第49話 「視線を感じるんです」Aパート

「せーんぱい! 一緒に帰りましょっ」


 足立が事務室でタイムカードを切っていると、背後からリナちゃんが声をかけてきた。近頃の彼女は、仕事を終わらせるのがやけに早くなった。


 社内の男漁りにもさすがに飽きてきたってところかしら。もしかすると、特定のパトロンを得たのかも……! だから、仕事は早めに済ませて、いそいそと退社していくんだわ。


 近頃の彼女は妖艶な雰囲気にも一層磨きがかかっているように思えるし、仕事を早く切り上げる理由は間違っても私と一緒に帰るためなんかではないでしょ。だって、私なんかと帰って何の得があるって言うの? それなら適当な歓楽街に一人で繰り出した方がよっぽど――。


「どうかしました?」


 気づけば目の前にはリナちゃんが立っており、口づけを交わしそうな距離にあった。


「……べ、別に」足立は顔を背け、「リナちゃんは、最近仕事が早くなったなぁって感心してたのよ」と答えた。


 嘘ではない。あくまでも本心である。


「そんなことないですよぅ」と、彼女はいつもの謙遜した様子をちらつかせつつ、「でも、先輩と一緒に帰りたいから結構頑張って仕事してるんですよっ」と笑みを浮かべて言った。


 相変わらずのリナちゃんである。


「良かったら、うちに寄っていきません? 美味しいお酒が手に入ったんです」


 隣を歩く彼女がそう口にしたのは、最寄駅から商店街を抜け、そろそろ足立のマンションが見えてくる頃合だった。


「あぁ、ごめん。今日は帰ってやることがあるから」


 美味しいお酒と言われると、気になるところだけど……。


「そうですか」


 リナちゃんは子犬のように寂しげな表情を見せたものの、すぐに気持ちを切り替えたように、「じゃあ明後日はどうですか?」と尋ねた。


「え? まぁ、明後日なら空いてるけど」


 妙に積極的ね。いつもは結構あっさりしてるのに。


「実は、先輩にお願いしたいこともあるんです……」


 ははーん。どおりで。何だかしおらしい表情をしているわね。


「そうなんだ。じゃあ、明後日にお邪魔しようかな」


 足立がそう言うと、リナちゃんは嬉しそうに拳を握りながら、「ほんとですか!」と声を上げた。


「うん」足立は念のため探りを入れておこうと、「それで、お願いって?」と尋ねた。


「それは……」


 突然言葉に詰まった彼女は、少々複雑な表情を浮かべながら、「うちに来た時に、話しますね」と答えた。


 どうにも勿体ぶった言い方をする。もしかして、パトロンについての打ち明け話とか? でもでも、それならわざわざうちへ行ってから話さなくても良いわよね。まさか、一緒に住んでるとか! え、いきなり紹介されても困るな……。どうしよ、今ならまだ断れるかな。でもまだそうと決まったわけじゃないし、でもやっぱり――。


 足立があれこれと考えあぐねているうちに、気づけばマンションの正面まで歩いて来ていた。隣に視線を遣ると、いつの間にかリナちゃんの姿がない。ぐるりと見回すと、彼女は少し後方で立ち止まっていた。


「どうしたの?」と足立は話しかけたが、俯いたまま黙って肩を抱いた彼女は、わずかに震えているように見えた。


「……リナちゃん?」


 足立は顔を覗き込むようにして、再度呼びかけた。すると彼女は小さな声で呟くように、「先輩に言おうかどうか、いつも迷っていたんですけど――」と言葉を発した。


「え?」


「私、この場所を通るたびに、どこからか視線を感じるんです」


「えぇ、なによそれ……。怪談話?」


 顔を上げたリナちゃんは、足立の方を向いた。その表情は無機質で、まるで心にぽっかりと穴が空いたように見えた。


「やっぱり私だけなのかなぁ……。何だか怖くて、ずっと言い出せなかったんです」


 冗談で言っている風には見えなかった。それどころか、彼女はひどく怯えている。


「この場所だけなの?」と足立は尋ねた。


「はい」彼女は青白い顔で肯き、「感じるのはいつもこの場所で、それもこの時間帯だけなんです」


「この時間帯だけ?」足立は難しい顔つきで腕組みし、「出勤する時は感じないってこと?」


「あとは……。夜の遅い時間なんかも、感じないです」


 夜の遅い時間。この時間帯をわざと避けて通ってたってことかな。え、それって――。


「もしかして、残業する日が多かったのって、そのせいなの?」


 足立がそう尋ねると、彼女は「まぁ、あはははぁ……」と弱々しく笑い声を上げた。


「なんで言ってくれなかったのよ!」


「だって時間帯ずらせば一人でも問題なかったし、今は先輩が一緒でしょ? それに……」リナちゃんは躊躇するようにしばし間を置き、「ここが先輩のマンションだって聞いちゃったから、変に怖がらせちゃいけないと思って」


 あぁ……。


「そうだったのね」


 今さらそんなに本気な雰囲気で打ち明けられても、余計に怖いじゃん……。だけど先輩としては、一緒になって怖がっているわけにもいかない。


「それじゃ、とりあえずここから離れよっか。一人で帰れる? 送って行こうか」


「あ、えっと……」


 リナちゃんは何か言いかけたが、焦ったように首を振りながら、「いえいえそんな、すぐ近くなんで!」と答えた。


 表情筋を総動員して作った笑顔は、未だ青ざめている。


「無理しなくていいからね」


「ほんとに大丈夫ですよ」


 とりあえず、ここから離れれば問題はないということなので、足立は彼女が視界から見えなくなるまで見届けることにした。


 健気に手を振って帰るリナちゃんの後ろ姿が消えてしまうと、足立はふっとため息を漏らし、マンションの中に入った。

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