求められている者は

「ねえ」


 気がつくと、白い扉の前にうずくまっていた。今まではっきりとは覚えていなかったが、これまでに何度も夢で見た場所だった。豪奢な白い扉だけがある、真っ白な空間。

 その扉の向こうには、娘がいる。今までそれが誰なのか分かっていなかったが、元老院から話を聴かされた今では、その正体に見当がついていた。

 同時に、自分がこれまで彼女に手を貸さなかった理由もはっきりと思い出せる。きっと気付いていたのだ。あの扉が開くと、自分は世界に居られなくなると。


「開けて」


 彼女はいつものように扉を叩いて請う。ユーフェミアもまた、いつものように頭を振って拒絶する。


「どうして? あなたも知ったでしょう。その身体はわたしのもの。あなたは時期が来るまでにわたしの身体を守るための仮初めの魂にすぎないのよ」

「そんなこと……っ」


 先程の宰相の説明が本当なら、この身体に勝手に入り込んできたのはあちらの方だ。それなのに、彼女は傲慢にも、ユーフェミアの肉体を自分のものだと言う。


「あるの。だってあなた、魔法を上手く使えていなかったじゃない」


 ひゅ、と喉が鳴る。


「自分に宿る力を扱えない。それこそあなたが正当な主でないことの証拠だわ」


 今度は反論することができなかった。魔力を持つ者なら当たり前に使えるはずの魔法。いつまで経ってもそれができなかったユーフェミア。誰もがそれをおかしいと言った。あり得ない、と。

 その理由が、セラフィーナの言う通りだとしたら。彼女の言うことは非常に説得力があるように思われた。

 力のない声でユーフェミアは話し出す。


「私、十七年ずっとこの身体で生きてきたの」

「大層な人生には思えなかったけど」


 一蹴されるが、めげずに声を張った。


「自分の人生に未練だってあるの」


 ようやく使えるようになった魔法。当たり前のことができるようになって、ユーフェミアの日常は激変した。日常の過ごし方に大きな変化があったわけではない。だが、自分が如何に出来損ないであるかを考えて鬱々と過ごしていた過去に比べて、現在はとても輝かしい。

 頼りになる友人だってできた。未来に希望を抱くことができた。それを諦めるだなんてできるはずがない。


「わたしもよ」


 ぽつり、とセラフィーナが言葉を落とす。先程までとは違った、哀愁を帯びた声。


「みんなに求められて。国のためにわたしの力を見せつけてきた。みんなに感謝されて慕われたわ。なのに、あんな……あんなに短い人生で、しかも処刑だなんて、そんな終わりは望んでいなかったの」


 あんなことあっていいはずがない、と扉の向こうでセラフィーナは憤っている。あまりに理不尽であると。

 でも、とセラフィーナは、一転自信に満ちた声で続けた。


「わたしが死んでもなお、みんながわたしを求めてる。わたしを必要としてくれている。あなたはどう?」


 その先に続く言葉がなんなのかを察して、ユーフェミアは目と耳を塞いだ。脳裏にちらつくのは最後に見た両親の姿だ。自分の娘が連れていかれるのをただ見つめていたときの、あの沈痛な面持ちは、ユーフェミアが囚われることを覆せないと知っていたからだろうか。それとも、自分たちの娘が厄介ごとを抱え込んでいた所為なのか。

 だから、自分は見捨てられたのか。


「親にも見捨てられて、誰があなたを必要としているの?」


 耳を塞いでいるはずなのに、頭の中にねっとりとセラフィーナの言葉が流れてくる。それはまるで毒のように、ユーフェミアの心を蝕んでいった。


「やめて!」


 金切り声で叫んでも、真っ白な空間にユーフェミアの声は吸い込まれていった。

 目の前の扉は、今はまだ開かない。



 ◇ ◆ ◇



 がんがんがん、と音がして、ユーフェミアは目を覚ました。牢の中で騒ぐだけ騒いで、疲れていつの間にか眠ってしまったらしい。ひんやりともたれた石壁の冷たさが背中から伝わってくる。

