第五章 不適合社会(2)理性なきところ

 矢間元ママがぎゃあぎゃあ騒いでいるところに、担任の納田先生が駆けつける。リサは、先生が間に入ってくれるなら大丈夫かと思ったが、ことはそう簡単ではなかった。


「どうしました?」


 納田先生の問いに、リサが答える。


「トモシビが鉛筆を捨てられたと言っていまして、事実確認をしたいんです」


 一方の矢間元ママはその場でつくったでっち上げをまくし立てる。


「このヤンキーママの娘がうちの珠令を叩いたんです! 鉛筆を捨てたとかありえません! そのうえ、親が出てきてこんな小さい子を脅してたんですよ! 卑劣極まりない!」


 めちゃくちゃだと、リサは思った。だが、めちゃくちゃな相手に真面目に関わるほど無駄なことはない。めちゃくちゃな相手は年中無休でめちゃくちゃなのだから。


 納田先生は双方の話を聞いたうえで、裁きを下す。


「わかりました。先生は、どちらが悪いかわかりませんので、どちらもごめんなさいをして終わりにしましょう」


「いや、先生、ちょっと待って下さい」


 リサは納田先生を止めようとするが、先生は止まらない。


「ではまず、珠令くんを叩いたというトモシビちゃんから謝りましょうか」


「先生、ちょっと待って下さい」


「なんですか?」


 二度目でようやく納田先生は止まったが、声に怒りの感情がこもっている。なにか悪いことをしただろうか? と、まるで幼稚園児のような感慨を覚える。


 終いには、トモシビが泣き出してしまう。


「トモ、たたいたりしてないもん!」


 リサはトモシビの頭を無言で撫でると、納田先生にはっきりと説明する。


「確かに、悪いことをしたなら、謝って解決する場合もあるでしょう。ですが、事実認定と判断は分けなければなりません。事実認定で誤れば、判断もあやまつことになります」


「なにを言ってるんですか? ここは幼稚園ですよ。幼稚園には幼稚園のルールがあるんです。喧嘩両成敗は基本ルールです」


 リサは、ああそうだ、この人もきのうから嘘をついている可能性があるのだったと思い出す。この人も、トモシビの敵なのだ。


「ですから、喧嘩をしたかどうかを確かめるのが、事実認定です。事実を確かにしなければ、判断は必ず間違いです」


「珠令くんのお母さんが、殴ったと言ったじゃないですか。それ以上のなにが必要だと言うんですか?」


「納田先生、疑わしきは、被告人の利益に従うものですよ」


 それを聞いた納田先生は、表情を歪めて嘲笑う。


「は? 軍隊用語で話されてもわかりませーん。だいたい、入園時の身分証のコピー見ましたけど、軍人なんですって? そりゃ子供も暴力にも走りますよね」


 リサはなんと言っていいか困った。そもそも『疑わしきは~』は法学由来の言葉であり、半ば一般化している言葉だ。決して軍隊用語ではない。だが、納田先生が莫迦ばかのふりをしているのでない限り、この人には話が通じないとはっきりわかる。


 おまけに、軍隊出身者の子供は暴力に走るというのは、この場でいままさに発生した誹謗中傷だ。仲裁に入った人間がこれでは意味がない。


 好機とばかりに、矢間元ママが中傷を追加する。


「謝らないのなら、賠償金を要求しますからね! それに、言いふらしますから! 宇宙帰りの暴力親子がいるって! 子供の左手についてる手袋、ガイジンの証拠でしょ!」


 もうわやくちゃだった。同じ日本語を使っているのに、まるで通じる気配がない。ここには理性がまるでない。


 リサはトモシビを抱き上げ一礼する。


「それでは、失礼します。これでは対話になりませんので」


 すると、矢間元ママがまたヒステリックに叫ぶ。


「逃げるのかぁ!」


「いいえ。でも、追いかけたいならお好きにどうぞ。わたしから言いたいのは、自分の口から出た言葉に責任をもつ。それが大人だということです」


 それだけ言い残し、リサは幼稚園から歩いて出ていく。泣きながら顔を肩に埋めてくるトモシビを抱えて。


++++++++++


 幼稚園から出たところに、黒塗りの高級車が止まっていた。


 リサが憮然としながらそれを通り過ぎようとしたところ、窓が開き、声が掛かる。


「やあ、逢川君。どうやら大変そうじゃないかね」


 話し掛けてきたのは妙見中将だった。


「大変ではないですよ」


「そうかね?」


「ですが、あなたはわたしに話があって来たんでしょう?」


「おお、よくわかるね。ぜひ乗ってくれたまえ。ここじゃなんだから、市ヶ谷まで来てくれるかな」


「近所の喫茶ガーベラじゃ駄目な話だということですね」


「さすがに話のわかる人だ」


「わかるのは話じゃない。あなたのやり口にはもう慣れたってことですよ」


++++++++++


 市ヶ谷、『総合治安部隊』隊舎、小会議室。


 そこに、リサと妙見中将はふたりで入った。トモシビのことは国防軍の女性事務官が面倒を見ていてくれるという。お腹が空けば、晩ご飯も食べさせてくれるそうだ。


 リサは目を伏せながら会話を開始する。


「では、手短かにお願いします」


 妙見中将はニヤリといつもどおりの粘っこい笑みを浮かべる。


「ああ、端的に、困っているようじゃないか」


「それ全然、端的じゃないですよね。見え透いていますよ。あなたの差し金でしょう」


「はて、何のことかわからんが、とりあえず否定はさせてもらうよ」


「結論からお願いします」


「国防軍に戻りたまえ」


「お断りします」

 

 即答だ。だが、妙見はそれを無視する。


「逢川リサ君、きみの能力は国防軍でこそ活かせるのではないかな。いま一度考えてはくれないかね?」


 リサは深々と溜息をつく。こんな人間に、娘がいると知られていること自体が取り返しがたい悪手なのだ。この男なら、日本のどこへ逃げても、居場所を探り当てて追ってくるだろう。


「……条件がふたつあります」

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