第三章 隣人として(2)ゆめ書店へもう一度
一方のリサは、地域社会に溶け込んでいる姿をトモシビに見せようと思った。
家庭財政としては、ヴェーラ軍時代の俸給と振り込まれ続けた国防軍給与があるので、働く必要はない。しかし、戦いではなく、社会の中で生きるとはどういうことかを見せたいと思ったのだ。
ところが、リサには、戦場働き以外には、書店でのアルバイトの経験しかない。それを知ったときには、本人が一番愕然とした。
リサは、社会復帰が真っ先に必要なのは自分自身だと悟った。
商店街にある『ゆめ書店』。
まずはここから始めよう。昔の要領を取り戻すのだ。ほかの仕事に移っていくのは、そのあとで遅くない。
リサはネコのぬいぐるみと遊んでいるトモシビに声を掛ける。
「トモシビ、本屋さんに行こうか」
「なんで?」
「本屋さん、お友達なの」
「ほんやさんも、ままのおともだち?」
そうとなると、トモシビは早速出掛ける準備をする。コートを着て、カバンを斜めに掛け、カバンの中から顔を出すようにネコのぬいぐるみを入れる。
これがトモシビの完全お出掛けスタイルだ。
気合いの入ったトモシビを見て微笑みながら、リサ自身もコートを着込む。
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「お久しぶりです」
リサが商店街の『ゆめ書店』の店主に話し掛けたとき、店主は呆然としていた。彼は薄暗い本屋の前で、ホウキで地面を掃いていた。
まずは、とんでもない美人が現れたことに対する驚き。そして次に、この美人が「お久しぶりです」と言ったことに対する困惑。こんな知り合いはいただろうかという
店主はこの四年で少し老いたようだ。思い出すのに時間を要する様子があったので、リサは自分からきちんと名乗ることにした。
「えっと、逢川リサです。高校生のころ、よくバイトさせてもらってましたよね」
それで顔と名前が一致したらしい。店主は納得がいったような顔をする。
「おお、おお、逢川さんか。ずいぶんと美人さんになっとるから、びっくりしたわい。こんな女優さんに知り合いがいたかと。やっぱり、大学に行くと変わるんだな」
そう言われると、リサは気まずい。
「えっと、大学には行ってないんです」
「なんだ。休んどるのか」
「いえ、進学しなかったんです。受験をやめたので」
「おお、あの頃、店内でよく勉強しておったのに……」
胸が痛い。確かに、高校生のころ、リサがこの店をバイト先に選んだのは、客の入りがなく、暇で、カウンターで勉強し放題だったからだ。ここで受験参考書を解いている姿は、店主に目撃されている。リサはそれを知っている。
「いろいろありまして」
「……いや、しかし。それにしても、逢川さんのお母さんのお宅は引っ越したと聞いていたが」
「それも、わたしだけ戻ってきたんです。ああ、娘のトモシビも一緒です」
リサがそう言うと、自分の名前が出たところで、トモシビが自己紹介をする。
「あいかわトモシビ、ごさいです!」
いつもの定型文だ。
威風堂々たる様子のトモシビとは違って、リサは苦笑いした。店主はまたも、呆然としている。
「……お子さんが? いや、四年前は高校生だったし、年齢が――」
そこで、リサは店主に近寄って、耳打ちする。
「しー。訳ありなんです。歳が合わないのはわかると思いますが、本人の前で言わないようにお願いします」
「お、おお、わかった……」
リサは元の姿勢に戻ると、こほん、と咳払いをする。
「本日お伺いしたのはお願いがありまして。わたしをまた、ここでバイトで雇って頂けないかと。以前のように、週二とかでいいんです」
「いや、しかし……」
店主はまた驚き、悩んだ様子を見せた。
「問題がありますか? もうバイトのかたがいらっしゃるとか?」
「いや、そうじゃなく。高校生のころは、勉強の場として使ってもらっていたが、いまはこんな美人さんが薄暗い本屋にいるのはもったいない気がするなあ」
「もったいない、ですか?」
「ああ、なんというか、場違いというか。こんな埃っぽい店内で申し訳ないというか。駅前に新しくできた、ファミレスとかでウェイトレスさんをしたほうがいいかと思うんだが……」
リサは軽く頭を下げる。
「そこをなんとかお願いします。わたしの社会復帰といいますか、お恥ずかしながら、働いたことがあるのがここしかありませんので……」
そう言われるとまた、店主は考え込む。彼はリサの高校卒業後のことを訊かない。追及するのはやめておいたのだ。そのうえで、社会復帰という言葉の意味を考える。
「……まあ、そこまで言うなら。うちの店に女優さんがいるのはもったいないが。いてくれる分にはこちらは大歓迎だ」
「女優じゃないですよ。でも、ありがとうございます」
リサは再び頭を下げた。そんな彼女の様子を、トモシビはじっと見ている。
同様に、店主もリサの様子を感心して見ている。
「外見だけじゃなく、中身もずいぶん大人っぽくなったもんだ」
「え?」
「いや、ひとりごとだ。じゃあ、勤務日は前と同じ、月・木。その日は、店の前の掃除などしとらんから頼むよ。あと、そうだ、おちびさんは幼稚園かい?」
「はい」
「じゃあ、迎えに行くこともあるだろう。その時間は抜けたらいい。迎えに行ったあとは、おちびさんも店番だ」
「ありがとうございます!」
リサは再び頭を下げた。なんと柔軟性の高い職場なのだろう。これが駅前のファミリーレストランで実現できるかどうかはかなりあやしい。彼女はそう思った。
しかし、おちびさんと連呼されて、トモシビは自分の名前を名乗り直す。
「トモシビ」
「そうだそうだ、トモシビだ。トモシビちゃんは、本は好きかね?」
「すこぶる」
「おお、難しい言葉を知っとるんだな。立ち読みは自由だ。お母さんに本を選んでもらうといい」
「ありがとう」「ありがとうございます」
トモシビとリサが同時に感謝の言葉を述べる。本当に、この書店主には感謝しっぱなしだ。
こうして、リサとトモシビの日本社会への溶け込みが始まったのだった。
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