第18話 田んぼに水を引くために

 田んぼに水を引くために、枯れ果てている用水路を一度掃除しなければならない。

 収穫前には田んぼの水を抜くので、秋から春までの七、八ヶ月の間に、用水路は泥や枯れ葉、ゴミがたまってしまう。それを片付けて、水路を確保する必要がある。

 平日の早朝という会社勤めには厳しい時間に、用水路の掃除は行われた。

 回覧板で日程や場所などは伝えられている。しかし、参加者は決して多くない。

 賢治に言われるがまま、ついてきた美奈子はその参加者を数えていく。


「二十人……くらい?」


「いつもそのくらいの人しか来ない」


 ほとんどが腰が曲がり、髪が白くなった高齢者であり、定年を過ぎた賢治は若い人というくくりに入るほど、参加者の年齢層はかなり高い。

 比較的若い女性たち――と言っても四、五十代の女性らは、見た目からしてやる気がないようであった。

 農作業用の服に長靴姿で参加しているのは、男性参加者ばかり。女性の中では美奈子と、かなり高齢の女性二人だけだけであった。そのほかの女性たちは、有名ブランドのスニーカーを履いており、汚れないようにと足下に注意を払っている。

 用水路を掃除するとなれば、自分が汚れると想像がつく。ならば汚れてもいいような服装で長靴を履いてくるはずだ。しかし、女性たちはみな、スニーカーだった。長靴を履いているのは、男性ばかりである。

 靴を気にするぐらいなら、初めから違うものを履いてくればいいのにと思った美奈子だったが、口にすることはなく、極力その女性たちを視界に入れないようにした。


「それじゃあ時間なので始めますよー」


 一人の男性が声を出した。

 すると一斉に用水路へと降りていく男性陣。

 賢治もスコップ片手に軽々と用水路の中へ降り立った。


「お父さん、何すればいいの?」


 自分の仕事がわからないので、賢治に問いかける。


「美奈子の分のスコップは持ってきていない。男たちが中のゴミをとるから、それをまとめて運べ」


「わかった」


 年齢問わず、男性陣は用水路の中を掃除していく。

 その一方、女性陣の多くはおしゃべり好きが大半のようで、働く男たちに目を向けることなく井戸端会議が始まっていた。

 誰の家の子供がどこへ進学したのか、あそこの家の人はこの前亡くなったとかあらゆる話が聞こえてくる。その声は大きくなっていくが、誰も気にとめることはない。皆が皆、注意することもなく無視した。

 美奈子もその人達の輪の中に入ろうとはせずに、賢治に言われたことをやっていく。


「お嬢さん、偉いわねぇ」


 十分ほど経ったところで、美奈子は腰の曲がった老婆に声を掛けられた。

 決して重い物を持てるようには見えない老婆。それでも用水路の掃除に参加していることに美奈子は驚いた。


「そんなことないですよ」


「偉いわよぅ。あたしゃもう力のいる仕事は出来なくてねぇ」


 老婆をよく見れば、作業をするどころか何もしていない。

 ただ男たちを見ているだけだった。


「あたしゃに出来るのは、口でうるさく言うだけだよ。ほらそこっ! 残ってるじゃないかえ?」


 老婆が用水路の中を指差す。そこへ目をやると、一見用水路の壁と同化していて分かりにくいが、泥の塊があった。


「わーってんだよ、うるせぇぞ!」


「なーに言ってんだい! あんた、仕事をちゃんとやらなきゃダメだ!」


「うるせぇってんだよ、ババア!」


「親に向かってなんだい! ババアなのは間違いねぇけどよぅ」


 物静かそうに見えた老婆は、声を荒げる。

 どうやら老婆の息子が用水路の掃除に参加しているため、上から指示を飛ばしていたようだった。

 この親子がどれだけ騒いでも、周囲の人たちは全く止めようともしない。

 美奈子もまた、止めようともしなかった。


「うるさくしてごめんねぇ。あたしゃ、体は悪いから、教えることしか出来なくて」


 老婆は美奈子の顔を見ながら、決して悪いと思っているような表情はせずに話す。

 老婆の息子と言っても、美奈子よりかなり上だが、彼もまた本当に怒ったり反省した表情をしない。どうやらこの親子は、普段からこのような感じらしい。


「いえ。私にも色々教えていただけたらと。何せ、始めたばかりなので」


「そうなんかえ? あたしが知っていることなら、何でも教えるよ」


「ありがとうございます」


 用水路から出たゴミを運んでいる最中だったが、ほとんどの時間を老婆との会話で費やしてしまった。結局清掃は開始時と同じ人の「お疲れさまでした」という声であっけなく終わりとなった。