 いつの間にか辺りは暗い。光源は鉄扉の横にたった一つ設けられた魔法のランタンだけで、壁際には完全な闇が落ちていた。

 身震いする。夏であるのに、隙間から入る風は冷たかった。

 がんがん、とユーフェミアを起こした騒音がもう一度。どうやら、誰かが鉄の扉を叩いているらしい。しかし、そんな風にノックされても内側から扉が開けられるはずもない。ユーフェミアは膝を抱えたまま、暗い瞳で扉を見やっていた。


「おい、食事だ」


 声とともに、耳障りな音を立てながら扉が開いた。狭い部屋に入ってきたのは、この塔の監守をしているだろう兵士の男だ。彼はずかずかと部屋の中に入ってくると、ユーフェミアの前に立って、手に持ったトレイを突き出した。黙ったままそれを受け取る。

 用意されていたのは、白いパンとスープだ。意外にもスープからは湯気が立っている。こんなところに閉じ込めたくせに、食事にはある程度気を遣ってくれるらしい。温かい食事は嬉しかったが、その滑稽さに笑ってしまいそうだった。


 ユーフェミアが食事を受け取ったというのに、兵士は彼女から離れる様子がなかった。何か用事があるのかと、ユーフェミアは疲れ切った顔を上げる。兵士の顔は若かった。ユーフェミアと一つか二つほどしか変わらない。そばかすだらけで肌も荒れているところを見ると、貴族出身ではないだろう。このような場所でこのような仕事を押し付けられて可哀想だな、と自分が面倒を見てもらう側であることも忘れて他人事のように思った。


「どんな奴かと思ったら、案外平凡だな」


 ユーフェミアの顔を見下ろした彼はそう言った。いったい何に興味を持っていたのか、とユーフェミアは思う。自分の顔が平凡なのは、指摘されなくともよくわかっている。

 それともレイラのように美人であれば、この兵士を同情させて逃げ出すことができただろうか。彼女ならきっと、上手いこと相手の気を引いて脱獄することができるだろう。それだけの強かさもある。

 ……ユーフェミアには、どちらもない。


「事情はよく知らないけどさ、さっさと諦めた方がいいぜ。国相手に逆らえないのは知っているだろ。抵抗するだけ無駄だって」


 他人事のようにあっさりと言う兵士の言葉に、冷え切っていたはずの頭の中がかっと燃え上がった。どいつもこいつも、自分を否定する。罪を犯したわけでもないのに、死ねと囁く。見ず知らずの人間に言われるほど、そんなに自分は無価値だとでもいうのか。

 ついさっきまで夢の中でセラフィーナと会話していたこともあって、ユーフェミアは気が立っていた。


「うるさい!」


 持っていたトレイを右手に抱え、兵士に向かって投げつける。ユーフェミアの目の前に立っていた兵士はまともにそれを食らい、鎧を黄色い液体で汚した。

 皿の割れる音と金属が床にぶつかる音が室内に響く。


「消えて!」

「なにしやがるんだ、このアマ!」


 突然物を投げられ、鎧を汚されたことに腹を立てた兵士はユーフェミアを怒鳴りつけるが、怒りに我を忘れたユーフェミアは怯えることなく立ち上がると、手近にあったトレイを拾い上げ、もう一度兵士に向かって投げつけた。


「うるさい、消えろ! 出ていって!」


 ユーフェミアの剣幕に圧されたのか、悪態を吐きながら兵士が出ていく。鉄扉が乱暴に締められる。その騒音を最後に、静寂が再び部屋の中を支配した。しばらくユーフェミアの荒い呼吸の音だけが聞こえていた。

 その呼吸が落ち着いた頃になって、ユーフェミアは空腹を自覚した。目の前には誰の口の中に入ることなく、無残にも床にぶちまけられたスープと、転がったパン、割れた皿の破片が広がっている。


「ご飯、もったいないことをしたな……」


 ユーフェミアは自嘲気味に呟くと、形だけは無事だった小さなパンを拾いあげた。

 袖で埃を払いながらパンを食べる自分は、ひどく惨めだった。

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