番外編 遊離感覚

番外編 遊離感覚(1)アクジキ

 七年前、日本という国は巨大なナマズに飲み込まれた。

 

 一九九五年のことだった。空に突如として現れた、宇宙空間を泳ぐナマズ。のちに星魚せいぎょや『アクジキ』などと呼ばれるようになるそれは、人類の手が届く衛星軌道の外側を右へ左へ、行ったり来たりと泳いでいた。


 どういったメカニズムで、どんなエネルギー源を用いて、宇宙空間を浮遊しているのか、誰にも見当が付かなかった。連日テレビのニュース番組にとりあげられ、毎日、新聞の一面をの写真が飾った。


 おかしな時代だった。いや、おかしな時代のだったというのが適当なのかもしれない。


 当時、「世界各国は軍事力を用いてあの宇宙ナマズを撃墜するべきだ」という主張ももちろんあった。また、その反論として、「攻撃によってあの宇宙ナマズを刺激してしまえば、われわれの知らない方法で反撃されるのではないか」という論もあった。


 なにしろ相手は未知の機構、未知の動力源で動いているのだ。そのうえ、目的は不明。攻撃派と傍観派とで議論は平行線だった。焦燥感だけが積み上がっていった。


 宇宙ナマズは日々成長していた。軌道上の人工衛星を片端から食らっていたが、それを食べたことによる成長というのでは説明がつかないほどのペースで、どんどん大きくなっていった。


 また、ナマズが泳いでいる場所もどんどん近づいてきたのだろう。ナマズが上空を飛ぶとき、大空は半分近くがナマズの巨大な身体に覆われてしまうようになった。


 この先われわれはどうなってしまうのだろう、と誰もが不安だった。


 そんなことはわかるはずもない。人類史始まって以来の未曾有の事態だ。結局あれこれと言いながら、どこの国の政府も多少の調査活動以外は何もできず、手をこまぬいているだけだった。


 結局のところ、この膠着こうちゃく状態はあっけなくも終わりを迎えてしまった――少なくとも、日本にとっては。


 ある夜突然、宇宙ナマズが日本列島を――いや、日本列島のある周辺の領域を――食ったのだ。


 人工衛星だけに飽き足らず、あのナマズは地球に食らいついたのだ。これまでその周辺を泳ぎ回っていたのは、単にその時期を見計らっていただけに過ぎないのかもしれない。


 「少なくとも日本にとっては」というのは、真っ先にナマズに食われたのが日本だった以上、ほかの国のことはよく判らないということだ。アジア、アメリカ、欧州諸国はどうなったのか。それは日本からはもう判らない。


 もし、日本以外の世界が残っていたとしたら、こういう風に語られているのだろう——日本という国の歴史は、巨大ナマズに食われて終わったのだ、と。


 日本はそれから数日間、夜だけの時間を体験した。


 空は星空を箒で掃いたような、縞模様の夜空だけ。太陽も月も失われてしまった。


 当時はそれがどういう状況であるか誰にも判らなかった。いまでは仮説として、日本という国がワームホールを通ったのだと考えられている。宇宙ナマズの腹の中には何らかの形でワームホールが据え付けられており、日本はその穴を通じて宇宙の別の側面へと移動したのではないかと。


 もっとも、そういった仮説が提唱されるのは、事態が落ち着いてからになるのだが……。



 数日の宇宙旅行の後、気がついてみれば、夜が明け、人々は自分たちの大地が惑星の表面に戻ってきたことを知った。ただし、その惑星はもとの地球ではなかった。


 惑星の名前は、といった。


 その名前は、日本から海を越えたところに別の大陸があり、大陸に住む人々がこの世界のことをそのように呼称していたことにちなむ。アーケモスの文明レベルは概ね地球の中近世レベルで、帝政の国や連邦制の国などがあった。


 なんにせよ、この瞬間から、日本はアーケモス世界の一員としての歴史を歩み出さねばならなくなった。見知らぬ世界で生き残るため、自衛隊は国防軍として再編成された。数多の企業は豪胆にも新大陸での商売を模索した。


 このアーケモスにおける大陸で、相対的にもっとも広大な領土を有しているのはオーリア帝国だった。この帝国は現在では日本の最大の貿易相手国となっている。


 その次に強大なのがエンドル王国、その次が内戦が続いているイルオール連邦と続く。


 オーリア帝国、エンドル王国、イルオール連邦。これらのアーケモスの原住民の国家は日本人が「魔法」と呼ぶ技術をもっている文明だった。


 正式には彼らは「大空の技術」という意味で『空冥術くうめいじゅつ』と呼んでいる。だが、日本人からしてみればそれは魔法のたぐいにしか見えない。一方で、これらの国家の科学技術のレベルは低く、電気の取り扱いさえもまだまだ遠いように思われた。


 そして、驚きをもって知られたのが、ファゾス共和国の存在だ。日本と同じく宇宙ナマズ――『アクジキ』によって、ほかの惑星から強制的にアーケモスに移転させられた国家だ。


 日本と同じく哀れな新参者となったファゾスは、これらの国々よりも文明レベルが高く、現代日本と同じような水準とみられる。しかし、やはり空冥術を技術の基礎としており、科学ではなく空冥術で日本と同等以上のレベルに到達した国家であると知られている。


 ただ、ファゾス共和国は鎖国政策を強く押し進めており、貿易にはほとんど応じない。そのうえ、日本との間で人の行き来も極めて少ない。ごく一部で技術協力が行われているのみだ。完全に未知の国と言っていい。


 このような状況の中で、日本は新しい世界への適応を強いられた。それが七年前、一九九五年という時代のことだったのである。


 話の舞台はそれから七年後、二〇〇二年のことになる。


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