夕紅とレモン味

増田朋美

夕紅とレモン味

夕紅とレモン味

今日もパリはよく晴れた。西洋の冬にこんなに晴れるというのは、実は珍しいことであった。日本では晴れることが多いが、西洋では、いつもどんよりしていて、曇っている日がやたら多いのである。

その日も、トラーが、朝ごはんをもって、客用寝室にやってくる。ガチャンと音をたてて、ドアをあけると、水穂はまだ眠っていた。

「おはよう、水穂。おきてる?」

水穂はふっとめをあける。

「朝ごはん持ってきたから、頑張って食べられる?」

「あ、はい。」

水穂は起き上がるのに一苦労して、何とかして布団の上におきた。前みたいにすんなりとは、起き上がれなかった。

「水穂、ますます弱っちゃったね。」

トラーは、そんなことをいった。

「こっちへ来たんだから、もうちょっと楽にしてもらいたいな。こっちは、日本とちがって、身分制度がどうのとうるさがらせる人は、誰もいないから。」

「すみません。」

水穂は、申し訳なさそうにいった。

「すみませんじゃないでしょ。そこで謝っちゃダメ。それより水穂、朝ごはんたべなくちゃ。栄養をとらないと。」

トラーは、サイドテーブルに置いた、お皿の中身をお匙でかき回した。

「またそばがゆか。」

と、彼女はつまらなそうにいった。

「水穂、肉魚一切抜きでなきゃいけないって、お兄ちゃんがいうから、杉ちゃんにそばがゆ作ってもらってるけど、毎日食べると、ちょっと飽きない?」

「そんなことありませんけどね。」

水穂はその通りにいうと、

「ほんとはちょっと飽きたといってほしいなあ。」

と、トラーは、ぼそりといった。

「あたし、料理とか習ってみようかな、と、思ってたんだけど、食べてほしい人がそれじゃあ、面白くないわ。」

そういいながらも彼女は、そばがゆのはいったお匙を水穂に差し出した。水穂は、すみませんといって、お匙を受け取り口に入れた。しかし、やっぱり飲み込むのが難しくて、咳き込んでしまうのである。トラーは、急いでその背中を叩いて中身を出しやすくしてやった。このときは中身はさほどでもなく、ちょっとくちもとを汚した程度であった。口回りをトラーから渡されたタオルで拭いて、もういちどそばがゆにチャレンジする、が、結果はまた同じであった。

「水穂頑張って。一口でよいから吐き出さないで食べて、ね。」

そういわれて、もういちどそばがゆを口にして、飲み込もうとするけれど、これまで以上にひどく中身が出た。今回は本格的であって、くちもとだけではなく、顎や首回りも汚した。トラーは、すぐ背中を叩いて吐き出しやすくしてくれたけれど、やっぱり苦しかった。

「困ったなあ。もう、昨日も今日も何もたべてないじゃないの。このままじゃ、栄養価が何もなくなっちゃうわよ。ぜんがゆなんて、殆ど水と変わらないって言うし、ゼリーとか、ヨーグルトなんかも当たったことあるのなら、ほんとに、何を食べればいいんだろう。」

