黒板とチョーク
本日の講義をすべて終えると、ユーフェミアは寮の自室へと急いだ。教科書もろもろを机の上に放り出し、制服を脱ぎ捨てて私服に着替える。動きやすい薄紅のワンピースに白いベルトを巻いてショールを羽織り、バレッタを外して二本の三つ編みを作る。使用人のいない学院生活では、一人でもこの程度の身仕度は造作もない。
十五分ほどで身仕度を終えてしまうと、財布を引っ付かんで外に出た。
行き先は、学院の正門だ。
正門前は閑散としていた。寮住まいであるからか、それとも課外活動に勤しんでいるのか、学生たちが通ることはほとんどない。それだけに、門の役目を果たしている豪華なアーチは無駄なのではないかと思ってしまう。何処かの神殿の入り口のように見事な彫刻が刻まれていて、所々に金箔も張られていたりするわけだが、なにぶん見る相手がいないのだ。
そのアーチの足元にレイラが一人もたれていた。彼女も制服から着替えてきたようで、青いシャツに革のスラックスと、とても機能的かつ男性的な格好だ。彼女の勝ち気さや野性味が現れている。
レイラはこちらに気がつくと、身を起こして、
「ホントに来たねえ」
などと感心とも呆れともつかない声を出した。
来ると思わなかった、とまで言う彼女に、ユーフェミアは脱力した。半信半疑で来たのはこちらの方だというのに。
「貴女が誘ったんでしょう」
「そうだけど。でも、相手にされるか分かんなかったからさ」
身分の違いの所為か、周囲に言葉を聞き入れてもらえることがあまりないのだという。
「なにせ平民の問題児だからね」
あっけらかんとした態度に、ますます気が抜けた。
「自分で言うのね」
「言われっぱなしで大人しくしている訳じゃないからね。貴族に楯突きゃ、問題だと言われるさ」
あたかも自分には問題がないように言うが、身分が絶対の貴族社会では、自分より上位の者に楯突くのは問題だと言われても仕方がない。
……だが、それだけだというのなら――見た目ほど怖い人間ではないのかもしれない。彼女の問題児扱いは、素行不良によるものであると思っていたのだが、こうして言葉を交わしてみると、遠慮はなく乱暴な物言いはするものの、悪さをするような人間には思えないのだ。
「よし、それじゃあ行こうか!」
未だ掴めない彼女の実態に頭を悩ましているユーフェミアに気づいているのか、いないのか。彼女は意気揚々と校門を潜り抜ける。
聖セラフィーナ魔法学院は、王都ケルタの東側の小高い丘の上にある。街へ行くには坂を下る必要があった。左右には花壇と街路樹があり、赤煉瓦敷きの洒落た舗装がされている。歩くには道幅が広いのは、貴族の為に馬車が通れるようにしてあるからだ。
「ねえ、何処へ行くの?」
緩い坂を五分ほど下り、街が見え始めると、ユーフェミアは先を行くレイラに声を掛けた。彼女は振り向かずに答える。
「知り合いの雑貨屋。魔法関連の道具もちょっと扱っててね。金は多少掛かるんだけど、アンタの小遣いなら充分買えるだろ」
「何を?」
「それはお楽しみ。大丈夫、庶民の小遣いでも買えるもんだよ」
相変わらず彼女は振り向かなかったが、どうも面白がっている雰囲気があった。それでも悪い印象はないので、危険なところに連れていかれたりはしないだろうと判断する。……魔法を使えるようにしてあげる、と言われ、こうも簡単についていく自分は結構迂闊な方だろうとは思うが。
それでも
坂の下は目抜き通りだ。ピンク色、レモン色などのパステルカラーに塗られた壁の建物が王都の中心へと向けて立ち並んでいる。色が塗られているだけでなく、花や鳥などの絵が描かれた建物もあって華やかなのは、学生たちを対象とした商店が立ち並んでいる所為だろう。この辺りには魔法学院だけでなく、少し北のほうに大学もある。
その明るい通りの一角にある水色の壁と扉の上の太陽の絵が特徴の店の中にレイラは入っていった。
「こんちはー」
店の入り口をくぐったレイラは、まるで自分の家であるかのように、ずかずかと奥に入り込んでいく。木の床を踏みつける足音は大きく、遠慮のなさを窺わせる。ユーフェミアはその後をそろりと追っていった。壁の棚が迫ってきそうなほど狭い店内。辺りをきょろきょろと見回してしまうのは、並べられた品に統一性がないからだ。スプーンやお椀といった木製の食器があると思ったら、その隣には小さな女の子が好きそうな素朴な人形の置物がある。その上にあるのは、異国の仮面の飾り物だ。とにかく雑多としていて、落ち着きがない。
店の奥の勘定台には、唇の上に茶色の髭を蓄えた中年の店主がいた。店主は
「おうレイラ、久し振りじゃねぇか。貴族に見初められたっつーから、てっきりここにはもう来ないもんかと思ってたぜ」
家族か親戚かというほどに親しげな様子に、ユーフェミアは面食らった。よほど馴染みのある店らしい。会話の内容からしても、彼女が子爵と関わりを持つ前からの付き合いのようだ。
「見初められたとか、そんないいもんじゃないよ」
溜め息でも吐いたのか、レイラの両肩が少しばかり下がった。
「そうか? 贅沢できるんだろ?」
「まあ、それなりに? でも、いろいろ窮屈で面倒だから、貰うもん貰ったら逃げ出してやろうかと思ってるんだ」
