子供の世界(1)

 六月。梅雨。特に祝日もなく、大学へ行って帰って家でだらけて、時たま一日だらける、を繰り返していた。まあ祝日があったからといって、何かしたかといえば、何もしない気がするが。

 ケータイに、ある一本の連絡が入った時も、自室のベッドに寝転んでだらけていた時であった。

『先輩。今週末空いていますか?』

 相手は、一つ年下の後輩である。そして女。

 しかし、僕は特に心を乱すこともない。それは、僕が他人に興味がないからでも、経験豊富だからでもなく、過去に似たようなことが何度かあったからである。

 あまり考えることなく、返信を送った。

『空いてる』


 僕の所属しているサークルは、端的に言えば、『サイエンスコミュニケーション』とやらを行っている。と言っても、初対面の人間に、これできちんと伝わることはほとんどない。

 サイエンスコミュニケーション、とネットで検索すると、『非専門家に対して科学的なトピックを伝えることを指す』と出るが、弊サークルの活動を、もっと簡単で具体的に言うと、依頼を受けて、最近テレビ番組や動画サイトなどでも見受けられるような少し大掛かりな科学実験を子供などの前で見せるのだ。

先ほどの『非専門家』というのは別に子供に限らないが、実際のところ、サークルに届く依頼は、小学校や幼稚園に来ていただいてテレビでやっていたような実験を見せてほしい。といったものがほとんどである。

 「コミュニケーション」とついている以上、そのときのトピックに関する意見や質問などを通じて双方向的に行うのが本来らしいが、子供相手にそれを行うのは難しく、たいていは見せて、喜ばせて、終わりになる。

 と、大体ここまで説明すると、初対面の人間には、そういう活動をしている団体に所属しているなんて意外だ、といったようなことを伝えられる。

 特に否定はしない。子供の相手は正直苦手である。彼らの言動は、傍から見ている分には微笑ましてくもあり大変結構だが、相手をするとなると予測不能で始末が負えない。

 ではなぜ入ったのかといわれると、返答に困る。

 最初はあまり活動内容を把握しておらず、なんとなしに入って辞めるのも面倒だからそのままというのが、考え得る限りで最も適切かもしれない。

 まあ、そんなどうでもいいことは置いておこう。

 話を戻すと、弊サークルに来る依頼を完遂するために動くのはもちろん、弊サークルに所属する大学生であり、大学生も基本的には平日は大学へ通っている。

 必然、引き受けられる依頼も休日開催のものが多くなる。

 つまり、先ほどの連絡は、サークルの後輩からの休日出動要請なのだ。


 弊サークルでは依頼を引き受ける時に、担当者を一人決める。

 決まった担当者は以後、依頼先とのやり取りを行い、実施日程や内容などの細部を詰める。内容が決まると当日必要な人員も決定し、その人員の募集も担当者自ら行う。

 慣例として、最初はメーリングリストを通じてサークルに所属している者全員に募集の連絡を流すが、それで十分な人数が集まらない場合は対個人の交渉術に頼ることになる。

 連絡を寄こした後輩、神田きらら、は現在のサークル中心メンバーの一人らしく、担当者もよく引き受けているらしい。今回も、神田がある依頼の担当者になって人員を募集していることは、メーリングリストに流れてきたメッセージから知っていた。

しかし、募集人員が不足しているからといって僕を誘うのは、今では神田くらいなものである。

 というのも、一般的に就職活動や学科の授業で忙しくなり、サークルから離れがちになる三年生以前から、メーリングリストに流れてくる各依頼に自分からはほとんど参加しようとしてこなかった僕は、後輩も含めた他のサークルメンバーと比較しても明らかに依頼への参加回数が少なく、はっきり言って経験不足であまり戦力にならないのだ。

 しかし、神田に関しては、僕が大学二年の頃たまたま担当者になった(というか押し付けられた)依頼が神田の初めて参加する依頼だったことが関係しているのか、時たま僕のところに連絡を寄こす。

