遅刻の事情(2)
まず、井上教授は毎週、早朝開始の授業に遅刻している。しかし、去年はそうではなかった。
ここから、井上教授に何らかの内面もしくは外面的な変化があったことは間違いないだろう。
そして、「間に合おうとする意志をなくした」という内面の変化という可能性もいったん排除することにすると、教授は今も授業に時間通り向かおうとしているが、環境の変化によって新たに生じた外的要因によって到着を阻まれているということになる。
では、毎週教授の到着を阻むものとは一体何か?
まず、それは、自分が家を出る時間などの教授自身で制御できるものでも、電車やバスの到着時間などのように予測して回避したり対抗策をとったり、何か対策できるものでもない。
また、毎朝自動車で通勤していることから、それが、起床時間を大幅に遅らせるような、一般的に朝に活動することを困難とするようなものではないことも分かる。
そして、教授は今日は遅刻しなかった。
今日か…。祝日の朝に大学へ行かなければならないことへの薄暗い気持ちが思い出されて、少し憂鬱になった。
一度集中が途切れると、西島と山里の会話が耳に入ってきた。
「先生、雑談長いよね。」
「あんまり、おもろないし唐突やねんな。」
ぼうっとしている間に、井上教授の遅刻から話はそれたようだ。温厚な山里が珍しく辛辣である。やはり関西人として雑談にはこだわりがあるのかもしれない。…まあ、口に出すのはやめておこう。
というか、今さら遅刻の話をしても相手にされないかもしれない。忘れるか。
山里はさらに続けた。気づけば麻婆豆腐の皿が空になっていた。
「今日も急にディズニーのこと話し出したやろ?」
「ああ、教室入ったらディズニーの話しててなんの授業か分かんなかったよ。」
西島が笑って答える。まだ餃子が全体の三分の一は残っている。しゃべってないで食え。
「ディズニーってキャラちゃうやろうに」
…雑談がつまらない恨みは中々深いらしい。確かに齢五十のおじさんとディズニーは結び付きづらいが。
「あ。」
思わず声が漏れる。一つのオチが立ったのだ。
西島と山里の視線が集まる。もう話はそれていた。しかし僕は言わずにはいられなかった。
「井上教授の遅刻の事情に、一つ、思いついたことがある。」
少し間をおいて西島が口を開く。
「さっき、遅刻は『井上先生がずぼら』ってことで決着ついたんじゃないの?」
やはり知らないうちに決着がついていたらしい。しかし西島は笑顔で続けた。
「でも別に話してもいいよ。これ食べなきゃいけないし。」
箸で餃子を指す。随分と上からの態度に苦笑する。山里の方を見ると、うなずいて同意を示し、
「でもさっきの話聞くと、ちょっと期待しちゃうなあ。」
とつぶやいた。
期待に沿えるかは分からないが、「井上教授がずぼら」というオチよりかは聞けると思う。
まず、先ほど自分の頭の中で整理したことをかいつまんで話した。
「…つまり、内面のせいではないとすると、井上教授を阻む外的要因は、教授が制御することも対策することもできないものだが、教授の毎朝の活動自体を大きく侵害するものではない。授業の日も遅刻はしてるけど来てはいるしな。
予想するに、それは、教授が普段通りの時間に起きて、大学に来るまでの間に発生する、ちょっとしたイベントだ。」
いったん話を切って、二人の顔を伺う。二人とも全肯定とは言えないといった表情だ。
だが、西島は口を開く様子がない。いや、口は時折開いている、餃子を食べるために。
疑問を口に出したのは、山里の方であった。
「さっきの話と被るけど、もしなんかそういうイベントがあったとして、それは毎週起こっとったわけやんか。せやのに対策できひんってことある?」
その点は、この話の最も難しい問題だ。少なくとも毎週連続で起こっているのだ。発生は予測できる。そして、恐らくその内容も。
しかしそれでも、そのイベントによって遅刻してしまうのはどういう状況か。
「まず、それは避けられないものだった。避けられないというと強制的すぎるが、授業より対応の優先度の高いものだったと考えてもいいだろう。」
山里がむっとする。
「それって間に合う気ないのと同じちゃうの?」
「別に、それが起こったら絶対に授業に間に合わない、というわけではないが、それが理由で授業に間に合わなくなっても仕方ないと思っている、くらいに思ってくれ。」
完全に納得はしていない顔だが、話の続きを聞こうと思ったのだろう。先を促した。
僕は続ける。
「そして、それは教授にとっては対抗策もろくにとれないものだった。例えば、始まりと終わりの時間が決まっている、会議のようなものであったり、発生原因が分からない、天災みたいなものだ。」
もちろん、その二つが理由だとは思っていない。あくまで例だ。
「そして、そのイベントは今日起こらなかった。」
突然西島が口を挟んだ。黙って食べ進めたおかげか、餃子は残りわずかとなっている。
その後を引き取る。
「では、そのイベントとは何か?
