第4話 地下街には血が薫る

「それじゃ行くよ」と言って、冴はレインコートを羽織ると事務所内部、地下口へと向かった。

桃香は急いで携帯と財布を拾ってついていく。


事務所の北側は四人分の個室と風呂、キッチン、トイレなどがある住居スペースとなっている。それに対して南側は地下街へと繋がる扉となっており、主に地下からの依頼人の出入り口として使われている。


地下口を出ると、そこはオレンジライトに薄暗く照らされた先の見えないトンネルであった。じっとりとした湿度に包まれたコンクリート内部に、冷たい風が走り抜けている。


「ここを行くんですか!?」

「もちろん。もたもたしてると置いてっちゃうよ?」


冴はすたすたと先を歩いていくので、桃香もつべこべ言わずに歩くしかない。

ぴちゃり、ぴちゃりとどこから水の滴る音が聞こえる。足下をなにかが走った。桃香は怯えた声をあげ、見ると鼠が壁の小さな穴の中に入っていくのが目に入った。


「なにビビってんの。あたしがついてんだからしゃんとしな」

冴は歯を見せて笑い、桃香の肩を叩いた。

「そんなことを言われても怖いものは怖いですよう!」

「んー、じゃあビールでも飲む? ヤな気持ち吹き飛ぶよ」

冴はレインコートの内側から缶ビールを取り出した。桃香は顔を真っ赤にして、

「未成年です! しかも勤務中ですよ!? なんでお酒もちあるいてるんですか!?」

「アルコール入れないとやってらんないから」

「急に重いですね!?」


冴はだらしない勤務態度を暴露しながらへらへら笑っている。桃香が18年生きてきて、あまり目にしたことのない人種だった。

笹川さんや花市さんはこんな人と仕事してるのか、とため息をつく。


「そんなことより、地下街ってなんなんですか? そんなところがあるなんて知りませんでした」

「行ったことないんだ。いやまあ、女子大生が行くような場所ではないけど」

「危ない場所なんですか?」

「そうね、言ってしまえば大槌市の銀座だよ。飲み屋だったり風俗だったり賭場だったりが揃ってる。大槌は夜霧が酷くて商売上がったりだってことで、地元の商工会が地下に銀座を作ろうって言い出したのが始まりって言われてるね」

「このトンネルも地下街のために造られたんですか?」

「ううん、元々大槌は鉱山で栄えてたから、その名残だね。街の下には無数の地下道が迷路みたいに張り巡らされてるんだよ」


言われてみれば、このトンネルにはやたらと分岐点が多い。今日は冴についていっているため問題ないが、独りではすぐ迷ってしまいそうだ。ここで道に迷って遭難する人もいるんじゃないかな、なんて思うと体が震えてしまう。


「あ、ちょっとまって」

突然冴がしゃがみこむ。何事かと地面を見ると、黒々とした巨大な血痕が染みついていた。それに、古びた衣服のようなものも残されている。


……と、同時に獣臭さを感じて、反射的に鼻を覆う。人間の汗の匂いと獣特有の匂い、そして腐臭の入り混じる、奇妙な匂いだ。それは昨日嗅いだものと同じ。

「食屍鬼の匂いがします」

冴はうなづいて、

「そうだよね。この血痕自体、昨日食屍鬼の死体に残されたものによく似てる。……でも変なんだよね」

「何がですか?」

「昨日の食屍鬼、殺したら溶けちゃったじゃん。あんなのはじめてだよ。後始末せずにすんだのはラッキーだったけどさ」


冴は受け答えをしながら衣服を調べていたが、「お」と声を出して手を止める。見ると、どうやら布の小さな破片のようだった。

「これ、この服と色違うよね。そもそも服より圧倒的に新しくて綺麗だしさ」

「……ちょっと嗅いでみますね」

桃香は鼻をずいと破片に近づけて、くんくんと嗅いだ。


「わずかですけど、柑橘系の匂いがしますね。シトラスかな?」

冴は目を丸くしたあと、嬉しそうに桃香の肩を抱く。

「やるじゃん! ……シトラスってことは香水か。なんでそんな人間がこんな道通ってるんだろ?」

「あれ、でもこの服も同じシトラスの匂いしますよ?」

「え、なんで? 匂い移りかな? ……やっぱ花市さんじゃないとわかんないなあ」

冴はチャック付きポリ袋に布を収めると、携帯で撮影して花市に送信したあと、また歩き始めた。


仕事をスムーズに済ませる冴の後ろ姿に頼もしさを感じて、冴にずっと気になっていた疑問をぶつけてみる。


「冴さんと食屍鬼が同じだなんて、やっぱり信じられません」

「ま、あたしは純血だからね」

「純血……?」

「単一の返り血をダイレクトに浴びた人間が純血。血統……異能をひとつ使えるし、体の変異も少ない。逆に、地下深くみたいな返り血の染み込んだ環境で暮らしているうちに、徐々に体が変異していくのが食屍鬼だよ。返り血を浴びずに、おこぼれをもらっただけだから異能も使えない底辺種族ってわけ」


