第92話 ルイーゼの夢
ジークベルトが、彼の後方に設置している冷蔵庫を親指でグイッと示してニヤリと笑う。
ギクリ……。どうやら気付かれていたようだ。魔道具のこともばれてしまうとは。
「……お菓子作りに関係するものだけです。私は興味があることへの知識しかありませんし、興味に値するものに対してしか情熱が湧きませんから」
「うん、それでいいと思うよ。僕は別に、うちの国にきて率先して知識を提供しろなんて言っているわけじゃないんだ」
「……?」
「本人が意識しなくても転生者がもたらす知識の恩恵はかなり大きいんだ。君の知識が偏っていてもその知識量は莫大なものなんだよ。僕には調理の知識もそれに関する知識もほとんどないけど君にはある。それだけでも価値があるものなんだ」
ジークベルトの言っていることはいちいちもっともだし、筋は通っている。目的の全てを語っているとは思わないが嘘を吐いているわけではないと思う。
貴族令嬢が隣国の王子様にうちの国へおいでと誘われたのだ。普通の令嬢なら二つ返事で頷くかもしれない。だがルイーゼにはこの国に留まりたい理由がたくさんある。なんといってもマインハイム王国には彼がいない。例え結ばれることがなくとも近くにいたいと思うのは変だろうか。
「仰ることは分かりました。お誘いは大変光栄に存じますが、私は……」
「待って。もう一つ大事な話がある」
ジークベルトはルイーゼの言葉を片手を差し出して制止した。
「留学してくれと言って、君が『はい、そうですか』と返事しないだろうってことも分かっていたよ。だから僕の力で君のためにしてあげられることを考えてきたから、先に言わせて」
「私のため?」
ルイーゼは予想もしなかったジークベルトの言葉に首を傾げて聞き返した。
「うん。ルイーゼ、君には夢があるかい?」
「夢……」
大好きなお菓子を作りながら愛する人と幸せに暮らしたい。今は無理でもこの先の未来で再び大切な人ができるかもしれない。もし貴族という縛りがなかったら小さなお菓子のお店を開いてたくさんの人に美味しいお菓子を食べてもらうのもいいかもしれない。そんな平凡な願いを夢といってもいいものだろうか。
「ルイーゼ、僕はね、自分の知識を使ってマインハイム王国を豊かな国にしたいと思っている。僕は王太子ではないし、今のところ王になる予定もないけど」
ジークベルトが身を乗り出して、上半身をぐっとルイーゼに近付けた。希望に溢れたジークベルトの瞳がきらきらと輝いているように見える。
「国が豊かになれば国民も豊かになる。施政にもよるけど、豊かになれば国民の末端にまで財がいきわたるんじゃないかと思うんだよね。真面目に働けば豊かに暮らせるって理想じゃない? 僕は王のそばでその手伝いをしたいんだ」
「それは素敵ですね」
ジークベルトの理想は夢のようだ。少し甘い気もするけど、それは前世のルイーゼよりも前世のジークベルトが若いゆえなのか。
実際には国王の施政が全てを左右するといってもいいと思う。財は国王と貴族が支配できてしまう。だから国民の豊かさは王族と貴族の采配次第ともいえる。民主主義が導入されていない王国ならそうであっても仕方がない。
いくら財があっても国民が豊かでない国は豊かであるとは言えないとルイーゼも思う。だがそれはあくまで日本人として育ってきた前世のルイーゼ基準の理論だ。前世の世界でも、日本以外に民ありきでない国はたくさんあったのだから。
だがジークベルトの理想はとても素晴らしいと思う。将来マインハイム王国の施政を担う国王が正義の人であれば、ジークベルトの夢もきっと実現できるだろう。
「ごめん、つい熱くなっちゃって。それで、君の夢を聞いてもいいかな?」
ジークベルトが恥ずかしそうに笑った。留学自体は悪い話ではない。他国の文化に触れることで見聞も広められるし、視野が広がれば人間的に成長できるかもしれない。でもこの国を離れるということは、全てを手放さなければならないということだ。大切な家族、大切な友人、そしてあの人の近くにいることも。
「私の夢は……自分にとって大切な人たちを幸せにすることです」
「そっか……。ルイーゼ、僕が君にしてあげられることとして、もし君が我が国に来てくれたら、僕が君の夢を全力で叶えると約束するよ」
ジークベルトの熱い眼差しから紛れもない誠意が伝わってくる。ジークベルトの心遣いをありがたいとは思う。だがルイーゼの心が揺らぐことはなかった。
「ジークベルト様、お気持ちはありがたいと思います。ですが私の夢は他人に叶えてもらうようなものではありません。私が自分の力で叶えたいのです。ですから私はこの国を離れる気はありません。大変光栄なお申し出ですが、留学のお話は謹んでお断りさせていただきます」
ルイーゼが真っ直ぐにジークベルトに目を向けて断固たる意思を伝えると、ジークベルトは肩を竦めながら溜息を吐いて苦笑した。
「仕方ないね。君に無理強いするつもりはなかったから留学のことは諦めるよ。そして君が転生者ということは僕の胸の中に閉まっておく」
「ジークベルト様、ありがとうございます」
ルイーゼが深くお辞儀をすると、ジークベルトは真剣な表情で話を続けた。
「ただね、さっきも言った通り転生者の知識というのは計り知れないほどの価値があるものなんだ。この国では転生者の前例がないからそのことが取り沙汰されることはないけど、我が国では一部の人間からその価値が知れ渡ってしまっている。だから民間でも新しい発明があったりすると、転生者であることを期待されて誘拐事件にまで発展したことがあるんだ」
「なんてこと……」
「恥ずかしいことだが、我が国では転生者を求めて裏組織が動いているという話も耳にしている。君が我が国にくるのなら王宮で厳重に保護するつもりだった。だが、もし君がこの国で平和に暮らしたいなら転生者であることは絶対に隠し通すんだ」
「……承知しました」
「ルイーゼ、気を付けてね。それじゃ、僕はこれで失礼するよ。気が変わったらいつでも声をかけてね」
「承知しました。ご機嫌よう、ジークベルト様」
調理室を出ていくジークベルトの背中を見送ったあと、ルイーゼは自分の鞄を手に取って調理室の出入り口へと歩いた。
転生者が狙われる……。この国ではまずあり得ないことだ。ルイーゼはジークベルトほど派手に活動をしたつもりはないから大丈夫だろう。
そんなことを考えながら調理室から出たところで、突然後ろから声をかけられた。
「ルイーゼ……」
驚いて振り向くと、そこには思いつめたような顔をして立ち竦むアルフォンスの姿があった。
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