第1話 蘇る



「はっ! 夢……」


 ルイーゼが朝早く自室のベッドの上で目を覚ましたとき、大量の汗のせいで寝衣が肌に貼りついていた。寝ている間に掻いたのだろうか。

 なんだかとても嫌な夢を見た気がする。だが今は頭の中にもやのようなものがかかって、内容をよく思い出せない。


「一体どんな夢だったのかしら……」


 得体の知れない不安を拭いきれないまま、ゆっくりとベッドから上半身を起こす。そしてそのまま足を床へ下ろし、汗を流すために浴室へと向かった。

 ルイーゼ・クレーマン侯爵令嬢は、先日十六才の誕生日を迎えたばかりだ。そして父のテオパルトは、このルーデンドルフ王国において宰相の要職にある。母はルイーゼがまだ幼い頃に他界してしまった。


 起床して三時間後。入浴を済ませ学園へ行く準備を整えたルイーゼは、自室の鏡に映った自分の姿を完璧だと思った。

 蜂蜜色の金髪を丁寧に巻いて、ボリュームたっぷりに広がっている縦ロールを赤いベルベットの大きなリボンで纏めている。リボンは誕生日のときにテオパルトからプレゼントされたものだ。

 小さいながらもぷっくりとした唇に、アルフォンスの好きな薔薇と同じ真紅の口紅を塗る。あとはフリルたっぷりのドレスを着たいところだが、学園では制服の着用が義務付けられているため諦めるしかない。仕上げに薔薇の香りの香水をたっぷりと付けて……。


(はぁ……アルフォンス様、ちゅき)


 アルフォンスのことを思い出すと顔が熱くなってくる。火照る頬を両手の掌で冷やしながら、行き場のない萌えの気持ちを持てあますあまり悶えるように身を捩る。

 毎朝ルイーゼは学園へ行く三時間前には起床する。そのあと入浴を済ませ、侍女に二人がかりで髪を巻いてもらう。この見事な縦ロールは侍女のエマとアンナの合作だ。ルイーゼは不器用なので自分で巻くことができないのだ。そしてばっちり化粧をして可能な限り華やかに装う。全ては王太子であるアルフォンスの目に留まるために。


 アルフォンスの笑顔を思い出してぼぉっとしていると、すぐ傍でエマが肩を竦めて嘆息する。エマは幼い頃から仕えてくれている侍女で、確か今年で三十才になる。きっちり結い上げた焦げ茶色の髪がその真面目さを表している。濃紺のクレーマン家のお仕着せにきっちりと身を包み、ピンと背筋を伸ばし両手を胸の下で組んでいる。エマは幼い頃からルイーゼにとって唯一の相談相手だった。


「ルイーゼ様。お言葉ですが、殿下はこういったケバ……華やかな装いはあまりお好みではないかと存じます。それに香水ももう少し控えられたほうがよろしいかと存じます」

「ええっ!? だって他の婚約者候補の令嬢は皆とっても華やかなのよ? 彼女たちよりも豪華にしないと、アルフォンス様の目に留まらないかもしれないじゃない?」


 エマの言葉に驚き、思わず身を乗り出してそう言い返してしまう。エマはときどきルイーゼの装いについて苦言を呈してくる。だけどルイーゼには華やかな恰好のどこが悪いのか全く分からない。

 ルイーゼは王太子であるアルフォンスの婚約者候補の一人だ。他にも婚約者候補が複数名存在する。このままいけばルイーゼが婚約者に選ばれるだろうと言われている。だけどそんな出来レースではなく、ちゃんと振り向いてもらいたい。だからアルフォンスの好みになるための努力なら一ミリも惜しみたくないのだ。


「本当にルイーゼ様はざんね……勿体ないですわ。肌も白くてきめ細やかですし、淡いお化粧のほうがきっとお似合いになりますよ。元が良いのですから、すっきりとした装いをされればとてもお可愛らしくていらっしゃるのに……」