ここで、いったん教授のプライベートについて考えてみてくれ。
教授はやたらディズニーに詳しかった。おじさんとディズニーは中々結び付かないが、父親とディズニーは中々結び付く。まあ教授といっても五十のおじさんだ。教授に子供がいても全然不思議じゃない。
そして、教授は毎朝自動車で大学に来ていた。最初、そんなに毎朝大学に来る用事があるのだろうか、と思った。でも、もしかしたら仕事熱心なだけかもしれない。
だが、祝日の今日教授が遅刻しなかった、今までの議論からすれば、いつもは起こっていたイベントが起こらなかった、ということだ。これを前の二つと組み合わせると、一つ仮説が立った。
つまり、『教授は毎朝子供を車で学校に送っていた』から遅刻していたんじゃないかと思ったんだ。」
話し終えて口を閉じた。西島がニヤリとして、天災ね、と小さくつぶやくのが聞こえた。
今日は祝日だ。ほとんどの小中高生は学校に行かず、休むか出かけるかしているだろう。
そして、子育てをする親として『子供の送り迎え』の優先順位が比較的高いことも一般的に言えるだろう。まあ子育てしたことはないが。
去年、私立の小学校か中学校、まあ電車を使っていないことを考えると小学校か、を受験して今年から送り迎えが必要になった、というのもあり得ない話ではないだろう。
うちの大学の一時限目の開始時間は他と比べると早めの八時半。もうあまり覚えていないが、小学校の始業時間もその辺だったと記憶している。子供を送り届けることによって遅刻するというのは、考えられないことじゃない。
少しの沈黙の間、僕は長台詞で乾いたのどを水で潤しながら反論に備える。しかし、返ってきた言葉は予想したものと異なっていた。
「確かに、面白い。」
山里が笑顔でうんうんうなずいている。
「合ってる保証は全然ないけどな。それに」
拍子抜けして、自分で自分の仮説に反論しそうになったところで、西島が言葉をかぶせた。
「まあ、「教授がずぼら」ってオチよりは聞けたよ。」
まあ確かに、真実を正確に追う必要はない。あくまで話のオチとして面白ければいいのだ。
気づけば、西島の餃子の皿も空になっていた。
出るか、とつぶやくと三人一斉に席を立った。
レジに向かおうとすると、厨房と中国語でスタッフとやり取りしていた中年の店員が、立ち上がった僕らに気づき、レジで待ち受けてくれた。
三人ともカバンから財布を取り出し、各々個別に会計していく。
店を出たとき、反論しようとしていた内容はすっかり忘れていた。
***
後日、授業に遅れてきた教授が答えをぽろっとこぼした。
「すまんすまん。子供を学校に送ってたら遅れた。」
驚くと同時に、僕の心の中にはあの日の疑問が浮かび上がっていた。
送迎を避けられないことだと優先度を高く設定していることは、一般論としてわかる。
しかし、ではなぜ対抗策をとらなかったのか。端的に言えば、子供に早く出るように言わなかったのか。
別に小学校に遅くいかなければならない理由は特にない。
大学の授業に遅れるとまずいから、もう少し早く出ようと言えば済む話ではないのか。
それに対する一応の答えとして、僕は「教授が子供の思考回路を理解できず説得に失敗したから」というものを用意していた。正しいとはあまり思っていない。
隣に座っていた西島がこちらに視線を送ってきているのが分かった。
西島や山里はこの疑問を持たなかったのだろうか。それとも何か納得できる答えがあったのだろうか。
いずれにしても、やはり僕には教授の真意は分かるまい。僕は親になったことはないのだ。
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