第50話 「視線を感じるんです」Bパート
自宅に帰り、夕食をとってからしばらくが経った。足立は全身鏡の前に立ち、恒例の身だしなみチェックを行っている。
今夜は隣人に回覧板を届けるという、大イベントなのだ――。
「よしっ。完璧!」
髪には軽くワックスを練りこみ、ブラッシングをした。アイロンまでは、正直面倒くさい……。
悩んだあげく、清楚系の服を選択した。初めて会う人には、どうしたって綺麗で物静かな女性に思われたい! 本来の自分を顧みず、取り繕った行為だと自分でも重々承知しているが、そう簡単に人は変われないのだ。
仕上げにお気に入りの香水をほんのりと首筋に塗り、いざ数メートル先の扉へと足を踏み出した。
三度ほど躊躇した末、足立は呼び鈴を鳴らした。すると、足音もなく扉が開いた。
「はい」と短い返事をしながら現れたのは、あの時のイケメンだった。
「えっ? うそ……」
駅で階段から落ちそうになったところを助けられ、マンションの前でも黒ずくめの男から救ってくれたイケメン……! まさか隣に住んでいるとは思ってもみなかった足立は、途端に頭が真っ白になった。
「あ、えと、私はその、隣り! ……の部屋で、その……、えっと――」
言葉に詰まり、目を見開き、足立はあたふたと身振りで自分の部屋を指差した。
まるでお人形みたいな顔、現実離れした妖艶さ! 近くで見ると、なんとも美しすぎて恐ろしい……。なんであの人が隣の部屋に? これって運命かしら? 三度目ってことはもう運命でいいわよね。こんなことがリアルで起きるなんて。もしかして、……夢? いやいや、夢でもいいの! とりあえず自己紹介しなきゃ。
「隣の部屋にお住まいということでしょうか?」
言葉の端々から、足立の言わんとするところを男は紡ぎ合わせていく。
「あ、足立です!」
畳み掛けるように大声で自己紹介をする足立に少々身構えつつ、「足立……」と名前に反応を示した男は、彼女の顔をじっと眺める。
「先日、クッキーをくださった?」
「あ、そう! クッキーの人です! えへへ」
何言ってんだろ……。
「僕は、石田と申します」
石田は畏まった様子で挨拶を交わすと、ゆっくり頭を下げた。
物静かな人……。などと思いながら彼の動きを目で追っているうちに、足立は徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。男が頭を上げるのを待ち、「ごほん」と一度咳払いをする。
「ごめんなさい。ちょっと混乱しちゃって」
足立の方もぺこりと頭を下げ、「隣に越してきた足立です。まさかあなたがお隣さんだったなんて……」
「そう、ですね」
垂れた髪を耳に掛けながら、石田は思わず目を逸らした。
「あの、これっ」足立は脇に挟んでいた回覧板を見せ、「次はこちらへ回すように言われたので」と石田に手渡した。
「言われた?」
石田は戸惑い混じりの表情で回覧板を受け取り、「……わざわざご丁寧に」
「新入居者歓迎パーティーっていうのをやるらしいんですよ」足立は回覧板に視線を落とした石田に向かい、つい口を出した。「まぁ、それ私のことなんですけど」
「僕の時は、確か秋頃でしたね」
「あっ! やっぱり人が入る度にやるんですね。どんな感じでした?」
「さぁ。仕事で行けなかったもので」と答え、石田は付け足すように、「……すみません」
「いえいえ、そんな! お仕事は大事ですもん。それにしても、分譲マンションでもないのにわざわざこうやって自分のためにパーティーを開かれると、何だか複雑な気分がしちゃいますよね」
「分かります。迷惑というわけではないのですが、どうにも――」
「恥ずかしい感じ!」
「……はい」と、男の表情は同意するように綻ぶ。
とびきり神々しいじゃないの……!
調子づいた足立は、またしても悪い癖が現れ始めた。
「玄関の装飾が素敵ですね」足立は玄関にさっと足を一歩踏み入れると、「同じマンションとは思えないくらい上品な感じがしますよ」と言った。
さらに彼女は、突然鼻をくんくんしながら部屋の匂いを嗅ぎ、「あっ、このフレグランス私も持ってます!」と興奮したように言った。
「いい香りですよねぇ。飾ってる絵もすごい素敵だし……。これって、もしかしてご自分で描かれたんですか?」
「えぇ。まぁ」
「えっ、すごい! もしや職業は画家さんですか?」
足立は靴箱の上に飾られた絵をまじまじと見つめ始めた。あれ? この顔、どっかで見たような……。
「ただの美術教師です」
そう答える男の表情には、少々陰りが感じられた。
やばっ。私また地雷踏んだ?
足立は慌てて次の話題を探すため、視線を部屋の奥へと移す。するとそこには、三脚に乗った大きな白い筒が見えた。あれは――。
「望遠鏡?」と呟きながら首を傾げる足立の視界をさりげなく遮った石田は、「天体観測用ですよ」とどこか作り物めいた笑みを浮かべた。
「あぁ、……天体観測ですか」
一瞬、心がきゅっと締め付けられるような目つきで見られたような。
「その後、痴漢は現れませんか?」
「痴漢?」足立は一瞬呆けた表情をしたが、「あぁ、はい! あの時は助けてくれてありがとうございました。もう大丈夫です」
「いえ」と答えた石田は、気まずそうに顔を背け、「最近は帰りも一人じゃないですもんね」と言った。
「へっ?」足立は顔を強ばらせ、「なんで知ってるんですか?」
「…………」
その瞬間、石田は胸に突き刺さりそうなほど鋭い視線を足立に寄越した。けれどすぐに柔らかな表情を浮かべ直し、「一度、お見かけしたんですよ」と優しい口調で説明した。
「後ろ姿でしたから、そちらは気がつかれなかったようですね」
なんだろ。この人の目つき……。凍りつくように、冷たい。
「そ、そうですか」突然我に返った足立は、石田と距離を置くようにゆっくり玄関から遠のき、「すみません。回覧板届けに来ただけなのに、ついおしゃべりに夢中になっちゃって……」と言った。
石田は無言で、彼女を見つめ続けている。
「そ、それじゃ、私はこれで!」お辞儀をしてそそくさとその場から立ち去ろうとした足立に向かい、「あの――」と石田は背後から声をかけた。
「……はい?」
足立は振り向かずに、その場に立ち止まる。
「回覧板は、次回からドアポストに入れてくれれば問題ないですよ」男は小さく咳払いを挟み、「皆さん、そうされていますから」
「あぁ。はい、そうします……」
足立は小さく頷くと、再び歩き出した。
自室の玄関に戻った彼女は、閉めたばかりの扉に凭れながら大きく息を吐き出し、咄嗟に振り返って鍵を掛ける。
なに? 何が怖かったんだろ……。
気がつくと、手が震えていた。
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