魔法文字の落とし穴

 黒板とチョークを一箱購入して店の外に出ると、空は真っ赤になっていた。すっかり泣き腫らしたユーフェミアの目と同じ色だ。赤い空に棚引く金色の雲が、妙に清々しい。

 ユーフェミアは、空を見上げながら一度深呼吸をすると、レイラに向き直って頭を下げた。


「ありがとう」


 魔法を使う術を教えてもらった上に、唐突に泣き出したユーフェミアを呆れることもなく慰めてくれた。ただ少しすれ違っただけなのに、ここまで親身になってくれたことに、ただただ感謝の念を抱く。


「あーまあ、別に」


 さっきまでのサバサバした態度はなんだったのか、レイラは気まずそうに視線を逸らして言い淀む。


「……好奇心で、手を出しただけだし」


 頬が若干紅潮しているのを見ると、照れているらしい。あれだけ好きなように言って引っ張り回したというのに、今更だ。


「それでも、ありがとう。今まで誰も助けてくれなかったから」


 友人も、教師も、本当に誰一人助けてくれなかった。だからユーフェミアは、ずっと自分が駄目な人間なのだと思っていた。道具が必要なのだとしても、魔法が使えるようになって、可能性が広がって、どれだけ嬉しいことか。


 帰るよ、と硬い声でレイラが促す。暗くなる前に戻らなければ、寮の監督に大目玉を喰らってしまう。ゆっくりと立ち話をしている時間はないようだ。


「ねえ」


 帰り道。赤煉瓦の坂を登る途中で、ユーフェミアはどうしても気になって、レイラに声を掛けた。


「どうしてこういう方法もあるって知っていたの? 学院側も何も知らないようだったのに」


 これでも何度か相談したのだ。しかし、講師側も分からないの一点張り。普通は教えられずとも使えるようになるので、おかしいと言われた。魔力持ちが魔法を使うというのは、両足で立って歩くのと同じことなのだそうだ。曰く、足がきちんと二本あって、神経も通っているのに、歩けないなんてあり得ない――。


「前から思ってたけど、この学院の講師連中も無能だねぇ」


 ふん、とレイラは小馬鹿にしたように鼻でわらう。それに同調できるだけの自信がユーフェミアにはなかった。実際、ユーフェミア以外は魔法の制御ができるのだ。彼らが無能なら――自分はなんだ?

 どうにも自分を卑下する癖がついてしまっているらしい。すぐに悪い方に思考が流れて、自分で自分を追い詰めてしまいそうになる。

 レイラの話に集中することで、なんとかそれを振り払った。


「魔法文字を使うときの特性を応用しただけなんだけどね。ちょっとおさらいしようか。魔法を使う条件は?」


 これは魔法の基礎の基礎である。学院にいる以上、知らないはずがないのに、試すように訊かれて、ついむすっとした顔になってしまう。


「呪文と形」


 呪文は、言うまでもなく、どんな魔法になってほしいか言葉にすることだ。形は、基本的にはそれに伴う身振り手振りのことをいう。オーケストラで指揮者が拍子を取る動作のようなものだと言えば、理解が早いだろうか。だから、ユーフェミアたち魔力持ちは、指揮棒に似た杖を持ち歩いている。腕を振るだけでも良いので杖は必須ではないが、軌跡がはっきりする所為か魔法が使いやすくなるのだ。

 呪文と形――言葉と身振りで、どんな魔法になって欲しいかを示す。それが魔法を使う必要条件。


「魔法文字は、その言葉と形を一度に表したものだっていうのは知ってるだろう? だから杖がなくても、呪文を唱えなくても、紙に文字を書いて魔力を流すだけで魔法が使える。とはいえ、普通はちょっと呪文を唱えて、手や杖を振るだけだから、いちいち文字を書くなんてそんな面倒なことはしない。

 でも、だからこそ、多くの人が気付かない記述式の落とし穴がある。魔力ってのはね、物体を介すると流れにくくなるんだ」


 え、とユーフェミアは耳を疑う。だって、杖は魔法を使いやすくするために持つ物のはずだ。その逆の為だなんて、あり得ない。

 その疑問は、あっさりレイラが解決してくれた。


「杖は例外。あれは伝達部材が入ってる」


 その伝達部材も気にはなったが、話が進まなくなるので、ひとまずそれで納得することにした。


「で、その流れにくさっていうのは、素材だなんだといろいろ条件があるわけだけど……一番分かりやすくて要因が大きいのが、厚み」


 ユーフェミアは黒板を見た。ユーフェミアの救世主となったそれは、親指の幅ほどの厚みがある。紙と比べれば、十分に厚いといえるだろう。裏庭でレイラは、紙では駄目だと言った。その理由がこれだろうか。


