポリタンとアイスコーヒーを頼んだ。

 店員が去ってから西島が再び口を開く。

「ご飯食べるの?」

「昼飯まだだったんだよ。」

「それは…重ねて悪いね。」

「いや、別にいいよ。」

 そして、沈黙。少しして頼んだアイスコーヒーが運ばれてくる。

 しかし、店員が去った後も西島は口を開く気配がない。

 なんだ。こっちから聞かないといけないのか?

 軽くため息がこぼれる。

「それで、結局何の用なんだ? 大至急呼び出される理由に全く心当たりがないんだが。」

 連絡を返しても、伝えられたのは『話したいことがある』ということと、待ち合わせの場所と時間だけだった。

「そうそう。それなんだけどね。」

 そうそうじゃねえよ。思わず口から出そうになった。

「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。」

「回りくどいな。具体的になんだよ。」

「なくなった物を一緒に探してほしいんだ。」

 帰りたくなってきた。この暑い中、大学まで呼び出されて落とし物探しとは。

「いや、これにはいろいろ事情があるんだよ聞いてよ。」

 そんなに表情に出ていたのだろうか、顔を見ただけで西島が慌てて説明を加えてきた。

 色々ある事情を要約するとこうである。


 まず、紛失した物というのは、革のパスケースらしい。

 これは、カノジョから、付き合って三か月記念、として先々週プレゼントされたものらしい。

 付き合って三か月記念という文化を受け入れられるかはともかくとして、確かに四月に本郷の家に集まった時、西島からそのような話が出た気がする。

 そして、そのお相手というのは意外にも僕の知っている人物であった。

 名前を、泉 彩という。同じサークルに所属する先輩、泉 大輔の妹であり、彼女自身も我らがサークルに所属している。

 僕自身合同で作業する機会があまりなく、内面を詳しく知っているわけではないのだが、小柄な背丈、肩より下まで伸ばされた緩くカールした髪、たれ目の外見、ゆったりとした仕草から単純に、おっとりマイペース、といった印象を持っている。

 要するに、二週間前の記念日にプレゼントした物を先週中に紛失したことが彼女に発覚し、大激怒させてしまったということなのだ。

 僕には、おっとり系の泉が大激怒する様子は想像がつかなかったが、西島が詳しく説明してくれた。

 なんでも紛失を伝えると、謝る間もなく、すごい剣幕で、今までに言われたことがないような言葉で責められた上に、今にも蹴りかかってきそうな勢いで詰め寄ってきて、実際尻を蹴られた、らしい。

 結局その日はそのまま怒って帰ってしまい、その後もそんな調子が続いているそうだ。

 つまり、早く紛失物を見つけないと関係が危うい、というその事情自体は分からんでもない。

 しかし、それなら僕に事情の説明なんかしてないで早く探しに行け、と言いたい。

 別に僕は、においから探し物を見つけ出すといった類の特技を持ってはいない。

 ところが、警察犬の代わりをしろと言われた方がまだよかったかもしれない。熱が入ってきた西島は思いもよらなかったことを言い出した。

「俺が思うに、誰かに盗まれたんだと思うんだ。」

「いや待て冷静になれ。」

 話を聞く様子がない。とりあえず聞いてみることにした。

 西島の主張はこうである。

 パスケースは以前から使っていたものがあったため、プレゼントされたものは実際には使用しておらず、何も入っていなかったが、お守りとして毎日カバンの中に入れて持ち運んでいたし、毎日あるかどうか確認もしていた。

 そのため、紛失した日付も分かっているのだが、紛失したとされるその日、外出する前には持っていることを確認しており、一度もカバンから出していないのにも関わらず、外出から帰ってきたらなくなっていたという。

 カバンに入っていたパスケースのみを過失で紛失する状況は考えづらい。

 つまり、誰かが意図的にパスケースをカバンから抜き取ったのであろう、と。

 なるほど。そう考えたくなる気持ちは分かる。

 一般的に人というのは、自身に全く心当たりがない落とし物というのは他人のせいにしたがる。

 しかしながら、大体の場合は『盗まれたー』とか『持って行っただろ!』とか騒いだ挙句に本人がポッカリ忘れ去っていた記憶・場所からぽろっと見つかるものなのだ。

 第一、カバンからパスケースのみが紛失するのが考えられないというなら、カバンからパスケースのみが盗まれる状況だって同じくらい考えられない。

「パスケースはどこに入れてたんだ。」

 ここだよ、と言いながら西島が指したのは、持ってきていたショルダーバッグの外側についているポケットである。ファスナーを開けて中も見せてきたが、今は小銭入れと思しき手のひらサイズの小さなポーチしか入っていない。

