第十四話 失恋
「九百五十八……九百五十九……」
波乱万丈な一日が終わり、朝日が差し込む宿屋の部屋の中で、ルートは日課の腕立て伏せを行っていた。
部屋に備え付けられた三つのベッドの一つには、まだレイが寝息を立てている。残りのルートが使っていない方のベッドには使用された形跡がなかった。
「九百九十九……ん?」
腕立て伏せがようやく目標の千回に到達しようとした時、部屋の扉がノックされた。
「ルート、起きてる? 私だけど」
「ちょっと溜まった欲を発散してるところだから待ってくれ」
声から扉をノックしたのがリナとわかり、入室を拒んだルートの返事は全く考慮されず、すぐに扉が開けられた。
「いつもの日課でしょ。なに卑猥なことしてるような言い方してるの。変態」
「別の日課かもしれないじゃん。それに俺は卑猥なことなんて一言も言ってないんだけど? あれれー? 変態はどっちかなー?」
いつも通り子供の様にリナを煽るルートの頭上に、いつも通り鞘に収められた操魂の死刀による一撃が叩きこまれた。
「いっっったああああ!」
「んがっ……何だ、リナとルートか」
「レイさんごめんなさい。起こしちゃいましたね。ところで団長は?」
ルートが殴られた音で、今までずっと寝息を立てていたレイが目を覚まして、ベッドの上で上体を起こした。
目を覚ましたレイはその顔の良さも相まって男とは思えない色気を放っており、その妖艶な雰囲気の前には、左腕の欠損という不自然すらその美しさの一部の様に見えてしまう。
(本当に寝起きのレイさんは、いつにも増して卑猥ですね……)
【竜と猫】の中ではシルと並んでレイとの付き合いは最も長いリナからすれば、レイの顔の良さは今に始まったことではない。
しかし、こんなものをそこらの人々が見た暁には、しばらく言葉を発することもできないだろうとリナは確信出来る。
「気にしなくていいよ。昨夜はよく眠れたからね。シルは……僕は昨日すぐに寝てしまったからわからないな」
「団長なら夜遅く帰ってきて、また朝早くにどっか行っちまったぞ?」
昨夜二人が寝静まった後にシルは帰ってきた。そして、まだ眠りが浅かったルートだけがシルの帰還とそのいつもと違う様子に気が付いていた。
「そういえば、なんか昨日の団長はどっか元気が無かったような……」
「昨夜シューネさんと何かあったのかな? とりあえず予定もないことだし、朝食を食べたらシルを探しに行こうか」
いくら所々で適当さが伺える性格のシルとはいえ、朝っぱらから誰にも告げずに姿を消すのはかなり珍しい。ましてその様子のおかしさに、鈍いルートでも気づいたのは明らかに異常だ。
「りょーかい。リナ、ノル姉は?」
「もう起きてたから呼んでくる」
「それじゃあ十分後に一階の食堂に集合しよう」
休日の予定をシルの捜索に決定し、三人はそれぞれの準備に取り掛かった。
◆◆◆
「おーい! 団長の目撃情報発見したぜ!」
思っていたよりもシルの手掛かりはすぐに見つかった。
ルートが得た情報によれば、早朝に東の森へ向かったのを東の門の衛兵が見ていたらしい。
そして、その様子が明らかにおかしかったことも。
「賭け事で有り金全部擦った時でも、もうちょっと正気保ってたと思うけど。シルがここまで落ち込むってなると、やっぱりシューネさん関係かな?」
「タイミング的に考えてもその説が濃厚でしょうね」
真実は定かではないが、昨夜のシューネとの密会がシルの奇行の原因である可能性が高いことを全員が想定し、特にリナはほぼ確定として考えていた。
(まさか団長にとって、シューネさんがここまで大きな存在だったなんて……)
シルの余りの狂い様を聞いて、リナはシルという人間を構成する要素としてのシューネが占める割合を、大きく見誤っていたことを強く実感した。
シルの昔話を聞いてリナがシューネに対して抱いていた印象は、元恋人程度でしかなかった。初恋をこじらせた男が傭兵稼業がてら、かつての幸せの幻影を追い求めているだけだと。