確かに彼女の言う通り、一昨日から何も食べていない。食べようとすると、咳き込んではいてしまう。これを繰り返すのである。

「何とかして食べさせてやりたいんだけど。」

日本では食べないことを責める人がおおいが、ここではこう解釈するらしい。

「あたし、何とかして食べられるもの探してくるから、とりあえず寝ていてね。」

トラーは、水穂の顔についた血液をきれいに拭き取り、ふたたび寝かせてやった。

「何かたべれそうなものないかしら。少なくとも、かっぱ巻きは、ここにはないのよ。今の時期、キュウリは、何処にも売ってないのよ。」

そんな風に呟くトラーだが、水穂は、ぼんやりと天井を見つめるだけであった。

「少なくとも、きゅうりは、夏にならないと、店には出回らないし。」

少しため息をついて、トラーは、食器を持ったまま、一階の食堂にもどった。

「どうだった?」

もどって来ると、マークがトラーに聞いた。杉三は、二人分の食器を洗っていた。

「だめ。今日も咳き込んで吐き出しちゃったわ。少しも良くなる気配がないのよ。それでは、ますます弱っていくよう。」

「結局、これで何日ご飯を食べないで過ごしているんだろう。」

杉三が、食器を洗いながらそう聞くと、

「一昨日から、何も食べてないから、三日だよ。三日間、何も食べていない。」

マークさんが、大きなため息をついてこたえる。

「其れじゃあ、このままだと、餓死しちゃうかもしれないな。これは本当にありえる話だろうか。日本でもフランスでも、ほとんどないことだと思うけど、、、。」

杉三が腕組をしながら、そう言うと、

「杉ちゃんお願い!そういう事いわないでよ!」

と、トラーが、半分泣きながらそんなことを言った。

と、同時に、インターフォンがなる。

「おーい、杉ちゃん、今日も買い物に行くんだったよねえ。」

と、がちゃんとドアを開けて、隣の家に住んでいるチボー君が、杉ちゃんを尋ねてきた。

「いくらインターフォンを押してもでないから、何をしているんだと思ったんだが、一体何かあったのかな?」

「あ、ごめんねエ、せんぽ君。今、手が話せないだよ。上がってきてくれる?」

杉三がでかい声でそういうと、チボーは、わかりましたと言って、部屋の中に入ってきた。

「はいはい。杉ちゃんどうしたの?いつもならこの時間に買い物に行くはずじゃ。」

チボーは心配そうな顔をしている。

「おい、何を泣いているんだ。」

「いや、これはね、重大な問題だ。水穂さんが三日間何も食べてないんだよ。食べようとはするんだけど、すぐに咳き込んで吐いてしまう。」

トラーの代わりに、マークが答えを出す。

「ちょっと僕は、仕事があるので出かけるけど、、、。」

「おう、あとは僕と、せんぽ君で何とかするから、気を付けていってきや。」

杉ちゃんだけが、一人にこにこしていた。

「ごめんねえ。」

マークは、申し訳なさそうに言って、部屋から出ていく。後にはトラーと、杉ちゃんと、チボーが残った。

「しあわせは、歩いてこない、だから歩いていくんだね。」

何てでかい声で歌を歌っている杉ちゃんが、何だか羨ましかった。

「お兄さんは、仕事に逃げられるから、其れでいいけど、君は水穂さんの世話に直面し続けて、たいへんじゃないのかい?」

チボーはトラーに聞くが、トラーは馬鹿なことは言わないでといった。

「でも、君がその疲れた顔をしているのが、心配なんだよ。もう、三日間何も食べないんじゃ、僕たちも限界だと思うから、どこか病院に入ってもらって、しっかり治してもらうように、言ったらどうかな?」

「へへん、せんぽ君。さすが西洋だね。日本では、そんなせりふ、絶対言わないよ。そんな事言ったら、何をかっこつけてんだって、馬鹿にされるだけだろう。本当はいけないんだけどね、其れじゃあ。ま、ここで本題に入ろうな。とにかく、三日間何も食ってないことは、重大な問題だ。何とかして、栄養価があって、すぐに口に入るもんを作らなければならん。それははっきりしている。」

チボーがそういうと、杉三が口を挟む。

「杉ちゃん、そんなもの、この世にあるわけないじゃないですか。そんな食べ物があるんだったら、とっくに食べさせてますよ。」

「わかった。そういうものがあればいいんでしょ、あれば!」

トラーがいきなりそんなことをいって、ばあんとテーブルをたたいた。

「おい、何をひらめいたんだよ。」

杉三が言うと、

「あたし、カフェに行ってくる!マスターに頼んでくる!」

と、トラーはでかい声でそういう。

「頼むってなにを頼むんだよ。」

「肉や魚を使わないで、簡単にたべられて栄養が取れる料理よ!」

トラーは、そんなこと、わかりきった事じゃないか!と言いたげに言った。チボーが、また始まったという顔で大きなため息をつく。

「そんなものあるわけないでしょうが。そんなものあったら、すぐに、食べさせているよ。マスターだって、そういう事は知らないよ。」

チボーは、そういって彼女を制したが、トラーは、一度思いつくと鎮火するのに、かなりの時間を有するのだった。矢鱈に手を入れると、さらに刺激されて、火が増大する可能性もある。チボーが、あ、あのねえと言いながら、頭をかじると、トラーは、あたし行ってくるわ!と鞄も何も持たないで、家を飛び出してしまった。

「あーあ。カフェのマスターも、ああしてがなり立てられちゃ、いい迷惑だ。すぐに止めに行かなくちゃ、杉ちゃんすみません。僕ちょっと行ってきます。」

チボーはそういって、追いかけようとしたが、

「いや、その必要はないよ。噴火すると、トラちゃんは、非常に時間がかかることは、マークさんにも聞いているよ。誰かが、手を出さないほうが、早く鎮火するってもんだ。火は、水をかけるのが一番いいが、余りにも酷いときは、水をかけても、効果はないからな。明歴の大火何かそのいい例だぜ。」

