第三章 隣人として(3)「美人のバイト」
朝、リサは玄関先で、トモシビを幼稚園送迎バスで送り出すと、大泉ゆめ商店街の『ゆめ書店』ヘと向かう。
「おはようごさいます!」
リサがあいさつしながら店に近づくと、店主はシャッターを開けるところだった。彼はシャッターの鍵を渡してくる。
「高校時代と違って、朝から頼むことになるな。シャッターを開けるところから頼むよ」
そう言われて、リサは鍵を受け取ると、解錠し、シャッターを押し開ける。女性としては背が高いので開けやすいが、それでも足りない分は鉄の棒で押し上げる。
店内に入ると、そこはあいかわずの薄暗い店内だった。だが、すぐに、カウンター上に店のロゴ入りのエプロンと三角巾が畳んでおいてあることに気づく。
「それを使ってくれ。俺はここに座ってる」
店主は二階へと続く階段に座った。思えば、高校生のときも、リサが店内外の掃除をしているときはその辺りに座っていた。
リサは昔を懐かしく思う。
「わかりました。掃除始めますね」
それから、リサのバイトの一日が始まった。
この仕事を朝からやるのは初めてだ。まずは店の外をホウキで掃き、店内の本棚の埃をハタキで落としていく。
そうしているうちに店の外から声が掛かるので、出てみると入荷商品の受け取りだった。店主に確認し、仕入れ代金を支払う。
商品が入荷されたということは、それを並べなければならない。本のジャンルや出版社、著者名を頼りに棚に並べていく。
そんなリサに、店主が声を掛ける。
「ああ、そうだ。これ、これ返品予定の本のリスト。マーカー引いてあるやつな。そこの段ボール組んで入れといてくれる?」
「返品、ですか?」
「ああ、売れなかった本は取り次ぎに返すんだ。委託制度とか再販価格維持制度とかは調べとくといいぞ」
「わかりました。……あれ? こっちの本は、入荷したのにまるごと、一冊も棚に並ばなかったやつですね。これは返品してもいいんですか?」
「いいんだいいんだ。売れる本を入荷するには、そういう売れない本も入荷せんといかん。うちは零細だからな、うちの目利きなんか期待されてない。で、返品制度を使って、やっぱり売れませんでしたと返すわけだ」
「これらの本は、取り次ぎに返されるとどうなるんですか?」
「出版社に返っていくわなあ」
「出版社に返ると?」
「断裁すると聞いてる」
「えーっ、もったいない!」
「まあ、紙の無駄だわな。俺はその本は売れないと思ったから棚に出してない。だが、取り次ぎの手前、一応受け取らなきゃならん。世の中のどこかには、その本を探してるやつもいるかもしれんがな」
「ここで棚にすら並ばなかった本を、探してた人がいるかもしれない……」
「まあ、制度に従わんと商売ができんからこうなっとる。制度に守られてるわけでもあるが、はたして、客にとっていいのかどうかだな」
リサは、棚にも並ばずにただ返品される本を引き出しから出して、抱えてみた。ずっしりとしている。十冊もある。これを書いた人は確実にいて、出版するために編集者や装丁師さんなどが関わったはずだ。そして、読みたかった人がいるかもしれない。
「店長、わたし、これ一冊買います」
「いいのか? バイト代稼ぎに来てるんだろ?」
「そうですけど、気になるじゃないですか。棚に並ばなかった本ってどういうものなのか」
「……俺の目利きを確かめたいんだな?」
リサは苦笑いする。
「そうじゃないですよ。どんな本が面白くないとされちゃうのかなって。表紙を見るといい感じ。パラパラ見ると、内容はまだわからないですが、本の中盤でも文章力がダレてないです。いい加減な本じゃなさそうです」
「……結構、変わった本の見方をするんだな」
「これで、通しで読んでみてどうなるのか、気になっちゃって」
「わかった。じゃあ、それは一冊お買い上げだな。レジ通してくれ。残りは返品の箱に入れといてくれ」
「わかりました!」
リサはその本をレジに通し、一冊だけカバンにしまうと、テキパキと仕事を進めていった。
ちなみに、その本はあとで読んだところ、短編集だった。リサの感想では、六割くらいは凡庸な作品だったが、残りはなかなか面白く、さらにそのなかの一編は異様に面白く、気に入った。
気に入った部分はたったの十六ページだけだったが、それでもこれは金額に充分見合うと思った。だが確かに、売り物としては微妙だ。こういう楽しみ方をする、リサのような本の虫向けなので、店主の見立ては正しかったと言える。
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リサが週二でバイトをするようになってからも、『ゆめ書店』は、最初は従来通りの寂れた書店だった。なにもすることがないのが心地よい。経営状態的にあやういかもしれないし、それでもずっと営業しているのが謎だ。
しかし、日を追うにつれ、客が増えるようになった。
だが、どうも本に興味のあるような感じではない。彼ら同士の会話を聞いていると、商店街の書店に美人のバイトが入ったと、どこかで噂になっているようだ。
彼らは本ではなく、リサを見に来たのだ。要は冷やかしだ。
リサはそれでも、客足が増えて、そのうちの何割かでも本を買っていってくれればいいと思った。だが、彼らは決して本に金を払おうとしない。
冷やかしたちは入れ替わり立ち替わりだが、行動はどんどんエスカレートしていく。
こんな小さな書店には置いていなさそうなマニアックな本がないかを、リサに訪ねてくるようになった。最初のうち、リサは真面目に目録を見て「ないですね、お取り寄せしましょうか」などと言っていたが、取り寄せる者は皆無だった。
揚げ句の果てに「書棚を調べろ」と強弁する客まで現れた。目録にないので店内にないことは明白だ。だが、本棚を調べろと言って聞かないのだ。
さらには、脚立に乗って高いところの本を取るように要求してきたりもした。だが、本を取って渡すと、「これじゃなかった」と言って帰っていく。
リサが「おかしなことも続くんですね」と昼食の弁当を差し入れてくれた店主に話すと、それはセクハラだということだった。一部の客は、脚立に乗って棚の本を探しているリサの身体をじろじろ見ているということだった。
怖気がした。だが、店主が「そういうときは俺を呼んでくれ」と言っても、リサはそれを遠慮した。昔から店主が腰を悪くしていることは知っているからだ。なるべくなら迷惑を掛けたくない。
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