所詮は八年も前の過去。何事にもポジティブなシルの事だ。きっぱりと振られれば、きっと過去を過去と割り切れるはずだとリナは思っていた。
(思い返せば、私がそう信じたかっただけなのかもしれない)
それが蓋を開けてみればどうだろうか。
シューネはシルにとって生きる理由そのもので、世界そのものだった。同じ感情をシルに抱いているリナだからこそ、間違いなくそうだと言い切れる。
その感情は確かに愛には違いない。しかし、その関係は依存と呼ばれるものだ。とても揺らぎやすく危うい関係、それが依存だ。
(たとえそれがどれだけ脆く、一時的なものであったとしても、団長が幸せなら私はそれでいい。とにかく今は……)
「とにかく今はシルを見つけよう。目撃証言を総合すれば、おそらくシルは王都の東の門をくぐった筈だ。そっちの方に行ってみよう」
「りょーかい」
「全くしょうがねぇなあ、団長は。よっしゃあ! 行こうぜ!」
「ルート、そっちは北」
全員がレイの提案に応じ、一斉に東に向けて歩き始めた。
◆◆◆
「ふーんふふふーんふふふっふふっふふふふふ」
東の門を抜け、少し歩いた先にあったザンドーラを一望出来る崖の上にシルはいた。
昨夜、シューネの部屋を出てからの記憶は一切なく、朝目覚めるとシルは宿のベッドで横になっていた。
特に何か目的があるわけでもなく、本能の赴くままに宿を出て、気が付けばこの崖の上で膝を抱えて即興で作った歌を口ずさんでいた。
「ふう……いい天気だな」
「どう見ても曇りですよ!」
一切脳を使わずに発したシルの独り言にツッコミを入れたのは、背後から現れたリナだった。
「何だ……お前らか」
数時間ぶりに見たシルの顔は、瞼の下には濃いクマがあり、その瞳にははっきりと絶望が映っていた。
「そんなに落ち込んでどーしたの? シューネさんにフラれた?」
ノルノの発言がただでさえ暗い場の空気を、更に凍り付かせた。
「あれ? 図星……?」
「ノル姉⁉ なんでいきなりぶっこんだ⁉ アホなの⁉」
「ノルノ……君ってやつは」
「私初めてノル姉に殺意感じてる……」
「だってこんなシル見るの初めてなんだもん! むしろどうすればいいの⁉」
ノルノの失言をシル以外の三人が揃って批判する。
その批判に対して、ノルノも抗議を口にする。
「気にすんな。しばらくほっといてくれ……」
「そうそう! 失恋なんて時間が解決するって! それに団長には竜神教をぶっ潰すって目的もあるだろ?」
シルがシューネとの再会と同じくらい望んでいた願い。
それは竜神教を壊滅させることだ。
シューネと出会ってから、正直竜神教のことはほとんど調べてはいなかったが、その状況は八年前に一変した。
「もちろん奴らには必ず報いを受けさせるさ」
八年前に村を襲った盗賊、その頭領とシルは一騎打ちの末にシルがからくも勝利した。その頭領は死に際に村を襲撃した背景を語った。頭領曰く、村を襲ったのは竜神教の依頼であったからだった。
それからこの八年間、シルはシューネの捜索と共に、竜神教の情報も同時に収集してきた。それにもかかわらず、得られた情報はほとんど皆無に等しかった。
しかし、シューネにフラれる事と竜神教への復讐は別だ。例えシューネにフラれようと、竜神教への復讐は必ず果たさなければならない。
だが、今はさすがに何か行動を起こす気は起きない。
「とりあえず今は死にたい気分なんだ。しばらく一人にしてくれ」
今にも号泣しそうな震えた声で呟くシル、そんなシルに初めに言葉を返したのは、その場のだれもが予想していない人物だった。
「おやおや! 仲間割れですかぁ? そんなに死にたいのなら、僕が殺して差し上げますよ?」
顔は記憶に新しいが、その言動は昨夜のものとは一致しない。
「貴方は、確か……」
実際に戦ったリナが名を思い出すより速く、男は自らの名を口にした。
「昨日はどうもお世話になりました! そこのお嬢さんに瞬殺された雑魚こと、ヴァイス・プラウドですよぉ」
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