第5話 さくさくクッキー
ルイーゼは昼食を取ったあと屋敷の調理場へとやってきた。お菓子を作るためだ。縦ロールも化粧もしていないルイーゼを見て、使用人は皆、最初誰か分からないといった反応をする。今までずっと完全武装をしていたので、きっと素顔を忘れてしまったのだろう。なんだか悲しい。
今日の服装は、今までに着ていたゴージャスなドレスではなく、ごくシンプルな若草色のワンピースだ。前世の自分が休日にはTシャツにスウェットパンツかジャージを履いて過ごしていたことを思い出すと、ワンピースでも十分お洒落だと思う。
エマに薄いクリーム色のエプロンを準備してもらって着けた。そして髪も一纏めにして準備完了だ。
ルイーゼの目の前に立つヤンはうちの屋敷の料理人だ。四十才くらいの茶色の短髪が爽やかなイケオジだ。最初ルイーゼがお菓子を作るから場所を貸してほしいと言ったときは驚いていた。ルイーゼがお菓子を作るなど、使用人たちは夢にも思わなかっただろう。前世の記憶を思い出す前のルイーゼは調理器具を手にしたことすらないのだから。
今日はクッキーを作ろうと思う。ヤンに製菓道具を準備してもらい、いよいよ材料の計量を始める。材料は小麦粉とバターと卵と砂糖、それに数種類のドライフルーツとバニラビーンズだ。
当然のことながら前世のときにあった伝家の宝刀ハンドミキサーがない。あったとしてもバターは最初はホイッパーで擦り混ぜるしかないのだが。ルイーゼの筋力でホイッパーを使ってバターを攪拌するのは相当な重労働だ。明日は右腕が筋肉痛になるに違いない。
砂糖を入れて擦り混ぜたバターに、少しずつ溶いた卵を加える。分離しないように気をつけて都度均一に混ぜていく。その後に小麦粉をふるい入れて、ボウルを回転させながら練らないように全体を混ぜ合わせる。最後に生地を半分に分けて片方にドライフルーツ、片方はバニラで香りを付ける。
「ドライフルーツって好きな人と嫌いな人が結構分かれるのよね」
出来上がった生地をスプーンで掬って天板に振り落とすようにして並べていく。そして予め温めておいたオーブンに入れて焼成する。オーブンも当然電気やガスじゃなく薪だ。いくらルイーゼでも薪オーブンの温度を調整する知識はないので、ヤンに手伝ってもらった。そのうちちゃんと調整方法を教えてもらおうと心に決める。
焼成が進んでくるとオーブンから甘い香りが漂ってくる。
(これこれ、この香りが堪らないのよね!)
前世のときは、電気オーブンの正面からガラス扉越しに、そわそわと膨らむ様子を覗き込むのが楽しみだった。だけど今の世界に耐熱ガラスなどあるはずもなく。
(見えない……)
そわそわしながらも辛抱強く焼き上がるのを待って、ようやくオーブンから天板を取り出す。ルイーゼのクッキーは焼きたてがふわふわだ。これが冷めるとサクッと軽い口当たりになるのだ。調理場にいた使用人一同が焼き上がったクッキーを見て感嘆の声をあげた。まさかルイーゼがほぼ一人でやり遂げるとは誰も思っていなかったのだろう。早速ヤンに焼き上がったクッキーを一つ食べてもらった。
「っ……! 美味いです! それに口当たりが軽い。やはりバターの攪拌が……」
ヤンがクッキーを食べながらぶつぶつ何かを呟いている。何かに入り込んでしまったようなヤンを尻目に、ドヤッ!と腰に手を当て得意顔をしてみせると使用人の皆に感心された。誰にも突っ込まれず、ちょっと恥ずかしくなった。
使用人たちに出来上がったクッキーを一つずつ試食してもらったら、なんと全員に大好評だった。今までにこの世界で食べたことのあるクッキーは比較的堅めのものが多かったからだろうか。一方今日作ったクッキーはバターに空気を含ませているため、かなりサクサクしているのだ。生地が柔らかいから型抜きはできないけれど。
多めに作ったのでクッキーはまだたくさんある。熱を冷ましたあと残りのクッキーを丁寧に蝋引き紙に包んで、お茶菓子の分だけお皿に盛り付けてサロンへと向かった。
サロンのテーブルの真ん中にクッキーの皿を置く。そしてエマに紅茶を入れてもらった。午後のティータイムだ。折角なのでエマにも食べてもらおうと勧めてみる。
「こんなに口当たりの軽いクッキーは初めてです。とても美味しいですわ」
クッキーを口にしたエマは心から美味しいと思ってくれているようで、とてもいい笑顔で喜んでくれた。そんな顔を見ているとこちらまで嬉しくなってくる。
「まだお菓子を作る時間はあるけれど、そろそろ調理場も夕食の準備があるだろうし、また次の休日までお預けね」
「そうですね。それにしてもルイーゼ様にお菓子作りの特技がおありになるとは驚きです」
「そうね、知識だけはあるわ。でもいくら常温に戻しているとはいえ、バターを手で攪拌するのがかなりきついわ。筋トレでもしようかしら」
それを聞いたエマは最初首を傾げていたが、筋トレが筋肉を鍛えることだと告げると全力で反対された。別にいいと思うのだけれど。
そんなふうにエマと楽しくお喋りをしながら紅茶を飲んでいると、突然後ろから声をかけられた。
「ご機嫌よう。失礼ですがお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
声のほうへ振り返ると、そこには今まで見たことないほど優しい笑顔を浮かべるオスカーがいた。見た瞬間すぐに分かった。弟は絶対姉だと気付いていないと。
「何言ってるの?」
「……………もしかして姉上?」