 まあ神田にしても、こんな僕を好き好んで参加メンバーに入れたいと思うわけもなく、連絡を寄こすのは本当に人が集まらずに困っているときだ、ということが過去の経験上分かっているので、連絡が来たときはなるべく断らないようにしている。


***


 梅雨時に珍しく、当日は晴れであった。まあ会場は屋内なので関係ないが。

 週末の日曜日の正午前、神田に集合場所と指定された、会場となる小学校の最寄り駅に着くと、すでに他の参加メンバーが一人待っていた。

 小柄で童顔な外見に、不機嫌そうな表情、桜井である。

 僕の姿に気づくと、少し驚いたような表情に変わる。近寄って行って隣に並ぶや否や

「珍しいな。」

と声をかけてきた。どうやら僕が参加することを知らなかったようだ。

「まあ、暇だったしな。」

ちなみに僕は桜井が参加することを知っていた。新しく入った一年生のことを全く知らないので、誰が参加するか事前に神田に確認していたのである。

比較的小規模の依頼であったため、参加人数は神田と僕を含め四人と少なく、幸いにして、残りの二人も知っている人間であった。

「本郷の代わりがお前なのは不安だがな。」

「本郷の代わり?」

 これは知らない。

「ああ、もともと参加するメンバーは一カ月前には決まってたんだが、参加するはずだった本郷が二週間くらい前に彼女との約束が入ったとかで抜けやがったんだよ。」

 なるほど、と相槌をうつ。実際ありそうなことだ。四月の仲違いが解消し、本郷はさらに彼女にべったりになったらしい。なんでも、土日はほとんど彼女と過ごしているとか。

「まあ、足を引っ張らない程度には頑張る。」

 本郷の代わりが僕というのが不安なのは、僕だってそうである。

本郷や目の前の桜井、そして西島も、忙しさゆえにサークルから離れがちな三年生となった今でも、結構サークルの活動に参加しているらしい。

 三年生以前も積極的に活動に参加していた本郷に比べれば、僕の経験なんてあってないようなものだろう。

 話題がひと段落し、桜井との間に沈黙が下りる。

 そういえば、この前、桜井に言おうと思っていたことがあったような気がしたのだが。

 しかし、それが何かを思い出す前に、待っていた二人が改札口を通過するのが見えた。どうやら二人とも同じ電車に乗っていたらしい。

 一人は、女で、背丈は女としても少し小柄、髪の色は黒で、肩にかからないくらいのショートヘアの人物、つまり、この依頼の担当者である神田である。女物の小さなバッグとは別に、サークルで荷物を運ぶのによく使われている、エコバッグのようなものを手に持っている。もう一人は、男で、背丈は男の中でも高い部類、こちらは、現在大学四年生のサークルの先輩、泉 大輔である。

 二人が僕らのところに駆け寄ってくると、神田は

「今日はお集まりいただきありがとうございます。」

と表面上の謝辞を述べた後、

「じゃあ、まず、お昼ご飯を食べますか!」

と屈託のない笑顔で提案した。全会一致であった。


***


 僕らは駅近くのファミレスの四人席に腰かけていた。右に桜井、正面に泉さん、右前に神田が座っている。

会話は基本的に神田が話したいことを話して、それに対して他の三人が受け答えする形で進んでいる。僕としては非常に楽でよい。

 神田は、感情表現が豊かで、何事も積極的に参加し、人にも積極的に話しかける、いわゆる活発な性格というやつで、僕とは対極といってもいいと思う。特に、人との心理的距離を詰めるのが恐ろしく早く、この世の最も苦手な人間の一人だと考えていた。しかし、こちらが下がれば、その分を無理やり詰めてくることはないことが分かったので、今では最初ほどの苦手意識はない。

