第七章 愛されぬ獣(3)誰か、小さいころのわたしを

 だからリサは、トモシビの手を絶対に離さなかった。


 トモシビは好奇心が強く、いろんなものに手を出す。そして怪我をする。人にぶつかる。ものを落とす。


 その度に、リサは謝り、後始末をしてきた。それは苦痛でもなんでもなかった。屈辱でもなんでもなかった。


 大変ではあるが、楽しみの一部でさえある。


 そうしてまた、疑問が生じる。


 どうしてお母さんは、わたしの手を離したのだろうか。


 どうしてお母さんは、わたしを突き放したのだろうか。


 本来リサは、『神の二重存在』や『ミオヴォーナの化身』であり、『月の夜の狂戦士』あるいは『神殺し』とまで呼ばれる希代の空冥術士だ。


 けれども、トモシビを育てていると、そんなことは忘れてしまう。そんなことはどうでもよくなってしまう。


 ただただ、トモシビの母親であることが誇らしい。


 だから、なおさらわからないのだ。


 どうして、お母さんは子供から逃げたかったのだろうか。


 どうして、お母さんは子供に愛してると言わなかったのだろうか。


++++++++++


「ハッハアッ――ハッ――ハッハッ――」


 リサはベッドの上で目を覚ました。寝汗が酷い。いまのいままで、息を止めていたかのような苦しさだ。


 酷い夢を見た、気がする。


 ここは麹町のマンション――自宅だ。戦地でも、戦闘艦の中でもない。平和な日本の大地の上だ。気を張る必要なんてどこにもない。


 横を見れば、同じベッドで眠っているはずのトモシビが目を覚まして、心配そうにリサを見ている。


「まま、むりしないで」


 心配げに言うトモシビを、リサは抱きしめる。


 愛おしい。呼吸が楽になっていく。


 自然と、涙が流れる。


 そうだ。この小さなぬくもりこそ、リサの帰るべき場所だ。


 そう思うと同時に、リサは、生まれてから二十一年間、トモシビと出会うまでは、と理解してしまった。


 学校では優等生の児童・生徒としてふさわしく振る舞い、家では問題のない娘としてふさわしく振る舞う。それではまるで、どちらでもかのようではないか。


 決して下りることのできない。それがリサの人生だった。


 リサは高校生になってさえ、母親に失望されるのが怖くて、夜のパトロールだってこっそり行っていた。だというのに、結局は、母親に捨てられてしまった。


 本当は、母に愛されたかった。姉に愛されたかった。


 もう一度、誰かの言葉がこだまする。


 『あなたは自分のやりたいことではなく、誰かがあなたに望んでいると思った役割を演じた。つまらなくて当然よ』


 本当にその通りだと思う。


 リサは、常に人から利用されていることは理解していた。でも、利用されるだけありがたいとさえ思っていた。


 この世には利用価値さえない人間のほうが多いのだから。


 だというのに、利用価値などまるで考慮もされない人が愛されるのだ。


 ――いや、利用価値のあるなしではない。が愛されるのだ。


 逆に、リサは自分に利用価値を与え、利用価値で着飾ることによって、自分で自分の愛すべき特質を毀損きそんしてしまったのだ。


 そうして行き着いた先が、帰るところのないリサという子供だ。そんな哀れな子供が、この世に生まれてしまったのだ。それも、自分自身の努力のせいで。


 その子供は大人になっても、帰る場所を得られないままだった。


 トモシビに会うまでは。


 ずっと出掛けたままなのは、姉のミクラではなく、リサのほうだったのだ。


 その気配にリサは気づいていた。気づいていながら、無視をしたのだ。正義という甘い言葉を連呼することによって、自分の不幸を覆い隠したのだ。



 いまや人々は、リサのことを「バケモノ」あるいは「便利な装置」だと思っている。それはとりもなおさず、リサが築き上げてきた功績のせいだ。


 誰も人間だと思ってくれない。家族も、国防軍も、秋津洲財閥も、四ツ葉市の近所も、元生徒会の寺沢もだ。


 心ないひと言に傷つき、悩みを抱える普通の人間だと、誰も信じてくれない。まさかリサのようなバケモノが、心の痛みなどを感じるはずもないと、誰もが思っている。


 ……そうだ、鏡華や優子は別だ。大切にすべき例外だと思う。人間関係を、ここからつくっていくしかないのだろう。


 なんて貧弱な人間関係。真剣に生きてきたのに、こんなものとは。


 リサは再度トモシビを抱きしめ、頬ずりする。


「トモシビ、愛してるよ」


 こんな風に愛されたかった。


 リサはトモシビの愛おしさと、幼いころの自分の哀れさに涙する。


 ああ誰か――。


 小さいころのわたしを、救ってあげて欲しかった。


「トモね。まますき」


「ありがとう、トモシビ……」

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