と、杉三にいわれてしまった。

「しかし、また何かしでかして、水穂さんに悪いことをしたら、どうしようもないじゃないですか。何か起きたら、取り返しがつきませんよ。」

「そうだけどね。水穂さんの何も食おうとしないというところにも、問題があると思うけどね。」

杉三は、腕組をした。

「まあそうですが、、、。そのあたりは、お医者さんじゃないと何とかしようがないのではないでしょうかね。あーあ、ベーカー先生が、もう少し、日本語の知識があればいいんですけどね。本当は、杉ちゃんに水穂さんの容体の事、説明して貰いたいです。僕らではちゃんとわかっていないことが多すぎますからね。」

チボーは、そう言って、またため息をついた。

「まあいい。僕らは、買い物に行って来よう。食料も無しで、生活する訳には行かないだろう。よし、行こうぜ、せんぽ君。」

いきなり杉三がそんなことを言い出すので、チボーはまたびっくりした。

「何ですか。今まで水穂さんのことを話していたのに。」

「おう。早く行かないと、おいしいソーセージが、売り切れちゃうんだよ。早くいこう、せんぽ君。」

「はあ、何という、頭の切り替えの早さ。日本人は、切り替えが遅いと聞いていたんですが。」

まあ、そういいながら、チボーは、買い物に杉ちゃんを連れていくことにした。

「人間、出来る事は、事実に対してどうするか、を、考える事だけなんだ。今の僕たちに出来る事は、水穂さんにどうやって、ご飯を食べてもらうのかを考える事。其れで、今話して答えがでなかった。でないなら、でないというのが答えだ。そういう時は、答えが出るまで、時の流れに任せよう。」

「なるほどね。杉ちゃん、そういう考え方は、誰に教わったんですか。」

「観音講で習ったの。庵主様に教えてもらったんだ。一切経にそう書いてあるってさ。僕は読んだことないけど。」

「なるほど。日本の仏教はそういう所まで勉強するんですねえ。僕も、そういうところは見習おうかなあ。」

チボーは、首をひねりながら、杉三と一緒に、商店街に買い物に向かった。

その数分後。

がちゃんと音がして、トラーが家にもどってくる。

「水穂、マスターにレモネードの作り方を習ってきたよ。ほら甘くて、ちょっとすっぱくておいしいわよ。ちょっと飲んでみようか。」

トラーは、小さな瓶に入った飲み物をカップの中に入れた。

「ほら、おきて。飲んで頂戴。これであれば、きっと、すぐに飲めるから。」

「レモネード、ですか?」

水穂は、弱弱しく言った。

「そうよ。だから飲んでほしいの。マスターに作り方を習ってきたんだから、これからは毎日あたしが作ってあげる!」

そういわれて水穂は、ヨイショと布団の上におきて、カップの中身を静かに飲み込んだ。少しばかり炭酸があったが、かろうじて飲み込めた。日本では炭酸の入っていることは少ないが、こちらで言うとレモネードというものは、大体炭酸飲料のことをさすのである。

