遅刻の事情(1)
五月初旬。とても機嫌のよいとは言えない気分で、授業の行われる教室に向かうために建物内を歩いていた。なぜ不機嫌なのか、理由は明白である。
世は、ゴールデンウイーク。今日は国民の休日なのだ。
授業回数が足りないだか何だか知らないが、国民の休日に授業があるとはどういうことなのか。我々は何なのだ。
しかもである。全体の授業回数の関係上仕方なく授業が通常通り行われる今日は、よりにもよって週に一回ある、朝八時半開始の一時限目に必修の授業がある曜日なのである。
これで不機嫌にならない大学生がいるのだろうか。
通学途中、いつもは元気にはしゃいでいる近所の学校に通う小学生や中学生とも鉢合わせず、満員の電車に乗ることもないことに一瞬得した気分になったが、いや待て。そもそもなぜ小学生・中学生・社会人を見かけないのかというと、彼らが特別に休んでいる一方で僕が通常通りだからである。
もう一度自身に問う。これで不機嫌にならない大学生がいるのだろうか。
などとぶつくさ考えているうちに目当ての教室の前まで来た。開始十分前には間にあうような心持ちで家を出たが、時計を見るとすでに五分前である。まあ本来休日のところ呼び出されているのだ、これくらい許してもらおう。
スライド式の扉を開けて教室に入る。若干、扉の開閉が雑になってしまったことくらい、誰にも文句は言われないはず。
教室に入って、どこの席に着こうか、と中を見回した後、その場で数秒間立ち止まってしまった。
この教室は四角いタイプの教室で、黒板を前、反対側を後ろとすると、左右よりも前後に広い作りになっており、前の黒板が見やすいよう後ろに行くにつれて高くなるような傾斜がついている。五人掛けの机が黒板と平行に左右に二つ、前後に二十列程度ずつ傾斜に沿って備え付けられていることから二百人程度は入るはずである。この授業は僕の所属する学科の中でも僕の学年の人間しか基本的に取らない。学科の人数は一学年六十人程度なので、この授業では余裕をもって席を使える。実際、僕より前に到着していたやつらは各々好きな場所に陣取って、隣の席やその前の机の上に荷物を置いていたが、全員が同様の使い方をしても十分席は足りるだろう。
この教室は普段と同様である。また、着席している学生に関しても、開始五分前にしては若干数が少ないようにも感じられるが、個々人のふるまいに関しては別段変わりない。
僕が立ち止まったのは黒板の前、教室の最前部にこの授業を担当している教授がすでに到着し、授業の準備を始めていたことに驚いたからである。
特に後ろめたいことがあるわけではないが、そそくさと前とも後ろとも言えない真ん中のあたりの席をいつものように選び着席した。
筆記用具やルーズリーフをかばんから出して目の前に並べたところで、ちょうど定刻となったのか、教授が口を開いて先週の続きを話始める。その直前直後で教室の後ろの方からぞろぞろと人が入ってくる物音が響いた。ちらとそちらに目をやると、扉を開けた瞬間は余裕満々だった学生が、すでに授業が始まっていることを確認して、急いで席を探す姿が見えた。
しかし、人間観察ばかりしているわけにはいかない。視線を遅刻学生どもから前の黒板と話を続けている教授に移す。教授の話は授業内容から逸れ、最近のディズニー映画がいかに良く出来ているかについて、になっていた。
***
小田 直之はしがない大学三年生である。情報系の専攻によくある、名前からでは、やっている内容がよく読み取れない学科に所属している。よく感情の起伏が小さいと言われるが、これは自分でもそう思う。
一方で、最近、人の気持ちが分からない人間だとも指摘されたが、これには反論がある。
確かに僕にも、理解できない他人の感情というものはたくさんあると思う。だがそもそも、他人の気持ちをきちんと理解できることなんてそうそうないんじゃあないのか。
