第4話 休顔日
「はっ! 夢……」
ふと目を覚ますと汗をびっしょり書いている。今日は汗だけじゃない。涙が眦から零れてこめかみに流れていたようだ。前世を思い出した今なら昨夜見た夢が何なのかはっきり分かる。
――王妃のことを決して愛さずに十人の側妃を持った王。そしてそんな王をずっと待ち続ける王妃。
「この夢は殿下の妃になる未来だったんだわ。私が絶対に避けたい未来……」
今日は学園が休みだ。それなのに、いつものように学園に行く時刻の三時間前には起きてしまった。
「今日は朝寝しようと思ってたのに……。習慣って恐ろしいわね。そうだ。汗が気持ち悪いからいつもよりゆっくりお風呂に入ろうかしら」
ルイーゼは浴室で浴槽に浸かりながら物思いに耽る。お湯から伝わってくる温かさが疲れた心と体に浸み渡る。
昨日からずっと考えていたのだ。学園が休みの今日は、絶対に、必ず、何が何でも休顔日にしようと。なぜなら毎日ずっしりと重い化粧のせいで肌が荒れてしまうのではないかと怯えていたからだ。心なしか唇も荒れている気がする。前世では服や化粧品には一切関心を持たなかったが、肌荒れや髪の傷みには人一倍気をつけていたのだ。
髪も痛んでいる気がする。確か王都の商人から仕入れたというトリートメント剤が浴室にあったはずだ。この間エマがそう言っていたのを思い出す。
棚の上にあるのを見つけ、トリートメント剤を手に取り、腰までの長い髪を両手で挟みながら馴染ませる。馴染ませ終わったらお湯を絞ったタオルで髪を纏めて包んでじっくり浸透させる。そしてそのまま再び浴槽に浸かってくつろぐ。
「はあ~ぁ、気持ちいいわぁ」
お湯に浸かっていると昨日までのストレスが体から溶け出していくようだ。とても心地いい。今日はストレスフリーな一日にするのだ。ずっと屋敷に引き籠って好きなことをしよう。縦ロールも化粧も一切しない。
しばらく時間を置いてから髪に馴染ませていたトリートメント剤を流した。心なしか蜂蜜色の毛先がプルンとした気がする。
「プルンよ、プルン。最高!」
半身浴を織り交ぜて一時間くらい浴槽に浸かってからようやく浴室を出た。
長い入浴を済ませたあと、髪を乾かして自室の鏡の前に座り、改めて自分の姿をじっと見る。鏡に映る白い肌はきめが細かくすべすべしている。思ったよりも化粧によるダメージはなかったようだ。身長もこの一年で少し伸びた。今百六十五センチくらいだろうか。そして童顔の割に出るところは出ている。ウエストが細い割にふっくらしたお胸。
「くっ! 流石殿下の婚約者となるキャラクターだけあるわね」
胸を両手で支えながら大きさを確かめる。童顔なのは変わらないが、前世の自分が全体的にフラットだったのを嫌でも思い出してしまう。
蜂蜜色の金髪は腰までの緩やかなウェーブを描いている。今トリートメントしたばかりだからか、艶々として滑らかだ。そして顔立ちもなかなかに整っている。悪役令嬢という雰囲気はない。少し幼くどちらかと言うとあどけない顔だ。
さらにじっと顔面を見る。睫毛がとても長い。あれだけ普段化粧しているのに瞼から抜けずに頑張ってくれている。睫毛、でかした。
その長い睫毛の下には大きなエメラルドグリーンの瞳が見開かれている。顔はオスカーと似ているが、オスカーのきりっとした目に比べると丸みがあってくりっとしている。そのせいなのか姉なのに弟よりも幾分か幼く見えてしまう。
唇はぷっくりして桜色で小さい。ただ普段いつも口紅をべっとり塗っているからか、少し荒れ気味で乾燥している。お風呂に入ったばかりなのもあるだろうが、唇に何か塗ったほうがいいのではないだろうかと心配になる。例えば蜂蜜とか……。
そうしてしばらく鏡を眺めているとエマが部屋に入ってきた。そして鏡越しにルイーゼを見たあとに尋ねてくる。
「今日は
「うん、今日はいいわ」
前世を思い出す前の自分は、学園が休みの日でも髪を巻き、化粧もいつも通りに施していた。幼く見られるのが嫌だったからだ。しっかりしている弟と比べられるのが嫌で、必死に背伸びしようとしていたのだと思う。
「縦ロールもお化粧もなしで。今日は休顔日にしたいの」
「休顔日、ですか?」
エマがきょとんとして首を傾げる。確かに耳慣れないだろう。ルイーゼが作った造語なのだから。
「そう。いつものは髪にも顔にも負担が大きいから」
「ルイーゼ様。本当に一体どうなさったのですか? 昨日からなんだかその……」
「おかしい?」
「……はい」
笑ってそう尋ねるとエマが言いにくそうに答えた。エマの表情からはルイーゼを心から心配しているといった思いが見て取れる。確かに今のルイーゼの態度は明らかに今までと違う。だからこれ以上黙っているのは無理があると思った。この愛すべき心配性の侍女はいつもルイーゼを間近で見てきたのだから。
これからはせめて家の中では自然体で過ごしたい。そのために家族とエマにだけは前世のことを打ち明けるべきだと思った。そう心に決めて、鏡の前の椅子に座ったままエマのほうへ振り返る。
「エマ、お話があるの」
「なんでしょう?」
一昨日アルフォンスの取り巻きの令嬢に押されて転倒し、頭を打ったことで前世の記憶が蘇ったこと。そのときに思い出した乙女ゲームのシナリオのこと。そして不幸な未来を避けるために、アルフォンスの婚約者になりたくないということをエマに打ち明けた。
エマはずっと黙って話を聞いていた。最初は俄かには信じがたいと言った表情を浮かべていた。それはそうだろう。こんなに奇想天外で奇妙奇天烈で摩訶不思議な話はないと思う。