 その神田の話を、三人の中で一番真摯に聞いているのが泉さんである。

 泉さんは、僕と同じ学科に所属しており、同サークル同学科と共通点が多い一方で、実はあまり直接関わりを持つことは多くなかった。傍から見ている印象では、まじめでおだやか、といった感じだ。四年生になってもサークルの活動に参加していることからも分かるように、活動の経験は豊富で、特に二年生まではサークルの活動に積極的に関わっていた一人であった。一つ下、つまり僕と同じ代に妹がおり、その子も同じサークルに所属している。

「そういえば、泉さん、色々大丈夫なんですか?」

 神田の質問だ。抽象的すぎる。すぐさま桜井が返す。

「色々ってなんだよ。」

「色々は、色々ですよ。」

 全く新しい情報がない。

色々、というのはおそらく就職活動や大学院入試や卒業論文を含んだ諸々のことだろうが、これは伝わらなくても仕方がないだろう。しかし、泉さんはきちんと意図を汲んでくれた。

「ああ、卒論は七月末に中間発表があるけど、今はまだそんなに切羽詰まってないかなあ。あと、就活はもう終わって内定が出てるから、心配しないで。」

「え、就職するんですか?」

 これは僕にとっては意外であった。僕が所属する学科は大学院進学率が結構高く、学部四年で就職する人の方が少ないほどであるのだ。

 他の二人の方を見ると、さして驚いた様子はない。泉さんが就職活動を行っていたこと自体はすでに知っていたようだ。これが、活動に参加している人間としていない人間の情報の差である。

 代わりに、おめでとうございます、であったり、どこに行くんですか、といった言葉が述べられていく。

少し疎外感を感じていると、注文していた昼食が次々と立て続けに届きだした。


 その話題になったのは、全員が昼食をほとんど食べ終わろうとしていたときだったと思う。

「そういえば、小田さん、最近冴えてるらしいですね。」

 今、思い出したといった表情で神田が発した、この台詞について、正直はじめはぴんと来ていなかった。

「何のことだ?」

 僕がいぶかしんでいる一方で、桜井や泉さんは薄く笑いを浮かべており、(両者の性質は全く異なっていたが。)ああ、そのことね、といった雰囲気である。

「あれですよ。あれ。おこめ激怒事件ですよ!」

 意識せず渋い顔になっているのに気づいた。

 そんな事件は知らん、と言いたいところだが、心当たりはあった。しかし解せない。

 ちらと右を見てから、神田に尋ねる。

「誰から聞いたんだ?」

「西島さんです。」

 あのやろう。

「ほかにも聞いてるよ。先生の遅刻のこととか。」

 あんのやろう。

「適当に話を作ったらたまたま当たったんですよ。」

 広まってしまったのはもうどうしようもないので、話を矮小化しようと試みる。実際、偶然の要素も大きかったのに、さも名推理!というようにもてはやされるのは気分がよくないのだ。

