第5話 白の悪魔と赤の女王
眼前にいる女性は呉モヨコと名乗ったが、モヨコは運が良いときに呼ばないと来ないのではなかったのか。そもそも今の奇術じみた七変化はどうやって行ったのか。なんのために現れたのか。
短時間の間に疑問が洪水のように溢れ出て、しかし口から発されたのはその僅かな一滴であった。
「どうして、モヨコさんが、ここに……?」
「ぼくはね、君に探偵としての心構えができてないんじゃないかと心配になって、わざわざ忠告しに、老体に鞭打ってえっちらおっちらやってきたのさ」
呉モヨコは「感謝したまえよ」と言って、その場で宙返りしてみせた。下駄を履いているにもかかわらず、着地時にすら音が全く立たず、眼前の女性が幻影なのではないかという錯覚を覚えてしまう。
「わたしの足りてないところ、ですか……?」
「本来、君は今までの情報だけで全ての謎が解けたはずなんだよ。それが、観察力の不足によってこのような事態を招いてしまっている」
モヨコは微笑みを絶やさずに、教え子に諭すような慈悲深い声音で続けて言った。
「君は既に重大な見落としをみっつもしてしまっているんだよ。探偵としてそれは致命傷だぜ」
「見落とし……? それってどういう……?」
するとモヨコは底知れない笑顔で人差し指を立てて、
「ひとつめ。君、手の甲をよーく嗅いでみたまえ」
言われて通りに嗅ぐと、そこには、シトラスの香りが染み付いていた。
すぐさま全身を覆う悪寒。
目の前が暗くなる現象を、桃香はこのとき初めて体験した。
モヨコは妖艶に口を開けると、中指を立てて、
「そしてこれが、ふたつめだ」
その瞬間、桃香は自分の手から血が吹き出しているのに気がついた。体からひどく冷や汗が出る……。いや、これは汗ではない。黒々とした血液が身体中から溢れ出しているのだ。
堰を切ったように、桃香は体が内部から溶け出して、血液から内臓から皮膜からなにからなにまでおしなべて弾け飛び……。
しかし、次に目を開けたとき、そこは依然女子トイレで、目の前には呉モヨコがいて。自分の体は完全に普段通りに五体満足であった。意識を失う前とほぼ同じ風景だったが、モヨコはいつの間にか死装束からミニスカナース服に着替えていた。右手にはピンセットを携えている。
「高度に発達した外科医術は魔術と区別がつかない。原子レベルで健康体を再現してあげたぜ」
桃香の体が破裂した瞬間。モヨコは1秒にも満たない時間で桃香の体細胞、血液全てをを拾い上げ、異物を排除し、原子単位で組み直したのであった。
桃香が呆然と立ちすくんでいると、モヨコは
「次はないぜ。みっつめは自分で考えな」
とだけ言ってトイレから去っていった。最後まで、足音も衣擦れの音も全くしなかった。
桃香がひどく青い顔でトイレから出てきたので、冴は心配になって声をかけた。
「桃香ちゃん、そんな世界が終わるみたいな顔してどしたの。終末級にひどい下痢だったの?」
「いや……モヨコさんに……会いました……」
悪夢の邂逅のダメージが抜けきらず、言葉も途切れ途切れになる桃香に、冴は納得したような憐憫するような微妙な声で「あー……」と言った。
「あの人が絡むと悪い結果にはならないにしろ、ロクな体験をしないからね……」
「ネコ型ロボットかと思ったら闇医者でした……」
「いや、二十面相かもよ……いっつも『高度に発達した変装術は魔術と区別がつかない』とかいって……」
「まさか全能なんですか……?」
「なんでもできるだけならいいんだけどね……あの人無音で炒飯作ったりするから不気味なんだよ……」
冴と桃香はしばらくの間職務を忘れて、モヨコに関する恐怖体験を語り合っていた。
と、花市からの電話がかかってきて、冴はびくりと身を震わせた。
「仕事してないのバレたのかな……? 怒られたらどうしよ」
「言われる前に謝りましょうよ……」
「ぜったいやだよ。怖いもん」
戦々恐々としながら電話に出る。
しかし花市は特にいつも以上に怒っているなどということはなく、いつもどおりの不機嫌で淡々とした口調で話す。
「新情報だ。三ッ角大学病院に侵入した食屍鬼だが、逮捕直後『女王から離反した』とかどうとか抜かしてたらしい」
「それってもしかして赤の女王?」
「おそらくな。それと、奴らどうやら一箇所に集まろうとしてやがる。集会場所はまだ割り出せていねえが、食屍鬼の通る可能性の高いポイントは解析できた。場所を教えるからさっさと行け」
花市は言い終わるとすぐに電話が切った。直後、マーカーで印のついた地下道の地図が送られてくる。
冴と桃香はすぐに移動を開始した。
「そういえば赤の女王ってなんですか?」
「ああ、最近急に現れた強力な食屍鬼って言われてる。なんでも穏健派の頭領だってさ」
「穏健派? 食屍鬼にそんなものがあるんですか?」
「そそ、自分から人間襲わない食屍鬼がそう自称するんだよ。駆除されないためなんだと思うけど……」