「それ、小銭入れだろ。小銭入れが無事で何も入ってないパスケースだけ盗られるってことはないんじゃないか。」

「確かに、俺もそれはそう思う。」

 意外にも、まともな判断が返ってきて驚く。しかし、その後が良くなかった。

「だから、金銭目的じゃないと思う。」

「じゃあ、その他の何が目的なんだよ。」

「プレゼントを盗むこと自体が目的だったんじゃないかな。」

「正気か?」

 つい思ったことをそのまま言ってしまった。

「実は、あの日、先週の土曜日に会った人の中で、俺が彼女からプレゼントをもらったことも、それがどこにあるか、も知ってた人が二人だけいる。本郷と泉先輩だ。

今日お前を呼んだのは、その二人に怪しいところがないかを調べてほしいんだよ。お前、そういうの得意そうだから。」

理解した。こいつは完全に正常な判断力を欠いている。

アイスコーヒーを半分ほどの飲み干して少し間をとった後、

「分かった。とりあえず話を聞こう。」

と返答した。こいつを説得するよりもその二人の潔白を証明した方が早いと判断したのだ。

 西島の顔がぱっと明るくなり、感謝の言葉が伝えられる。

 自分の判断は正常だと信じたい。


 ちょうど頼んでいたナポリタンが来たので、詳細はナポリタンを食べながら聞くことにした。

「まず、泉先輩とは、大学近くの店で昼飯を一緒に食べる約束をしてたんだ。

泉先輩とは彼女と付き合う前も結構仲良くさせてもらってたけど、付き合うようになってからの方が先輩との付き合いは深くなったかな。」

 ふんふん、とナポリタンをすすりながら、聞いているという反応だけは返す。

「以前からプレゼントの話もしてたから、パスケースの場所は知っていたはず。途中、トイレで席を立ったから、その時に盗ることは、原理的には可能だったはずだ。」

「動機は。何か思いつくことはあるのか。」

「それは知らない。盗ることは可能だろうという話だよ。」

「…じゃあ、他に不審なところはあったのか。」

「それは、特には思いつかないんだよね。普通に世間話をしながら飯を食って、店の外で別れた。」

 全然情報がないじゃないか。それで人を疑うなよ。とは言わない。

 今の西島にあまり強く正論をぶつけても意味がないことはもう分かった。

「さすがに、それだけの情報じゃあ怪しいかどうか何も判断できないぞ。」

 なので、少しマイルドにして伝えてみた。

「だから、お前からも探りを入れてほしいんだよ。『調べてほしい』って言っただろ。」

「…」

 話を聞いて判断するだけだと思っていた。

まあ、そこまで引き受けるかどうかは別として最後まで聞くか。

「それで、本郷の方は?」

「本郷には、四月以降ちょこちょこ彼女がらみで相談に乗ってもらってたんだ。

泉先輩と別れた後に気まぐれで連絡したら、お互いに学期末の試験とかで忙しかったし久々に会って話しようってことになって、一緒に晩飯を食べる約束をした。」

「それで、本郷もパスケースがどこにしまっているか知っていたし、自分が何かの拍子に席を立ったことも食事中一度くらいはあったから本郷にも原理的には可能、とかいうんじゃないだろうな。」

「その通り。」

「それで、本郷にも怪しいところはなかったと。」

「うん。同じように楽しく話をしながら飯を食って別れた。」

「そして、家に帰って確認したらパスケースがなくなっていたと。」

「うん。」

 はあ。自然とため息が出てしまう。これで疑われる本郷と泉さんの気持ちにもなってほしい。自分の皿を見るとナポリタンはもうほとんどなくなっていた。昼飯にしては量が少ないな。

 少し考えてみる。正直乗り気はしない。『やっていないこと』の証明は結構難しいのだ。

しかし、友人と先輩がしょうもないことで疑われているのを放っておくのも気分がよくない。少し気になることもあるし。

「話は分かった。だが、情報が少なすぎて何とも言えない。

 僕の方でも少し二人に話を聞いてみよう。」


 話もまとまりナポリタンも食べ終わったので、店を出ようと、伝票を手に取って見る。

 僕がナポリタン・アイスコーヒーの二品で千五百円弱、西島はアイスコーヒーのみで五百円弱であった。

 とりあえず僕がまとめて払うことにして、西島に先に出てもらう。

 店から出ると、外で待っていた西島が小銭入れからアイスコーヒー分の料金を出し、僕に渡してきた。

 日はまだまだ落ちてはいないが、暑さはマシになった気がする。

 別れの間際、

「今日は来てくれて、あと、引き受けてくれてありがとう。」

「ああ。僕も調べてみるけど、お前も何か思い出したことがあったら教えてくれよ。」

と、言葉を交わす。

 西島がそのあと言葉を返すことはなく、少々手を振るのみであった。

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