第118話 デザート係

 お茶会への同行をビアンカさまにお願いされた夜、私は侯爵邸の食堂で夕食をご馳走になった。ヴェルナー侯爵夫人と、初めて会ったヴェルナー侯爵のお二人に、侍女にしてもらえないかと思い切ってお願いしてみた。ビアンカさまも口添えしてくれた。

 だけど二人はなかなか頷いてはくれなかった。理由は私のことが信用できないから……ではなく、私の怪我が完治していないからだ。夫人だけでなく、旦那様のヴェルナー侯爵もとても温厚な方のようだ。


「クリス、無理してビアンカのお願いを聞かなくてもいいんだよ? 怪我が治らないうちから動いて体調が悪くなったらどうするんだい? 女性なんだからもっと体を大切にしないと」

「そうよ。私たちは貴女のことを客人として接するつもりなのよ。働かせるなんて……」


 二人とも困ったように眉尻を下げている。私のことを気遣ってくれる気持ちがとても嬉しい。だけど私がこうして生きているのはこのヴェルナー侯爵家のお陰だ。ビアンカさまのお願いがなくても侯爵家のために働かせてほしいと、心から思っている。


「ビアンカさまのお茶会のためだけではないのです。私が働きたいんです。これほどのご恩を受けて何もせずにいることは、私にはできません。ご迷惑でなければ、どうか侍女としてこの屋敷で働かせてください。料理でも洗濯でも掃除でも何でもやります」

「お父さま、お母さま、お願い。クリスの気持ちを汲んであげて。無理をさせない程度に動いてもらえばいいじゃない」


 私とビアンカさまの言葉を聞いてヴェルナー侯爵が大きな溜息を吐いた。


「はぁ……。仕方がないな。クリス、侍女としてこの屋敷で働いてもらおう。ただし、これだけは約束してほしい。決して無理はしないこと」

「そうね。他の使用人には私が伝えておきます。けれど、包帯が取れるまでは働いては駄目ですからね、クリス」

「承知しました。旦那様、奥様、ありがとうございます!」

「クリス、よかったわね」

「はい!」


 ビアンカさまも嬉しそうだ。私はビアンカさまと顔を見合わせて笑った。


  §


 それから三日ほどしてようやく頭の包帯が取れた。傷が完治したわけではないけれど、痛みはもうあまりない。あまり休んでばかりいると、体の別の部分が悪くなりそうだから動きたい。

 それに前世のときから一方的に恩を受け続けるのが性に合わない。お世話になったヴェルナー侯爵家に、これからきっちりと体で払わせてもらおう。


「クリス、もう大丈夫なの? 無理してない?」


 ビアンカさまが心配そうに私を見つめる。本当にこのお屋敷の人は皆優しい。


「もう大丈夫ですよ。私はどなたからお仕事の指示を貰ったらいいんでしょう?」

「執事のトーマスに紹介するわ。一緒に行きましょう」


 ビアンカさまがエントランスにいた執事のトーマスさんに紹介してくれた。トーマスさんはすでに私の話を聞かされていたようで、ビアンカさまの紹介を聞いたあとに早速質問してきた。


「ふむ、そうですね。クリスさんは何か得意なことはありますか?」

「私は……」


 得意というのかは分からないけど、私の趣味といったら、スマホで乙女ゲームをすることとパンやお菓子を作ることだ。


「得意といえるのかどうか分かりませんけど、パンとお菓子を作ることならできます。他の家事も人並みには……」

「なんと、お菓子ですか!」


 一体どうしたのだろう。トーマスさんが驚いたように目を丸くしている。


「この間料理人の一人が実家の事情でここを辞めてしまって、手伝いが足りなくなって調理場が大変だったのです。そうですか、お菓子を作ることができる……。よろしければですが、クリスさんには料理人の補佐をしてもらえると助かります」

「はい、ぜひよろしくお願いします」

「それでは調理場主任で料理人のグスタフを紹介しましょう。どうぞこちらへ」


 私はそのままビアンカさまと別れて調理場へ案内された。そして料理人のグスタフさんに紹介してもらった。グスタフさんは体の大きな四十才くらいの男性だった。赤褐色の髪を後ろで一つに纏めている。


「助かるよ。よろしく頼むな、クリス」

「はい、よろしくお願いします、グスタフさん」

「お菓子を作るのが得意なら、デザートを担当してもらおうかな」

「デザート! 私が作ってもいいんですか!?」

「ああ。だがその前に一度、何か得意なものを作ってみてくれないか?」

「分かりました!」


 これってラッキーじゃない? お仕事でお菓子作りができるなんて。グスタフさんには敵わないかもしれないけれど、美味しいお菓子を作って食べてもらって、この屋敷に住む人たちに喜んでもらいたい。

 さて何を作ろう。初めて食べてもらうのだから、一番得意なお菓子にしよう。……あれ? こんなこと前にもあったような……。――何かが頭に浮かんで形になりかけた瞬間、突然激しい頭痛が襲ってくる。


「痛っ!」

「お、おい! クリス、大丈夫か!?」


 グスタフさんが心配して駆け寄ってきた。一瞬で痛みは消えた。でも頭の中で形になりかけていた何かが痛みと一緒にぱちんと弾けて消えてしまった。一体何だったのだろう……。


「今日はもう休んどけ」

「大丈夫です。頭痛は怪我のせいじゃないと思います……」

「おいおい……」

「お願いです。作らせてください」


 心配そうな眼差しで私を見つめるグスタフさんを強引に説得して、私は一番得意なお菓子『さくさくクッキー』を作ることにした。

 材料を計量して、薪オーブンを予熱してもらう。そしてバターに砂糖を入れてホイッパーで擦り混ぜていく。――この作業って力が要るんだよね。


「おい、本当に大丈夫か?」

「え? ええ、大丈夫ですよ」

「……だがクリス。お前、泣いてるじゃないか」

「えっ」


 左手でボウルを抱え込んで右手てホイッパーを回しながら、私は無意識にぽろぽろと涙を零していた。

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