だが前世でしか知るはずのない知識を細かく説明すると、最後にはなんとか納得してくれた。納得せざるを得なかったのだろう。それでもどこか信じられないといった様子ではあるが。
「そうですか……。おかしいと思っていたのです。いつものように『今日こそはアルフォンス様の心を射止めてくるわ』ともおっしゃらなかったですし。いつも学園へ行くのを楽しみにしていらっしゃるのに、昨日は何か憂いを抱えていらっしゃるように見えましたから」
どうやら思い切り顔に出ていたらしい。それだけエマがルイーゼのことをよく見ていてくれているのだろう。本当にありがたい。それとも自分は演技力がないのだろうか。そう思うと、これからアルフォンスを上手く騙し通すことができるだろうかと不安になってしまう。
「ごめんね。昨日はあまり事情を説明する時間が無かったから」
なんだか心配させたことが申しわけなくてそう伝えると、エマはきりっと表情を引き締めて答える。
「いえ、私はルイーゼ様の無駄にゲフンゲフン……前向きな姿勢に大変好感を持っておりました。どんなに冷たくされてもめげない鈍……ひたむきさに感動すら覚えておりました」
なんだか所々引っかかるところはあるが、好感を持ってくれていることは伝わってきた。
「しかしながらあの装いに関しては、ずっとどうにかして差し上げたかったのです。折角お可愛らしいのに、それを隠してしまって勿体無いと、常々思っておりました」
「そうだったの……。私も今までは気付かなかったけれど、記憶が蘇ってからは貴女の気持ちが分かったわ。私も今までの格好はケバいと思うし」
そう言うとエマの表情がぱぁっと明るくなった。安心してもらえたようでよかった。それにルイーゼがようやく共感を示したのが嬉しかったのかもしれない。
「でもルイーゼ様、いくら休顔日だからと言って何もつけないのはかえって良くないのですよ」
「え、そうなの?」
エマは大きく頷き話を続ける。
「太陽の光もある程度なら体のために良いのでしょう。ですが肌にとっては日焼けしないほうがいいのです。ですから日焼け止めのクリームを薄く塗りましょう。この間王都の商人から仕入れたものがありますので」
「まあ、そんなものがあるの!?」
思わず前のめりに聞き返してしまう。するとエマがにっこり笑って答えた。
「ええ、新商品だそうですよ。潤いを与えて保湿する効果もあるそうです。そして唇にも保湿用の唇専用のクリームを塗りましょうね。ほんの少しだけ色づきますがルイーゼ様は少々唇が荒れてらっしゃるようなので」
「まあ、嬉しい! 蜂蜜を塗るしかないのかしらと思っていたの!」
――王都の商人、褒めて遣わす。
などと考えながら、たっぷり化粧水を含ませたあとに、肌と唇に薄くクリームを塗って化粧を終えた。髪は下ろしたままだと邪魔なので緩く編んでハーフアップにしてもらった。
(ああ、軽い。楽だ。ストレスフリーだ。何たる開放感!)
顔も髪も軽くなると足取りも軽くなる。心持ちスキップしながらエマと一緒に自室を出た。
(引き籠りたいけど一日中だと暇を持て余しちゃうわね。何かやることはないかしら)
屋敷のサロンにあるテーブルの椅子に座り、エマに入れてもらった紅茶を口にしながら考える。
(そうだ! お菓子を作ろうかしら。今まで意識したことはなかったけれど、屋敷での食事のデザートにスイーツが出てきていたから、この世界にも砂糖やバターや卵があるはずだわ)
前世の趣味はお菓子作りだった。洋服や化粧品を買う代わりに製菓道具や焼き菓子の型を買い集めていた。勿論スマホゲームにも課金していたが。デートなどに使う必要がなかった分、金銭的な余裕があったのだ。
「エマ、私お菓子が作りたいのだけれど」
「お菓子でございますか……? それでは料理人のヤンに話してみましょう」
ルイーゼは前世でよく作ったお菓子のレシピを記憶していた。流石に全てを覚えているわけではないが基本的なお菓子は作れる。後はアレンジでどうにかなるだろう。
万が一婚約者に選ばれてしまって、そのあとアルフォンスがヒロインのモニカと恋に落ちてしまったら……。
(そしたら断罪される前に婚約を辞退して侯爵家の籍を抜けよう。平民になって市井へ降りてお菓子のお店を開くのもいいかもしれない。なんだかわくわくしてきたわ)
侯爵家に投資してもらって少しずつお金を返す。この世界にはないお菓子のレシピを覚えているから上手くやれる自信がある。そんな未来を想像して、ふと顔が綻んでしまう。
こちらから婚約を辞退する代償として侯爵家の籍から抜ける。アルフォンスにそう言えばお咎めはないはずだ。そうすれば我が家の誰も責任を問われることはないだろう。こちらに婚約続行の意思がないことが分かればヒロインを虐めたとは疑われないと思う。希望的観測かもしれないが。
ただ懸念されるのは、ゲームのシナリオ通りに進もうとする何かの力が働かないかどうかだ。もしそんな神様のような力があるのなら、婚約者に選ばれないようにするのも難しいのかもしれないが。
何はともあれ幸せな未来のためにできることは全てやるしかないと思っている。あの不幸な未来を全力で回避するのだ。そんな決意を胸に秘めながらも、足取りも軽やかに屋敷の厨房へと向かった。
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