第34話 「宇宙が好きなんです」Bパート

 玄関で手渡しできるように、相手が帰宅していそうな時間帯を狙うことにした。恐らく夕食後、二時間以降といったところか。


 前野はその間にトレーニングをしたり、テレビを観たりして時間を潰したが、気持ちが落ち着かないせいか何度もベランダに出て煙草を吸った。景色はすっかり闇に覆われている。


 さすがに、……限界だ。


 前野はわざわざ普段着に着替えると、封筒を掴んで廊下に出た。


 廊下には誰の姿も見当たらない。自然と忍び足になりつつ、二つ隣の部屋の前まで行くと、前野は扉に耳を当ててみた。わりと大きな足音が響いている。


「やかましい足音だな」とひっそり呟くと、改めて佇まいを整えた前野は呼び鈴を鳴らした。


 すぐにドタバタと足音が暴れだしたが、ドア付近に近づいて来たところで押し殺したように気配が断たれた。どうせドアスコープでも覗いているのだろう。


 前野は居心地の悪い視線を想像しながら、その場にじっと佇んでいた。


「…………」


 ずいぶんと時間をかける。あれだけの足音を立てておきながら、なおも居留守が通用するとでも思っているのか。


「は、はいっ」


 扉の向こう側からようやく応答があった。か細い女の声である。


 続いて数センチだけ扉が開いた。隙間にはしっかりとU字型のドアガードが掛けられている。まぁ当然の処置だろう。こっそりと、女が顔を覗かせる。


 うねうねした長い髪は湿っていた。シャワーを浴びて間もないということは、先ほど帰宅したのか。いや、よく見ると少々乾きつつある。やはりズボラな女らしい。両目のひどく離れた女はもこもことしたスウェットのショートパンツを履き、首周りの広いラフなティーシャツを着ていた。


 怯えているようにも見え、印象としては弱々しい小型の草食動物を連想させる。扉の隙間は狭く、女が巧妙に身体で視界を塞いでいるため、部屋の様子は伺えない。


「あ、あの、……なんでしょう?」


 明らかに警戒されている。やはり顔のせいだろうか。それにしても、初対面でここまで怯えられたことは今までになかったな。


「あ、あんたのところに届くはずだった郵便が、手違いでうちに届いたんだ」


 できうる限り穏やかに訴えかけたつもりだったが、その効果はあまり発揮されなかった。肩を強ばらせた彼女は小刻みに震え、今にも扉を閉めてしまいそうだ。


「ほら、これだ!」前野は証拠品である封筒を女の顔の前に差し出した。


「シンカイ……、って読むのか? これ、あんたの名前だろ?」


「…………」


 封筒の宛名には、『新海宇宙』と手書きで記載されている。女は絶句したまま目を見開き、扉の隙間からそれを凝視していた。


「ど、どうも、ご親切に!」と発せられた言葉とほぼ同時に、女は前野の手から封筒をひったくるように奪い取った。


 空になった自身の手を見つめながら前野が呆気にとられている間に、女は扉を閉めようとしていた。細い隙間がさらに薄くなっていく。


「あ、あのさ!」


 前野は咄嗟に扉を掴み、隙間に向かって呼びかけていた。今ではボールペン程の幅しか開いていない。


「ひっ!」


 悲鳴を上げながら必死にドアノブを引く彼女に向かい、「良かったら、下の名前の読み方を教えてもらえないか?」と前野は急いで問いかけた。


 光の筋がそこで唐突に動きを止め、「へっ?」と短い言葉を発した後で女は少しの間黙りこくっていたが、やがて隙間を広げながら、「ど、どうしてですか?」と尋ねた。


 どこかで、聞いた覚えのある声だな。


「まぁ、興味本位ってやつだ」


「…………」


 隙間から覗く女の瞳は未だ容疑者を見るような目つきだが、前野にとってはそれも日常茶飯事である。黙って返答を待った。


「ッ……ラ……です」


 彼女は、この上なく小さな声で呟いた。


「ん? なんだって?」


 前野は片方の耳を隙間に向けながら、耳を澄ます。


「……ソラ! ……です」


「あぁ、そういうことか!」


 前野は謎が解けたように晴れやかな表情を浮かべると、「宇宙と書いて、”ソラ”。なるほどな!」と力強く頷いている。


「僕はね、実は宇宙うちゅうが好きなんですよ」


 前野はニヤついた表情を浮かべながらそう言った。


「だから、この名前をどう読むのか無性に気になっていたんです。確かにソラと読めば、女性の名前であっても不自然ではないな」


「あぁ、……そうですね」


 女の顔は、変質者を見る表情に変化しつつあった。そういえば自己紹介がまだであったと、前野は今更ながら気がついた。


「失礼。申し遅れました。僕はそこの角部屋に住む前野という者です。よろしく」


「あっ、こちらこそっ、……です」


 女の警戒度が少し和らいだか。しかしながら、未だによそよそしい雰囲気を醸し出している。まぁいいか。観察は十分に済んだ。


「それでは、僕はこれで」


 前野は扉に向かって会釈をすると、その場を後にした。しばらく廊下を進むと、背後で女が鍵を閉める音が彼の耳に届いた。それはどこか硬く、冷たい響きだった。

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