第119話 思いがけない出会い
前世で作っていたときと同じように、一番得意だった『さくさくクッキー』をただ作っていただけだった。それなのに作業を進めていると、知らない誰かが胸の奥の奥で慟哭しているのを感じた。理由は分からない。
ただ頭の中で何かがフワリと形になりそうになってはシャボン玉のように弾けていく。その度に私の中の誰かが悲鳴を上げる。同時に胸を掻き毟られるような気持ちになるのだ。
(もう一人の私……?)
一体誰が私の胸の奥で泣いているのだろう。暗い場所で見知らぬ幼い少女が背中を向けてしゃがみこんでいる。私が失ってしまった記憶の持ち主? ――分からない。
どうせ無理に思い出そうとしても思い出せはしない。私はこの居場所を得られたことに感謝して、今を精一杯生きていくしかないのだ。
クッキーの生地を天板に並べてオーブンに入れる。焼成が進んできたところで、オーブンから漂ってくる甘く香ばしい香りに調理場主任のグスタフさんが頬を緩める。
「美味そうな香りだな。型で抜かないクッキーは初めてだよ」
「そうなんですか? このクッキーは型抜きのものよりも食感が柔らかいんですよ」
焼き上がったクッキーをグスタフさんに試食してもらった。グスタフさんは一口齧って大きく目を見開く。
「うん、美味い。クリスは他のレシピも知っているのか?」
「ええ。気に入っていただけるかどうかは分かりませんが」
「ふむ……。クリスは期待の新人だな。合格だ。調理場のほうは準備のときだけ手伝ってくれればいいから、あとの仕事は執事のトーマスにでも指示を貰ってくれ」
「分かりました」
グスタフさんがニヤリと笑いながら大きく頷いた。少しでも助けになれるのならば嬉しい。
「折角だから作ったクッキーをビアンカお嬢様に持っていって差し上げるといい」
「ありがとうございます」
グスタフさんに私のクッキーを気に入ってもらえてよかった。私は出来上がったクッキーを十個ほど紙に包んでビアンカさまの私室へ持っていくことにした。
ビアンカさまの私室を訪ねると、待ちかねたように出迎えられたので驚いてしまった。どうやら心配させてしまっていたようだ。
「クリス、どうだった?」
「ええ、デザート係として調理場のお手伝いをすることになりました」
「そう、よかった!」
「いろいろとりなしてくださって、ありがとうございます」
私は嬉しそうに笑うビアンカさまにお礼を告げた。
「あのビアンカさま。このクッキー、私が作ったんですけど、よろしければお召し上がりになりませんか?」
私は持ってきた包みを開いてクッキーを見せた。ビアンカさまはクッキーを見て驚いたように目を瞠る。
「え、これ、クリスが作ったの?」
「ええ、お恥ずかしいんですが」
「凄い! クリスは器用なのね! ありがとう、いただくわ」
ビアンカさまは私のクッキーを一つ手に取り口に運んだ。さくっと一口齧って顔を綻ばせる。
「美味しい……。凄く美味しいわ、クリス」
「お誉めに預かり光栄です、ビアンカさま」
ビアンカさまが美味しそうにクッキーを食べる表情を見て、再び胸がぎゅっと締め付けられる。そして目頭が熱くなってくる。私はこんなに涙もろかっただろうか。
「クリス、あのね、お願いがあるの」
「何でしょう?」
「私の数少ない友人の一人にコリンナというご令嬢がいるの。明日、コリンナのお屋敷で弟のラルフの快気祝いがあるの。そのお祝いに一緒に行ってほしいのだけれど……」
「はい、私でよければご一緒させていただきます」
「よかった。ありがとう、クリス」
ビアンカさまは嬉しそうに微笑んだ。私と初めて話したときのように緊張することはなくなったようだ。なんとなく心を許してもらえたみたいで嬉しい。それにしてもラルフさまという方は病気でもしていたのだろうか。
「ビアンカさま。コリンナさまの弟さん……ラルフさまはお体の具合が悪かったのですか?」
「ええ。ラルフはまだ十一才なのだけれど、幼いころからずっと体が弱くてしょっちゅう床に伏していたの」