 無駄に時間を費やしたのではない。老婆との会話から新たな知識を得ることができた。

 終わったばかりの用水路の清掃。ゴミがなくなったので、水がよく流れるようになる。この用水路から、全ての田んぼに水を入れる。そしてそこへ田植えをしていく。その後田んぼの水はいつでも同じ量を保つのではなく、気温で調節する。寒いときには水を深くし、苗を寒さから守り、逆に暖かい日には水を少なくすることで、丈夫な根を張らせる。ここまでの話ならば、どの米農家でもやっていることである。老婆の話にはそこへ現代的なアイテムが登場した。

 水の量を調節するために、朝と夕方に水門を開けたり閉めたりしなければならない。何カ所も田んぼを所有していたのならば、水門の開閉、移動だけで何時間もかかかってしまう。それを楽にしてくれる自動水門開閉機があるのだという。センサーが水の量を感知し、自動で水門を開閉してくれるそれを老婆の息子がいち早く、取り入れたという話だった。

 そんな便利なものがあるのなら、と作業効率を上げるために導入すればよいのではないか。美奈子は用水路の清掃が終わり、家に帰ってから賢治に提案をした。


「しない」


「なんで?」


 賢治は考える時間をとることなく、美奈子の提案を却下する。


「理由はいくつかあるが……。まず、コストもかかる。それと機械類を田んぼに置いておくのもリスクだ」


 何でも導入のためには費用がかかる。それはわかっているが、その分メリットも大きいはず。

 賢治が賛成しない理由がわからない。


「コストはわかるけど、なんで置いてたらダメなの?」


「ここらにも盗っ人がいるもんだ。目新しい機械類なんか、すぐに持っていかれる。水門を管理するような取り付けるタイプのものでも、だ。あと好奇心旺盛な子供にイタズラされる」


 回覧板で回ってきた注意喚起にも書いてあった。

 米農家には欠かせない、トラクターやコンバイン。これらを田んぼに一日放置していると、盗まれることがあると。

 そしてそれらが戻ってくる可能性は限りなく零に近い。

 自動車の盗難と同じく、海外へ飛ばされてしまうからだ。

 トラクターのような大型機械が盗まれてしまったときは、致命的である。その後の作業もできないし、新しく購入するにしてもお金がかかり、納車まで時間がかかる。


「あとは機械だと、壊れた時が面倒だ。自分で直すことはできないし。それなら今のままで充分。うちは専業だし、時間には余裕がかるからいらん」


 賢治の言うことは美奈子にも理解できる。理解はできるが、納得がいかない。美奈子の眉間に皺がよった。


「前にも言っただろう? 本当に使えなくなった時……必要なものだけを買うって」


 以前賢治が言っていたことを思いだした。

 一つ一つの農機具が高いので、大切に扱い、というときだけ新しいものを購入する。

 美奈子が提案した水門を自動で開閉する機械は、ただの時間短縮を狙っただけである。というときではない。

 納得がいった美奈子は、眉間のしわが消えた。


「よそはよそ、うちはうちだ。どの育て方が、どの機械がいいだなんて人それぞれ。他人の意見を聞くこともいいが、流されるな」


「だね。勉強になった」


 例えこうやったらいいよというアドバイスを貰ったとして、それだけが正解である訳ではない。人それぞれのやり方、全てが正解であるとわかった。

 他人に流されず、変わらぬ道具を使って行うを貫く賢治の米作り。それがどのような結果をもたらすか、楽しみになった。

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