第五章 湾岸エリアの攻防(8)名前をください
リサは隊舎の屋上で、ぼんやりと空を見上げていた。
このところ、息が詰まるといつもここに来てしまう。ザネリヤがここで煙草を吸っているのではないか、そうなら話し相手になってくれるのではないかと思ったが、当てが外れた。自分ひとりしかいない。
海上保安庁は『黒鳥の檻』の幹部を海側から捜索したが、見つからなかったという。いまだ、あのテロ組織は健在だということだ。
リサは深呼吸をする。会議室の空気は身体に悪い。鈍感だという自覚のある彼女でさえ、あの場に渦巻く「何か別の意図」の存在には目眩がした。
それがいったい、何なのかもわからないというのに。この気持ち悪さは何だろう。
カチャン。キイ。と、ドアノブと蝶番の音がして、誰かがやって来る気配がした。リサはザネリヤが来たのかと思いそちらを見たが、以外にも、姿を現したのはラミザノーラだった。
「ザネリヤ・エデシナ・ゾニ主任研究員に訊いたら、ここじゃないかと言われたものだから」
ザンの差し金か、とリサは思う。
リサはラミザノーラのほうへ向き直る。
「ラミザノーラさん」
「少し話をしたくて。いえ、大層なことじゃないの。気晴らしに、ね」
ラミザノーラはそう言って、リサの前にやって来て、微笑む。
相変わらず、参謀部員であり、かつ前線でも戦える戦士とは思えない様子だなあとリサは感心する。
「何かご用ですか?」
リサの問いに、ラミザノーラは首を縦に振る。
「ええ。要件はふたつ。ひとつめは、前も言ったように、アーケモスに来る気はないかしら、ということ」
「でも高校がありますし」
「高校は卒業するまで待つわ」
「大学に行って――法曹になるって言いましたよね」
「法曹って、調べたのだけど、法の番人のことね。それよりも、わたしはリサには正義の体現者になってほしい」
正義。
それはリサの脳を電撃で灼くような、強い言葉だ。
それは姉のミクラが口癖のように言っていた言葉だ。
「アーケモスは――オーリア帝国は、本当に戦争をしているんですね。ジル・デュールでしたっけ、大きな都市が焼かれたとか」
リサはうつむき、フェンスの金網をつかみながら、ラミザノーラは首肯する。
「ええ。『黒鳥の檻』の攻撃を受けたのは、わたしたちが出国する前。わたしは現地入りはしなかったけれど……。首都に次ぐ第二の都市が、そう易々と敵の手に落ちるなど、考えられなかった」
「そして、そのとき、フィズもそこにいた」
「ええ」
「フィズはそのとき、どうやら部下をたくさん失って、守りたかった公爵令嬢を守れなかった。だからあんなに怒るんだ。わたしが戦うこと――」
「そうね。でもそれは彼の間違いよ。フィズナーは公爵令嬢ラルディリースを守れなかった。でも、素質や実績があるあなたにまで、同じ扱いをするべきではないわ」
「もしかして、似てるのかな。わたしとそのお姫様」
リサはそれを真面目に言ったつもりだったが、なぜかラミザノーラには笑われてしまう。
「いいえ、全然。お見かけしたことはあるけれど、ラルディリース公爵令嬢はお人形のような方だったわ。その点が奏功して、皇帝陛下の婚約相手になったのだけれど。リサのように、わたしの胸を打つ存在ではなかったわ」
「なんでそんなに笑うの」
「いえ、ごめんなさい。なんだか可笑しくて」
「でも、『黒鳥の檻』のグラービも、やっていることは悪いことだけど、祖国イルオール連邦のために戦ってる」
昨夜の戦闘中、グラービは言っていた。魂でも何でも売ってやろうじゃないか。いずれわが祖国、イルオール連邦が他国に蹂躙されているこの状況を打破できるのであれば――と。
「そうね。戦争は正義と正義のぶつかり合いだわ」
ラミザノーラの言葉に、リサは胸が詰まる。正義を為したい思いはある。でも、それは容易に別の正義とぶつかってしまうのだ。
「そうだね」
「といって、わたしたちは自国の都市が焼かれるのを見過ごす気はない。イルオール連邦は名ばかりで、各地の軍閥が争い続けている、あやうい土地。だから魔族にも付け入られる」
「つまり、オーリア帝国がイルオール連邦に勝つには、魔族を倒す必要もあるということだね」
「そうなるわ。でも、イルオール連邦の平定は正義執行の方法のひとつ。リサ、あなたならどうする? あなたの正義は、敵を滅ぼすことで成し遂げられるの?」
「……わからないよ」
「わからないなら、アーケモスに渡るべきだわ。自分の目で見れば、戦争以外の解決法だって見つかるかもしれないのだもの」
……はめられた。リサは、自分がうまく誘導されてしまったことに気がついた。さすが、ラミザノーラは参謀部員だ。罠に掛けるなどお手の物だろう。これで、リサがアーケモスに渡らなければならない理由が増えてしまった。
とはいえ、ラミザノーラの言うことはもっともだ。この世に悲しみがあるのなら。フィズナーのように、苦しんでいる人がいるのなら。グラービのように、争いで物事を打開しようとする人がいるのなら。
彼らがいるアーケモス大陸に渡って、全部まとめて救わなければならない。
