第三章 隣人として(4)かつての自分と違うこと

「ねえ、おねーさん、バイト何時までなの?」


 日に日にリサに対するセクハラ行為はエスカレートしていく。リサは書店のバイトをしに来たのであって、ナンパをされるためにカウンターに座っているわけではない。


 ナンパ男はたいていひとりではない。その後ろに数人の男がいて、ナンパの様子をニタニタ笑いながら見ているのだ。


 薄暗くて静かなところが美点だった『ゆめ書店』が、いまやガラの悪い連中がたびたび出没するスポットと化している。


 リサは、高校生のころの自分がこれを見たら、「お姉さん大丈夫ですか!」と言いながら、光の槍で殴っていたんだろうなと思う。


 リサは溜息をつき、あえて低い声で、ナンパを追い払う。


「本を買う気がないのなら、お帰りください」


 さすがに、戦場前線仕込みの凄みのある発声と目つきだ。


 これでナンパ男たちは怖じ気づき、すごすごと去って行く。去り際に店の入口を蹴ったりする者もいるが、実に負け犬らしい行動だ。


 しかし、これが続くとリサもうんざりする。ナンパも一度では済まず、何度撃退しても新しいナンパ男たちが湧いてくる。無尽蔵だ。


++++++++++


 ナンパも止まなければ、バイトから家までの間を誰かにつけられている気配もするようになった。リサには、それがいつぞやの『超越者』のものではなく、ただの人間のものであるとすぐにわかった。


 バイトの帰りはいつもトモシビと手をつないでいる。この子に危害を加えさせてはいけないと警戒するようにもなった。


 いつからこの街はこんなに物騒になったのだろう。


++++++++++


 雪が積もるような日。


 リサは幼稚園の迎えの時間になると、バイトを少し抜ける旨を店主に伝え、少しの間だけ交代してもらう。


 幼稚園の入り口に到着して、リサは驚いた。保母さんとトモシビがいて、その前に知らない男が立っている。


 この雪の中、トモシビは保母さんの差す傘の中に入っているが、男は防寒ジャケットのフードを目深に被っている。


 リサは差していた傘を投げ捨て、走る。


 保母さんがリサに気づき、叫ぶように言う。


「この人、トモシビちゃんのお父さんだって……」


「そんな人はいません!」


 リサは足場の悪い中を走った。だが、トモシビは知らない男に捕まる。抱き上げられ、連れ去られる。保母さんも止めようとしたが、遅かった。


 知らない男はトモシビを抱えて、走り去って行く。


「まま!」


 トモシビの叫びが聞こえる。


 リサは保母さんの前を走り過ぎながら、スピードを落とさずに要求だけ残していく。


「警察に連絡を!」


 走り続けるリサは、後方で保母さんが幼稚園内に駆け込んでいく様子を感じ取りながら、全速力で前を走る男を追いかける。


 

 住宅街の細い路地を抜け、商店の裏路地まで来たとき、犯人の男は振り返った。その手には刃物を持っていて、その先端がトモシビに向けられている。


「さ、さあこれでどうだ。動くなよ。俺の要求を聞け!」


 リサは完全に頭の中が戦闘モードだった。どういったパターンで敵を倒すか、時々刻々と変わる状況に応じて、二十通りの戦術の重みが変化し続けている。


「あんたのことは前から追いかけてたんだ。逢川リサ。俺の女になってくれよ。嫌とは言わせない。この娘がどうなっても――」


 フードの男が戯言を言っている間も、リサは一歩一歩近づいていく。この男がどれだけうかつか、どれだけ恐怖で非論理的な行動を取るか、測っているのだ。


 何しろいまは、トモシビに凶器が突きつけられている状況だ。リサの頭の中では、いかに迅速に被害者を安全無事に救い出すかというその一点のみが議論されている。


 加えて、いまはリサに星芒具はない。日本では不要だからだ。むしろ、トモシビが子供用の星芒具を装着しているが、あくまで翻訳機能用だ。戦闘用の空冥術はなにひとつ入っていない。


 フードの男は、リサの前進ごとに怯え、刃物を持った手が大きく震えている。小心者だ。小心者ゆえに、どんな行動に出るか予測がしづらい。


 ……条件は明確になった。敵からトモシビを可能な限り早く離さなければならない。そして、星芒具なしで『無力化』しなければならない。


 

 リサは立ち止まる。


「ストーカーさん。交渉と行きましょう」


「こここ、交渉なんか。この状況でお前は負けてるんだ。俺に従え!」


「人質交換しましょう」


「だ、騙されないぞ! そう言って、この子供を手放したら逃げる気だろう!」


「この距離で子供を連れて逃げられると思う?」


「く、来るな!」


 刃物の先がリサを向いた。それでいい。これでうっかりでもトモシビの顔に傷が付く危険は減った。


 リサは両腕を開く。


「ほら、わたしは武器を持っていない。どちらが有利かは明白。娘を解放して」


 リサはどんどんフードの男に近づいていく。ついには、刃物の間合いの内側に入り込み、互いの体温を感じられそうな距離にまで踏み込む。


 それでもフードの男は震えている。リサは男に体重を軽く預け、片手を男の胸に当てる。


「それでいいの? 娘を抱いていたら、わたしを捕まえられないけど?」


 リサの誘いは妖艶すぎた。『リーザ』だったころの言葉を借りたのだ。


 これで落ちないはずはない。


 フードの男はトモシビを抱えているほうの腕を解放した。即座に、トモシビは駆け出していく。距離を取るために。


 そして、フードの男は片手に刃物を持ったまま、よい香りとぬくもりと心地よい重みの主であるリサを、両腕で抱きしめる。


 ここからがリサの反転攻勢だ。トモシビはもう十分に安全な距離まで離れている。

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