第十章 トモシビ(2)泥の乙女

 そうして、リサがうつむくと、自分の膝の近くに小箱が転がっていることに気がついた。


 リサはそれを拾い上げる。重みはある。中身はあるようだ。


「これは、『時の神』から渡された……」


 異界の神が六柱掛かりで引きずり出したという、エグアリシアの脳だ。


 リサは不思議に思う。以前訪れた神界レイエルスでも、第四階位の天使が第一階位の天使の天使の脳をはこに詰めて保管していた。あの界隈では、神の脳を匣に封じ込める風習でもあるのだろうか。


 これは、それと同じものだ。


「エグアリシア……」


 神界レイエルスのときは、リサの第四の能力『神の選択』で、一時的に第一階位の天使を具現化することができた。だが、エグアリシアは、リサよりも――ミオヴォーナよりも格上だ。この能力で具現化できるかどうか、微妙なところだ。


 それに、エグアリシア自身が、具現化されることなど望んでいるかどうかわからない。現に、彼女に幸せな物語を見せても、過去の罪を切り離せず、舞台から下りてしまったではなかったか。


 もし、エグアリシアに与えられるとしたら――。


 不意に、リサの足下でなにかが動く。


 それは泥だった。『神代の兵器庫』に存在した、ふたつの『原初の泥』のカタワレだ。


 『原初の泥』のひとつには、ヴェイルーガの髪の毛とミオヴォーナの血が与えられ、エグアリシアが誕生した。


 では、このもうひとつの『原初の泥』に、エグアリシアの脳と、リサの血を与えたなら――。


 そうだ。


 もし、エグアリシアに与えられるとしたら、がいい。 


 過去の罪とは無関係に、ただ幸せだけを追っていける。そんな人生がいい。エグアリシアにはその権利があるはずだ。あれだけの不幸を背負って生きて、ひどい幕切れを経験したのだ。彼女が幸せになることを否定するのは、異界の神だって許さない。


 リサは右脚から『原初の泥』を剥がすと、はこからエグアリシアの脳を取り出し、それを『泥』に与える。さらに、自分の手を噛み、傷口から数滴、自分の血液を与える。


 『原初の泥』はそれらを取り込むと、うぞうぞと動き始め、やがて人の形をとった。


 思わず、イツキが声をあげる。


「おお、これは――」


 泥の色が肌色に変わっていき、新たな人間へと生まれ変わっていく。


 それは、幼子だった。


 五歳程度にしか見えない、幼子だった。


 彼女は幼いながらに両足で地面に立ち、辺りを見回した。そして、正面にいるリサの姿を確認すると、ポロポロと涙を流し始めたのだった。


「ああ……ああ……」


 リサもつられて涙を流しながら、その幼子を抱きしめる。そして抱きしめ返される。


 リサは不思議でならなかった。たったこれだけ。たったこれだけのことで、こんなに幸せだなんて。


 ずっとずっと、長い間、リサは幸せとは人の中に見るものだとばかり思っていた。誰か他人が手に入れるものだと思っていた。だから、世のため人のために戦った。


 喜ぶ人が見たいから。喜ぶ人を見るのが嬉しいから。


 だけど、これは違う。これは紛れもなく、自分の幸せだ。


「ああ、わたしは、あなたに逢いたかったんだよ……」


 幼子は、リサの胸で泣いている。彼女も長い旅を経て、ここへ辿り着いたのだ。リサの腕の中へ。


「そうだ、名前を付けなきゃ。……ええと、ええと」


 その幼子は誰かによく似ている。


「えっとね、わたし、名前を付けるのは得意なんだ……」


 幼子の髪は色素の薄い茶色。目は深い緑色。


「……トモシビ。トモシビなんてどう?」


 幼子――トモシビの姿は、幼稚園児のころのリサに瓜二つなのだ。リサはトモシビを抱きしめる。トモシビはもう泣き止んでいた。


「……似ていて当たり前だよね。わたしの血を継いでいるんだから」


 そう言ったリサの頬を、トモシビが撫でる。それだけでまた、リサは泣けてしまう。「わたし、ちょっとおかしい」そう言いながらまた涙を流す、彼女の顔は笑顔だった。


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