悩んでいる風のリサを見て、ニコニコとしているラミザノーラ。これは、「しめしめ」と表現すべきなのだろうな、とリサは思う。それでもいい。ラミザノーラが何を思っていようと、これは自分の悩みだ。自分で解決しなければ。
「ところで、もうひとつのほうの話なのだけど」
「なに?」
リサはラミザノーラを見やる。リサにとっては、もう悩み事で手一杯だ。だが、確かに要件はふたつと言っていた。もうひとつは何だというのだろう。
「ザネリヤはザン、ベルディグロウはグロウ、フィズナーはフィズ」
「うん?」
「リサ、名前を付けるのが得意なのね」
「え? ああ、呼び名のこと? みんな名前が長いから、短く呼んでるだけなんだけど」
「だったら、わたしにもそういう名前をくれないかしら?」
「へ?」
思いもよらぬ依頼に、リサは素っ頓狂な声をあげてしまった。ザンもグロウもフィズも、本人たちの了承を得ずに勝手に呼んでいるだけだ。まさか、自分からそういう名前を欲しがる人間がいるとは思わなかった。
「なんだか、ちょっと妬けちゃうのよね。親密そう、というのかしら。リサに名前をもらえるなんて」
「いや、そんな大層なものじゃ」
リサは困惑し、そう言ったものの、ラミザノーラの期待に満ちた目を見ると、無下にはできない。というか、期待に満ち満ちていて、ここまで目を輝かせているのは、リサも初めて見るくらいだ。
しかたがないので、リサはラミザノーラに呼び名を与えることにする。
「わかりました。では、呼び名を差し上げます」
「はい、どうぞ」
ラミザノーラに促されて、リサの口が動く。彼女はそこで発された名前を、とろけるような表情で聞き入っていた。
++++++++++
十一月初旬。とある日曜日。
リサの家ではまだまだこたつは現役だ。日本が年中冬になってしまってからは、こたつを片付けない家も普通にあるくらいだ。
いつものように遊びに来ていたノナは、いつものようにテーブルに顔を置いて眠りこけている。逢川家を訪問して、こたつに入ってぬくぬく眠る。それがノナの行動パターンだ。
「勝手知ったる人の家」も、ここまで極まると達人レベルだ。
テレビでは相変わらず、「日本すごい」「日本はアーケモスの文明開化の立役者」「アーケモス維新」などの番組が流れている。さすがに年がら年中これだと、リサも食傷気味だ。
きょうはお客として、ザネリヤが来ていた。どうやら空冥術研究所の仕事も、家のガレージでいじるものも、目下は特にないらしい。
ザネリヤがリモコンでチャンネルを変えると、画面には、シデルーン総司令がラミザノーラを伴って企業を訪問している様子が映し出された。
テロップには、「バールスト・ファルブ・シデルーン侯爵/帝国軍総司令」と表示されている。どうやら訪問先は秋津洲重工のようだ。しかし、彼の発言は、もう終わるところだった。
『――喜ばしく思っている。詳細については、こちらの参謀部員に説明を任せたい』
その言葉を受けて、報道陣のマイクが一斉にラミザノーラに向けられる。テレビ画面のテロップにも「ラミザノーラ・ヤン=シーヘル参謀部員」と表示される。
だが、本人の発言はそれとは異なる名前で始まる。
『はい。ラミザ・ヤン=シーヘルです。この度は政府機関のみならず、日本でも有数の軍需企業を訪れることができ、大変光栄です』
報道関係者の声が入る。
『あの、ラミザノーラ・ヤン=シーヘル参謀部員。オーリア帝国軍との間での装備品の融通という話が出ておりますが――』
『ラミザです。その件については、正式には企業ではなく国レベルでの取り決めとなりますので、この場では差し控えさせていただきます』
回答と同時に、次の問いが飛んでくる。
『次はこちらをお願いします。青京放送です。ラミザノーラ・ヤン=シーヘル参謀部員……』
『ラミザです。改名しましたので、名前の再登録をお願いいたします』
ラミザノーラと呼ばれる度にラミザと訂正していくラミザノーラの姿が、画面に映し出されていた。いや、もはや彼女のことは、本人がそう主張するのだから、ラミザと呼ぶべきだろうか。
「なにこれ……。あ、リサ」
テレビ画面を見て唖然としていたザネリヤが、頭を抱えてうずくまっているリサに気づく。
「だって、こんなことになるなんて思わないじゃん……」
「あんたね、これやったの」
「だって、短い名前が欲しいって言うから……」
「ちゃんと呼び名だって教えたんでしょうね」
「教えたよ! っていうか、呼び名以外のなにものでもないよ! まさか本名として使うとは思わないよ!」
叫ぶだけ叫んで、リサは頭からテーブルに突っ込んだ。
「あー、もう……」
リサに加えて、脱力したザネリヤも頭を抱えてテーブルに突っ伏す。
リサ、ザネリヤ、ノナの三人が、三者三様にこたつの天板に倒れ込んでいる。
それは、穏やかな休日の午後のことだった。
ノナの寝息がすうすうと聞こえる。
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