 しかし、他の三人はあまり僕自身の感想を考慮する気はないようであった。

「いやいや、謙遜しなくても」

と、泉さんは後輩を立て、

「先輩にこんな特技があるなんて知りませんでしたよ!」

と、神田ははしゃいで聞く耳を持たない。

 極め付きは、

「俺も知らなかったなあ。」

と、桜井が楽しそうな笑みを浮かべて神田の言に乗っかった挙句、箸で僕を指しながら、

「小田は、観察力は、あるんだよな。」

と、一部助詞を若干強調しつつ宣ったのだ。そのフレーズはお気に入りらしい。

 会話を続ける意思を完全に失ってしまった。せめてもの抵抗に、大げさにため息をつく。

結局、泉さんは違うかもしれないが、少なくとも桜井と神田は面白ければ何でもよいのだ。何を言っても無駄であろう。

 桜井の発言で、先ほど桜井に言おうと思っていたことが何だったのか思い出したが、それを伝える気力もすでになかった。

 ケータイで時間を確認すると、依頼先への到着予定時刻の三十分前である。

 コミュニケーションへの活力を失った僕は、先日の件に関して質問したがっている神田に対して現在の時間を伝え、ファミレスからの撤退を提案した。


***


 徒歩で移動する道中、この前の二つの出来事に関する神田からの質問を適当に流し、依頼先の小学校に到着したのは、到着予定時刻であった午後一時半の少し前であった。

 校門の前には依頼主の教員と思われる女性が立っており、神田とあいさつを交わした後、神田を先頭にして校内へ案内される。

 来客用のスリッパをはいた後、まず最初に事務室に通された。

 聞けば、来客は来客用の名簿に名前を記入して記録を残しておかなければいけないらしい。

 紙が挟まったボードと鉛筆を泉さんから受け取り、前に書かれた泉さんと神田のものに従って名前や来校目的などの欄を埋めた後、桜井に回した。

「あ!」

という驚いた声が神田から発せられたのは、桜井にボード等を回してすぐであった。

「桜井さんって左利きなんですね。」

「…まあな。」

 見ると、確かに桜井が左で鉛筆をもって文字を書いている。僕も初めて気が付いた。しかし、反応の大きさと事象の珍しさが釣り合っていないのではないか。

「すみません…。わたし、左利きの人が文字を書く動きが不思議で、見るといっつも反応しちゃうんです。」

 少し照れ臭そうに言うあたり、自分でもリアクションが過剰だとは思っているようだ。まあ、何を不思議と思うかは人それぞれだろう。

 それにしても、神田の過剰な反応よりも、桜井の苦笑いが目についた。


 事務手続きを終えて、一行は依頼の開催場所である、体育館に通された。

 子供の姿はまだない。開始時刻は午後二時であり、三十分早く現場入りしたのは準備を行うためである。しかし、準備と言っても今回は大したものはなかった。

 依頼内容は大体二種類に分類できる。一つは、見栄えの良い大掛かりな実験を子供たちの前で行う舞台形式のもの。もう一方は、自由研究の題材になりそうな科学的な工作を子供たちと一緒に行っていく工作教室形式のもの。

 今回は後者の依頼であり、一人分の材料などが入っている工作キットが、神田の手によって予備も含めた個数分あらかじめ袋で分けられているとのこと。子供の参加人数自体もそれほど多くはない。

 準備という準備は、あらかじめ学校側で体育館内に用意されていた、おそらく学校行事等で使うのであろう五人掛けくらいの長机を横に二つ、縦に四つの計八つ並べ、机一つにつき、こちらも学校の備品のパイプ椅子を三つずつ並べた後、机の上に工作キットを三つずつ、こちらはサークルの備品の両面テープを数個ずつおいていくくらいであった。

 しかし、この作業も僕ら四人と女性教員の五人で行い、十分も経たない内に終える。

 その後、今回の依頼の流れの確認を行ったが、こちらもすぐに終了した。

 キットには作り方を記した紙も入っており、基本的には自分でできるようになっている。

 そのため流れといっても、最初、神田が前で全体に対して自己紹介や今回行う工作の概要、注意などを話した後、各自作業に移ってもらい、終わった子から体育館内の少し離れたスペースで完成品を実際に遊んでもらう、といった程度のもので、僕らの主な仕事は、机縦に二つ分を担当のブロックとして担当内の子供の中で、うまく作れていない子などをフォローするだけである。担当は、神田が机左前二列分、泉さんが左後ろ二列、僕が右前二列、桜井が右後ろ二列となった。