「え? 私はこの装いがとっても似合っていると思うのだけれど?」

「……左様でございますか」


 エマが嘆息したあと諦めたような表情で答える。なぜそんな顔をするのか不思議で仕方がない。いつも通りの会話を交わしたあと、エマが時間を報せてくれる。


「お嬢様、そろそろ学園へ行くお時間です」

「そうね。今日こそアルフォンス様のお心を射止めてくるわ!」


 『今日こそは必ず』という決意を胸に秘めてぐっと拳を握り、エマと一緒に私室を出た。




 部屋を出てから廊下の少し先の階段を下り、屋敷のエントランスへと出た。ふと立ち止まり上のほうを仰ぎ見ると、吹き抜けの二階部分の窓から朝の光が眩しいほどに降り注いでいる。どうやら今日はとても天気がいいようだ。光のシャワーを浴びていい気分に浸っていると、不意に後ろから声がかかる。


「姉上、おはようございます」

「……オスカー、おはよう」


 耳の下ほどの長さの真っ直ぐな髪をふわりと揺らしながら、オスカーが階段から下りてきた。ルイーゼと同じ蜂蜜色の金髪が、朝の光を反射してきらきらと輝いている。そしてオスカーも同じ学園の制服を着用している。


 オスカーは一つ違いの弟で、ルイーゼと同じ蜂蜜色の金髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ。幼い頃は見分けがつかないほどにそっくりだったらしい。だが成長した今では、オスカーのほうがルイーゼよりも十センチほど背が高い。以前同級生に聞いたところによると、学園で女子生徒にとても人気があるのだという。

 実はルイーゼはオスカーのことが苦手だった。だって……


「ふっ。今日もとてもゴージャスで絶好調ですね。ですが姉上、その香水なんとかなりませんか? 朝の爽やかな気分が台無しです」


 最初にルイーゼを見て吹き出し、オスカーが呆れたような顔で香水に抗議してきた。だが譲るわけにはいかない。香水はルイーゼの重要なツールの一つなのだから。


「えっ、だってアルフォンス様の周囲には華やかなご令嬢がたくさんいるのよ? 目立たないと彼の婚約者になることができないわ」

「……そうですか。精々頑張ってください」


 オスカーは呆れたように答え、そのあとまるで関心がないといったふうにさっさと屋敷の入口へ向かって歩き始める。そして屋敷の正面に着けている馬車に乗るべく扉から出ていった。オスカーはいつも見下したようにルイーゼを馬鹿にするのだ。顔立ちは綺麗なのに中身はとても意地悪だと思う。


 実はオスカーはアルフォンスととても仲がいい。現在テオパルトの下について宰相の実務の補佐をしている。テオパルトが引退したら、恐らくはオスカーが宰相となるだろう。幼いころから頭がよかったのもあり、勉強のために城勤めのテオパルトに連れられて、毎日のように城へ通っていた。城で一緒に過ごすことが多かったため、昔からオスカーはアルフォンスの側にいることが多いのだ。ルイーゼはアルフォンスの側にいられるオスカーをずっと羨ましいと思っていた。


 学園へ向かうべくオスカーと一緒に屋敷の馬車に乗り込む。ルイーゼはオスカーと二人で馬車に乗ると、いつも憂鬱な気持ちになる。向かい合わせに座って蔑んだような冷たい目で見られると、自分が価値がないもののような気がしてくるのだ。

 恐らくオスカーにしてみれば蔑んでいるつもりはないのだろうけれど。幼い頃から優秀な弟に対する劣等感が染みついているために、ルイーゼが見下されているように感じるだけなのかもしれない。だからルイーゼは学園へ到着するまで、オスカーの目を見ないようにいつも俯いているのだ。

 それにアルフォンスのことを聞いても何も教えてくれないのは、間違いなく意地悪だと思う。




 ようやく王都の郊外にある学園に到着し、オスカーと一緒に馬車を降りる。屋敷が近いのでルイーゼは毎日自宅から通っているが、学園には寮に住む学生も存在する。


(寮に住んだりしたら、エマとアンナがいないから縦ロールが作れないわね)


 そんな想像をしつつ自分の教室へと向かう。そして午前中の授業を受けながら、今日もルイーゼは昼休みを心待ちにしていた。決してお腹が空いていたわけではない。

 そして午前の授業が終わり、ようやく待ちに待った昼休みになった。


(今日こそは絶対昼食をご一緒させてもらうんだから!)


