第八章 たくさんの羽(3)彼女の牢獄

「痛……ッた」


 リサはできるだけ声を抑えてそう言った。皇城ではお湯のシャワーが出る。石鹸で身体を洗ってお湯で流すと、先ほどのギッテワナとの戦闘で負ったかすり傷がヒリヒリ痛む。


 汗と泥と血を流し終えて脱衣所に出ると、新しい寝間着が用意されていた。リサはギッテワナと寝間着のまま戦ったのだ。当然、着ていたものは破れていたし、汚れてもいた。


 用意してくれたのはラミザだ。タオルで身体を拭いてから、ありがたく、新しい寝間着を着る。


 そして、左手に星芒具を巻き、手首・肘・中央の三点で留める。アーケモスでは、空冥術士でなくても、誰もが星芒具を左手に装着している。オーリア帝国の言葉が使えないリサにとっては、この慣例はありがたい。星芒具は翻訳機能を備えてもいるからだ。


 脱衣所からベッドルームへ出ると、同じく寝間着に着替えたラミザが、呆けた様子でベッドに座っている。


「ラミザ」


 ここはラミザの部屋だ。


 さきほどまで、ラミザはギッテワナを派手に殺し、返り血まみれになっていた。そして、そのあと泣き崩れ、リサが肩を貸さずには歩けなくなっていた。


 それゆえ、ふたりともラミザの寝室にやって来たのだ。先にシャワーを浴びたのは返り血がひどかったラミザのほうで、リサはそのあとだった。


 どうやら、ラミザはリサのシャワーの間、新しい寝間着を用意してくれた以外は、ずっと呆けていたらしい。


 ラミザは振り返る。


「リサ」


 リサは毛量の多い髪を乾かすため、タオルをかぶって部屋に戻ってきたところだ。


 ラミザの部屋は来客用よりもひときわ広い。そもそも、階層が高いところにあり、ほかの住み込みの武官・文官と比べても差別化されている。


 外に接する壁には窓があり、バルコニーまである。ベッドは言わずもがな天蓋付きで、日本でいうところのクイーンサイズだろう。


 壁際には天井まである書棚が三竿。いずれも軍事・戦略論や統計学、組織管理法や会計学まで、さまざまな学問の本で埋め尽くされている。


 机と椅子もあり、机の上には書類が山と積み上げられている。そして、その傍には姿見が置かれている。


 部屋を見るだけで、この部屋の主の知性の高さを感じずにはいられない。


「待たせたね。きょうは遅いし、もう寝よう」


 リサはそう言ったが、ラミザは首を横に振る。


「少し、寝る前にお話がしたいの」


 そう言われて、断るわけにもいかない。リサはタオルを首に掛けたまま、ラミザの隣に座る。


「いいよ。何を話す?」


「わたしの、顔の傷の話はしたかしら?」


「いいや。しなかったと思う。聞いたことはないはず。その整った顔に、それだけの傷跡を付けるなんて、どんなことがあったんだろうと不思議だったけど」


 そう言われて、ラミザは自分で右頬の傷跡を撫でる。その姿が、机の横の姿見に映る。


「わたしは、小さいときから、自分だけがどうして違う肌の色をしているんだろうって不思議だった。黒い肌は、敵国の証なのに」


「……」


「みんな、わたしの肌の色を恐れたわ。そして、肌の色に耐えてくれた使用人たちは、わたしの出自をおそれた。わたしには、ずっと、親しい人間がいなかった」


「ラミザ……」


 リサには、励ます言葉が思いつかない。いや、を救うための言葉が見つからない。気にするななどとは言えない。なにせ、気にしているのはまわりのほうなのだから。


「人々は、白い肌は美しいものだと言っていたわ。そうだとすると、わたしはとても醜い。醜いから誰も近寄らないのだと思ったわ。でもね、小さいわたしは、ある日、気がついたの」