しかし、炭酸はやっぱりのどを刺激したのか、やっぱり咳き込んでしまった。

「あら、どこかまずかったかしら?」

急いで、背中をさすってやると、ああ、すみませんと何とかいうことは出来た。

「マスターが日本でも売ってる筈だと言ってたから、飲めると思うけど。」

トラーがそういうと、

「そうなんですけどね。日本のレモネードは、単に、レモン汁に砂糖を混ぜて、水で割ったものなんですよ。だから、炭酸飲料ではありません。そこが違うんです。」

水穂は、少しばかり咳き込みながらそんなことを言った。こんなことを言って、果たしてわかってくれるかなと思ったが、

「本当?」

と彼女は言った。

「じゃあ、あたし、作り直して来るわ。単にこっちで言うソーダー水と、ただの水との違いなだけよ。そういう事でしょ?」

「え、ええ。まあ。」

其れだけ言って、水穂はまた咳き込んだ。トラーは、その通りにすればいいだけだと思って、少し待っててねと言って、にこやかに笑って、部屋を出て行った。

数時間後。杉三と、チボーが、買い物袋を一杯にして、家にもどってきた。トラーの靴が玄関先にあったので、二人は、彼女が家に帰ってきたのだとわかった。

すると、なぜか、客用寝室のドアが開いていて、誰かが咳き込んでいるのが聞こえて来た。

「あれれ、水穂さんまた咳き込んでいるんだろうか。」

杉三と、チボーは急いで、客用寝室に行った。二人が部屋の中に入ると、水穂が咳き込んでいて、トラーが一生懸命背中をさすってやっているのがみえた。

「ごめんなさい。レモネードを作って飲ませてあげたら、水穂、前よりさらに激しく咳き込むようになって。何でだろう。マスターにいわれた通りに作ったのに。」

「あ、あのねえ、日本では、炭酸を入れて、割るもんじゃないんだよ。水で割るか、其れか、熱いお湯で割るもんをレモネードというんだ。」

杉三がそういうとトラーはさらに激高して、

「そんなことわかっているわ!あたし、その通りに、作ったわよ。その通りに、レモン汁に、砂糖を入れて、水を入れて、その通りに作ったわよ!其れなのに、なんで、、、!」

と半分泣きながら言った。杉三が、カップに入っていた黄色い飲み物の中身をちょっと口にして、

「しょっぱい。之、砂糖と塩間違えたな。」

杉三が、そうでかい声で言った。

「やっぱり、トラちゃんは料理が苦手なんだなあ。砂糖と塩をまちがえるんだから。」

「あ、でも確かに、真っ白い物質だから、見た目ではわからないよ。」

チボーはそういって、トラーを慰めたが、

「いやいや、こういう間違いは、料理をするうえでは重要な事だからなあ。」

と、杉三は言った。

「これ、塩を大量に入れすぎただろ?すぐに水かなんか飲ませて、戻してやらな。何だか海の水を飲んだみたいに辛い。」

「すみませんね杉ちゃん。すぐに持ってくる。」

チボーは、急いで台所に走り、グラスに水を入れてもどってきた。それを咳き込んでいる水穂さんに飲ませると、咳がやっと止まってくれて、水穂さんは肩で大きな息をした。

「あ、良かった良かった。今のでだいぶパニックしたと思うから、薬でものんで休もうな。」

杉三が、そういって、枕元の吸い飲みを口へ持っていくと、今度はやすやすと中身を飲んでくれた。

「水穂さんトラちゃんのレモネードの味はどうだった?」

あらためて杉三はそう聞くと、

「すごい苦かった。海水でも飲んだのかと。」

水穂は細い細い声でこたえた。そのまま、布団に倒れ込むように眠ってしまう。まあ、薬の成分のせいなので、誰も止められないことは、みんな知っていた。

「も、もうどうして!」

トラーが、わっと声をあげて泣き出す。

「まあ、目を覚ましたら、後で謝って置けばいいさ。おまえさんは、単に砂糖と塩とをまちがえただけで、何も悪いことしようという気はなかったんだからよ。ただ、これからは、気を付けてな!」

「せめて、眠ってしまう前に謝らせてくれれば良かったのに!」

「タイミングが悪すぎたな。さて、僕らのご飯も支度せなああ。」

杉三はそういって、にこやかに笑ったが、トラーは、とてもそうやって笑い飛ばそうという気にはならないようだ。さすがに、幼児のように声をあげて泣くことはしなかったものの、しくしくといつまでも泣き続けるだけであった。

とりあえず、口笛を吹きながら、杉ちゃんは勝手に台所に行ってしまう。チボーは、とにかく彼女を慰めてやらねばと思ったが、何をいっていいかさっぱりわからず、ただ、そばに居てやるしか出来ないのだった。

「気にするなといいたいところだが、君には出来ないよな。」

とりあえずそう呟いてみる。杉ちゃんの言った言葉が思い出された。人間は、事実に対してどう考えるか、しかできることはない。今もそうなのではないか。トラーにこうしろと指示をしたって、彼女に実行力があるかどうかというと、多分ないと思う。でも、チボーはそこを曲げてこう発言した。

「気にするなよ。あしたまた、作ってあげれば其れでいいさ。今度こそ、砂糖と塩をまちがえないでな。其れで、水穂さんに謝れば其れでいいんだよ。」

本当は、そっと肩に手でもかけてやりたいが、眠っているとはいえ、水穂さんもそこにいるので、それは出来なかった。

人間は事実に対しどうしたらいいのかを、考える事しか出来ないと杉ちゃんは言った。でも、それは時として冷酷な結果をもたらすこともあるだろう。それを和らげる方法はあるのではないかとチボーは勝手に考えていた。

ふと、部屋の窓から空を見上げると、空は夕焼けになっていた。冬の日が差すのは短いから、ちょっと午後を過ごせばもう夕焼けの時間なのだ。特に日本と違ってヨーロッパでは其れが早くなりやすい。

空は、美しいくれない色。それは、どこかの地域では忠実な愛の色だという。この夕焼けのように、今こそ彼女をそっと包んでやれるような存在になりたいと、チボーは思うのだった。自分は、杉ちゃんのように、口がうまくて、器用にしゃべれる人間ではないが、彼女への思いだけは人一倍持っている。

人間は、事実を何とかするだけではなくて、感情を口にすることだって出来るのだ。

そこをチボーは今こそ伝えたいと思った。紅色の空がそれを後押ししてくれるような気がした。

水穂さんは、相変わらず眠っている。トラーも相変わらず、膝に顔をつけて泣いているのだった。








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夕紅とレモン味 増田朋美 @masubuchi4996

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