 実際、今回行う工作はそれほど難しい作業もなく、僕自身過去に経験があるものであったため、それほど不安なく臨める。

 流れや注意事項の確認が終わると、体育館入り口に一組の親子、母親と男の子が待っているのが見えた。

 どうやら、明らかに準備中の僕らを見て、入るのをためらっていたようだ。

 神田が、荷物から紙、おそらく参加者名簿だろう、を取り出し、親子に声をかける。

 母親と二言三言言葉を交わした後、紙にチェックを入れ、そのまま男の子をパイプ椅子の適当な席に誘導する。時間を確認すると、開始十分前であった。

 そこからは、一気に参加者が来た。最初の一組と同様、神田がチェックをつけ、他の男三人もしくは女性教員の誰かが、子供を空いている席に誘導する。

 今日参加する子供は一番大きくても小学二年生、そして下は、会場は小学校であるのだが、小学一年生以下の子供もいるらしい。

 そして、それくらいの子供が全員、十分程度の間、椅子に座ってじっと待っていられるかといえば、そうではないだろう。

 中には、元気なお子様もいらっしゃり、体育館を走り回っている。

 なぜ持ってきているのか分からないが、柔らかいプラスチックのボールでキャッチボールを行っているグループもあった。

 まあ、まだ開始時間までは数分ある。好きなように過ごせばよい、と僕や僕以外の面々も特に注意することなく、新しく来た子供の誘導を続けた。僕は誘導している最中、椅子に座って待っている子の中に、キャッチボールしているグループを見つめる男の子がいるのに気づいた。

 開始時間になり、神田が、

「はじめるよー」

と声をかける。後ろで見物している保護者の皆様からも、早く座りなさい、などのご支援をいただき、参加する子供全員が席に着いたところで、神田が前で説明を始めた。

 最初に、弊サークルの紹介を簡単に行い、次に今日行う工作について説明する。

 今日作るものは、自然界に存在する、あるタイプの種の模型である。

 神田が、手に持っている、木の玉から細長い紙が生えたようなもの、これが今回の完成品であるが、を真上に放り投げると、落下する時、木の玉を下にして紙の部分がくるくる回りながらゆっくりと高度を下げていく。

 回り始めたときは、子供から、おお、や、すげーと驚きの声があがり、保護者の方からも、おお、と少し感心した声があがった。

 神田は、床に落ちたそれを拾い上げてから、

「今日はこれを作ります!」

と、得意顔で宣言した。子供の心はがっちりつかんだようであった。

 口頭で簡単に作り方を伝え、手元の袋にも作り方が書いてあることを伝えた後、

「じゃあ、いよいよ作っていきますが、その前にみんなに、はさみを配ります。お箸を持つ方の手を挙げて、もらった人は下げてください。」

と告げると、子供たちの手がパラパラと挙がり、それに伴って、各メンバーが担当内の子供たちにはさみを配り始める。

 はさみを全員に配り終えると、再び神田が前に立ち、

「それでは、袋を開いて、始めましょう!」

と作業開始の号令を出した。

 子供たちが一斉に袋を開ける。ここからは、基本的に自分のペースで進めてもらうことになる。

 一応、僕は彼らの補佐をすることが仕事ではあるが、作業は実に簡単で、紙に印刷された羽のパーツを二枚はさみで切り取り、作り方に書いて通りに点線で印のついた箇所を折ったり、羽全体を少し逸らせたりして形を整えた後、両面テープを使って、その二枚の羽のパーツを木の玉の左右に対称的に張り付けるだけである。

 間には、羽に好きな絵や模様を描いたり、シールを貼ったりして装飾する段階もあるのだが、原理にかかわってくるのはこれだけだ。

 僕の担当の子たちを見ても、一人、やたらと丁寧に羽のパーツを切り取ろうとするあまり、他の子と比べて進みが遅くなっている女の子はいるが、作業が詰まっている子はいなさそうである。

 十分程度経つと、ほとんどの子が完成させ、別に設けられた体験スペースで遊んでいた。こちらは先ほどの女性教員が見てくれている。

 そして、遅れること数分、僕の担当の最後の子、やたらと丁寧に作業を進めていた子も完成間近であった。何とはなしに他のブロックを見てみると、神田と泉さんのところは全員がすでに終了し、二人は子供たちと一緒に体験スペースの方に移動していた。

 一方で、桜井のところは僕と同じく一人、男の子がまだ作業を続けていた。見れば先ほど、キャッチボールに視線が釘付けであった子だ。桜井が男の子の正面に膝をついているので、桜井の後ろ姿で実際に作業が行われている男の子の手元は見えないが、男の子の表情を見るに、僕のところと異なり、作業は難航しているようである。

