第一章 捨て子と拾い子(4)自分が存在していい生活

 スライド式のドアを開けると、長く閉め切られていて、人のいなかった家独特の匂いがする。


 リサは入口で靴を脱ぎ、電気の明かりを点ける。幸いなことに、電気は通っているようだ。


 背後で、靴を脱ごうとしているトモシビに気づき、リサは彼女を手伝う。そして、彼女の靴も自分の靴も、つま先が家の外を向くように並べ直す。


「えらいね。この家では靴を脱ぐから、憶えておいてね」


「うん」


 そうしてリサは、トモシビとともにリビングへと入る。明かりを点ける。家具はそのままだった。


 二年前のパニックでの中での引っ越し騒ぎでは引っ越し業者が足りなかったという話も聞いた。おそらく、家具などは置いていくと決めたのだろう。リサとしては、家具が残ってくれているのはありがたい。


 トモシビはテーブルをずっと触っている。ローテーブルで椅子がなく、しかも布団が付いているのが珍しかったのだろうか。


「トモシビ、それはこたつというんだよ」


「こたつ?」


「寒いから点けようか」


「うん」


 リサは電源プラグをコンセントに差し、スイッチを『入』にする。するとじんわり、こたつの中が温まってくる。


「なかあかい、おもしろい」


 トモシビがこたつの中を見てはしゃいでいる。


「赤いところは熱くなるから触らないでね。火傷やけどしちゃう」


 リサはそう言いながら、座ったまま、テーブルの上にぐったり倒れ込む。


 トモシビはそんなリサの行動の変化に敏感だ。


「まま、つかれた?」


「うーん、外が寒かったから。うん……つかれた」


 そう言ったリサの頭を、トモシビは不器用に撫でる。


「まま、おつかれさま」


「うん。ありがとう、トモシビ」


 優しい子だと、リサは思う。姿形は五歳程度だが、実際は、『原初の泥』から生まれたての子供だ。まだまだ人と関わることを学ぶ初期段階だ。それを思うと、コミュニケーション力は抜群に高い。高すぎるほどだ。



 リサはひと休みしてから、家の中の調査を再開する。呼んだわけでもないのに、トモシビもあとからトテトテとついて来る。


 台所の道具は概ね揃っている。買い置きの調味料やカレールーなども残っているが、軒並み賞味期限が過ぎている。


 銀行通帳などを置いていた引き出しだけが空だったので、本当に必要最小限のものを持って、母が逃げ出したことがわかる。



 リサは二階にのぼり、部屋のドアを開けて、また明かりを点ける。

 

 そこは、高校生のときまでリサが使っていた部屋だった。本棚も机も整然としていて、誰も触っていないことがわかる。


 机の上には受験参考書が並べられている。教科別のものもあれば、大学別の過去問集もある。青京大、三田塾大、西北大、洛城大、青京商大などといった有名な大学名が並んでいる。ほとんど全部、過去問は解いたはずだ。


「ここは?」


 トモシビが質問してくるので、リサは答える。


「ママがむかし使ってた部屋だよ。なつかしい」


「なつかしい?」


「うん。なつかしいんだよ」


 思わず、リサは額を押さえる。ここから、大学という別の世界に飛び出していたかもしれないのだ。そして、いまごろは就活中だろうか。就活を終えたころだろうか。大学四年生を謳歌している世界もあったかもしれないのだ。


「まま?」


 トモシビの心配そうな声を聞き、リサは我に返る。


「ああ、うん。この部屋も、模様替えしなきゃね」


「もようがえ?」


「そうだ、ママのお父さんの部屋に行ってみよう。古いものはみんな、あの部屋に詰め込んであるんだ。ママのお母さんが、モノを捨てられない人でね……」


 ずっと前に亡くなった父親の部屋は、母の思い出の物置と化している。それはリサが以前ここに住んでいたときからそうだった。


++++++++++


 やはり、残っていた。リサや姉のミクラが幼稚園児だったころに着ていた服が。古い段ボール箱の中に、そっくりそのまま残っていたのだ。


 リサは段ボール箱をひとつ抱えて一階へ下り、トモシビに日本風の子供服を着せてみた。ズボンだったり、スカートだったり。シャツだったり、ブラウスだったり。なんでも残っている。子供のファッションショーをしている気分だ。


 トモシビも楽しいのか、いろいろ着ては喜んでいる。だが、リサは内心、古い服ばかりだから、そのうち新しいものを買いに、駅前の琴吹屋モールに行かなければと思った。


 日本の生活は便利なはずなのに、いちいち、立ち上げるのが大変だ。


 子供服を抱えたまま、床に座ったまま、リサはうつむく。


 家じゅう探したが、ついに見つからなかったものがある。それは、母からの書き置きだ。どうやら母は、リサや姉のミクラが、ここへ帰ってくるだろうとは考えなかったらしい。


 物思いにふけるリサに、トモシビが心配げに声を掛ける。


「まま?」


「あ、うん。大丈夫。服たくさんあるけど、時間のあるときに、新しい服を買いに行こうね。トモシビの好きな服を買ってあげる」


 トモシビは大きくうなずく。


「うん。トモも、ままのふく、えらんであげる」


 そう言われてはたと気づく。リサは自分の服がない。部屋にあるのは、高校生のときに着ていたものだけだ。そして、いま着ているのは国防軍のジャージだ。

 

 本当に、自分のこととなると、鈍い。


 だけど、こんな身近に、自分を世界の一員として受け入れてくれる人がいて――そのことが、リサにはなによりも嬉しかった。相手は生まれたばかりの『泥の乙女』だというのに。


 リサは鼻声だった。


「うん。ママの服も、トモシビに選んでもらおうね」


 これからここで、母子おやこの生活が始まるのだ。リサにとっては、生まれて初めての――『自分』が存在していい生活が、始まるのだ。

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