「そりゃまた」
大胆な発言に、呆れた店主の目が細められる。ユーフェミアもおそらく同じ表情をしているだろう。
「で、今日は何のようだ」
店主はちらちらとユーフェミアのほうを見ながら言った。新しい客が気になるのか、それともレイラが連れてきたから気になっているのだろうか。
「黒板探してるんだ。持ち運べるくらい小さいやつ」
「黒板だぁ? また妙なものを……。何に使うんだ」
「魔法に」
「ああ?」
店主もいまいち飲み込めていないようだが、ぶつくさ言いながら立ち上がり、左手側のがたついた商品棚の奥に手を突っ込んだ。出てきたのは、教科書と同じくらいの大きさの、表面が艶消しされた黒い板。
「これでいいか?」
店主は勘定台の下から雑巾を取り出し、薄く積もった埃を払って、黒板をレイラに差し出した。
「うん。あと、チョークも。こっちは魔法用のやつね」
「ヘイヘイっと。自分で探せば良いのによー」
「お客様は、何処に何が置いてあるのか分かんないんだよ」
お客とは思えないほど不遜な態度に、店主は苦笑しながら同じ棚を漁った。やがて、掌に乗るくらいの大きさの紙箱が差し出される。中には白いチョークがぎっしりつまっていた。レイラがその一本を取り出す。
真新しいその白い円柱は、表面に細かい虹色のキラキラしたものを纏っていた。
満足そうに頷いて、レイラは黒板と出したチョーク一本をユーフェミアに突きつけた。
「ほら。使ってみろよ」
「使うって」
「さっきの紙と一緒。ここに魔法文字を書いて、魔力を流す」
魔法を使えるようになるために来たのだが、ここでやはり
「今、ここで?」
「ダメだったら買う意味ないだろ。だから試してかないと」
「でも、建物の中だし、失敗したら大変なことに」
「さっきはそんなに酷いことにならなかっただろ。大丈夫だって」
そうは言うが、あれは燃えやすい紙だったから大事に至らなかったのだ。この黒板は、塗装の下は木板であるようだが、失敗したときには紙と違って燃え尽きるのに時間が掛かるだろう。その間にどうなってしまうか、想像するだけでも怖かった。
「言っとくが、壊したらその分貰うからな。あと、チョークは使った分は貰う」
「なんだよ、チョークの一本くらい。ケチケチすんなよ」
「どっちがケチだ」
調子よく進む会話はユーフェミアの耳に入らない。渡された黒板とチョークをじっと見つめて固まっていた。やはり怖くて仕方ないのだが、焦れたレイラが促すので、恐る恐る黒板に魔法文字を書いてみる。恐怖に手が震えてか、波打った文字となってしまった。
そこでもう一度レイラのほうを見てみるが、どうにも見逃してくれそうにないので、観念して魔法を使う。
文字の書いた方を上にして黒板を突き出して魔力を流してみると、先程の様に小さな炎が現れた。一瞬、ふ、と揺らいだので、また大きくなるのかと思い、首を竦めながら慌てて大きさを制御しようとすると――意外なことに、安定してそのまま残っていた。
火を出したまま、ぽかんと口を開けて呆然とするユーフェミア。思わずレイラを見ると、
「上手くいった」
いたずらが成功したような笑みを浮かべていた。
「嘘……」
開いた口が塞がらない。
「もう一回やってみ」
レイラに促されるまま、一度火を消してもう一度点けてみると、今度も上手くいく。その後も、何度も何度も火を点けたり消したりして見るが、火の大きさが変化したり揺らいだりすることはあっても、急に暴走するようなことは起きなかった。
黒板を顔の前に持っていき、まじまじと見つめる。何処にでもある、ただの黒い板だ。木に黒い塗料を塗り付け、表面を磨いただけの板。チョークは魔法のための特別製であるようだが、珍しいものではない。
これが――こんなものが、ユーフェミアの人生の悩みを一瞬で解決してしまった。
「こんな……こんな簡単に……」
自分に魔力があることを知ってから、十年以上。その間、ただの一度も満足に魔法を扱えたためしがなかった。魔法学院に希望を委ねて、三年。それでも改善の兆しはまるで見られなかった。
それが、使えた。ようやく、子供でも使える魔法が使えるようになった。
胸の奥から熱いものが込み上げてくる。抑えようとして黒板を抱きしめ、しかし耐えきれずにその場に泣き崩れた。
「え、ちょっと」
戸惑った声が掛けられる。驚かせてしまっただろうが、溢れる涙を止めることはできなかった。声を抑えるので精一杯だ。
悲願がようやく叶って、嬉しかった。しかし、それ以上に悔しかった。どうしてこんなに簡単に使えるようになったのか。自分の今までの苦しみはなんだったのか。どうして誰もこんな簡単なことを教えてくれなかったのか。
恨むべきはこんな小道具に頼らなければいけない自分だろうか。それとも、落ちこぼれに無関心な講師の方だろうか。
頭上から溜め息が聞こえた。かと思うと、頭を撫でられた。濡れた視界に、レイラの履いていた靴が見える。
「全く、仕方ないねぇ……アンタは」
乱暴な見た目に反して、その手付きは優しく温かい。それに甘えてしまって、ユーフェミアは気がすむまでそのまま泣き続けた。
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