だが、他人の気持ちを理解することが人間一般の難題であることを認めたうえで、僕だけが人の気持ちの分からない人間だと指を差される要因に心当たりがないわけではない。
僕は、あまり人の諸事情に興味がない、らしい。中学生くらいから、なぜこいつらはあんなことを必死になって知ろうとするのだろう、と疑問を覚えることが少なくなかったと記憶しているが、今は、これは人間性の違いだと理解している。
こんなことを考えていることをもし桜井が知ったら「『他人に興味を示さない俺かっこいい』とでも思ってんのか。脳が中学生で止まってる。」などと言われそうだが、別に好きで興味を持たないわけではない。まあ、幾人かの友人には直接言われたこともあるので、他人から見てもそう映ると思っていいだろう。
とにかく、先ほどの指摘と組み合わせると興味がないことは理解できるはずもない、という理屈である。なるほど一見正しそうはである。
しかしこれに関しても反論がある。興味がないのならば絶対に理解できない、というわけではないだろう。理解できることならば絶対に興味がある、というわけ全くではないのだし。
まあつまり何が言いたいかというと、この前は否定し損ねたが僕は人並みには他人の気持ちを理解する心を持っているぞ、ということである。今度桜井にあったら言ってやろう。
では、そもそもなぜいわれのない指摘に対する反論をまとめていたか。それは目の前で餃子定食を食べている西島が、この前の本郷宅での話を始めたことによって、桜井の暴言を思い出したからだ。
二時限目の授業が終わり、昼食の時間になると、同じサークルかつ同じ学科であり同じ教室で授業を受けていた西島と、同じく授業を受けていた同学科の友人に誘われ、キャンパスの外に昼飯を食べに行くことにした。いつもなら二時限目と三時限目の昼食時間が短いため、キャンパス外に食べに行くことは少ない。しかし今日は、「祝日はさすがに休みたい」と思う教員も少なくないのだろう、三時限目以降の授業は休講であった。
適当にキャンパス近くの中華料理屋に入った後、各々注文した定食を食べながらゴールデンウイークの予定や最近あった出来事など、当たり障りのない話をしていた流れで、西島がこの前の話を始めたのである。
「それで、そいつが彼女さんの友達に、彼女さんの実家について聞いたらホントに米屋でさ。小田の話を軸にして謝ったら、彼女さん許してくれたんだよ。」
「へえ、それはすごいな。小田の話が大体あってたってことやろ?」
隣で麻婆豆腐定食を食べている男、山里 平太郎は、関西からこちら、東京の方に進学してきたらしい。肌が色黒で、最初話したときに、何かスポーツをやっていたのかと聞いたら高校球児だったそうだ。もっとも弱小校で自身が引退の年も一回戦敗退だった、というのは本人談である。
「まあ、ほとんど、たまたまだけどな。」
西島が、何でもかんでもお見通しだった、というような口調で話したので訂正を加える。
というか、それ以前に予想が合っていたかどうかも不明なのだ。
「いや、たまたまがあったり所々間違ってても、そこまできちんと予想できんのはすごいよ。」
それを伝えても山里は笑顔で僕を称賛してくれた。あの場にいた誰よりもである。山里がとても気持ちの良い人間だということは、今までの付き合いの中で分かっていた。
「山里はなんか無いの? 最近会った面白いこと。」
一通り本郷宅での話が(主に西島山里間で)盛り上がった後、西島が山里に話題提供を求めた。最初は別に「面白い」ことでなくてよかったはずなのだが。
「うーん。最近なんかあったかなあ。」
「関西人なのに面白いことストックしてないの?」
「おい」
思わず口を挟んだ。なんていう無茶苦茶な。白いカラスだっているのだ。関西人全員が常に面白い話をストックして生きているわけはないだろう。しかし、山里は苦笑するのみで特別気を悪くした様子はない。
「そうやなあ。なんかあったかな。そういえば、今日の一限の授業はちょっと驚いたよな。」