 桜井や男の子の方に気を取られていると、正面から自分を呼ぶ声が聞こえた。

 見ると、女の子がついに工作を完成させたようである。僕はその子のかけた手間に対する称賛を口にした。

 その子が、一緒に体験スペースに行こう! と促してきたので、彼らのことは少し気になったが、僕は一緒に体験スペースの方に移動することにした。移動する直前、もう一回最初からやってみよう、という桜井の声が背中越しに聞こえた。

 それからさらに数分後、桜井と男の子が体験スペースの方に姿を見せた。そのことに僕は少し驚きを感じていた。

 男の子が持っている完成品を見ると、何の装飾も施されていないシンプルなものだ。確かに、この工作は簡単なので、装飾をしなければ、早い子では五分足らずで完成させてしまう。

 しかし、今まで、その簡単な工作に手こずっていた子がそれほど早く作業できるだろうか。

 そのまま、二人を視線で追っていると、男の子は桜井と離れ、先ほどキャッチボールしていた集団の中に入り一緒に遊び始めた。

 男の子は左の腕を大きく回して完成品を高く放り投げた。

 そのあとは特に何かが起こることもなく、三十分の工作教室は無事終了した。


 参加者が全員帰った後、僕らは後始末に追われていた。いや、追われてはいない。準備が簡単なものなら大体は後始末も簡単、という単純な発想がおおむね正しい範囲の大変さだ。

 準備の時とは反対に机や椅子を所定の場所に戻していく。僕と桜井が体育館から少し離れたところにある倉庫の入り口に机や椅子を運び、泉さんが倉庫の中に入ってそれらを指示されたとおりに並べる、という役割分担で片付けを進めていく。

 片付けの途中、そばに桜井が来たときに先ほどから気になっていたことを聞いてみた。

「そういや、お前、最後のあの子の工作手伝ったのか?」

 単純に考えれば早く完成したのは、他の人間が手伝ったからだ。そして、僕らが手伝うのは、別に禁じられちゃいないが、若干反則気味だ。子供によっては不満を持つ場合もある。

 桜井は眉をひそめた。

「最後の子っていうのは、俺のところで最後まで残ってた男子のことか? そもそもなんでお前がそんなこと聞くんだよ。」

 もっともな疑問だ。

「いや、僕のところの最後の子が終わった時、残っているのは全体でもその男の子しかいなくて、僕が担当最後の子と一緒に体験スペースの方に向かおうとしたら、お前が『もう一回最初からやろう』というようなことを言ったのが、聞こえたんだよ。でもそれから数分でお前らが体験スペースの方に来たから、お前が手伝ったのかと思ったんだが。」

 言い終えてから、これは、『どうやって、その子のことを知って、その質問をするような考えに至ったか』に対する答えであって、『なぜそれを知りたいのか』に対する答えにはなってないな、と気づいたが、桜井は、それを指摘することはなく、左手をあごに添え、ふうん、と何かを考えるそぶりを見せた。

 数秒経ち、桜井から次に告げられたことは、

「いや、確かにやり直しはしたが、俺は手伝ってないな。全行程あいつが作業した。」

という、最初の僕の質問への答えであった。当然僕は続けて聞く。

「じゃあ、なんであんなに早く作業できたんだ? それとも、最後まで残ってたのは、作業がうまくできなかったからじゃないのか?」

 これに対する答えも返ってくるだろうという僕の期待は裏切られた。

「当ててみろよ。お前、観察力あるんだから。」

 桜井の口元には、今日一番の楽しそうな笑みが浮かんでいた。

 これは桜井からの挑戦であろう。そして、なぜ桜井がこんなことをしてきたかは皆目見当がつかないが、少なくとも僕にとっては、乗る理由が十二分にある。

 そもそも、これは僕の好奇心から出たものであるし、桜井には今日もさることながら、前々から一度ぎゃふんと言わせてやりたいと思っていた。その二つを満たせる格好のチャンスだ。

「分かった。考えてみよう。」

「期待せずに待っている。」

 期待して待ってろ!

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