人間を襲わない食屍鬼。あのおぞましい姿からはとてもそんなものは想像できないけれど、元が人間だということはどれだけかの人間性も残されているのかもしれなかった。
目的地はいくつもの地下道へと繋がる分岐点であった。桃香は地下道それぞれの入り口で匂いを嗅ぐ。そのうちひとつの前に来たとき、桃香は立ち止まって、
「ここから微かに食屍鬼の匂いがします!」
冴はそれを聞くなり、地下道の奥へカラスが飛ぶように高速で駆け込んでいった。桃香もそれに続くが、あまりの速さに追いつけない。
「そろそろ成果を挙げないと花市さんに怒られちゃう」
やがて冴の眼は前方に黒い影を捉えた。指にナイフの刃先を当て、食屍鬼に向かって血を飛ばす。血は注射針へと姿を変え、食屍鬼の腕に突き刺さる。低いうめき声が聞こえて、食屍鬼は腕をかばいながら走り始めた。
冴はそこで立ち止まり、桃香が来るのを待った。桃香は息を切らしつつも追いつき、逃げ去ろうとしている食屍鬼を見て、
「追わなくていいんですか?」
と言った。冴は「いいの、いいの」と人差し指を左右に振る。
「ゆっくりいこーよ。道はあの子が教えてくれるからさ」
冴が指で示した先には、ぽつぽつと赤い血痕が道に従って続いていた。逃げる食屍鬼の傷口から垂れた血液だ。
「冴さんすごいです!」
称賛を受けた冴は当然ご満悦で、
「でしょ? もっと褒めていいよ」
と胸を叩いてるんるん歩いていた。
血痕に従って進んでいくと、かつてないほど密度の高い腐敗臭が漂ってきて、桃香は顔を歪めた。
「たくさんの匂いが混じってますね……。数が多いのかもしれません」
冴はうなづいて、そこからは注意深く足音を立てないよう進んでいった。
やがて、トンネルの先に広い空間が見えてきた。大勢の唸るような喋り声が聞こえてきて、二人は足を止める。
「クロダが殺されタ! ナカジマやオオタは突然顔を出さなくなったし、どうなってるんダ……」
「家族を殺し回ってるのがいるんじゃないカって噂になってル。うちの子がもし狙われたらかと思うト……」
「殺し屋ァ? まさか地域課カ?」
「奴らは罪なき血族を殺さないのではなかったのカ!?」
「信用できるかそんなこト!」
「でも、死んだヤマニシは怪しい男になにか吹きかけられたっテ……」
「そういえばオオタは知らない男が死体をたくさんくれるって喜んでたナ……」
食屍鬼は口々に話し、議論はほとんど収集がつかなくなっている。桃香はその騒ぎの中に、人間の子供の声がいくつも混じっているのを発見して息が止まりそうになった。
「おなかすいた……」
「こわいよう……!」
しかし、そこに、ひとつ全く違う声が混じる。
「大丈夫よ、お姉ちゃんがすぐにみんなおなかいっぱい食べれるようにするから。それまで、ちょっと待ってて。……ね?」
鈴が転がるように心地よい声音だった。とても優しく、芯の通った声……。
声の主がぱんぱんと手を叩くと、あれだけ騒がしかった場が一気に静まり返る。声の主ははじめ、ゆっくり、川がせせらぐような声で話し始めた。
「みんな、落ち着くんだ。犯人が誰にせよ、情報が少ない状態で議論するのは混乱と疑心暗鬼を招くだけだ。そうだろう? 地域課かもしれない。別の何かかもしれない。だが、決めつけてかかって敵と見なされれば、我々マイノリティはすぐに潰されてしまう。そうならないために私達は今まで頑張ってきたじゃないか。罪のない人間、生きている人間を食べず、なるべく身を晒さぬようにしながら、地域課にこの状況を訴えてきた。今までの努力、そして同胞の犠牲を無駄にしてはいけない。……だが、しかしだ。私は同時に同胞を傷つけたものは絶対に許さない! 君たちもそれは同じことだろう」
どんどん声に熱がこもっていく。今や彼女の声は巨大な嵐となって、食屍鬼全体を巻き込んでいた。
「同胞を傷つけた者は地獄の果てまで追いつめて、その四肢をもぎ取り、この地中に首を晒させる! 誰が相手でも私はそうしてみせる! 人間や純血の横暴は許さない!なんとしてでも自由を勝ち取らなければらない! 手始めに……」
そこでぷつんと声が途切れた。
桃香は困惑して、どうしたのかと耳をすませていると。
……なにか赤いものが弾丸のようにこちらへ向かってくる。
それは、凄まじい速度で迫る赤髪の少女だった。地面を勢い良く蹴って、長い爪の生えた手を振りかぶる━━━━。
冴は手首を刻み、血をばらまいて鉄の防壁とし、爪は金属音を立てて弾かれた。
少女はバックステップで距離をとり、人間の容姿でありながら食屍鬼と同じ前傾姿勢をとった。背骨を前に傾け、腕を下ろし、紅の瞳でこちらを睨み付ける。
「……手始めに、あなたたちの始末よ」
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