「あ、それは俺もびっくりした。」
僕もうなずいて同意を示す。教室に入った時、あの教授が開始五分前にすでに教室にいたことについてであろう。
「今までは毎回遅刻してたのに、今日に限ってめちゃくちゃ早く来るんやもん。」
あの授業を担当している井上教授は、四月に行われた過去四回の授業全てで五分以上遅刻している。時間ギリギリに教室に入ってくる学生が余裕の表情を浮かべていたのも過去四回分の経験からして当然のことであった。
「いやあ、俺も時間ちょうどくらいに着いて余裕だなーって思ってたら、もう授業始まってて焦った。」
どうやら時間ギリギリに教室に入ってきた学生の中に西島もいたらしい。朝が弱いのは知っていたので不思議ではないが。
「なんで今日に限ってあんな早かったんやろ。」
さあ。と適当な相槌をうちつつ、目の前の油淋鶏の最後の一切れを口の中に運び、残しておいた白米最後の塊を一緒にかきこむ。何となく残っていた米粒もかき集めて口に運んだ。
顔を上げると、西島がちらちら、こちらを見ているのに気づいた。ちなみにやつはまだ餃子定食が半分以上残っている。
「なんだよ。」
「どう? なんか思いつくことある?」
どうやらこの前のような妙案を期待しているらしい。が、全く考えていなかった。というか、そもそも考えを巡らせるだけの要素がないだろう。僕は思ったことをそのまま口に出した。
「知らん。というか、単純にあの教授が時間にルーズで今日はたまたま早く来れただけだろ。世間は休日で色々すいてたしな。」
「まあ、普通に考えたらそうやろな。」
話のオチとしてはつまらないが、実際その可能性は高いだろう。
井上教授は見たところ五十前半くらいの年齢だと思われるが、それにしてはフランクに学生に接する。まあフランクと言えば多少聞こえはいいが、授業内容と関係のない(つまらない)雑談が数十分続いたり、新しく導入した概念の説明が雑で理解が困難だったり、言っていることが二転三転したりと、どちらかというと「テキトー」という印象だ。接し方に関しても、学生に対して壁を感じさせまいと意識している、というよりも、元々ああいう性格なのだろう。毎回授業に遅れることに関しても「すまんすまん」というだけで特に説明もない。そんな井上教授を僕はあまり好ましく思ってはいなかった。
そのような井上教授が、いつも時間にルーズであり遅れる理由も早く来る理由も特にないのだろう、と予想することは僕にとって偏見以上分析未満であり、まあ特に反論が返ってくることもないと思ったが、意外にもすぐに声があがった。
「いや、それが先輩に聞いたんだけどさ。去年はそんなことなかったらしいよ。」
「去年?」
はて、西島の発言が僕の推測に対しての反論であろうというのは分かるが、それと去年の何が関係あるというのだろう。ピンときていないことを西島も理解したようで、追加の説明がすぐさまなされる。
「井上先生、去年も同じ時間に同じ授業もってたらしいんだけど、いつも五分前には来てて、遅刻したことはなかったらしい。」
なるほど。今年受け持った教員が、その授業を昨年も同じ時間に受け持っていたというのは、言われてみれば至極ありそうなことだ。しかし、伝えられた内容の方は中々意外だった。
そして、意外だと感じたのは僕だけではなかったようだ。
「へえ。あの先生の遅刻癖は元々やと思ってたけど。」
「少なくとも去年はそうじゃなかったっぽいね。「毎週遅刻してくる」って言ったら逆に先輩が驚いてたよ。」
となると、確かに思っていたより話は奇妙らしい。
「あの先生は今年から遅刻魔になったってことか。」
まあ事実だけ見るとそうだが、人が、それも齢五十を超えている人間が、一年の間に遅刻魔になったりするのだろうか。その疑問は当然誰もが持つ。
「でも、なんかきっかけはあるんだろうけどね。」
そのきっかけこそが、この話のオチということになるだろう。
