第三章 隣人として(5)世界はとても……

 掴むという行為全般には、大きな欠点がある。それは、人間の関節の可動域や筋肉が規定する向き以外に動かれると、対処できないということだ。


 フードの男に抱きかかえられる格好になったリサは、まず勢いを付けて自分のかかとを相手の両足の向こう側へと滑り込ませ、全体重を下に掛ける。


 これは『抱きかかえる』姿勢の完全な抜け穴だ。フードの男はそれを逃すまいとして前屈みになり――このままでは自分が頭から地面に倒れ込むことになると気づいて、両手を離す。いや、頭をかばうために、両手を離さざるを得なかったのだ。


「く――くそっ!」


 フードの男は再び優位を取ろうと、藻掻きながら立ち上がり、ふたりの様子を見ていたトモシビを追いかけようとする。


 だが、そんなことをリサが許すわけがない。彼女は回転しつつ男の両膝の裏に回し蹴りを入れ、同時にもう一方の脚で男のつま先を押さえて、もう一度転ばせる。いわゆる『蟹挟かにばさみ』という技術だ。


 立ち上がりはリサのほうが早い。彼女は両手を使って身を起こすと、即座にフードの男の手を蹴る。刃物を手放させるためだ。


 武器を持った手というのは、前からの攻撃を防ぐ向きには力を発揮できる。だが、その逆向き――武器を後ろから前へ蹴られると対応できない。あっさりと武器を落としてしまうのだ。


 地面を転がっていく刃物。リサはそれを追いかけ、右足で踏んだ。相手に取らせないためだ。


 フードの男はなんとか立ち上がるが、もはや武器なしだ。体術でも敵わない。加えて、男の背後は袋小路。逃げ場もない。


「騙しやがって、騙しやがって」


 フードの男はそんなことをつぶやいていた。逆恨みにもほどがある。


 リサは鼻で笑う。


「人質取って、武器まで持ち出した輩がそれを言う?」


「もう少しで俺のものになるはずだったのに――!」


 フードの男はもはや錯乱状態だった。勝てる要素はもうない。彼が勘違いをしているとすれば、自分が男で相手が女だから、腕力と体重で勝てるということだろう。


「ならないよ」


 掴み掛かろうとするフードの男相手に、リサの左回し蹴りが刺さる。


 脇の下。明確に人体急所だ。ほかの箇所よりも神経が多く、攻撃を受ければ激痛が走る箇所だ。今回は蹴りだからマシだが、刃物で斬れば治療困難で死に至る場合もある。


 フードの男は倒れ込み、悶絶する。そして、あまりの痛みに気絶した。


 そんな状態で、ようやくパトカーが到着する。


++++++++++


 誘拐の犯人はもちろん、リサとトモシビ、そして保母さんも警察署に連れて行かれ、事情聴取を受けることになった。


 リサは個別に聴取を受けることとなり、彼女はトモシビを保母さんに預けた。


 机と向かい合った椅子だけの部屋に通されると、リサはそのうちの下手に座るように促される。


 まるで犯人扱いだと、リサは思った。


 向かいの刑事はリサの個人情報を読み上げる。


「逢川リサ、二十二歳。国防軍所属。四ツ葉市在住。アーケモス大陸渡航歴あり。五歳児の母。その他の情報は取得不能、とはね」


「……普通、それ以上の情報が必要ですか?」


「おれたち警察はな、軍隊ってのが気に食わない。しかも、その歳で五歳児の母だって?」


「たしか日本は十六で結婚できるはずですが。おかしな点はないかと」


「十七くらいで子供抱えた女の子を軍隊が採用した? どういう冗談だそりゃあ」


「話がおかしくないですか? こちらは今回の事件の被害者ですよ」


 目の前の刑事は、リサに了解を得ることもなく、煙草に火をつけ、一度吸い、煙を吐く。


「あんたね、逢川さん。軍人が軽々しく民間人蹴っちゃまずいんですよ。素人じゃないんだから」


「素人ですよ。余計なことを言う前に、国防軍に確認を取って下さい。わたしは陸軍所属でもなければ、格闘戦の訓練も受けていないですから」


 これは本当だが、詭弁きべんではある。リサは格闘戦のイロハを、国防軍ではなく、ヴェーラ星辰軍で一通り学んでいる。一度、星芒具を焼失して誘拐された件を反省してのことだ。


「それじゃなんだ。海軍か? まさか宇宙軍か?」


「ともかくも、戦いません。国防軍にいたのも昔の話です。いまは喚び出されたって応じる必要はないんです」


「だが、調べりゃすぐわかる。国防軍退職にはなってないんだからな」


「それは向こうの都合です。わたしはとっくに抜けていますから」


「そんな屁理屈が通用すると思ってるのか」


「正当な理屈です。わたしが国防軍の要請に応じないでいいということ、電話をして頂ければすぐにわかりますから。電話番号を申し上げます。〇三の……」


 リサがそらで電話番号を言い始めたので、刑事はそれを一旦止める。


「待て待て、メモを取らせてくれ」


「構いません。準備ができたら教えて下さい」


 刑事は若手からメモとペンを渡されると、どうぞ、と言った。


 そして彼は、リサが指定した番号に電話をかける。


「あー、こちら四ツ葉市警察署、刑事課の田巻だ。そちらは軍か? 逢川リサという人物と話をしている。軍歴に奇妙な点があり聞きたいことがあり、……。……。……。は、はあ、そうですか。そうでしたか、いえ、問題はありません。はい、はい。では、失礼いたします」


 電話を切った刑事ははっきりとわかるくらい焦っていた。


「どうでしたか」


「どうでしたかって、いきなり妙見中将につなぐやつがあるか! あいつは日本の政界を牛耳っている裏のボスだぞ」


「それは知りません。わたしは一介の母親なので。ただ、妙見中将との取り決めで軍の要請を拒否できる立場にあるのは、彼しか知りませんから」


「あーわかった。帰ってよし」


「はあ、なんだか市民のための警察という感じではないですね。お友達の妙見中将にご相談させて頂きます。田巻刑事」


「あーいえ、申し訳ございませんでした。市民の安全がわれわれの第一優先です。それにしても、奥さん娘さんどちらも美人でらっしゃる」


 リサはさすがに頭にきて、机に拳を振り下ろす。


「その発想、きょうの犯人と大して変わりないですよ、田巻さん」


++++++++++


 その日は結局、リサはトモシビを連れて家に帰った。電話で、バイトに戻れなかったことを書店主に謝ったが、事情が事情なので問題はないと言ってもらえた。


 夜。リサはトモシビを抱いて眠る。


 トモシビは泣きながら言う。


「こわかった。しらないひと、こわかった」


「怖かったね。でも、ママがいるから大丈夫。この世界は、怖いものばっかりじゃないから、大丈夫。大丈夫……」


 それは、トモシビに言い聞かせる言葉だったが、いつしか、リサ自身に言い聞かせる言葉にもなっていた。


 世の中は容易に子供を奪い、人の尊厳を奪いに来る。戦わずに守れるだろうか。空冥術という絶大な武器を手放したままで守れるのだろうか。


 世界はとても怖いところだ。


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