第51話 「おとり捜査ですね!」Aパート

 早番を終えた坂口がマンションのエントランスに入ると、郵便ポストを覗いている人物がいた。いつもの灰色のスーツにコンビニ袋をぶら下げ、缶チューハイなどが透けて見えている。


「こんばんは!」と声をかけると、彼女は驚いたように肩をビクつかせた。


「あぁ、坂口さんですか」


 振り返った足立はため息交じりに答えると、魂の抜け落ちたような表情を浮かべていた。


「どうかしましたか?」隣に並んで自身のポストから夕刊を取り出しつつ、坂口は尋ねた。


「いえ、少し考え事を……」


 ふらふらと歩きだす彼女に続き、坂口もエレベーターに乗った。


「…………」


 エレベーターが四階に到着するまでの間、足立は一言も口をきかなかった。普段ならば絶対にありえないことである。廊下に出た彼女は自室に向かい、無言で歩き出す。


「それでは、また」と後ろから声をかけると、坂口も自室に向かった。


 扉の前で彼がポケットから鍵を出していると、ヒールの踵を激しく鳴らす音が徐々に近づいてくるのを感じた。やがて視界の隅に人影が映り込み、「坂口さん!」と廊下に声が響いた。向き直ると、彼女は思いのほか近くに立っていた。


「なんでしょう?」


「私、考えてみたんです」


「何をですか?」


 足立はそれには答えず、もう一歩前に踏み出すと坂口の耳元へ向け、「石田さんって、何か怪しくないですか?」と小声で話した。


「…………」


 坂口は上を向いてしばらく考え込み、「それは、誰でしょうか?」


「あっちの角部屋の人ですよ!」と足立は即座に指差し、「知らないんですか?」


 彼女の指差す方を眺めた坂口は、納得したように頷くと、「廊下ですれ違った時に挨拶はしますけど、名前は知らなかったですね」


 それを聞いて思わずため息を漏らしたた足立は、「まぁいいや」と呟いた後で真剣な眼差しを坂口に向け、「絶対あの人が宇宙人ですよ」と囁いた。


「宇宙人?」


「昨日の晩、回覧板を渡しに行った時に少しお話したんですけど、私、ビビっと来ちゃいました。間違いないです!」


 自信満々に言い放った足立は、俯きながら独り言のように、「あの顔はもしかすると素顔じゃないのかも……。そうでもないとおかしいっていうか、綺麗すぎるっていうか、まぁ、それは私の好みも十二分に入ってしまっているように感じられるけれど、私の好みがあんな感じの二次元男子なのは確かだし……。その点において否定はできないわ。でもでも、それを踏まえても現実味がなさすぎるっていうか、なんていうか、例えて言えば、あれはまさに――」


「どうして宇宙人だと思うんですか?」


「へっ?」我に返った足立は、しばらく考え込んだ後、「……勘?」と呟いた。


「なるほど」と坂口は静かに頷いている。


「いや、ちょっと!」足立は焦ったように手を振り、「一応そう思った理由もあるんですから!」


「なんですか?」


「望遠鏡です」と、足立は胸を張りながら言った。


「望遠鏡というと、いわゆる――」


「あぁっ! 説明はいいですから。その通りです、きっと」


「そうですか」


 足立は仕切り直すように呼吸を整え、「石田さんはきっと、あの部屋から地球人の暮らしを観察してるんですよ」


「どうして、その――」と坂口が言いかけたところで足立は片手を上げて遮り、「ちょっと黙って! 証拠はあります」


 坂口は無言で頷き、続きを待つ。


「私の後輩のリナちゃん、知ってますよね?」


 彼は両手で口を押さえ、さらに頷く。


「その子が夕方うちのマンションの前を通るたびに、怪しげな視線を感じるらしいんですよ」


「怪しげな――」とつい言葉を発したところで、坂口は咄嗟に口を押さえ直した。


「いや、もういいですよ。なんですか?」と、足立は呆れた表情で続きを促す。


「はい。その怪しげな視線と角部屋の人は、どういう繋がりがあるんでしょうか?」


「だからそれが――」


「望遠鏡だろ」と、足立の背後から突然別の男性の声が割って入った。二人が声の方へ振り返ると、そこには長いガウンを着た長身の男が立っていた。


「げっ……」と焦って困惑する足立に対し、坂口は平然とした様子で「こんばんは!」と挨拶を交わしている。


 口元に薄っすらと笑みを浮かべた前野は、坂口の挨拶に応えた後、「あいつのことは、俺も怪しいと思っている」と足立の方を向いて言った。


「い、いつから聞いてたんですか!」足立は悲鳴のような声を上げるが、前野はそれを完全に無視する形で、「あの部屋の奴の話だろ?」と石田の部屋を指差しながら坂口に確認している。


「そうですね」と坂口は頷き、「そちらも、何か心当たりがあるんですか?」


「ふん。まぁな」


「ほらぁ、やっぱり!」


 賛同者の意見につい興奮して声を荒げた足立に対し、前野は「しっ!」と人差し指を唇の前で立てた。「あまり大声で話さない方がいいぞ。奴が聞いている可能性も考えられる」


「はっ! そっか」足立は両手で一瞬口を押さえた後、「じゃあ、とりあえず安全な場所に移動した方が……」と二人に向かって小声で言った。


「それがいい」と前野は同意し、目の前にある坂口の部屋を指差した。「あんたの部屋に入って話そうじゃないか」

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