それは、あの怪物たちも元はただの人間だったということじゃないか。

桃香は少し目眩がしてよろめき、しかしそれでも脚は止めなかった。



薄暗いトンネルを抜け、明るいところへ出たかと思うと、地下繁華街に出ていた。一本の巨大なトンネルの両側に三階建ての店舗が密集し、扇情的な看板に古びた電飾が無数の蔦のように結びついて、この道自体がなにか奇妙な怪物に寄生されているようだ。


現在昼時であることも相まってか人通りは少なく、治安の悪そうな感じはあまりしない。ただし、こういう場で夜遊びをしたことのない桃香にとってはどうも居心地の悪い空間に感じるのだった。


「なんか雑草燃やしたときみたいな匂いしますね」

すると冴はそっと人差し指を唇の前で

立てて、人目を気にするようにあたりを見やる。

「あんま言わない方がいいよ、不用意なコト」

桃香は意図が読めずに困惑しつつも、小声で話すように努めることにした。



通りは自治会員と思しき黒服の男がほとんどだったが、ひとり散歩をしている老人を見かけ、冴は声をかけた。

「おじいちゃん! 花市場の者だけどさ、今あたし事件追ってて、話聞いていーい?」

すると老人は怪訝な顔をして、

「……悪いが他を当たってくれ」

と言ってそそくさと立ち去った。

「うーん、ダメみたいだ」

あはは、と苦笑する冴に桃香は呆れを見せる。

「正直に言い過ぎなのでは……」

「憂里はこういうの得意だったんだけどね」

口調こそいつもどおり陽気だったものの、冴の瞳はどこか遠くを見つめていた。



ふと、桃香の鼻が獣臭さを捉えた。食屍鬼の匂いだ。驚いて周囲を見回すも、先日の怪物と同じ影は見えない。

冴は桃香の様子に気付き、そっと耳打ちする。

「匂いに集中して。アタリはわたしがつける」


冴に手を引かれて繁華街を早歩きで移動していく。鼻を刺激し、むせ返るような腐った肉の匂いが強まってくる。

「……! だんだん近づいてます」

既に地下繁華街の終端まで近づいてきていた。出口は道が細くなって、地上への階段となっている。繁華街から出ようとしたとき、微かに匂いが薄くなった。


「! こっちじゃない!」


急いで辺りを見回して、公衆便所に入ろうとする黒い襤褸ぼろをきた男を見つけた。浅黒い腕は痩せこけて、酷い猫背だ。もしかしたらまだ変異の進んでいない食屍鬼なのかもしれない。桃香の足は、既に走り出していた。


公衆便所の前までたどり着いたとき、既に男は中に入っていた。そこで桃香に迷いが生まれて脚が止まる。

「流石に男子トイレに入るわけには……」

「いくよー」

冴は立ち止まることもせずに中に入ってしまった。こうなると桃香も「ええ!?」と言いながらも唇を噛んでついていくしかない。

トイレから出てきた男性が、訝しむ目をして去っていった。心が痛い。


トイレの内部には尿と煙草、そして消毒液の匂いがつんと広がる。そして、その中に隠しきれないほど強い食屍鬼の匂い。獣の息遣い。幸いにも、ほかに人間はいないらしい。


冴は鍵がかかっている個室のドアの前に立つと、左手を縦にナイフで掻っ切る。左手は血で濡れ、血液は腕と同化した巨大なカッターのごとき鉄刃へと姿を変えた。


血中鉄分を一箇所に集中させ、自由に鉄製品を形成できる『血統』。


冴はそのままドアへと刃を振り下ろす。

たちまちドアは豆腐のように切断された。


トイレの中からは今まででいちばん強い腐った肉の匂いが溢れ出し……、しかし中に残されていたのは黒々とした大量の血液。個室の壁に生々しい鮮血が飛び散って、惨憺たる有様だった。

桃香は吐き気を催して口を抑える。

「遅かった……」

これには冴も落胆を隠しきれないでいる。


ふと、桃香は強いシトラスの匂いを感じて、血に鼻を近づけようとした。

「やめときな」

冴が桃香を手で制す。いつになく真剣な表情だった。

「返り血に無闇に触るものじゃないって、この街では相場が決まってるんだ」


花市に連絡をとると、トイレの中を床から天井、個室までくまなく撮影するように指示がきた。桃香はストレスのせいか急に腹痛に襲われたので、冴が撮影している間に女子トイレで用を足すことにした。



桃香が個室から出て洗い場で手を洗っていると、背後から清掃員らしき中年女性に声をかけられた。

「花市場の牛久保桃香さんよね」

「!? どうしてそれを!?」

桃香が目を見開いて少し後ろへ下がると、清掃員は愉快そうに若い男性の声で笑う。

「なあに、新入社員ちゃんが頑張ってるかなと思ってね」

今度は中高生くらいの少女の声だ。

あまりにもありえない事態に、反射的に眼を擦ってしまう。


その僅かな一瞬。


再び目を開けたときに眼前にいたのは、白い死装束の少女だった。艶のあるストレートの黒髪で、首に赤い紐を括りつけ、時代錯誤な下駄を履き、あどけなさが残りつつも作り物めいて理想的な美貌は人形のような印象を与える。


「ぼくは呉モヨコ。花市場のしがない雑用さ」

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