第十章 トモシビ(3)単純なこと

 リサはトモシビの分の服を借りて着せ、一緒に散歩した。


 トモシビの服はこのオクツキのスタイルだ。日本の和服にも似た子供服と言って差し支えない。巻き布型の衣服で、帯で締める格好になっている。


 リサの手には袋が提がっている。中に入っているのはお弁当だ。このお弁当はイツキに頼んだら出てきたものだ。そのイツキにしても、他の誰かから分けてもらったのだと言っていた。


 このオクツキでは貨幣経済は存在していないらしい。すべての人々が同じ目的で生きる神官カンナギだけの街。上下関係も存在せず、年齢を問わず相互扶助で成立しているそうだ。



 姿だというのに、トモシビはしっかりと歩いていた。そして、目に映る世界を眺めている。その表情には感情が乏しいが、どこか驚いているようにさえ見える。


 陽光にも、軟風にも、蝶々にも、往来にも、なんなら地面にさえも、驚きと喜びを持って接しているようだ。



 ふたりで木の橋を渡る。トモシビはふらりと欄干らんかんに吸い寄せられ、橋の下を流れる細い水路を見る。


「きれい……」


 リサは胸を打たれる。たしかに水路の水は澄んでいて綺麗だ。表面はてらてらと太陽の光を照り返していて、まばゆい。だが、たったそれだけだ。太陽と水。そんなたわいもないものに、トモシビは駆け寄って見つめている。


 この言葉は、トモシビとして新しい人生を歩む、エグアリシアのとなったのだ。


 世界をきれいだと表現する言葉。言うなれば、世界をする言葉だ。


 リサは、泣きそうになる。涙腺がゆるくて仕方がない。


「トモシビ」


 声を掛けると、トモシビが振り返る。その眼は真っ直ぐにリサを見ていて、次の言葉を待っている。


 リサは気づく。トモシビにとって、自分自身も世界の一員なのだと。この美しい、見るに値する世界の一部なのだと。


 リサは微笑む。


「橋を渡ったら向こうのほうへ行こう。切り株に座って、ごはんを食べよう」



 リサとトモシビは水路をさかのぼる向きに歩き、ふたつ並んだ切り株の近くまでやってくる。


 こうしてわざわざ切り株が水路際にふたつもあるということは、リサの想像しているとおり、このオクツキの住民もこれらをベンチをして使っているのだろう。


 近くにテーブルのようなものがないのが不便だが、そこはなんとかなるだろうと、リサは思う。オクツキ式とはいえ、お弁当なのだから、日本のそれと大差ないはずだ。


「トモシビ、こっちに——」


 リサがそう声を掛けたときには、トモシビは水路に飛び込んでいた。幸い、水路は浅く、子供の膝までの深さもない。水の流れもゆったりとしている。危険はない。


 だが、これでは橋を渡った意味がない。


 リサが苦笑すると、トモシビは水路の中で首をかしげる。


「なに?」


「上がっておいで。ごはんを食べよう」


「うん」


 トモシビは再び水路から出てくると、切り株に腰を掛けるリサの真似をして、空いている切り株に座った。


 膝から下はずぶ濡れなので、リサは一度立ち上がり、トモシビの履いている下駄と足袋を脱がせる。そして、足袋を切り株の上に広げ、下駄を切り株に立てかけておく。


 それから、切り株に座って裸足の脚をブラブラさせているトモシビに弁当箱を渡す。もちろん蓋は開けて、箸も渡す。


 リサは自分も同じように切り株に腰掛けなおし、弁当箱を開けて、箸で食べる。米にしても煮物にしても、どこまでも日本のものに似ている。


 この間、リサはトモシビの様子を注視していた。見た目は幼稚園児くらいだが、これでもなのだ。一方で、も経験しているはずだ。果たして、どうなるか——。


 結果はすぐに判った。トモシビは箸が使えない。リサの様子を見て真似をしようとするが、まだうまくできない。


 リサはふっと笑うと、自分の弁当を切り株の上に置き、トモシビが食べるのを先に手伝うことにした。


「トモシビ、ちょっとお箸借りるね」


「うん」


 リサはトモシビの箸をもらうと、それで煮物をつまんでトモシビの口へと運んだ。彼女はそれをすぐに口に入れ、咀嚼する。


「おいしい?」


「おいしい」


 その回答に、リサは一安心する。『泥の乙女』として二度生まれたトモシビ。彼女が人間の食べ物をきちんと受け付けている。


 リサは今度は米をトモシビの口へと運ぶ。これも問題なく食べている。


 そしてふと、リサは考える。ミオヴォーナはエグアリシアと食事を共にしたことがあっただろうか。いや、他の誰であれ、エグアリシアと一緒に食事を楽しんだ者がいただろうか。


 考えにとらわれすぎていて、少しばかり時間を使ってしまったのだろう。リサは、自分の服の袖がトモシビに掴まれていることに気づく。


「まま」


 トモシビの指にはご飯粒が付いていて、それがリサのヴェーラ星辰軍の礼装にたくさん付着している。


 リサはそれだけで、なにか、いままで感じたことのない感情がわき上がってくるのを知った。


「うん、うん」


「まま、早く」


「そうだよね、お腹空いたよね」


 お弁当箱から箸でご飯やおかずをつまんで食べさせる。それだけで嬉しい。ちゃんと食べてくれる。それだけで嬉しい。


 元気に生きている。それだけで嬉しい。そんなに単純で、根源的なことを心から喜べるのだとしたら——。


 そうして、リサはそれがなんなのかを理解し、決めたのだ。


 トモシビの言うとおり、彼女のになるのだと。

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