「気がついたって、何に?」


「この黒い肌の下には、みんなと同じ、白い肌があるんじゃないかって」


 リサは背筋がぞっとした。もし、幼いラミザがそう考えたのだとすると……。


「じゃあ、その頬の傷は――」


「ええ、わたしが自分で、ハサミで切ったの。白い肌を探すために」


 それは、相当な覚悟、相当な思い込みだったに違いない。ラミザはいま、十八歳のはずだ。ハサミでそんなことをしたのは、どう見積もっても十年より前のはずだ。


 だというのに、ラミザの右頬には、いまも深く、深く、傷跡が残っている。子供が自分で自分を切った跡にしては、あまりにも……。いや、よほど強い思いで、黒い肌を捨てたかったに違いない。


 それは殺意だ。褐色の肌を持った自分を抹消するための。


「そん、な……」


「でも、莫迦なお話ね。どれだけ切ったところで、白い肌なんて出て来ないのだもの」


「それが、子供らしい……?」


 ラミザの世界観は、いろいろおかしい。だが、彼女の世界観を狂わせるほどの理不尽が、これまでの生育環境にあったのだ。


「でも、わたしはそのとき理解したわ。わたしは一生、誰とも親しくなれないのだって」


「そんな、おかしいよ。だって、ラミザの肌は、そんなに美しいのに」


 うつむくリサに、ラミザは微笑む。


「わたしはこの部屋で育った。ここにはたくさん人がいる。学校にもたくさん人がいた。でも、わたしはひとりだったの。リサと出会うまでは」


「だってわたしは、ラミザは、最初から、とても綺麗だと思ったから……」


「ありがとう。そういうところよ。リサが特別なのって」


 ラミザは嬉しそうだった。しかし、リサはいまのやりとりに違和感を覚える。


「ちょっと待って。ラミザは、参謀部員になるずっと前から、この部屋で育った……? どういうこと?」


 リサの問いに、ラミザはすぐに答えない。まるでクイズだ。回答者が悩んでいるのを見て、楽しげにしている出題者そのものだ。


「わたしはね、リサ。前皇帝の子として生まれたの。だから、ここがわたしの居室。わたしの牢獄。でもここは快適よ。欲しい本は何だって手に入ったもの」


「じゃあ、クシェルメート陛下は……」


「陛下は、わたしの兄よ。母親違いのね」


「じゃあ、ラミザって、オーリア帝国のお姫様……?」


 ラミザは微笑んだまま、首を横に振る。


「残念ながら、そうではないの。わたしが前皇帝の子であることは、皇城内での公然の秘密。わたしは表舞台には立てない。だって、わたしの中に流れている血のもう半分は――」


 そこまで言って、ラミザは口をつぐむ。まるで、この先を言うためには、また別の鍵が必要になるかのようだ。


「ラミザ?」


 ラミザはベッドを下り、床に座り込んで、リサの膝に手を置く。そうすると、リサは見上げられる格好になる。


「ねえ、リサ。どうしてあなたは何も怖くないの? 危機感を感じる本能がどこかへ行ってしまったの?」


「……それは、そうなのかもしれない」


「リサは自分を大事にしなさすぎだわ。どうしてもっと、自分のことを大切にしようとしないの?」


 それをラミザに言われるのだとしたら、おかしな話だと、リサは思った。彼女はラミザの両手をとり、しっかりと握る。


「わたしは、ラミザにこそ、もっと自分を大事にしてほしいよ。この国の偏見のもとでは困難もあると思うけど、ラミザ自身にだけは、ラミザを大切にしてほしい」


 両手を握ったまま、ラミザは立ち上がる。


「変なの。わたしはリサの心配をしているのに、リサはわたしの心配をしているのね。……ねえ、この関係性って、どういう名前で呼ぶの?」


 夜風が入り、ふたりの髪がゆるやかに揺れる。


 黒い羽が一枚、バルコニーの出入口の外から、入り込んでくる。

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