「魔法書って知ってるだろ? あれを思い出してみて」


 魔法書とは、高度な魔法を使うための、魔法文字で書かれた本のことだ。講義で何度か見たことがある。呪文が長く、それに伴う杖の振り方も複雑で、本来なら儀式を行わなければならないような大がかりな魔法を、魔法文字を使って本に纏めたことで簡略化させた、という話だ。そうすることで、重要な儀式を誰にでも行えるようにしたのだという。

 ユーフェミアが見たのは、確か水を浄めるものだったか。三年に一度、水の恵みに感謝して行われる〝敬水の儀〟の国事で使われる魔法を記録したものだった。


「あれ、紙がスッゴい薄かっただろ?」


 確かに、裏から表の文字が透けて見えるほどに薄い紙が使われていた。だから、魔法書には片側のページにしか文字が書かれていないのだ。そんなことをすれば本が厚くなるので、何故だろうと思ったことがあったが。


「あれは、普通の製本用の紙だと厚くて、魔力が流れにくいからだよ。みんな、意外に気が付かないみたいだけどね」


 使う機会は少なく、普通の人が手に取る機会も滅多にない。少しくらい魔力を多く消費しても気が付かないのも仕方のないことだろう。魔法文字に関わる研究者くらいが、その事実に関心を持つのだ。


「で、アンタの場合は、その流れにくさを利用した。ようはフィルターの役目だね。魔法を発動させる前に、流れを食い止めて抜けにくくしてるんだ」


 そうすることで、発動する際の魔力量を無理矢理抑え込んでいるのだという。強引にでも出口を小さくしてしまえば、発動する魔法の規模も小さくなる。それでようやくユーフェミアは、人並みの規模の魔法が使えるようになったのだ。


「ただ、流れにくくしただけじゃあ、圧力に耐えかねて壊れるかもしれないからね。そこをあのチョークで通り道を作ってやったってわけ。魔力が文字の形をなぞることで、使う魔法がはっきりする。

 といっても、制御を道具に頼ったってだけで、アンタの問題が解決された訳じゃない。本気で上達したきゃ、これで感覚を覚えて練習するんだね」


 出口を小さくしたことで押し戻された分――魔力がどれだけ過剰だったかを把握できるようになったはずだという。それをしっかりと掴んで、自分で徐々に押さえ込めるようにしていけばきっと、道具も必要なくなるはずだ、と。


「そういえば、貴女はどうしてあんなものを持っていたの? あの紙の花、そうなんでしょう?」


 会ったとき、彼女はあの紙の花に魔法文字が書いてあると言っていた。儀式で使うような高難易度の魔法でない限り魔法文字を使うメリットはないはずなのだが、ユーフェミアのような悩みを持っているわけではない彼女は、それを持っていた。


「ああ、あれ。実は、その魔力の通りにくさを利用して、ちょっと面白いこと思い付いちゃったんだよね」


 レイラはポケットから折りたたんである紙を取り出した。角と角をつまんで開くと、花の形に変化する。ユーフェミアが拾ったものとはまた別の、紙の花らしい。


「抜けにくいってことは、一時的に溜められるってことだろう? だから時限式なんてできないかなーって」

「はあ」


 魔法は呪文を唱えたらすぐに発動するものだ。時限式、ということは、時間差で魔法を発動させるということだろう。それがいったいどんな役に立つのか、ユーフェミアには皆目見当がつかない。魔法は必要な時にすぐに使えるから、便利なのだ。


「……上手くいったの?」

「そりゃあもちろん。時間の調節がけっこう難しいんだけどね。媒体はうっすい紙だからさ、普通にやったらやっぱそれほど時間ずらせなくって。その黒板くらい厚みがあればよかったんだろうけど、使い捨てってわけにはいかないし。だから、こういう感じで、インクを使ってさ……」


 せっかく綺麗に折った花を広げ、中の文字を見せながら楽しそうにレイラは語る。途中から話についていけなくなったが、生き生きとした彼女を見て、数ある噂の中で少なくとも優秀であることは本当なのだなと実感した。