 そんなことを考えながら、うきうきとアルフォンスの教室へと向かった。ところが到着してみると、もうすでに他の婚約者候補の令嬢たちがアルフォンスを取り囲んでいた。どうやら一足遅かったようだ。

 令嬢たちの中心にいるのはルイーゼの大好きな王太子アルフォンスだ。肩ほどまでの癖のある銀の髪を物憂げにかき上げて、アメジストの瞳を困ったように細める。その端正な顔立ちと体つきはどの角度から見ても完璧な造形で、まるで美術品のように美しいとルイーゼは思っている。令嬢たちも皆そんなアルフォンスを見てうっとりと頬を染める。


「えーと、今日は何の用事かな?」


 薄く笑いながらアルフォンスが令嬢たちに問いかける。いつ聞いても震えるほど艶っぽい声だ。今にも耳が蕩けてしまいそうなほどに。

 ルイーゼは令嬢たちの間に何とか入り込み、アルフォンスに声をかけた。


「アルフォンス様、今日こそはぜひランチをご一緒させてくださいませ」


 アルフォンスはルイーゼに声をかけられた瞬間眉を顰める。その表情の意味が分からず、取りあえずアルフォンスの瞳に映ることができたことに満足する。すると、ルイーゼに先を越されたと思ったのか、他の候補の令嬢たちが次々に口を開く。


「いえ、今日は私がご一緒させていただきますわ」

「いいえ、私が先ですわ」

「ちょっと、押さないでくださる?」


――ドンッ


「あっ!」


 ルイーゼは勢い余った令嬢たちに押されてバランスを崩す。一瞬のことだった。咄嗟のことで反応できずに棒立ちのまま体が傾く。そしてもう目の前には床がある。手を付くのは間に合いそうにない。


――ゴツン


 無防備な体勢で転倒し、大きな鈍い音とともに頭部に激しい痛みが走る。


「痛っ……!」


 頭を打った瞬間目の前が一瞬真っ白になる。最初は痛みのせいかと思った。だが……


(あれ、私は……ルイーゼよね? え、何これ……!?)


 頭を打った瞬間に今まで見たことのない風景や人の顔、そして様々な記憶が一気に蘇る。そして全てを思い出した。

 どうやらルイーゼは、前世……所謂ルイーゼとして生まれる以前の人生において、日本という国でOLというものをしていたらしい。最後には不幸にも三十才で交通事故により日本人としての生を終えたようだ。そして前世を終えたあとに、今の世界でクレーマン侯爵家の令嬢ルイーゼとして生まれたのだ。なぜか今までは前世のことを思い出せなかった。いや、前世の記憶など思い出せないのが当たり前なのか。

 一気に大量の記憶が蘇ったせいなのか、それとも頭を打った衝撃のせいなのか分からないが、突然酷い目眩と激しい嘔吐感に襲われる。


 アルフォンスが急に転倒したルイーゼを見て驚いてしまったようで目を丸くしている。今までの優しげな笑顔から一変して表情を変え、慌ててこちらへ駆け寄ったあと、ルイーゼの上半身を抱えるようにして起こしてくれた。そしてルイーゼの上腕部を掴み、いつもの冷然とした表情から一変して焦燥感を滲ませた様子で尋ねてくる。


「大丈夫か!?」

「はい、ありがとうございます、殿下・・。私は大丈夫ですわ……」


 ルイーゼの言葉を聞いた瞬間、アルフォンスが目を丸くしたのに気付いた。だけど今は気にかける余裕がない。目眩が酷くてとにかく気分が悪いのだ。このままだと王太子殿下の目の前で嘔吐してしまうかもしれない。絶対にそんな醜態を晒すわけにはいかない。

 気分の悪そうなのを見かねてか、アルフォンスがルイーゼを抱えようと上腕部に添えた手に力を籠める。そして気遣わしげに申し出てくれる。


「保健室へ連れて行こう」

「どうぞお構いなく……。一人で歩けますので」


 片手で連れていってくれるという申し出を制し、丁重に断りを入れたあとアルフォンスから体を離す。折角の申し出を勿体ないとは思うが、途中で嘔吐するところを見られでもしたら乙女としては堪えられない。

 申し出を辞退したルイーゼを見て、一瞬アルフォンスが首を傾げたのが分かった。だけど今は倒れないように保健室まで歩くことで精一杯だった。




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