そもそも髪の色が自分と同じなんだから気付けよと突っ込みたくなる。顔を見ても分からないとか……。ああ、だけど素顔で会うのはもう五年ぶりくらいかもしれない。
「久しぶり……?」
「意味が分かりません……」
「よかったら一緒にお茶でもしない?」
「はぁ……」
オスカーがテーブルの向かい側に座る。エマが新たに紅茶を入れて出すと、オスカーはゆっくりとそれに口をつける。クッキーも食べてもらおうと思い、勧めてみる。
「このクッキー、私が作ったのよ。よかったら召し上がって」
「なんですって……!?」
なんだろう、この反応は。オスカーが何か恐ろしいものでも見るような目でクッキーを見つめ、恐る恐る手を伸ばす。そしてゆっくりと口に運ぶ。
「っ……! 美味しい……」
「でしょ?」
目を丸くしてクッキーを食べるオスカーを見て、なんだか微笑んでしまう。今まで何をしても敵わなかった弟を感心させたことが素直に嬉しかった。そんなルイーゼの笑った顔を見てオスカーが再び目を瞠る。
「一体どういった心境の変化ですか?」
「うーんとね……」
オスカーはアルフォンスに近いところにいる。もしかしたら婚約者に選ばれないように協力してくれるかもしれない。そんな打算と、同じ家で暮らすのに自然体でいるには知ってもらうしかないという理由で、エマに話したときと同じように説明をした。
「信じられない……」
「そうよね。分かるわ」
それはそうだろう。前世の記憶が蘇ったなどという世にも奇妙な打ち明け話をすぐに信じろというのが土台無理な話である。
「クッキーもう少しいただいてもいいですか?」
「ええ、勿論よ。好きなだけどうぞ」
オスカーはクッキーを食べながら、ちらちらとルイーゼを見る。いい加減素顔に見慣れてほしいものだ。
「姉上が殿下の婚約者に選ばれたくないという理由は分かりましたが」
「ええ」
「今の姉上なら普通に殿下に気に入られるのでは?」
――なんてとんでもないことを言うのだろう、この弟は! ゲームの進行上、アルフォンスはヒロインに心を奪われる確率が非常に高いというのに。
「殿下にヒロインよりも好きになってもらう自信はないわ」
「ふむ……『ゲーム』のシナリオですか。厄介ですね。何らかの力が働く可能性があると?」
「それもあるけど、単純に私は女として自信がないのよね。だからお願い、協力してほしいの!」
そう言って両手を合わせてお願いポーズでオスカーにお願いしてみる。するとオスカーが大きな溜息を吐いて答える。
「協力するのは構いません。正直言うと、今の殿下の姉上に対する印象はかなり悪いです。ですが問題なのは、婚約者を選ぶのが殿下ではないということです」
「それは確かにそんな気がしていたわ……」
分かっていたけどはっきり言われると結構ショックだ。アルフォンスに一番近い場所にいるオスカーの言うことは間違いないだろう。
「ただ、殿下は自分で婚約者を選ぶ気がないから人に任せてるだけなんです」
「そう、本当に婚約者に興味がおありにならないのね」
「ええ。ですが殿下が拒否すれば、当然その意見は採用されるので、姉上を選ばないように進言してみます」
「ありがとう」
オスカーの気持ちが嬉しくてつい顔が綻んでしまう。
「でも姉上が相手なら殿下も……」
「え?」
「いえ、なんでもないです。それにしてもそのヒロイン、モニカ嬢でしたっけ? もうすぐ学園に転入してくるんですか?」
「ええ、恐らく。そしてモニカさんの選択によってはオスカーにも接触してくると思うわ。もし貴方が彼女をいいと思うならその気持ちを尊重したい。けれど、彼女が逆ハーを考えているのならあまり貴方にお勧めしたくはないわ」
弟が逆ハーの取り巻きの一人とか想像するだけで寒すぎる。
「ふふ。分かりました。それにしても姉上は中身が別人かってくらい変わってしまいましたね。殿下のことはもう好きではないのですか?」
滅茶苦茶恥ずかしい質問をされた。弟と恋バナって凄く照れるんですけど。
「……アルフォンス殿下のことは好きよ。それは今も変わらないわ。殿下の人となりをあまり知らないのに外見だけでって言われたらそうなのかもしれない。でも初めて会ったときからずっと好きだったの。理屈じゃないのよね」
「そうですか。それなのに頑張りもせずに諦めるんですか?」
オスカーの言うことは分かる。でも本当に自信がないのだ。
「それについては繰り返しになってしまうけれど、不幸な未来が待っていると分かっている以上、婚約者になるわけにはいかないの。挑むよりも逃げることを選んだ。ヘタレなのよ、私は。でも素顔であれば貴方の……友人の姉として仲良くしてもらえるかもしれない。愛されない王妃よりそのほうがいいもの」
「そうですか。分かりました。僕も協力します。今の姉上を殿下に紹介できないのがとても残念ですが、仕方がありませんね」
「ありがとう。よろしくね」
オスカーは優しく微笑んでゆっくりと頷いた。そしてクッキーが欲しいというので半分分けてあげた。凄く喜んでくれた。気に入ってもらえて何よりだ。
婚約者の件はオスカーには手間をかけさせて申しわけないと思う。だけどオスカーに打ち明けたことで婚約者に選ばれないようにできる可能性が増えた。大きな進展だ。
だけどこのときまだルイーゼは知らなかった。もう嵐がすぐそこまで来ていることを。
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