金魚鉢
雨月夜
第1話
乗用車の助手席と謂う異空間が、好きである。
特に、雨の日や深夜。全く知らない道を走る時。高速道路の規則正しいヘッドライト。愛する男が運転する車の中。
まるで世界から隔絶された様に感じられて、其処から眺める外界は殊の外美しい。
だから私は何時も、其処で夢現の譫言を吸って吐く。
他者から干渉されない代償に、何処にも行けない。
外界の全てが滅びても解らない代わりに、其処から出ては生きていけない。
その空間を操る運転手という存在が停車という選択をするまで、私に自由はない。
まるで、飼われているみたいだ。
そんな妄想を吐き出したところで、きっと何の意味もない。
隣に座る優しい男は、少し虚を突かれたような顔をして、それでも一生懸命にその真意を理解しようとするだろう。
でも、彼が私を完璧に理解することはない。
人間は「蝙蝠であるとはどういうことか」というパラドクスを、永久に解くことは出来ないのだから。
彼の、ハンドルを握る指。対向車のヘッドライトが反射する眼鏡。男性らしい腕。
外界を眺める合間に、私は時折隣の男を愛おしく見つめる。
此の異空間を好ましいモノとして享受するには、空間の支配者たる「運転手」が誰であるかは非常に重要だ。
実際に私は、彼以外の数人の運転手を除いて、他者の運転する車に乗ることを嫌悪している。
…まあ、数人は存在するのだけれど。
特定の支配者にのみ隷属するのは性に合わない。
被支配者でありながらも、支配者を選ぶのは常に自分。それが私の下らないプライドだ。
愛おしく見つめながら、私はよく、相手にちょっかいを出す。
それに反応し、手を差し出して、撫でてくる人も居る。
全部が全部、只の愛玩動物と飼い主のじゃれ合いの様なモノだ。
彼は、私の手に触れることを好む。
時折、頭や喉を撫でてくることもある。
だから私は今日も、その手にじゃれる様に纏わり付いて、猫の様な声を出して遊ぶのだ。
「ハイハイ。可愛い可愛い。」
そう言う彼の声は、どこか明るい。
当然であろう。
だって私は、彼が「そう言いたい」と心から欲していることを、知っている。
カーブの多い道に差し掛かり、彼が両手をハンドルに戻す。
すると私は、再び外界の観察に集中することになった。
車窓から眺める外界は、綺麗だと思う。
私は俗に言う、社会不適合者である。
私にとっては、社会も文化も人も、全てが理解に苦しむ偶像だ。社会の波も、人間社会における流れも、人間関係に漂う空気も、私の周りには存在していない。人はそれを「感じられていないだけだ」と嘯くが、感じられていないのであればそれは無と同等だ。
だから私は、外界に興味がない。
美しいと思ったこともなければ、醜いとも感じない。どうでもいいのだ。
無いモノに対して、愛情も憎悪も感じるはずがない。
ただし、それでも外界に存在しようとする試みは、苦痛である。
その点においてのみ私は外界を嫌悪しているし、避けて通りたいと感じる。しかし、人間等と謂うカタチをしている以上、避けることは出来ない。
だから私は、此の異空間が好ましい。
そして、此処に存在しながら眺める外界は、不思議と美しいのである。
きっと、窓ガラスが歪んでいるのだろう。
金魚鉢から金魚が外界を眺める際にも、その世界が歪んでいるという様に。
ふと、以前彼と展望台に登った際、彼が呟いた言葉を思い出す。
デートスポットの定番の様な夜の展望台。街中の夜景が美しく見えるその場所で、私の手を握った彼は、少しだけ悪戯っぽく笑ってこう言った。
「水族館の魚が外を見る時も、こんな感じなのかなぁ。」
その余りに純粋な言葉に、私は愕然とした気持ちになったものだ。
彼の言葉と私の感覚は、似ている様でまるで違う。
私は外界で生きられないのだ。
弱くて、愚かで、肺呼吸の仕方さえ知らない欠陥品だから。
外界に興味もないし、美しいとも感じない。そこで私が生きることは無い。
でも、彼は違う。
色々言いながらも、人の中で生きている。