「まあ、お気の毒に……」
幼い少年が外で遊べずにずっと横になっていたなど、想像するだけで切なくなってくる。同じ年頃の男の子たちが外で元気に遊んでいるのを見て、どんな気持ちだっただろう。可哀想に。
「ラルフは気持ちもずっと沈みがちで元気がなかったの。けれど、最近新しいお友だちができてからすっかり明るくなって、体も徐々に元気になってきたのですって」
「それはよかったですね!」
「ええ、そうなの。私も幼いころからラルフを知っているから、とても心配だったの……。それにラルフのことを心配して悲しそうにするコリンナを見ていられなくて……。だからラルフの新しいお友だちには本当に感謝しているわ」
「快気祝いにはそのお友だちもいらっしゃるんですか?」
「ええ、どうやらお屋敷で働いているらしいのよ。いつも一緒にいられるからラルフも元気になれたのね」
「そうだったのですか。本当によかったですね」
「ええ!」
ビアンカさまの嬉しそうな顔を見て、お友だち思いの優しい人だなと感じた。きっとそんなビアンカさまと仲のいいコリンナさまもラルフさまも優しい方たちなのだろう。明日が楽しみだ。
それにしても、こんなに優しいビアンカさまが男爵令嬢を虐めるわけがないのに、王太子殿下たちの目は節穴なんじゃないだろうか。大体相手のことをよく調べもせずに、片方の言うことだけを真に受けるなんて信じられない。
「明日は何かお菓子でも作って持っていきましょう」
「まあ、楽しみだわ。ありがとう、クリス!」
私は明日持っていくお菓子を何にしようかと考えて、まだ会ったことのないビアンカさまのご友人たちの喜ぶ顔を想像して胸が高鳴った。
§
翌日ビアンカさまと私はヴェルナー侯爵邸から馬車でコリンナ・フォルツ伯爵令嬢のお屋敷へと向かった。ビアンカさまの表情が明るい。ラルフさまが元気になったのがよほど嬉しいのだろう。
私たちが伯爵邸に到着すると、使用人と一緒にコリンナさまが嬉しそうな笑顔で出迎えてくれた。コリンナさまは私の想像した通り、とても穏やかで優しそうなお嬢さまだった。
「ビアンカ、ごめんなさいね。ラルフは今日は少しだけ咳が出ていたから、あまり動かさないほうがいいと思って応接室で待たせているの」
申しわけなさそうに説明するコリンナさまに、ビアンカさまが首を左右に振って微笑む。
「いいのよ。よかったわね、コリンナ。ラルフは前は部屋からほとんど出られなかったんだから、十分元気になったじゃない」
「ええ、本当に嬉しい……」
笑顔を浮かべていたコリンナさまの焦げ茶色の大きな瞳が涙で潤む。
「さあ、こちらへいらっしゃって」
私たちはコリンナさまに案内されて、伯爵邸の応接室へと足を運んだ。
「ビアンカ姉さま、来てくれてありがとう」
応接室ではコリンナさまによく似た可愛らしい美少年が、嬉しそうな笑顔で私たちを出迎えてくれた。
「ご機嫌よう、ラルフ。貴方の元気な顔が見られて嬉しいわ。あら、そちらは新しい侍女の方?」
ビアンカさまの視線の先には、可愛らしい侍女がラルフさまに寄り添うように立っていた。ストロベリーブロンドの髪をすっきりと編み上げた紫紺の瞳の美少女だ。怪我でもしているのか、顎のぎりぎりの所まで首に白い包帯が巻かれている。
その少女にはとても見覚えがある気がする。どう考えても初対面なのに。だけど私はその美少女を見て、重大な事実に気付いてしまった。
「紹介するね。彼女はモニカ。今は侍女をしてもらっているけど、僕の一番大切な友人なんだ」
「モニカと申します。よろしくお願いいたします」
モニカさんはニコリと柔らかな笑みを浮かべて自己紹介をした。ラルフさまが嬉しそうに紹介したモニカという少女は、私が前世で遊んでいた乙女ゲーム――『恋のスイーツパラダイス』の主人公の少女だった。
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