 だが、彼女自身にどんな噂があろうが、もはやどうでも良い。他でもないレイラが、ユーフェミアを救ってくれたのだ。恩を感じるには、それで十分だ。


「……明日が楽しみだね」


 時限式の魔法について語っていたはずの彼女が、唐突に切り出した。


「え?」

「明日もあるだろう、実技。そこで、魔法を使えないやつが急に使えるようになったら……奴等、どんな反応をするかねぇ」


 きっと大層な間抜け面を拝めるよ、と意地悪く笑う。


「……そうね」


 確かに魔法が普通に使えるようになった。明日使う呪文はきちんと覚えているし、それを魔法文字で黒板に書くだけなので、きっとそれなりにはできるだろう。今までみたいに諦める必要はない。

 でも。本当に上手くいくのか、周囲は受け入れてくれるのか、少し怖くもあった。



 ◇ ◆ ◇



 翌日。

 レイラは保証してくれたとはいえ、やはりいざその時になると、緊張を覚えずにはいられなかった。魔法が使えるようになったのは昨日の今日であるし、それにこの講義で行うのは水と風を使った造形で、魔力の繊細な制御を求められる。一番苦手だった分野をいきなり披露することになって、平然としていられるはずもない。

 そして今日に限って、他のクラスとの合同授業だった。つまり、見学者が普段の倍いるのだ。これで緊張するなというほうが無理というものである。

 ただ、どういう偶然か、レイラのいるクラスと一緒であったのがわずかな救いだろうか。自分を嘲る者ばかりであるよりは、一人くらい信じてもらえそうな人がいた方が良い。


「次。……ユーフェミア・ドレイク」


 名前を呼ぶときの講師の声が低くなったのが、あまりにもやるせない。相手がうんざりしていることが手に取るように分かってしまった。


「え、またあいつやるの?」

「今度は何をやらかすかな」

「また講義が中断してしまうじゃない」


 ユーフェミアのほうを見て、ひそひそと周囲が囁いている。嘲る者、迷惑がる者ばかり。毎度この調子なので、居心地はとても悪かった。


「……無理しなくて良いんだぞ」


 宥めるように柔らかく声を掛けてくれる男性講師に、苦々しい気分になる。気を遣ってくれているように聞こえるが、その表情から面倒事になる前に終わらせたいと思っているのが判ってしまった。

 結局、講師この人も魔法の使えないユーフェミアをなんとかしてくれようとはしないのだ。魔法を使えるようになるために魔法学院に入ったというのに、ここまで蔑ろにされるのには腹が立つ。

 なにが〝魔力の優れた少年少女たちの、魔法修得を目的とした教育の場〟だ。ユーフェミアの魔力の暴走は、その教育者ではなく、たった一人の同期生によって解決できたというのに。


「……やります」


 唇をぎゅっと噛みしめ、前方を睨み付けて前に出た。周囲が腕を伸ばして止めようとしたのを、振り払った。

 脇に抱えていた黒板を取り出し、この講義で使う呪文を書き出す。昨晩紙とペンで書き取り練習をきっちりと行ったので、文字が歪むこともなくさらりと書き終えることができた。

 腹が立つのに任せて黒板を突き出すと、失敗に巻き込まれるのを恐れてか、周囲が身構えた。その中でただ一人、レイラだけは動じずにユーフェミアを見守ってくれている。

 彼女のためにも、失敗できない。


 少し落ち着いて、黒板にそっと魔力を流し込む。チョークの軌跡に沿って魔力が走ると、黒板の上面に小さな水球が浮かび上がった。中は空気で、つまりシャボン玉のようになっている。押し返される魔力の量を感じ取って内部の空気量を調節しながら、徐々に水球を膨らませていく。

 普段だったらここで失敗している。だが、今は黒板のお陰で魔力の加減というものができるようになっていた。

 水球がユーフェミアの顔くらいの大きさになったところで、黒板に呪文を書き足した。力を込めれば、風が渦巻いて水球が浮かび上がる。

 水球が破裂することもない。風で空の彼方に飛ばされるわけでもない。あくまでふわふわと、それこそ石鹸水で作ったシャボン玉と同じように宙を浮遊していた。


 成功した。ユーフェミアは安堵の溜め息を吐き、これなら合格だろう、と講師を振り返った。彼はユーフェミアの視線に気づかず、ぽかんと口を開けたまま、水球を見上げている。……いや、講師だけではない。ついさっきまで嘲笑していた同期生たちも、貴族の外聞など忘れてしまったのか、何も言わずに大きな口を開けている。

 大層な間抜け面を拝めるよ、と言った昨日のレイラの言葉が思い出される。

 まさか本当に間抜け面を見ることになるとは思わなかった。


 そんな同期生たちの顔を見回して、最後に端のほうに居たレイラと目が合った。

 よくやった、と笑うレイラに、ユーフェミアもぎこちなく微笑み返した。

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