「まあ、ぱっと思いつくのは、引っ越しとかかな。引っ越しで通勤時間とか乗る電車とかが変わって、色々混乱して…っていう。」
西島は本当にぱっと思いついたことを言っただけなのだろう。矛盾する点はすぐに見つかった。
「「いや」」
指摘しようと口を開いたら山里と被ってしまった。山里の方を見ると、手で「お先にどうぞ」というジェスチャーをしている。それではお先に。
「確かに、引っ越してから最初の一、二回はそれで遅刻してもおかしくはないと思うが、もしお前が今日どこかに引っ越したとして、四週連続で大学に到着する時間を図り間違えるか?」
「だよねえ。」
西島が苦笑しながら答える。本人も発言しながらその点に気づいていたのだろう。
問いの答えは否であろう。時間に間に合う気のある大人が、四週間全く学習せずにいるとは考えづらい。
「でも、それ言われると、たいていの理由はだめだよね。」
そうなのだ。たとえ一年間、もしくは新学期が始まる四月直前で、井上教授の周囲の環境が大きく変化したとしても、井上教授が時間に間に合おうとしていたならば、四週間の経験によってたいていの変化は許容され、遅刻はなくなっていくはずなのだ。しかし、これまでの井上教授の様子から、遅刻の時間がどんどん短くなっているということはない。
では、環境などの外界の変化ではなく、内面の変化だとしたら。つまり、例えばこの一年の間に「時間を守るなんて、くだらねえ」と思うような衝撃的な出来事があったとしたら、確かにそれは井上教授が今年度から遅刻魔になった理由になり得るだろう。しかし、齢五十にもなった大人が今さらそんな中学生みたいな癇癪を起こすとは思えない。それに、もしそれが真実だとしたら、その衝撃的な出来事はもう推測しようもない。
三人の間に沈黙が下りる。
「あ、そういえば山里の言おうとしてたことは何だったの?」
そういえば聞いていなかった。
「ああ。あんまり本質的なことちゃうねんけど、あの先生電車やなくて車で毎朝来てんねん。」
「あ、そうなんだ。」
確かに本質的ではない。電車だろうと自動車だろうと四週間の経験による学習で時間調整は何とでもなるはずだ。いやちょっと待て。
「今、毎朝って言ったか?」
「あ、小田も知らんかった? まあ毎日確認してるわけやないけど、たぶんそうやと思うで。」
「え、なんで分かんの?」
「俺、朝強い方やから今日のほかにも一限の授業とってるし、授業無くても空き教室でレポート書いたりしてんねん。結構車から降りてくんの見るで。」
僕の所属する学科の授業は基本的にすべて同じ建物で行う。他学科の授業をとるもの好きもいるようだが、山里がとっているのは必修ではない学科の授業だろう。ご苦労なことだ。本人的には別に苦労はないのかもしれないが。
そして、建物のわきにはいくつか駐車スペースがある。井上教授が使用しているのも、その内の一つであろう。
しかし、その話が本当ならますます奇妙だ。
「てことは、毎日一限の時間前後に大学来てるってことだよね? それなら何で授業の日に少し早く来ることができないんだろう…。」
西島が、ダメな大学生を憐れむように言う。
「まあ、朝起きれるのと時間通り来れるのはちゃうよ。俺も家でダラダラしてたら出なあかん時間になってたとか結構あるし。」
山里もダメな大学生をフォローするようなことを言う。
「だからあの先生もそういうタイプなんかなあ、と思ってたんやけど。」
しかし、対象は大学生ではなく大学教授である。加えて去年はそうではなく学習するならば云々。
…だめだ。このままだと理屈をこねるのが面倒になって、「結局、井上教授がダメダメ」というオチに落ち着いてしまいそうな気配がする。
別に最初はそれでよかったのだが、ここまで考えたのに結局そのオチではなんだか…納得がいかない。
少し話を整理してみよう。
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