人を、世界を、心から愛しているのだ。
私は、誰かに保護され、世話をされて初めて、息をする事が出来る。
自分は、ロクに愛することさえ、出来ないクセに。
異空間でしか長くは生きられない、人間の模造品だ。
ガラス越しに歪んだ世界を見て、初めてその色彩を美しいと思う。
そんな歪な生命体の感覚と、彼の純粋な言葉が同等である筈がない。そんなことは、あってはならない。
唐突に、車が停車する。
人気のない夜の公園の駐車場。隅の方に長距離トラックが休憩しているだけの其処に、彼は車を駐車した。どうやら、休憩の様だ。
「ちょっと休ませてね。」
案の定そう言う彼の言葉に、私は頷く。
ここで私が車を降りて公園を歩くことを選択しても、この場で眠ることを選択しても、彼は絶対に自由にさせてくれる。
むしろ「休憩は嫌。」と言えば、無理をしてでも車を出してくれる。
だって、私は、愛されているから。
いつかあの女が嫉妬した「愛される才能」というモノは、私の中に確かに存在していて。
でもそれは、同じ女が蔑んだ「社会不適合者」という事実のオマケみたいなものだと思う。
手がかかるものは、その分愛されるのだ。
「他者に手をかることで、自分の存在を承認したい」と欲する人間が存在する限り。
愛玩動物は全てそうして生きているし、金魚なんて「愛される」以外の才能はない。
人間とは、きっと、自由な生き物だ。
でも、この「愛される」ことを選択して、私は不自由を選ぶ。
不自由の中でしか、生きられないのだから。
私は、運転席で軽く伸びをした彼の腰に、抱き着く。
彼は何時もの様に少しだけ虚を突かれた様な顔をした後、優しく笑ってそんな私の頭を撫でた。
私の頭を撫でていた彼の手は、いつの間にか腕や背中を撫で始める。
啄む様な口付けは、やがて舌を絡めるモノに変化する。
当然の流れだ。
私が女で、彼が男で。その2者が男女の仲で在る限り。
しかし私は、体に口付けられるのが嫌いだし、そもそもカーセックスは好まない。だから、当然の様にその先に進むことはあり得ない。
彼の中にはきっと、男の本能としての欲求は存在していて。しかし、必ず私の意向を尊重してくれる。
ただただ、愛玩されるだけの行為。
それに、大した意味等存在しない。
強いて言うなら、愛玩されること自体が、私が此処に存在する意味であろう。
ふと、彼の手が止まる。
彼の視線の先には、見えない「誰か」が居ることを、私は知っている。
だって彼は、私が同じ様に他の誰かに愛でられていることを、知っているのだから。
「どうかしたの?」
私は解っていて、敢えてとぼけた振りをして、首を傾げる。
出来る限り自然に、尚且つ愛らしく。
酷い女だと、誰かが嗤うだろうか。
きっと彼には、私を憎む権利がある。
だから私は、彼に殺されても良いと思うのだ。
しかし以前、それを伝えると彼は「それなら、俺の為だけに生きて。」と、縋る様に優しく笑った。
馬鹿な人だと思う。だからこそ、愛おしい。
その純粋さを尊敬し、嫉妬し、喰らい尽くしたいと希求する。
その歪んだ情が、私の中に確実に存在する「愛」だ。
「なんでもないよ。」
彼はそう笑って、まるで宝物でも扱うかの様に、私の身体を抱き寄せる。
そのまま座席を倒して、2人で只、其処に横になった。
耳元で、彼の息遣いだけが聞こえる。
窓から差し込む、街灯や通過する車のヘッドライトが、美しい。
時折囁かれる彼の「愛しています。」という声が、心地良い。
殺せばいいのに、と思う。
金魚は、世話をする人間がその死を願った時、それから逃れる術はない。どの道、金魚鉢の外では生きられないのだから。
私は彼を、強く抱きしめる。
呼応する様に、彼も私を抱く力を強くする。
その生々しい体温だけが、私が人間として生きていることを証明していた。
金魚鉢
(何処にでも行ける自由なんて)
金魚鉢 雨月夜 @imber
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